ヤマさんは一つ大きな問題を抱えていた。
幸いにして保護したヤマバクの服は乾いていたし、汚れもどういうわけか落ちていた。
ヤマバクの服は『けものプラズム』が変化して出来ているので多少の汚れやほつれであれば放置していても直る。
では何が問題なのかというと……。
「まいったな……」
腹が膨れて身体も暖まったヤマバクはうつらうつらとし始めてそのまま眠ってしまったのだ。
さすがにストーブの前とはいえ、交番の床で寝かせるわけにはいかない。
ヤマバクを宿直室まで運んで仮眠用の毛布をかけてやったまではいい。
とりあえず一寝入りさせてやろうと思ったヤマさんがその場を離れようとしたら、ヤマバクが服の裾を掴んでしまっていて出来なかった。
何度かこっそり外そうとしたらむずがったので、諦めと共にその場に居据わる事に決めたヤマさんである。
「さて……。ヤマバクが起きたらどうするかな」
動けないので、仕事も出来ない。
なので、とりあえずヤマバクの今後を考えておく。
目下最大の問題は、この土日にヤマバクを宿泊させる場所である。
何処かのホテルを取るというのはダメだ。ヤマバクを一人にしてしまう。
ヤマさんが一緒に宿泊するというのはもっとダメだ。いくらヤマバクがまだ見た目中学生くらいのフレンズだとしても、だからこそ色々とまずい。
かといって、こういう時に頼れそうな知り合いに心当たりがなかった。
最悪、交番の仮眠室で泊まってもらうかとも思うが、それにも問題が一つ。
交番にはお風呂がない。
ヤマバクの頬などにはまだ汚れがついている。
出来ればお風呂に入れてやりたい。幸い近所に銭湯もある。
だが、果たしてヤマバクは一人でお風呂に入れるだろうか。
「この子は随分と知識に偏りがあるんだよなぁ……」
ヤマさんはヤマバクの頬についた汚れを軽く指で拭ってみる。
思った以上に柔らかく暖かくてドキリとしてしまう。
「んぅ……」
またもヤマバクをむずがらせてしまって、ヤマさんは慌てて手を引っ込めた。
とはいえ、ヤマバクの知識に偏りが見られるのはその通りだ。
親や家という単語を知らないかと思えば、箸を上手に使ったり礼儀正しい振る舞いが出来たりする。
もしかしたら、お風呂も一人で入る事くらい出来るかもしれない。
「まぁ、起きたら考えるか……」
まだ外は冷たい雨が降ったままだ。
やはり後でお風呂には入れてあげたい。
……となれば……。
「ウチか……?」
ヤマさんの借りているアパートにはお風呂もある。
寝に帰る程度なのであまり物がない部屋だが、ヤマバクをお風呂に入れるくらいは問題ない。
お風呂が終わったら、自室から本格的に布団を持って来て宿直室に設えてやれば今日と土日の宿泊くらいは問題ないだろう。
ヤマバクがお風呂に入っている間は、自室で控えていれば不測の事態にも対応できるはずだ。
そして、それが済んだら交番の宿直室でヤマバクを預かるというプランが一番いいように思える。
「うぅん……」
そうやってヤマさんが考えていたら、ヤマバクが目を開けてしまった。
「あー。すまない。起こしてしまったかな」
ヤマバクはしばらくの間ぼんやりとヤマさんを見ていたが、ふるふると首を横に振った。
どうやら寝ぼけてヤマさんの事を忘れたりはしていなかったらしい。
「いえ。十分休ませてもらいましたから」
とは言うものの、ヤマバクが寝入ってから一時間も経っていないように思える。
やはり野外での生活が長かったせいで、深い眠りに落ちる事などないと言うのだろうか。
ともあれ、せっかく目を覚ましたならお風呂の件を提案してみよう。
「ヤマバク。これからお風呂に入りに行こう。その後でゆっくり眠るといい」
それにヤマバクは最初小首を傾げていたが、コクンと頷いてみせた。
ならば準備をしなくては。
ヤマさんは自分の雨合羽をヤマバクに着せてやる。自分の方はだいぶくたびれたコウモリ傘だ。
この交番からヤマさんのアパートまでは遠くない。
雨は変わらず降っているが、雨具があれば何も問題ない。
ヤマバクは最初雨合羽を不思議そうに触っていたが、ヤマさんに手を引かれて雨の中に出てみると、その効果に目を丸くする。
「これなら濡れたりしないだろう?」
ヤマさん用の雨合羽はヤマバクにはぶかぶかで大きすぎるが、それでも十分用は足りる。
ヤマさんはヤマバクが雨合羽を堪能している間に、ストーブを消して交番の戸締りをし、巡回中の札をかけた。
「さ。いこうか」
コウモリ傘を開いてヤマバクの手を引き歩く事少し、ヤマさんの借りているアパートへ辿り着いた。
部屋の中は出しそびれたゴミ袋が二つ程あるものの、他には畳んだ布団とローデスクくらいしか見当たらない。
五畳ほどの1LDKだ。あまり広くはないものの、お風呂だってある。
ヤマさんは部屋干ししっぱなしだったバスタオルを手に取る。洗濯はちゃんとしてるから使うには問題ないはずだ。
後はまだ未開封の歯ブラシもある。
ヤマさんは早速お風呂にお湯を張り始めた。
石鹸や洗髪用洗剤もあるものの、フレンズ用とかでなくても大丈夫だろうか。フレンズの中にはやはり毛並みを気にする子は多い。
ヤマさんが普段使っている安売りしていたシャンプー&リンスでは気に入らないかもしれない。
「……ま、まぁ、大丈夫だよな」
ヤマさんは楽観的に考える事にした。
と。
ヤマさんの背中越しにヤマバクがじーっとお風呂を眺めているではないか。
「ヤマバク。お風呂の準備出来たから入るといい。俺は部屋にいるから、何かあったら呼んでくれ」
そう言ってもヤマバクは不思議そうにしていた。やがてヤマさんの意図を察したのかコクリと頷く。
その様子にヤマさんも安心してお風呂場から出る。
いくらまだ小さなヤマバクとはいえ、一緒にお風呂に入るわけにはいかない。
ヤマさんはストーブを点けて部屋を暖めて待つ事にした。
程なくして……。
「わひゃぁあああっ!?」
という声が響いた。
何事かと思ったヤマさんは風呂場に叫ぶ。
「だ、大丈夫か!? どうしたんだ!?」
「たたた、大変ですっ!?」
これは不測の事態か。
お風呂であれば当然服を脱いでいるわけで裸を見る事になってしまうが、背に腹は変えられない。
ヤマさんは意を決すると風呂場のドアを開けた。
すると、ヤマバクは湯舟に浸かっていた。真っ黒なワンピースのような服を着たまま。
「ええと……。ヤマバク……?」
何から声を掛けたらいいのか分からなくなったヤマさんは戸惑いの声をあげる。
果たしてヤマバクから返って来た答えは……。
「あの……。この水、暖かいです」
というものだった。
それはそうだ。お風呂なんだから。
それよりも服のままお風呂に入るとは。
「はっ……!? そうか、これが噂の『おんせん』というヤツですね」
「あー……。うん。似た様なもんだ。小さい温泉みたいなモンだな」
ヤマバクは勘違いしているようだが、そんなに間違っているわけでもない。
なのでヤマさんはその間違いを正す事をしなかった。
「なるほど……。『おんせん』では毛皮を取るのが正しいと聞いた事があります」
ヤマバクが言うと、その身体がパッと輝き、黒いワンピースが空中に解けるように消えてしまった。
「!?!?」
湯舟に浸かっていたおかげで辛うじてヤマさんの目に肩より下は目に入らなかったが。
「と、ともかく外にいるからゆっくり暖まりなさい!?」
慌ててヤマさんは外に出る。
しかし、今の現象は一体……?
そもそもヤマバクは一体何者なのか。
考えれば考える程わからない事は増えて行く。
ヤマさんが頭を悩ませていると程なくしてヤマバクはお風呂からあがったようだ。
先程と同じ黒いワンピースを着ているが、服が濡れている様子はない。
お風呂に入れた甲斐はあったようで、身体についた汚れも落ちているし、髪もまだ濡れているものの汚れている様子はない。
ヤマさんはヤマバクを座らせると、バスタオルで髪をワシャワシャと拭いてやった。
「さて、俺も風呂に入ってくるから少しだけ待っていてくれ。ストーブの前なら暖かいから」
ヤマバクは不思議な子だ。
だが、それをゆっくり考えるのはお風呂に入った後でいい。なんせヤマさんだって冷たい雨に打たれたのだから。
いくら鍛えているとはいえ、身体が冷えたのはどうしようもない。
手早く身体と頭を洗って、さっさと湯舟に浸かる。
「あぁ……。生き返る」
二番風呂だから少しばかり温くはなっているがそれでも身体を暖めるには十分だ。
だが、それをゆっくり味わっているわけにはいかない。ヤマバクを一人にするわけにはいかないからだ。
名残惜しいがヤマさんはお風呂を出ると身体を拭いてから服を着替え、部屋へ戻る。
ヤマバクには色々と訊かなくてはならない。
部屋で待っているはずだから少し話してみよう。
そう考えながら戻ってみると、ヤマバクは座布団の上に身を丸めて寝入っていた。
「あー……。まぁ、いいか」
おそらく疲れているだろうから起こすのも偲びない。
明日に訊ねたところで遅くはないはずだ。
ヤマさんは手早く布団を敷くと、そこにヤマバクを寝かせるのだった。
の の の の の の の の の の の の の の
明くる朝。
ヤマさんはヤマバクを連れて交番へ出勤した。
連続車両窃盗事件も調べないといけないが、かと言ってヤマバクの事だって一人にしておくわけにもいかない。
それにヤマバクには訊ねたい事もある。
二つの事件を掛け持ちする事になるから、やるべき事を整理していかないと二兎を追ってどちらも逃す事になりかねない。
まず優先すべきなのはヤマバクの方だろう。
連続車両窃盗事件の方は他の刑事達が変わらず捜査を続けているだろうが、ヤマバクの事はそういうわけにはいかない。
本当に市役所へ引き渡していいのかどうかはもう一度考えるべきだ。
もしも、本当は親がいて探しているのだとしたら、生まれたてのフレンズとして市役所で保護家庭を探してもらうわけにはいかない。
慎重に聞き取りをすべきだろう。
そうと決まれば、まずはこの為に用意してきた
ヤマさんは出勤途中で買ってきたお弁当とお茶を用意。
なんでも商店街のお弁当屋さんは結構美味しいらしい。わざわざ出勤前に遠回りして買っていく人すらいる程だ。
今日の朝ご飯はそこのカツ弁当にした。
まだほんのり温かみのあるお弁当とお茶を用意する。
「取り調べと言えばカツ丼かと思ったが、なかったのでこれになった」
お茶とお弁当をヤマバクの前に置いてやると、やはり途端に目が輝いた。
やはりお腹が空いていたのだろうか。
お弁当の内容は梅干しの乗ったご飯に一口大にカットされたソースのかかったカツ、付け合わせはポテトサラダだ。
ヤマバクが期待に満ちた目で見て来るので、まずは食事だ、とヤマさんも頷いて見せる。
するとヤマバクは見た目相応にお弁当をがっつき始めた。
しばらく夢中で食べていたヤマバクだったが、ふと気づいたように顔をあげるとつぶやいた。
「昨日のといい、こんな美味しい食べ物が沢山あるなんて……。はっ!? も、もしかしてここが『グルメキャッスル』……!?」
意味不明なヤマバクのつぶやきだったが、ヤマさんには重要な事が含まれているような気がした。
「ヤマバク、『グルメキャッスル』っていうのは?」
何気ない風を装って訊ねられたヤマさんの言葉にヤマバクはやはり一度食べるのを止めて答えてくれた。
「ええと……。『グルメキャッスル』って美味しいものが沢山ある、グルメの殿堂……って言ってました。いつか連れてってくれるって……」
やはり取り調べにはカツだ、とヤマさんは内心でガッツポーズだ。
まだ細いけれど、今のヤマバクの言葉には確かな糸口が見える。
「なあ、その『グルメキャッスル』ってのは誰から聞いたんだい?」
「あ、ええと。オイナリサマです。まだ私が小さいから、って色々面倒を見てくれたフレンズで……」
当たりだ。
ついにヤマバクから重要な事を聞きだした。
オイナリサマというのには聞き覚えがないでもない。
確か、守護けものオイナリサマの血を引く稲荷家という旧家があるはずだ。
今はそこの娘がジャパリ女子学園に通っているらしい。
ヤマバクの口からオイナリサマの名が出たのだから、稲荷家へ行けば何かしらわかるに違いない。
「(まずは朝ご飯が終わったら、先方に連絡を入れて、その後ヤマバクを連れて稲荷家へ行ってみよう)」
稲荷家は電話帳に名前の載っている名家だ。連絡はすぐに入れられるだろう。
ともかく、これでヤマバクの方は目途が立てられる。
そのはずだった。
の の の の の の の の の の の の の の
結果から言うと、稲荷家の訪問は空振りに終わってしまった。
電話で連絡を入れて直接訪問し、ヤマバクを見せたのだが知らない子だと言われてしまったし、ヤマバク自身も知らないと言っていた。
お互いに嘘を言っている様子もないというのに、まさか手がかりゼロだとは思わなかった。
立派な和風邸宅を辞した後、ヤマさんは途方に暮れていた。
「ヤマバク。オイナリサマと知り合いじゃなかったのかい?」
「そ、そうなんですけど、さっきのオイナリサマは違うオイナリサマっていうか何て言うか……」
どうやらヤマバク自身も上手に言葉に出来ないらしい。
稲荷家の人も捜査に協力的だった。迷子の捜査という事で随分と親身になってくれもしたのにこの結果だ。
「まぁ、俺が早とちりしてしまった。気にしなくて大丈夫」
落ち込む様子を見せるヤマバクだったが、ヤマさんにそう言われると少しだけ笑ってくれた。
ともあれ、交番へ戻る道すがらもう一度ヤマバクの話を聞いてみよう。
「なあ、ヤマバクが一緒に暮らしていたっていう『オイナリサマ』は、今は一緒にいないのはなんでなんだ?」
そもそも保護者が一緒にいさえすれば、ヤマさんが世話を焼く必要もなかったわけだ。
少々踏み込んだ事ではあるが聞くべきだろう。
「あのですね……。オイナリサマが『もうすぐこの世界は雪と氷に閉ざされる。そうなる前に別な世界へ行け』って言ってました」
突拍子もない話に目を丸くするヤマさん。
雪と氷に閉ざされる? 別な世界? マンガかドラマの話だろうか? それともアニメ?
ヤマさんは最初そう思ったが、そうじゃないと思い直す。
ヤマバクはこう言う事ではしっかりしているように思える。子供だからといってテレビと現実を混同させているわけではないだろう。
だったら、この話は事実なんだろうか。
「そうか。じゃあ『オイナリサマ』もこっちには来ていないのかい?」
「オイナリサマはどうしてるのか……わかんないです」
ともかく。やはりヤマバクには保護者がいたがはぐれているという事らしい。
ヤマさんがどうするか考えているとヤマバクが続ける。
「あの……、オイナリサマが言ってました。『心配ない。お主に繋がる強い縁が見えるから。きっとお主が安心できる相手が現れる』って」
つまり、ヤマバクの保護者であった『オイナリサマ』はやむにやまれぬ事情があってヤマバクと離れ離れになったと考えられる。
となると、保護者がどこにいるのか。困っているならどうしたら助けになれるのか。頭を悩ませないといけない事が増えた。
まぁ、市役所に引き渡す際に上手く伝えて、ヤマバクの保護者に関しても少しずつ捜査していくしかあるまい。
そこまで考えていたら、ちょうど交番まで戻って来た。
さて、まだ少し早いがお昼の事も考えておくかと思っていたヤマさんだったが、ふと気が付いた。
―リリリン。リリリン。リリリン。
留守にしていた交番の電話が鳴っている事に。
「ああ、はいはい、ちょっと待っててくれよーっと」
ヤマさんは言いつつ鍵をかけていた交番のドアを開けて未だに鳴る電話の受話器をあげた。
「はい、色鳥商店街前交番」
『あ、先輩! ようやく繋がった……』
電話の向こうから聞こえてきた声は後輩刑事からのものだった。繋がった後に慌てて声を潜める様子が伝わってくる。
『実は例の連続車両窃盗事件に進展があったんですよ……。先輩、何かあったら報せろって言ってましたよね……』
どうやら捜査情報を報せる為に連絡してきたらしい。
これが知れたら大目玉だろうに有難い話だ。
『盗まれた車両の一部が見つかったんですよ……。玄武峠のパーキングエリアで……』
「わかった。今度酒でも奢る」
ヤマさんは言って手短に通話を終えた。
長く話していたら後輩刑事が怒られてしまうから、これだけわかれば十分だ。
それが見つかったというなら何かの手がかりになるかもしれない。
現場を確かめに行くべきだろう。
ヤマバクをどうするかが問題だが……。
「ヤマバク……?」
ヤマバクがヤマさんの服の裾を握って放さない。
これを見ては「ひとりで留守番してろ」と言えないヤマさんだ。
まぁ、危険はないだろう。
「なら一緒に行くか?」
そう訊ねると、ヤマバクは黙ってコクリと頷いた。
問題は、交番に配備されている足が自転車一台という事だろうか。
「ま、いいか」
ヤマさんは体力には自信がある。玄武峠のヒルクライムだがまぁなんとかなるだろう。
結局お昼をどうするべきか決め損ねたが、そのくらいなら何とかなるに違いない。
の の の の の の の の の の の の の の
色鳥町北部田園地帯へと続く玄武峠。
ここは景色もよく、ツーリングやドライブで通る者も多い。
特に玄武峠頂上にあるパーキングエリアからは絶景が見られると評判だ。
もっとも、ここまで自転車で登ってくる者など皆無ではあるが。
「さ、さすがに疲れたな」
しかも、子供を後ろに乗せての二人乗りでやってきたのはヤマさんくらいである。
さすがにここまで登って来るのには時間を食ってしまい、辺りは夕暮れになっていた。
もうすぐ夜を迎えるとあって、パーキングエリアは既に閑散としている。
その駐車場には異様な一台の車が停まっていた。
一目でわかる。その車こそが連続車両盗難事件で被害にあった車の一台なのだと。
何故なら、その車にはタイヤがついていないからだ。
警察でもその車両をすぐに持ち帰る事は出来なかったのか、立ち入り禁止の規制線を張って一旦放置していた。
「どうやら運がよかったらしいな」
警察でも一通りの捜査が終わって盗難車両を回収する手配をする為に一旦引き上げた後だったらしい。
つまり、ヤマさんが他の刑事を気にせずに調べる事が出来るという事だ。
ヤマさんはタイヤのない盗難車両へ近づく。
「うん? 随分汚れているし……なんだこれは……」
盗難車両は黒ずんだ汚れがところどころこびりついており、まるで廃車のようだ。
しかも、タイヤは取り外されたというよりも、何かにもぎ取られたという状態である。
犯人は一体何を考えてこんな事をするのか……。
「いや、そもそもこいつは人間の仕業なのか?」
特にタイヤをもぎとられた跡を見るに、まるで大型の獣にでも噛み千切られたように見えるのだ。
もしかしたら重機でも使えば、こういう事が出来るかもしれないがわざわざそんな事をする理由もない。
ともかく、これであの暴走族が犯人ではない事は捜査本部でも分かったはずだ。
彼らにこんな事が出来るはずがない。
ましてや警察での事情聴取中だというのに、だ。
規制線の中に入ってしげしげと盗難車両を観察していたヤマさんだったがふと気が付いた。
「ヤマバク?」
ずっとヤマさんの側を離れなかったヤマバクが随分と遠巻きにしている事に。
確かにこの盗難車両はあまり見ていて気分のいい物ではないかもしれない。
まぁ、捜査にはそれなりの成果はあった。
とりあえず今のところはヤマバクの事を優先してやってもいいだろう。
「悪かったな、ヤマバク。せっかく来たから景色でも眺めてから帰るかい?」
放置してしまったから少しばかりのサービスをしようかと提案したヤマさんだったが、ヤマバクにはふるふると首を横に振られてしまった。
嫌われてしまっただろうかと心配するヤマさんだったが、そうでもないらしい。
何故なら、ヤマバクの元に戻ったらすぐにヤマさんと手を繋ごうとしてきた。
そのまま盗難車両から離れようと、ぐいぐいヤマさんを引っ張る。
「わかった。じゃあ帰ろうか」
ヤマバクは何故かわからないが青い顔をしている。
どうやら本当に何かを怖がっているようだ。
それが何かはわからないが、このままにしておくのもよくないだろうから早く帰る事にしよう。
ヤマさんはヤマバクを自転車に乗せると、自身はハンドルを握って押していく。
帰り道は下り坂になるから飛ばす事だって出来るだろうが、ヤマバクが一緒だ。
安全をとってゆっくり下って行く方がいいだろう。
そうして、下り坂でスピードがつきすぎないようにブレーキレバーを握りつつ押して帰る。
「ヤマバクは自転車に乗った事はあるのかい?」
ヤマバクを自転車に乗せた状態で、横から支える形のヤマさんだったが、意外にもヤマバクはきちんとバランスを取ってくれている。
もしかしたら、保護者である『オイナリサマ』から教わったのかもしれない。
「いえ。これに乗るのは初めてですが……その……。あ、あなたが乗るのは見ていたので……」
それだけでバランスを取れるようになったのなら大したものだ。
おっとりした見た目とは裏腹にヤマバクの運動神経は相当いいのかもしれない。
「出来れば一人でも乗れるように乗り方を教えてやりたいが、生憎子供用の自転車がないんだよなぁ……」
ヤマバクの足は地面に付かない程度に警察用自転車は大きい。
なので、彼女用の自転車を用意しないと練習すら危ない。
それはともかくとして、そろそろ日が沈みかけている。
「ヤマバク。ライトを点けてくれるか」
自転車には小型発電機とライトがついている。
前輪の回転で発電機を回してライトを光らせる仕組みだ。
ヤマバクはヤマさんに教わりながら、前輪に取り付けられたライトのスイッチを入れる。
すると、か細い明りが点いた。
「さて、夕食はどうするか……」
ヤマさんは考える。
昼はここに来る途中で立ち寄ったスーパーでおむすびを買って済ませた。
一人なら同じように夕食を済ませてもいいだろうが、ヤマバクもいる以上そういうわけにもいかない。
さてどうするか、と思っていると……
「あ」
とヤマバクが声をあげる。
何事かとヤマさんが振り返ると、ヤマバクは夕焼けの空を指さしていた。
「見て下さい、一番星です」
ヤマバクが指さした方を見れば、確かに夕暮れ時でもはっきりと見える一番星が輝いていた。
なおもヤマバクは見た目相応にはしゃいでいる。
「きっと、もう少ししたら星が沢山出るんでしょうね。星絵は見られるでしょうか?」
星絵というのはよくわからないが、どうやらヤマバクは星が好きらしい。
「(うん? ちょっと待てよ)」
ヤマさんには何かが引っかかった。
星が好きならば、なおさら先程の頂上で星を見た方がよかったのではないだろうか。
山の上なら街の灯りも遠いから、さぞかし星が綺麗に見える事だろう。
なのにそうしなかったのは、やはり何かに怯えているからなのか。
ヤマさんはヤマバクが一体何に怯えているのかを訊ねてみるかと振り返る。
そして驚く事になった。
何故なら、ヤマバクの顔が頂上のパーキングエリアを出ようと急かした時と同じように恐怖の色に染まっていたからだ。
さすがに心配になってヤマさんは訊ねる。
「なあ、ヤマバク。一体どうしたっていうんだ? 何をそんなに怖がっている?」
それに対してヤマバクは青い顔をしたまま答えた。
「セルリアン……です」
聞き慣れない単語にヤマさんは怪訝な顔になる。
セルリアンとは一体何なのか。それを問い質す必要はなかった。
何故なら……。
「な、なんだこれは……」
ヤマさんの目の前には異形の存在が現れていた。
―ズルリ。
山の斜面から現れたそれは、最初あまりにも大きな大蛇かと思った。
黒々とした体色に、節らしきものがいくつもいくつも見える身体。
蛇と違うのは頭と思しき部分がない事だろうか。
より正確には頭だと思える先端部分が丸々全て口だとでもいうように、黒々とした穴が開いていた。
ヤマさんはその穴に何か既視感めいたものを感じる。
「(これは、ドーナツ……? いや違う……タイヤ……タイヤか!!)」
それはホイールを外したタイヤのように見えた。
それがいくつもいくつも連なって大蛇のようになっているのだ。
いや。
ヤマさん達の行く手を塞ぐように巨体を横たえるその姿は大蛇というよりタイヤで出来た大ミミズだ。
いずれにせよ、これはただ事ではない。
「セルリアン……! もしかして私を追って……!?」
ヤマバクのつぶやきがヤマさんの耳に届いた。
その瞬間、彼の脳裏に一本の線が繋がる。
連続車両窃盗事件。タイヤをもぎ取られた盗難車。迷子のヤマバク。
そして、目の前にいる大ミミズ。
それらは全て関連のある出来事だったのだ、と。
だが悠長に考えている場合でもなかった。
何故なら……
―ギヨォオオオオッ!
大ミミズが気味の悪い雄叫びをあげたかと思ったら、ヤマさん達の方へ向かって来たのだから。
そしてヤマさんはもう一つ理解する事になる。
「コイツはいくら探したって見つからないはずだ……」
大ミミズは黒々とした大口から、ヤマさん達へ向かってタイヤのもぎ取られた盗難車を吐き出すのだった。
―③へ続く