薄っすらと赤味がかった、白い切り身。皿に盛られたそれと、私は台所で対峙していた。
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それを初めて見たのは、私がまだ小学生の時。夏も終わりかけたどんよりとした曇り空の下だったかと思う。台風が近づいてきていた。少し波立つ磯で、海水に身体を浮かべ、日が沈むのを待っていた。身体の下の海水は黒く、何も見えない。地上に人影もない。でもそう、そこはそういう場所だったんだわ。台風とか関係なく。いつも、ええほとんど、来る者は私くらいしかなかった。普段こそ波は穏やかとはいえ、それでも岩や海藻や、それらの位置を覚えていなければ遊ぶのには適さない場所だったし。だから……とても都合が良かった。
「沈め…沈め…」
私の呪いの言葉を、聞く者はいない。
ポチャンッと音がしたのを覚えている。身体を起こし、辺りを見渡して、でも何もいなかった。けれど、何か視線を感じて……暗い水の中に頭まで沈めて、私はそれと目を合わせてしまった。
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あの日から、私はずっと人魚を探していた。ずっと後悔していた。あの時、驚いてすぐに顔を上げてしまったことを。もう一度見たい。だから、潜水の資格を取り、海中を、可能な限り深く潜った。人魚にまつわる日本の伝承、世界の伝承を追い求めるうち、気付けば民俗学者と呼ばれるようにもなっていた。けれどやっぱり地上で本当の人魚に会うことなんてできない。だから海に戻り、今度は世界中の海の水質を、そこに含まれる遺伝子を徹底的に調べていった。海洋生態学者と呼ばれるようになり、しかし、私が本当に求めていた成果は、何一つ得られずにいた。今までは……。
「醤油をかけた方が絶対美味しい。でもそれで効能が消えてしまったら? そうねそうです。それに素材そのものの味を知らないと」
切り身を箸で摘み、眼前へ。正直刺身は苦手で、本当は火を通したかった。でもそんなことをしたらそれこそ、効能が消えてしまうかもしれない。だからここはやっぱり、刺身でいくしかない。
「いただきます」
私はそれを口に含み、何か舌を刺すような感覚を覚え、対して味わわないうちに飲み込んでしまった。
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3ヶ月前だ。日本にも深海棲艦が出現したというニュースが耳に入ったのは。私はすぐに国家機関で働く友人に根回しをした。深海棲艦の死体が捕獲されると、彼は有識者として、まず私の名を挙げてくれた。以前から海洋異形体人魚説を彼に説いていたことも効いていたと思う。
逆さになった黒い舟、そんな形をしていた。しかし完全に無機質という訳では決してない。左右にぎょろりと光る、いや沈み淀む、死してなお恨みを宿したような二つの眼。これは生物である。それも無感情というよりは、激情を知る。それを直感的に感じた。姿形こそ私が子供の頃に見たそれとも、数々の伝承による人魚ともまるで異なっていたが……その肌の、言い様のない質感。この世のものとは感じられないような、つまり、私達人類が知る陸と海には存在しない、もっと未知の場所から生じたようなその質感に、すぐに私はその深海棲艦と呼ばれる生物が、かつて見た人魚と同種であることを感じた。
ただの人魚マニアが何をしにきたと、多くの視線が刺さっていた。あるいは単純に、何だこの異常者は、と。その時の私は生き別れの家族と再会したかのように、声も出せずに涙を流していたから。だってずっと抱いていた夢の一つが叶ったんだもの。けれど、私の夢はそこで終わりではなかった。
私はすぐに、伝承が色濃く残る地域を深海棲艦の出現可能性が高いポイントとして報告。実際その通りに深海棲艦が出現してくれたおかげで、私は私の知識の価値を認められ、幾何かのサンプルを入手することに成功した。それで……研究を進めるうち、とりあえずは毒はないことはわかったから。リスクなく、大きな成果は得られないし。私に迷いはなかった。
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「……う〜ん」
身体に変化は感じない。シワの目立ち始めた指はそのままだし、昔海中の岩で切った腕の傷も、そのまま。これでもし不老不死が手に入るとしても、そうね、そんなにすぐ効果は現れないでしょう。やっぱりもっと研究して、不老不死の効果を解明しないと。個体によって違いがあるかもしれない。成分を抽出して、薬として仕上げて。そうそう、さすがに焦り過ぎ。でも二つ目の夢はこれで叶った。良さ良さ。そうこう考えていたら、気付けば、普通に夕食一回分、私は深海棲艦を食べていた。ごちそうさまでした。
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その夜、私は激しい腹痛に襲われ、布団の上でのたうち回っていた。救急車は呼べない。これは秘密裏に行わなければならない研究だから。それになにより、鎮痛剤でもなんでも、投与された薬が人魚に含まれる成分に対してどのような影響を及ぼすか知れない。好奇心で全く馬鹿なことをしたと、苦しみながら酷く後悔した。間違いなくそれまでで一番長い夜だった。
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それから9年の後、私はついに3つ目の夢、不老不死を手に入れる。