天井が揺れている……いや、床か? どこだここ? 船? 身体を横に倒し、床に手をついてみる……吐き気がする。俺だ。揺れているのは、俺の頭の中だ。視点が定まらねぇ。どこだここ。
「目が覚めたようだね」
声に顔を上げると、雪のような白髪の小さな艦娘が椅子に座っていた。視界が振動し、吐き気が込み上げてくる。
「うぉえっ」
俺は思わず口を開いたが、出てきたのはただ透明な液体だけだった。
「ヴェールヌイ……あーくそ。水、あるか?」
「あるよ」
ヴェールヌイが立ち上がり、近づいてくる。俺は差し出された水筒を手に取り、水を喉に流し込んだ。
「なんなんだこれ」
再び仰向けになり、天井を仰ぐ。まだ、天井が回っている。
「司令官は全治二ヵ月の怪我だそうだよ」
ヴェールヌイがぽつりと言った。
「は? なに? 提督がなんだって?」
「全治二ヵ月。キミがやったんじゃないか」
「俺が……ああそうか」
そうだ。思い出した。あいつを、ぼこぼこにしてやったんだ……じゃあここは、謹慎室か。ざまみろ。
「やり過ぎたと思っているかい?」
「いーや」
「言っておきたいことは何かあるかい?」
「別に」
「……そうか。ならいいんだ」
無表情の幼い顔が俺を見下ろしている。こいつは……何を考えているのか、いつもわからない。
「キミの処遇も決定したよ」
「へー。いよいよ、解体か?」
戦えないならそれでいい。
「司令官は本部にそれを進言したね。けど、キミの解体は見送られ、代わりに別の鎮守府への異動が言い渡された」
「は?」
「キミに決定権はないよ。司令官にすら決定権がなかったのだから。キミの異動は決定事項さ」
無機質な口調。しかし今の言葉だけ、どこか苛立ちを感じた。ああそうか。おまえは秘書艦だもんな。
「……なんでもいいさ。戦えるんならな」
「うん。迎えの船は数日中には来るはずだよ。ここへ、直接来るらしい」
「ご苦労なこった」
ヴェールヌイは数秒間、何を言わずに俺を見、背を向けて部屋の扉へと向かった。
「本当に、司令官や私に言うことは何もないのかい?」
そして扉を開けつつ、再度俺にそう尋ねた。
「ないよ。謝れってのか?」
「いいや、謝罪は意味がない。誰も……」
……言葉は続かなかった。扉が閉まり、俺は一人、取り残される……頭の中では灰色の渦が回り……
.
……何か形を成そうとして、失敗し、元の渦へと戻っていく。俺は朝の冷えた空気を吐き出し、見送りに来た仲間達に視線を向けた。船はもう、出発する。
「それじゃおまえら、また縁があったら会おうぜ」
俺がそう言うと、見送りに来た五人はこくこくと頷いた。那智が俺に近づき、俺の肩に手を置く。
「貴様とは縁は縁でも腐れ縁だ。嫌でもまた会うことになるだろう。それまで……お互い、達者で」
那智は何か言葉を押し殺すように、ぎこちない笑顔で言った。
「ああ……んだよ、らしくねぇなぁ。いつものご鞭撻論調はどうしたんだぁ、おい」
「はは、そうだな。また会う時までに、少しは野生で動く戦士じゃなく知恵で動く兵士になっておけ。我々は知恵でこそ奴等を上回る」
「それだそれ。あいよ。最後の言葉くらいは覚えといてやるよ。けどな那智、おまえも頑張れよ。そしたら俺みたいに引き抜きで最前線に立てるんだからな」
「ふっ。本当に前向きだな、貴様は。その前向きさは見習わせてもらおう」
「おうっ、見習え!」
拳を突き合わせ、別れの挨拶をする。
「おまえらも頑張れな!」
俺は他の四人に呼びかけた。
「これから俺が向かうのは、おそらく、最前線も最前線、この海で最も危険な場所だ。強者共が集う場所で、俺は深海共を駆逐する! つまりだな……」
「ここが平和になり次第、私達もキミがいる場所を目指すよ。そういうことだろ?」
ヴェールヌイが俺の言葉を繋げてくれた。
「ああ、そうだ! それ! 長波や島風達にもそう伝えておいてくれ!」
俺の言葉に、なんだ? 由良と時雨、朝霜は目を逸らした。そして、朝霜が口を開く。
「天龍、島風達は」
「了解したよ。遠征中の彼女達には私から伝えておこう」
ヴェールヌイが朝霜の言葉を遮るように言った。船が汽笛で急かしてくる。
「頼んだぜ! じゃな!」
俺は船に乗り込み、右手を上げて五人に別れを告げた。五人の表情はよく見えない。もっと、こいつらと一緒に戦いたかった……。
.
夢を見た。いや、夢じゃなくて記憶か。記憶の夢? どっちでもいいか。なんだろうな。ホームシックになってるんだろうか。いやいや、ねーよ。あんな場所に戻りたいわけがねえ。夢に意味なんてないんだ。
「ふっ」
那智の顔がよぎり、何故か、笑いが漏れた。隣を見る。ああ、いた。龍田だ。また俺の布団に忍び込んでやがる。今日は裸じゃないな。
「龍田よー、そんなに俺と寝たいのかぁ?」
寝息を立てる妹に、俺は独り言を向けた。改めて見ると、龍田はなんとも安らかな顔で寝てやがる。しかし毎回良く気付かないもんだ、俺って奴は。そんなに俺の眠りは深いのだろうか。
「それか、おまえが実は忍者とか」
龍田の額を指で突いてみる。反応なし。本当に、静かに寝ている……静かな夜だ……ん? 静かな夜、ってのはおかしい。あの音が聴こえない。俺は寝台から降り、向かいの寝台の一番下の段の仕切りを開けた。隼鷹がいない。
タッタッタッ。誰かが廊下を走る音がした。靴を履き、寮室から廊下に出る……真っ暗だ。誰も、見当たらない……誰かトイレにでも急いだんだろ。寮室の扉に手を掛ける。その時だった。
「ひゃーーーぁははは!」
なんだ!? 悲鳴のような、笑い声のような、それはしかし、子供の声だった。
「子供はいねぇだろ」
寮室に戻り、俺は懐中電灯を手に再び廊下に出た。確か、声が聴こえたのは庁舎の奥側からだ。俺はその方向へ向かった。時が止まったかのような空気が身体に纏わりつき、脚に、絡みつく。
「隼鷹、いるのか?」
俺の足は自然と、二階へ続く階段へと赴いた。階段の上では深い闇が大口を開け、来る者を飲み込もうとしている。ダメだ。この先に、夜行ってはいけない。
「おーい隼鷹!」
足が、勝手に階段を上がっていく。俺は好奇心の塊か。しかし何も、行くべきでない理由なんてないんだ。そのはずだろ?
ドタッ。階段下で何かが倒れるような音がした。懐中電灯の明かりを向ける。何も、見当たらない。タッタッタッタッ。今度は上だ。誰かが闇の奥へと走っていった。辛うじて懐中電灯の明かりが捉えたのは、黒の中に桃色が混じった長い髪。おまえなのか? どうしておまえがここに? 俺は階段を登り、二階の忘れ去られた空間へと踏み込んだ。
「長波? 来てるのか?」
懐中電灯の明かりを頼りに、歩みを進める。迷路のような廊下を、右へ。左へ。あの足音は、もう聴こえない。奥へ進むほど、空間に漂う独特な冷気が鳥肌を残していった。
「ん?」
暗闇に、縦長の光が伸びていた。扉だ。明かりが漏れている。俺は懐中電灯を消し、光に近づいた。扉を開ける。
「さんしゅうらくりょう、こうてんとういん、ほうしゅん、きふこ、ろっぷ」
隼鷹が呪文を唱えていた。隼鷹は目を閉じ、その周りには円を描くように何本もの蝋燭が並んでいる。なんかの儀式みたいだ。
「しゅんせん、きゅうりつ、ふうと、さくふ。天龍、入るなら入りな。で扉少し閉じて。それだと一気に入り過ぎる」
「お、おう」
部屋に入り、僅かに隙間を残して扉を閉める。なんだ、入り過ぎるって。何が入り過ぎるんだ?
「天龍、こっちおいで」
「何やってるんだ?」
蝋燭を踏まないように、隼鷹に近づく。スキットルから酒を口に含む隼鷹。そして。
「んんっ!?」
隼鷹が俺の身体を引き寄せ、唇を重ねて来た。口の中に酒が入ってくる。
「飲め!」
隼鷹の手が俺の口を塞ぎ、思わず、酒を飲んじまった。
「な、なにすんだよ!?」
隼鷹から距離を取り、構える。
「魔除けだよ。度数も低いから安心しな」
「魔除け?」
「そう。ほら、壁際行って。雲龍の隣に」
「え?」
隼鷹が指差した方を見ると、部屋の隅で雲龍が体育座りをしていた。全然気付かなかったぜ。
「よう」
声を掛けると、雲龍は視線は合わさず、しかし小さく頭を下げた。隣に座り、胡座をかく。
「で、何してんだよ?」
「こうしんしほう、さふら、ふら、はたり。あたしはね、こいつら全部祓っちゃいたいんだけど、雲龍がさー、祓うなって言うわけよ。そいつはあたしを見張ってんの。仕方ないからさぁ、この部屋に集めてちょっとずつ散らしてんだわ。面倒だよねー」
祓う? 散らす? いったいなんのことだ?
「さっぱりわかんねぇんだけど」
「しゆと、うと、ろうろうすんふ、るふ。えっ、見えるから来たんじゃないの?」
「見えるって何が?」
「ありゃ。雲龍、あんたに任せるよ。言葉じゃ説明できない」
雲龍が少し目を細め、なんだろう、この表情は。面倒を押し付けられたといったところだろうか。そしてこちらを向き、俺の目をじっと見てきた。雲龍の左手が伸びてくる。俺の肩に触れた。
「うぉ!?」
思わず雲龍から離れ転げた。なん、なんだ今。雲龍に触られた途端、部屋中に人が溢れかえったような。けど今、部屋には俺と雲龍と隼鷹しかいない。
「なこそなむ、くとうふのう、そとしえは。見えただろぉ? それだよ。言わずもがな。けどこいつらが本当はなんなのか、それはわからない。興味もないしね。あたしはただ、こいつらが目障りなだけ」
隼鷹はそう言って再び呪文を唱え、手を、腕を、振っていく。つまりあれか?
「幽霊か?」
「妖精さんかもよぉ?」
「妖精さんって」
幽霊も妖精さんも信じちゃいないが……もう一度見てみたい。
「雲龍、おまえに触れればまた見えるのか?」
雲龍は視線だけ俺に向け、戻し、頷く。
「よ、よし……っ!」
俺は雲龍の肩に触れた。途端、部屋に身体の透けた亡霊が溢れかえる。ほとんどが十代の少女の外見をした艦娘だが、中には、おそらく艦娘ではない少女も混ざっていた。更には、男までいる。
「初めて見たぜ」
「そうかい? 案外見てるもんだよ、普段は見えない奴も、知り合いの妖精さんくらいは、さ。そうたまな、らはふ。ほいっと」
隼鷹が腕を振ると、艦娘の亡霊が一人、僅かに青く発光しつつ、ふっ、と、宙へ消えていった……。
「みんなここで死んだのか?」
「さぁね。死んでこうなるのかもあたしは知らない。まぁ、死んだ奴でこうなった奴は何人か見てきたけど。かんや、なこふすさ、てん。因果ってのはそう簡単でないのよねぇ。そうでなくとも、そら、地に憑けば人に憑く」
扉の隙間から亡霊が浮かび上がる。亡霊はまっすぐ隼鷹の背に向かい、振り返りざまに散らされた。
「こいつらが教えてくれりゃあ、はっきりすることもあるのかもわかんない。けど死人に口無しさ。言葉は生者のものだからねぇ。うるなららる、あよめふつも。何か語り掛けてくることはあっても、いったい誰に語り掛けているのやら、意味も順序もめちゃくちゃだ。最早言葉でないそれよ。ふうら、くら、とうとうそかい。んあ、もしかしてさ、雲龍、あんたが喋らないのってそれと関係ある?」
「…………」
雲龍は答えない。
「頭を縦に振るか横に振るかさぁ、あんたそういうとこだよぉ? 喋らないイコール無視決め込んでオッケーじゃないでしょうよ。それともあたしのことが嫌い?」
「…………」
「無視なら好きってことだ」
雲龍が隼鷹の方に手を突き出し、中指を立てる。
「あ~そこまでしてくれちゃうっ!? 今日の雲龍ちゃんはサービスいいねぇ~」
隣から短く、溜め息が聴こえた。雲龍は、隼鷹があれらを祓わないように見張ってるって……よくわかんねぇな。
「祓うのと散らす? のは違うのか?」
「祓うのは成仏させるってこと。散らすのは、なだめて落ち着かせるってとこかね」
「へ~。あれだな。巫女さんみたいだな」
「ゆふとまはな、まはとらは。いや、そんなんじゃないよ。知識なんてないしね。言ったろ? こいつらが何なのかもよくわかんないんだわ。祓うも散らすも、あたしがあたしの中での意味で使ってるだけ。言葉も言葉でなし、口無しの死人に言葉も意味なし。ただ言葉に居乗るはずだった祈りがこいつらを祓い散らす。あたしゃあくまで艦娘さね」
隼鷹の指を追うように、亡霊達が青く散っていく。
「祓っちゃまずいことあるのか?」
「ん? ああ、いや、あたしは別に問題ないと思うんだけどぉ、理由があるから残ってるもんを問答無用で成仏させるんじゃないってのが雲龍の言い分よ。そんなねぇ、もう自分がどうして存在してるのか、存在しなくなってるのかもわからないような連中に、理由も何もないと思うんだけど」
雲龍が床を叩く。
「はいはい、ちゃんとご注文は違えませんよ。駄賃はいただいてるからね」
駄賃か。なるほどな。酒代稼ぎって訳か。
「雲龍は、祓ったり散らしたりはできないのか?」
一応、雲龍の方を見て尋ねた。が、頷きも首を横に振りもしない。代わりに隼鷹が口を開く。
「もっと恐ろしいことしてくれちゃうよぉ、彼女。あたしと正反対なんだわ。あたしは死者を祓う。雲龍は生者を祟る。つまり呪いだな。このあたしが二日酔いになる。ゲロの海でのたうち回ることになる。おっそろしくて逆らえりゃしないよぉ」
「……」
雲龍を見る。無表情だ。ノーリアクションだ。隼鷹は嘘は言っていないらしい。
「二日酔いは勘弁だぜ」
一応伝えといた。
それから、十数分か数十分か、俺は散らされていく亡霊達を眺め、二人を残して部屋を後にした。亡霊は不定期に集まりやすくなるらしい。それで、そういう日は散らしておかないと誰かが風邪をひいたり鬱になるんだそうだ。本当かわからないが、あれらは確かにそこにいた……なら、俺が見た後ろ姿も、もしかしたら……。
第10話あとがきです。
言葉に居乗るはずだった祈り。解説しましょう。言葉には意味があり、意味はある種の祈りであり、本来言葉には祈りが居着いて乗っかるはずなのですが、発せられた言葉が言葉でなくなれば、その居付いて乗っかるはずだった祈りは留まる場を失い、一つのエネルギーとして扱い可能なものとなるのです。なんだそれ。
さて次回。荒れ野にて、一つ不吉が割れ地に下れば、次から次へと崩れ出す。絡繰りの手が糸を引く。??「大厄災神が降臨するって話でさぁ」。第11話「厄災の華」