小説を書き始めたもこっちが色々と思い出します。
「おっ、黒木さんおはよう」
「あっ…店長。お疲れさまです」
スイングドアを開けてすぐ、パソコンデスクの前で腕組みをしながらモニターを睨むおっさんと短く挨拶を交わした。
更衣室のカーテンを引き、ロッカーから取り出した制服に袖を通す。ヘアゴムで髪を首元で束ね、履いてきたクロックスからスニーカーへ履き替える。
「レジ混んでるみたいなんでシフト入りますね」
「悪いね、頼むよ」
入って来た時と同じようにスイングドアを押すと、パック飲料とカップ麺の棚に挟まれた通路を抜ける。慌ただしくレジを打つバイト仲間の後ろを横歩きで通り、レジ前に掲げられた表示を下げてから列客に向かって声をかけた。
「お待ちのお客様、こちらへお願いします」
大学に入学してから一年が過ぎようとしている。
三年の頃必死に勉強した甲斐あってか、どうにか第一希望の青学へ入学できた。同じく加藤さん、ゆりちゃん、絵文字らなんかの志望していた奴らも無事合格し、ネモや吉田さん、まこさんなんかも首都圏にいるので何だかんだ高校の延長のような環境で上手くやれている。
ただし大学は高校に比べ遥かに自主性を要求され、私のような自堕落な性分の人間は自分に鞭打つのに苦労した。単位を取る取らない以前に、そもそも単位登録すらできずに積みかけたのも今やいい思い出だ。
何とか前期後期ともに必要単位の目処が立ち、肩の荷が下りた気分で冬休みを迎えるところである。
「お先失礼しまーす」
フライヤーの清掃をしている背中にかけられた挨拶に顔を上げて返す。
「あっ、はいお疲れさまです」
22時シフト上がりの男子大学生が帰ったので、これから2時まではこの店で一人だ。
今は講義のペースにも慣れてきたのでコンビニの深夜バイトに入っている。
本当はバイトなんて面倒なことはやりたくなかったが、一人暮らしを始める費用を捻出するため、吉田さんたちとの旅行費用のために10月くらいから始めた。
最初は人との関わりの少ないライン工でもやろうかとも思ったがしかし、高校時代一瞬だけやったケーキ工場でのバイトが死ぬほど苦痛だったことを思い出して友人たちのアドバイスを元にコンビニに落ち着くことになる。
酔っぱらいやDQNが来ないこともないが、基本的に客は少ないし暇ならスタッフルームでジャンプ読んでられるし夜型でコミュ障の自分には悪くないバイトだった。むしろ家に帰ったら疲れてすぐ寝てしまうので、ダラダラ真夜中までネット徘徊していた頃よりも健康まである。
紙タオルの上に洗ったフライヤーかごを置いて一息つく。夜中は面倒なホットスナックの販売がないから楽だ。実際の業務は客が持ってきた商品のバーコードを読み込んで、たまに番号を呼ばれて対応するタバコを棚から出す程度の簡単なお仕事です。
そのまま店内放送に耳を傾けながら検品や受け入れ、ポリッシャー掛けなんかをこなしているとすぐに0時を回る。今日もあまり客は来なそうだな。
制服の胸ポケットにしまったメモ帳を取り出してページをめくる。浮かんだアイデアだけでもまとめておくか。
加藤さんたちと青学のオープンキャンパスで模擬講義を受けた日から、私は小説を書くことに興味を持っていた。元々マンガや小説、アニメなんかの創作物に触れる機会も多かったので、自分も素晴らしい作品を生み出す側に回りたいという気持ちがあったのだろう。現に高校生の頃声優とのコラボ音声作ったしな。
絵は絶望的に描けないが現代文の成績は良かったし、オープンキャンパスの授業も面白かったしなどと、短絡的な理由で大学に入ってから短めの作品を作っては細々と発表している。
一応サークル活動として文芸部に加入しているが、やり取りはSkypeかDiscordのみ。直接会うのは学園祭で部誌を発行する際の打ち合わせのみというコミュ障っぷりが結構気に入っている。会うたびにお互いの原稿の感想言い合わなきゃいけないような強迫観念じみたものがないだけで居心地の良さが段違いだ。
「…こんなもんだっけな。あと何か忘れてるような気がするけど、仕事中に思い出すだろ」
緑色のフリクションをカチカチ言わせながら、下唇にシリコン部を当てながら呟いた。
作品は一年に一度部誌に載せる以外に、小説投稿サイトにアップしている。特別人気なわけではないが一定数毎回評価してくれる人や感想を書いてくれる人もいるので、モチベーションの維持は出来ている。
一応小説を書いていることは知られているので、ゆりたちにもアカウントは教えてある。
毎回感想を直接教えてくれる加藤さん、だいたい好みが合わず煽ってくるネモ、欠かさずブックマークだけ押すゆり、そしてコメントが「キモい」だけのせいで運営にBANされたうっちー。
ネットでもリアルでもそれなりに評価をもらえていて、加えて変なアンチが湧くほど有名でもないので創作環境としては恵まれていると思う。自分の中で肥大化する自尊心に押しつぶされてしまったり、心無い言葉に筆を折ったりする人もこの数年で何人も見てきた。
そう、何人も…
「あれっ?」
入店のチャイムとともに自動ドアが開き、しばらくすると虚を突かれたような声が上がった。
物思いから我に返ってドアに顔を向けると、そこには見知った顔が立っていた。
「何だお前、ここでバイトしてたのかよ」
「ああ…お前か」
鼻からため息を漏らしながら中学からの腐れ縁、コオロギこと小宮山琴美を一瞥した。相変わらずかっこいい私服だ。
「どうしたんだよこんな時間に。うちの弟のストーカー帰りか?」
「ふざけんな、バイト帰りだよ。塾で講師やってんだ」
「お前が塾で何のこと教えるの? ちんこのこと?」
「くそっ…絶対本部にクレーム入れてやる」
拳を震わせながら彼女はかごを手に店内に入っていった。そういえばあいつと顔を合わせるのも久々だな。卒業してから一度だけ、ゆうちゃんの誘いで3人で遊びに行ったきりだ。その時進路について聞いた気がするが、あまり興味がなかったので刹那で忘れちゃったよ。
しばらくしてカウンターに置かれたかごの商品をレジに通していく。
サラダにサラダチキン、それに野菜ジュースか。コオロギらしく野菜ばっかり食ってんな。
「こんな食事で体大丈夫なのかよ」
「ん? ああ、今日はたまたま手伝いで遅くなっただけだよ。いつもは小学生教えてるから自炊してる」
「ああ、それで会わなかったのか。つーか自炊とか意識たけーな」
「ほら、覚えてるか知らないけど、うち父親いないだろ? 奨学金借りてもちょっとキツいからさ」
「…そうだったな」
袋に詰めて代金を預かり、自動レジに通してしばらくしたら吐き出される小銭を手のひらに落とす。どんくさい私にもできる単純な業務だ。
「ほら、せいぜい夜道に気をつけて帰れよ」
「ああ…」
商品を受け取ってからも、彼女はレジ前から動かず目を伏せていた。
「何だ? まだ用があるのか?」
「お前…さ、小説書いてるんだってな」
レザーパンツのポケットに手を突っ込みながら、コオロギは目を合わせることなく呟いた。
「…えっ?」
ぞくり、と首元に刃物を突きつけられたような感覚が走った。
「ごめん、成瀬さんが教えてくれてさ。『私じゃ難しくてわからないけど、こみちゃんならもこっちと趣味が合うと思うから』って勧められたから、話を合わせるつもりでな」
普段なら「どうだった?」と感想を求めたり、「訳わかんなかったろ?」と自虐的に振る舞うことも出来ただろう。しかし今だけは、こいつにだけは何も返すことが出来ない。
「正直普通に面白かった。お前に素直な感想言うのは恥ずかしいけど、毎回更新楽しみにしてるわ」
相槌を打つことすら出来ず、カウンターの下で拳を握る力が強まる。彼女はふぅと一息ついてから、踵を返してドアへ向かう。
「まぁ…それだけ。これからも頑張れよ」
再びチャイムとともに自動ドアが開き、年末の寒気が店に流れ込む。寒そうに背中を丸め、久々に見たその姿は夜中の住宅地に溶けていった。
私はそれを見送ることも声をかけることもできず、無意識のうちにズボンのポケットに入ったメモ帳を握り潰していたことに気付いた。
「ただいま」
玄関先で返事の帰ってこない挨拶を済ませ、暗い廊下で電気のスイッチを探りながら自分の部屋へと戻った。
荷物を床に放り、小学生から使っている勉強机に腰掛ける。一息ついてからパソコンを立ち上げてメモしてあった内容を執筆中の作品の端に箇条書きしていく。メモを見返して思い出すのは、勿論バイト中の事。
「面白かった」「更新楽しみにしてる」「これからも頑張れ」
こんな言葉が私たちみたいな創作者にとって、どれほど嬉しいことか。辛い時にどれほど救われることか。
でも、だからこそ、私はアイツにだけはそれを言われる権利はない。
空っぽの胃から胃液が逆流しそうになるのを堪えながら、机の端でほこりをかぶった小さな鍵を手に取る。
『初めて詩を書いてみました』
衝動買いしたボカロを全く使いこなせず絶望していた時に見つけたのは、そんな書き込みだった。
同い年の相手。他の書き込みと違ってなぜか返信が全くつかない様子。何となく自分を見ているような悲しい気持ちになったのをよく覚えている。
哀れみと共感から返信だけでしてやろうと思い立ったが、そこで魔が差してしまった。
「せっかく買ったソフトを無駄にしたくない」
「この憤りを誰かにぶつけたい」
「自分と同じく甘い考えのこいつをからかってやりたい」
そして美辞麗句とともに適当に作った合成音声を送りつけた。作曲したので聴いてくれと偽って。
その時は相手が誰かなんて気にも留めなかったが、真相を知ったのは大学に入って小説を書き始めてから。ゆうちゃんとの雑談の中だ。
「もこっちすごいね! 小説まで書いちゃうなんて」
お互いの生活が落ち着いてから久々に顔を合わせたカフェでのやり取り。いつもの通り彼女は私のことを手放しに褒めてくれた。
「まぁ昔から本は読んでたからね」
「私には難しいかもしれないけど、頑張って読んで応援するからね!」
人懐っこい笑顔でアイスコーヒーのストローを咥えるゆうちゃんは、でも…と顔を曇らせた。
「ネットで何かアップするのって怖くない? こみちゃんもひどいことされたって言ってたよ」
「こみさんが? 自撮り上げてボロクソ言われたりしたの?」
ゆうちゃんはグラスをコースターに置いて、下唇に指を添えながら唸る。
「詳しくは聞いてもわかんなかったけど…作ったものを馬鹿にされたんだって。ボカロ? の、音声付きで」
指を滑らせガチャリ、とソーサーにカップが当たった。
不意に浴びせられた言葉で、脳の奥底にしまい込んでいた痴態が掘り起こされる。
じゃあもしかするとあの時送った相手は…いや、だとしても私はそれを知ってどうする?
混乱する脳内ではそんな自問が繰り返される。しかし、脳が答えを出す前に口のほうが自然と動いていた。
震える手でガラステーブルにソーサーを置くと、一つ呼吸を置いてからゆうちゃんへの問いを絞り出す。
「ゆうちゃんさ…その、こみさんっていつ頃の話なの?」
「うん? 私が聞いたのは去年だけど、2年生の頃だって言ってたよ」
ゆっくりと鍵穴を回し、袖机の一番上の引き出しを引く。その中にきっちり収まったパッケージに書かれた文字は『Simobukure』。昔買ってそれっきりになっていた、ふざけた音声を作って役目を終えたボーカロイドソフトだ。
角を引っ掛けながら引き出しから取り出す。どうして忘れていたのだろう。こうして手にするのはゆうちゃんから真実を語られた日以来だ。
そう、私が作った荒らしとも取れるファイルを送った相手はコオロギだった。
もし私がそれを知ったのが高校在学中だったら、小説を書いてなどいなければ、こんなにも心をざわつかせることもなかっただろう。
しかし私は創作活動の中で知ってしまった。顔も知らぬ相手から突きつけられる、作品に対する誹謗中傷という刃の鋭さを。
きっとアイツは傷ついただろう。もしも私がこんな馬鹿なことをしていなければ、彼女は今でも作詞を続けていたかもしれない。だが現実はそうならなかった。彼女の創作意欲は私が殺したんだ。
しかもそうとは知らず、彼女は私の小説を読んでくれている。自分の生み出したものを汚したのは私だというのに。
「…ゴメンな」
アイツのことだ。真実を知れば怒り、罵倒こそするだろうが、きっと私を許してくれるだろう。
だからこそ、私の懺悔は絶対に彼女に届いてはいけない。一人の作家を殺した私が、許されることなんてあってはならない。
パッケージを机にしまった後しっかりと鍵を閉め、ブルーライトカットの眼鏡を掛けてからキーボードに指を落とした。
例え自分が自分で許せなくても、私は創作活動を続けていく。
罪から逃げるためでも、無論それが懺悔になるからと思っているからでもない。
人を踏みにじったことも忘れて始めたこの創作活動を、自らの意思で止めることこそ最も自分勝手な行動だと思うからだ。
本当は汚れた手で作り上げるこれを、彼女にだけは読まれたくはなかった。私にはそれを読んでもらう資格も、評価される権利もないのだから。
だから今日も私は小説を書く。一人の作者を殺し、一人の読者を騙しながらも。
どこかの誰かの悪意に殺されるその日まで。