日の光を感じない、波の音も聞こえない、どこまでも広がる漆黒の世界。たまに近くを歪な生物が漂っていく。まるで別の星に来たみたいだ。
俺達は武器一つ持たず、水中ライトだけを持ち、灰色の坂すれすれを下っていた。俺とまるゆは泳ぎ、木曾は潜水服に内蔵された推進装置で進んでいる。進む方向は木曾の潜水服から聞こえてくる明石のナビゲーション頼りだった。
「お、なんかでかいの来るぞ」
闇の奥から、サメがぼうっと現れる。まっすぐこちらへ、というわけではなさそうだ。サメでさえ、深海ではゆったりと揺蕩い、その小さな胸鰭はあまり役立っていないように思える。でかさは、三メートル、いや四メートル近いかな。けど脅威は感じなかった。
「ミツクリザメ、ですね。テングザメや、ゴブリンシャークとも呼ばれています。危険は、たぶんないです」
まるゆが教えてくれた。まるゆはどうやら海の生物に詳しいらしい。そういや何度か、廊下で図鑑を手にしているのを見かけた気がするな。
「名前的には結構危険そうだけどな」
「体内の放射能で周囲を無差別に燃やしたりしないか?」
「なんだそれ」
散った電飾のカケラのようなクラゲが流れていく。ふと照らした足元で、脚を捨てたような丸っこい蛸が不動を決め込んでいる。俺達の棲息可能環境から酷く離れたこの場所には、しかし、終わりの世界に取り残されたような生物達が静かに息を潜めていた。
「まだ先なのか?」
「コロニーまであと二百メートルくらいですね~」
木曾の潜水服から明石の声がした。
「コロニーの中心まではちょうど千メートルほどです」
「直径千六百メートルのコロニーか。小せぇな」
「ずっと発見を免れていたコロニーだからな」
深海棲艦のコロニーというのは、言葉通りの意味とは少し違う。というのも、深海棲艦の深海での生息形態というのは未だ多くが謎に包まれており、巣の有無や縄張り意識の有無などもコロニー毎に異なっているからだ。その為この深海棲艦コロニーという言葉は、ほとんど危険地帯を示すものとして使われている。深海棲艦が浮上する海域、それをコロニーと呼び、実際の奴等の生活圏はその深部にあった。今回の作戦では仮に、このコロニーの深部にはその中心に巣があるものとし、そこを目的地としている。巣があるにしろないにしろ、直径二キロもないコロニーというのはかなり小さい方だ。
「まもなくコロニー内に入りますよ。無用な警戒をさせない為、こちらからの通信は最低限にします。皆さんは一層の警戒を」
いよいよか。まるゆを見ると、握った拳がぶるぶると震えていた。
「まるゆ、俺の後から来い」
まるゆが俺の方を見ると、その顔は恐怖で引きつり、口は曲り、鼻はきゅっと縮んでいた。
「安心しろよ、奴等武器なんてなくても余裕だぜ」
「おい、違うだろ」
「あ、そっか」
まるゆが目を閉じ、頭を押さえる。
「ちょっと休むか? おい木曾、ちょっと」
まるゆを止め木曾の方を見ると、木曾も同じように頭を押さえ進行を止めていた。
「おいおい、知らないうちに潜り過ぎちまったか?」
そのとき、耳鳴りがした。なんだよ俺もかよ。耳鳴りが強くなってくる。あ、え、すご。どんどん大きくなる。うあ、頭の中で閃光弾が爆発したみたいだ。これやばいんじゃ。
「まるゆ、木曾」
二人、うずくまっている。凄まじい耳鳴りの中、視界が揺れる。たぶん揺れてる。闇の中に点が、揺れている。白い、いや一部赤い。近づいて、くる? 周囲の海水が揺れている。海が、深海が、揺れている。ああうるせえ!
「なんだこれ!」
目を閉じ、いや閉じるな! 目を開ける。すると、頭のすぐ上を何か、何か巨大な、銀のうねりが揺らめいていた。深海が光に包まれている。光の中を抗いようのない大河のような、巨大なエネルギーの塊が靡いている。怖えぇ。けど……綺麗だなぁ……。
「あ……あ?」
いなくなった。耳鳴りが止んでいく。視線を動かすと、遠く、銀のうねりが去っていくのが見えた。赤い尾が揺れている。
「っく……すげぇでかさだったな」
言いながら、木曾がだるそうに頭を上げる。まるゆも。
「なんだったんだ今の? 深海棲艦? それとも龍か!?」
「たぶん……リュウグウノツカイってやつだな。尋常じゃないでかさだったが」
「やっぱ龍か」
「違う」
まるゆが俺の方を見てポカーンと口を開けている。気持ちはわかるぜ。
「二人とも逃げろ!」
木曾が叫んだ。
「あ? 逃げろってその龍の何とかはもう」
言いながら後ろを向く、と、深海の闇とは違う、別の、底なしの洞が俺とまるゆの背後を覆っていた。
「やば」
巨大な口が覆い被さってくる!
「バカ!」
身体が横へ引っ張られる。大口が閉じ、間一髪、餌にならずに済んだ。重い水圧が顔に当たる。
「助かったぜ」
「くそ、一回限りのスーパーブースト使っちまった」
木曾が俺とまるゆから手を離す。一瞬前まで俺とまるゆがいた場所には、巨大な魚が頭を突っ込んでいた。粉塵に紛れて、しかしそのでかさのせいではっきりと存在を感じる。さっきの奴ほどでかかぁないが、普通の海にいるでかさじゃない。巨大魚が身体を捻り、俺達の方を向く。よく見りゃ……ただの巨大魚でもない。目はなく、しかしそれは深海なら不思議じゃねぇが、頭の真ん中に人の顔が付いていた。そっちの目は、俺達をじっと見つめている。
「あれ、もしかして……」
「深海棲艦だな。俺達が知ってる姿とはずいぶん違うが……話しかけてみるか」
「正気かよ」
「そのためにここへ来た」
木曾が俺達の前へ出……両手を上げる。
「あー、深海の者よ、俺達を食うのは止してもらえると助かる。俺達もおまえ達を傷つけるつもりはない。ただ話を」
巨大魚が口を開け突進してくる。
「ああやっぱり無駄だ!」
「くっ」
巨大魚の頭が再び地に埋まる。何が起こった? 巨大魚の頭に、何かが乗っている。巨大魚の頭を地に押し付けるようにかざされたその二本の手は、人間の手。巨大魚の口を塞ぐ、複数の触手。黒い、髪らしきものが靡いている。あれは……。
「ダメヨォ~、サッキ食ベタバッカリジャナ~イ」
この声。知っている。よく知っている。しかし本当によく知っている声とは、また別の響きが混じっている。俺が話しかけねぇと。木曾の前へ出る。
「よお、また助けられたな」
そいつが振り返り、俺の方を向く。黒い仮面のような殻の下に、見知った顔が見えた気がした。
「アラァ~、ヤァ~ット、帰ッテキテクレタンダネェ~」
嬉しそうな声だった。俺は、なんだ、何故だかわからねぇが、自然と笑みを浮かべていた。腰から下が蛸のようになっている。そんなんなってるのかよ。その蛸みたいな下半身の触手で巨大魚の口を抑えていた。脚の触手の一本が巨大魚の頭をパシッと叩き、拘束を解いて俺の方へ近づいてくる。巨大魚は頭を上げ、しかし大人しく口を閉じていた。
「俺が戻ってくると?」
目の前で止まったそいつに、俺は尋ねた。蛸の触手のような髪が、その先の異形じみたそれらや無機物じみたそれらが、それぞれ単体の生物のように蠢いている。
「ソウダヨォ~。アナタハ……フフ、ヨク分カラナイワァ~。デモ絶対ニ、ワタシノ所ヘ戻ッテクルッテ、ワタシノ所ヘ戻ッテクル存在ダッテ、思ッタカラァ~」
「こりゃ敵わねぇな」
「フフ」
笑っている。他の深海棲艦が笑ったのは見たことがないが、こいつは、笑うことを忘れていなかった。俺まで……信じたくなっちまう。
「ありがとうな、龍田」
「タツタ?」
口をポカンと開けている。
「おまえの名前だよ。深海棲艦になる前の」
「……ナニソレ」
蠢いていた髪が、ピタッ、と止まる。
「知ラナイ、ソンナ名前……」
何か、まずいこと言っちまったか?
「あー、わりぃ、俺変なこと」
「デモ……ナンダカ凄ォク、懐カシイカモ……」
龍田……。仮面の下が見たい。そんな声で、いったいどんな目をして言ってるんだ。
「あー、天龍、そろそろ俺達を紹介してくれ」
うるせぇな。
「ん? ああ、そうだな。その……龍田って呼ばない方がいいか?」
「ウ~ン、別ニ、ナンデモイイワ、名前ナンテ。デモ少シ、変ナ感ジ」
「じゃあ、今のおまえはなんて呼べばいい?」
「ワタシハ……ツバキッテ、呼バセテルヨ」
ツバキ……なんでだろう、理由は分からないが……妙な納得感がある。龍田なら自分が誰かわからなくなった時、きっとその名前を使う。それも、理由は俺関連だ。どうしてか、具体的にはわからねぇが……そしてこいつも、その理由はわからなくなってる。理由理由、肝心なところは俺もこいつもわからなくなっちまってる。今じゃ見た目も大差ねぇ。俺とこいつに、いったいどれだけの違いがあるだろう。
「じゃあ、ツバキっって呼ばせてもらうぜ」
「ウン。フフ」
「ツバキ、ええと、俺の後ろの二人な、木曾とまるゆだ」
俺が親指で指差して、ツバキは初めて二人を認識したように見えた。けど、大して興味は示さずに俺へ視線を戻す。凄く、龍田らしかった。
「オ土産? 美味シイ?」
「いやいや、食いもんじゃなくて。それにたぶん酷く不味い」
「酷くは余計だろ」
「潜水服来てる方は特にな。ほとんど身のない殻の塊だ」
「フ~ン?」
興味なさそうに、しかし笑みを浮かべている。俺が喋っていること自体に、興味を示している……この前は、大して話せなかったもんな。もっと話してやりたい。
「その……なんだ、ちゃんと食ってるのか? 何食ってんだ普段?」
「ウ~ン、オ魚。最近船ハアマリ降リテ来ナイシ。貝モ食ベルカナ~。デモソンナニオ腹空カナイノ」
船はあまり降りて来ないし、か。龍田らしい。基本出不精だもんな、おまえ。わざわざ船を襲いに海上までも行かない、か。はは。
「アナタハ?」
「俺?」
「チャント食ベテル? 何食ベテルノ?」
……あれ、俺の方が言いにくいもん食ってるな。
「カレーかな……美味いけどな。けどおまえの方がまともなもん食ってるかもな」
「フ~ン。量ハ足リテル?」
「ああ。それは大丈夫」
「良カッタァ~」
なんだ。なんだこれ。完全に龍田じゃねぇか。笑っちまう。
「天龍、そろそろ本題を」
まったく空気読めよ~。せっかちだなぁ~。仕方ねぇ。
「ツバキ、実はな、俺達はおまえ達の大将に合いに来たんだ」
「タイショウ~?」
「なんつーか、ここで一番偉い奴」
「……ワタシ達ニ上下関係ナンテナイワァ~。デモ、アナタガ誰ニ会イタガッテルカハ分カル」
「会わせてくれないか? 俺達は戦いに来たんじゃなくて、話を」
「イイヨォ~」
「そうだよな、急にそんな、え、いいの?」
「イイヨォ~。後ロノ二人モデショウ~?」
思いの外話が分かる。というより、俺達をまるで脅威として見ていない。少し、悔しい気もするが……今は都合がいい。でも。
「ああ。けど、俺達余所者だしさ、おまえに迷惑が掛かるかもしれねぇ。だから、方向だけ教えてくれりゃあさ、あとは俺達で行くよ」
「天龍?」
木曾が俺の肩に手を置く。すぐに振り払った。俺はこいつを、ツバキを、その仲間達にとっての、裏切り者にしちまいたくない。
「フフ。フフフ」
ツバキが笑う。口を、もごもごとさせている。そして、口を開く。
「大丈夫、天龍チャン」
! 俺の名を。俺のことを。いや、木曾が俺を呼んだか。でも、「ちゃん」って。ツバキ……龍田。やっぱり、こいつの何処かには記憶が。沈む前の記憶が。
「一緒ニ行クヨ。連レテイッテアゲル。ジャナイト、アナタ達食ベラレチャウカラ」
「けど」
「大丈夫。サア、コッチニ」
ツバキが跳ね、触手が弧を描く。そして巨大魚の背に乗った。俺達を手招きする。俺は二人を振り返り……木曾とまるゆが頷く。ツバキ、いいのか本当に……俺達は重い水を蹴り、巨大魚の背へ、泳ぎ乗った。
第23話あとがきです。
深海棲艦化艦娘ですが、天龍ちゃんの場合は例外的で、多くの場合はむしろ艦娘化深海棲艦と言った方がこのお話的には正しいです。ただし記憶ごと呑み込むので、まぁ、そう、ええ。一見艦娘が深海棲艦に変異したように見えてしまう。例外であるのは深海棲艦が艦娘を食べた場合でなく、艦娘が深海棲艦に寄生された場合。寄生の仕方には今のところ3種類があり、一つは艦娘内の深海棲艦としての意志を増幅させるパターン。この場合実質的にはほとんど艦娘でありながら、深海棲艦側に付くようになります。それから完全乗っ取りパターン。寄生した部位が艦娘の意志を遮断して身体を乗っ取るパターンです。そして天龍ちゃんのパターン。艦娘としての身体を完全に深海棲艦に作り替えられるパターン。
さて次回、一行は深海棲艦の巣へ。深海棲艦の根城、その一つの形態が明らかになります。それではまた。