シオンの花束   作:今際 夜喪

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 ──一緒に生きましょう。生きて、ここから出て、遠くに行こう。2人でなら、何処までだって行けるわ。ねえシオン、そうでしょう?
 ──私達、絶対に生きるんだから……。

「はあっ……はあっ……」

 部屋が暗い。蛍光灯は割れてしまったのだろうか。暗い。暗いのに、そこにあるものを見間違うことができない程度には光がある。部屋の扉が開きっぱなしになっているから、廊下の明かりが入り込んでいるのだ。
 腰をぬかして荒く呼吸を繰り返す。部屋の隅っこに座りこんだままの少女の視線の先は、一色の色彩に塗り潰されていた。
 親友の真っ赤な髪が、別の赤色に汚れている。髪だけではない。全身が、べったりと。死の匂いを全身に纏いながら、親友は笑う。傷だらけの四肢を彩るのは彼女の血か、それとも。
 考えるのが怖かった。でも、怖いからといって思考から逃げることはできない。逃げてもきっと、付き纏ってくる。床にへたり込んで立ち上がれずにいるくせに、彼女の脳は妙に冷静に働いていた。

「あは……」

 笑う親友の足元。黒かったはずの床。
 研究員の胴体、血液、薬指、靴、毛髪、血液、左足首、鼻、親指、ボールペン、右腕、左手首、歯、眼鏡、血液、左脚、腸、毛髪、頭部、小指、目玉、血液、名札、血液、血液、血液血液血液血液血液……血液。が。おままごとをしたときに、散らかしっぱなしにした玩具みたいに。バラバラに。ぐちゃぐちゃに。床を埋め尽くしている。
 吐き気を催すような光景と臭い。

「ふふ、綺麗ね……こんな眺め、初めて……彼岸花畑よりも、ルビーの宝石よりも、上質な赤……ねえ、あなたもそう思うでしょお、シオン」

 親友が上擦った声で、座りこんだままの彼女の名を呼ぶ。
 シオンは顔を上げて、親友の顔を見た。歳の割に大人びて見える整った顔立ち。薄いピンク色の瞳は細められており、口角は緩く上がっている。妖艶な笑顔で、一層美しく見えた。……頬にへばりついた異質な色彩がなければ。

「…………」

 きれい?
 どこが。
 彼女は何を言っている。
 違う。彼女は。
 誰?

「あい、りす」

 名前を呼ぶ。シオンの声は錆びついていた。
 シオンの声は辛うじて届いたらしい。自らの名前を聞き届けると、夢から醒めたように目を見開いて、親友は辺りを見回した。
 恐る恐る、自分の掌を見た。
 それから体に視線を落として、やがて目を見開いたまま、ゆっくりと。サナギから羽化したばかりの蝶が、翅を開くまでの動きみたいに、ゆっくりと、此方を見る。怯えた小動物のような顔がそこにあった。
 彼女の口から溢れるのは、混濁したうわ言。

「どうしたの、シオン。どうしてそんな目でみるのシオンねえ、シオン、なんで。ねえ……ねえ、違うの、違うのよシオン、私じゃない、私はやってない、これは違うの。こんなこと、こんなこと、こんなのこんなのこんなの……!」
「アイリス……」

 彼女は震えながらも、違う、シオン、私じゃない、と繰り返している。壊れたスピーカーのようだった。
 どうすることもできないまま、シオンはそれを見つめていたが、ふと、遠くから喧騒と足音がやってくるのが聞こえた。

「……──逃げるぞ、アイリス!」

 生存本能が、とにかく逃げろと警鐘を鳴らすから、シオンは立ち上がって、アイリスの手を取った。触れた手が不自然にベタついてゾッとしたが、気にしている暇はない。
 親友は困惑していたが、それでもしっかり足を踏み出した。彼女らは逃げなければならなかった。

 2人で生きると誓ったのだから。


シオンの花束

 バーコードにされた2人の少女が、研究所から脱出した。

 追跡者の命を何度も奪って、ただ生命に縋りついた。殺さなければ自分たちが殺される。そんな状況下に置いて、もう、彼女らはただの少女ではいられなかったのだ。命が始まってから14、5年しか経っていない2人には酷なことだった。

 

 肩の上で切りそろえられた薄水色の髪の少女は、フラフラと近くの木にもたれ掛かって、座り込む。2人がいたのは山奥の研究施設だったため、その周りは当然鬱蒼とした木々が生い茂っていた。施設を飛び出したときは頭の上にあった太陽が完全に沈み、辺りは暗くなっていた。結構長い間走り回った筈だが、森を抜けてないということは、まだ追手がいてもおかしくない。頭でわかっていても、彼女らにこれ以上逃げ回る体力は残っていなかった。

 薄水色の髪の少女──シオンは、未だにべたつく右手を見つめて、深く息を吐いた。酸化してどす黒く変色していても、その鉄臭さで正体を理解してしまう。血だ。

 シオンがバーコードにされてから手に入れた能力は〈ミョルニル〉という、電撃を操る能力だったため、返り血を浴びる事は無い。だから、“あのとき”付着したものだろう。親友の手を引いたとき。

 

「……アイリス、その、大丈夫か?」

 

 できることなら、彼女から目を逸らしたかったが、そういうわけにも行かないため、シオンは共に逃亡した親友のアイリスに声をかける。

 ずっと座りこんで俯いたままだった彼女は、名前を呼ばれるとビクリと肩を震わせた。

 見事な紅色の長髪には、所々返り血がこびり付いている。右耳の少し上辺りに結ばれた紫色のリボンには、血の汚れが見当たらない。アイリスが以前「お母様から頂いたものよ」と嬉しそうに見せてくれたものだったため、シオンは少しだけ安堵する。彼女の思い出までもが汚れてしまわなくて良かった、と。アイリスの体は切り傷だらけで、返り血なのか自らの出血なのかわからないくらい全身が血塗れになっているのを見ると、何も良いことなんて無いのだが。

 

 顔を上げたアイリスの薄ピンクの中には、怯えの色が伺えた。不安げに視線を彷徨わせて、シオンと目を合わせることを躊躇している。きっと、自分自身に怯えているのだろう、とシオンは思った。シオンだって、アイリスのことが怖かったから。

 

 研究施設から逃亡することになった切っ掛けは、アイリスが突然、人が変わったように狂い始めたことだった。

 

『あははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははッ』

 

 聞いたこともない、醜悪な高笑い。振り乱す紅色の髪と、研究員の千切れた肉片やら迸る鮮血が入り交じる、おぞましい光景。アイリスが手をかざすだけで、目に見えない斬撃が発生した。シオンは信じたくなくて、頭を振って否定し続けたが、誰がどう見たって、無邪気に笑う少女を中心に、周りのものが切断されていくのを見て、犯人が彼女以外にいるだなんて考えられない。なにも否定できなかった。アイリスが笑ってヒトを殺した事実が、無慈悲にもそこに横たわっている。……それだけだった。

 斬撃を発動する能力〈アイソレイト〉で、一心不乱に、心ゆくままに、切る。切り刻む。アイリスは自分の身体さえ傷つけているのに、気にも止めず。バーコードになると治癒力や身体能力が上がるため、既に傷は塞がり始めており、アイリスの着ている服だけが、自分の出血と誰かの返り血を染み込ませながらぼろぼろになっていた。

 

 バーコードにも種類がある、というのは研究施設で軽く説明を聞いたため知っていた。

 シオンは自分の服の襟元を軽く引っ張って、心臓の辺りを確認する。控えめな胸元に刻まれた深い青のバーコード。群青バーコードと言うらしい。正常で、特に問題のない成功品の色だという。〈能力〉が有能であれば、将来的にバーコード殲滅特殊部隊に入隊させられることもある、と聞いたことがあった。

 

「アイリス……自分のバーコードの色、わかるか?」

 

 シオンの質問に、アイリスは泣き出しそうな顔で震える。震えながらも、ボロボロの服の上から、心臓のあたりをきゅっと握りしめた。かくん、と確かに頷く。それから、軽く襟元をつまんで下に引く。シオンと対を成すような色。彼女の髪と同じ色のバーコードが。紅蓮バーコードがそこにあった。

 互いにわかっていた。ヒトが変わったように殺戮衝動に駆られて、なりふり構わず殺してしまう残虐性。その特徴は紅蓮バーコードそのものだったから。彼女は、もう普通の人間ではない。生ける殺戮兵器だ。

 そうなってしまった彼女に、シオンはなんと言葉をかければいいかわからなくて、遣る瀬無い気持ちで項垂れる。

 紅蓮バーコードの存在は危険だから、普通なら生まれた瞬間に処分される。危険性が少ない〈能力〉を持った紅蓮バーコードなら、生かされて有効利用されることもある、なんて話も聞くが、やはり殆どの場合殺処分だ。如何なる〈能力〉を持っていたとしても、殺人衝動の凶暴性が厄介なのだ。

 

 不意にアイリスが立ち上がった。足取りは不自然なくらい安定している。シオンがどうした、と訊ねながら顔を上げた瞬間、空気の裂ける音を聞いた。

 

「は?」

 

 左耳がブワッと熱くなる。痛み。アイリスが右手をかざしていて、それでやっと、シオンの脳内に恐怖が雪崩込んでくる。

 咄嗟に右手で地面を押して、立ち上がろうとした。刹那、右腕を裂く痛みで、バランスを崩して地面に転がった。

 不味い。傷の深さを確認するとか、痛みに呻くとか、アイリスに怒鳴りつけるとかよりも先に、何よりも先に、空いている方の左手で地面を押して転がる。先程までいたところに亀裂が入って土煙が舞う。すぐに体制を立て直して、地面を蹴る。少しだけ遅れた右脚に鋭い痛みが走る。

 殺される。殺される!

 

「……ッアイリス!」

 

 彼女に伸ばした掌が裂ける。痛みと恐怖で涙が滲んだ。

 親友なのに。アイリスが、〈能力〉で自分を傷つけている。そこには表情さえなかった。ただ、切り付ける。アイリスの視界には、切り刻みたい肉がある。それだけだった。

 

「痛いよアイリスッ、やめて、痛い……!」

 

 怖い。恐い。痛い。死にたくない。

 シオンは震える声でアイリスを呼んだ。殺されてしまう。こわい。嫌だ。アイリスには殺されたくない、その一心で。

 

「シオ、ん」

 

 次の斬撃が裂いたのは、アイリスの右の太腿だった。傷が深かったのか、勢い良く血が迸る。

 

「痛、うう、ううううううう、嫌、嫌だ! ああああああああああ!」

 

 アイリスがけたたましく声を上げ、次の斬撃は、彼女の左二の腕を切り裂く。

 

「痛い、痛いよ、嫌、嫌ぁ……ああ……」

 

 ようやくアイリスが止まる。彼女は自分の身体を抱き締めるようにしてその場に崩れ落ちると、蹲ってしまった。

 その様子を、シオンは肩で息を繰り返しながら呆然と眺めた。

 ──今、確かに殺されかけたんだ。

 自覚すると、身体の底から恐怖が溢れかえって、泣きだしてしまいそうになる。

 

「どうしよう、私、今シオンのことッ……」

「アイリス……」

 

 泣き出した親友を抱き締めて、慰めたかった。そのくせ足は動かない。近寄るのが怖いと思っている自分がいる。

 嗚咽を零しながら何度もごめんなさいを言う親友を、シオンは黙って見つめることしかできなかった。

 

 ──それでも、私達2人で生きられるの?

 誰も答えてはくれない。

 

「ねえ……シオン、私、私、ごめんなさい……」

 

 蹲って、可哀想なくらいに震えるアイリス。シオンだって震えていた。親友に殺されそうになった。その事実が恐ろしくて仕方がない。

 でもきっと、2人して折れている場合ではない。シオンは掌を強く握り締めて、力強く声にした。

 

「大丈夫。生きるぞ、アイリス」

 

 ──アタシ達、生き抜いてみせるんだ。

 

 

***

 

 

 シオンはその日、夢を見た。何処かの川辺で、シオンとアイリス、2人で手を繋いで、笑っていた。ただそれだけのことが途方も無く幸せだと感じた。叶わない事を知ってしまったから。この手の温もりも。親友の笑顔も。幻だ。咄嗟に夢であると気が付いてしまえるほどに、シオンは現実を理解していた。

 理解していた。していたのに。目が覚めてから起こったことを、脳が上手く処理できなかった。

 

 まず、アイリスが何処にもいなかった。

 

「なんで……アイリス」

 

 胸がざわつく。そもそも、いつの間に眠ってしまったのだろう。そうか、逃げ疲れて、泣き疲れて、そのまま。

 シオンは慌てて辺りを見回したが、人影は何処にもない。耳を澄ませても、木々の葉が擦れる音がするだけで、人の気配もまるでない。不安に押しつぶされてしまいそうになる。

 何かないか。シオンは必死で目を凝らして、ようやく手ががりを見つける。土に混ざった、血の跡を。それが、等間隔に地面に付着していたのだ。

 

「……はやく」

 

 ──はやく、見つけなきゃ。

 シオンは血の跡を辿って駆け出した。

 道中で、切り刻まれたウサギの死骸を見つけて、ゾッとして足が竦んだが、やはりアイリスはコチラに向かったのだと確信することができた。

 進んでゆくと、山を抜けて、民家が見えてきた。もう目印の血痕は見当たらなかったが、道なりに進んだ結果ここに辿り着いたため、おそらくアイリスはこの先にいる。

 だが、やけに静かだった。

 嫌な予感がする。最初に見えた小さな赤い屋根の家のドアが半開きになっているのを目にしたとき、シオンの中の不安が形を持って、胃の中でドロドロと渦巻いていく感じがした。

 臭いがした。最早馴染み深いものになってしまった、鉄錆の臭いが。村の至るところから。

 シオンに、家を覗く勇気はなくて、見ないふりをしながら進んで行って、そして。

 

 その先に、親友はいた。

 

「あはははははははははははははははははははは! ははははははははははははははははははははは!」

 

 耳を劈くような高笑い。なによりも醜悪で、なによりも美しい、生命を司る赤に塗れて。

 

「アイリス……やめてくれよ」

 

 ……壊れていく。生きながらに、内側が崩壊していく。理性が失われてゆく。殺すだけ。全部、全部、全部。殺すだけの、機械のように。親友が、少しずつおかしくなっていくのを、シオンは傍観するしかなかった。

 その光景を、シオンは直視することができなかった。ヒトが死んでいる。それはわかった。何人分の死体があればこの眺めは完成するのだろう。切り刻まれたバラバラの人間の体が、沢山転がっている。

 アイリスを止めなければ。覚束ない足取りで近寄っていって、何かを踏み付けた。足の裏で生暖かい何かがゴリ、と音を立てて、ベタつく液体が染み出す。肌が粟立つ。気持ち悪い。

 親友が笑顔のままシオンを見た。素敵ねえ、綺麗ねえと、恍惚とした表情のまま可愛らしく笑う。彼女は片手になにか白くて細長いものを持っている。今も尚、血液を滴らせるそれは、人間の体の一部で。

 ……なんでこうなっちゃったんだろう。

 シオンは競り上がる胃液を抑えながら、親友にゆっくりと近寄っていった。

 

 

***

 

 

 アイリスを止めようとして、シオンはまた体にいくつかの切り傷を作った。親友から与えられる痛みが、現実を突きつけてくる。シオンはその度に、体にできた切り傷以上に胸を痛ませていた。

 死体も血の跡も見ないように、村の隅っこで2人、蹲っていた。村の何処にいたって、血の臭いはしたけれど。現物を目にしなければ、多少は落ち着いていられた。

 

「……私、あの時あなたの手を取らなければよかったわ」

 

 ようやく落ち着いて、俯いていたアイリスが、不意に口を開いた。シオンは顔は上げずに、黙って耳を傾ける。

 

「私の弱さがそうさせたの。……生きたかった。でも、私は、周りを傷付けてしまうだけだから。傷付けて、傷付けて、傷付いて」

 

 泣きだしてしまいそうに、声は掠れていた。けれど、アイリスは笑っていた。自虐的な笑みで、虚空を見つめている。歪んだ笑顔が、一層痛々しかった。

 

「何で。縋っちゃったんだろう」

「…………」

 

 押し殺すような声の中に滲んだ後悔を、シオンは黙って聞き流した。

 返す言葉が、わからなかったから。

 シオンはアイリスと同じように、自分を抱き締めるような形で座りこんだまま、唇を噛み締めた。

 ねえ、シオン。囁くようなか細い声で、親友に名前を呼ばれた。シオンは視線だけアイリスの方に向ける。親友はシオンの方を見ていたけれど、その視線は何処に向けられているのか、よくわからない。虚ろで、何処か疲れたような目をしていた。

 そうして、疲れきった声のまま、言葉が紡がれる。

 恐れていた台詞が。

 

「──私のこと、殺してよ」

「ッふざけんな!!」

 

 シオンは弾かれたように顔を上げて、立ち上がった。脚も声も、全身が震えているのがわかる。歯を食いしばって、拳を更に強く握り締めた。そうしないと、涙を堪えきれなそうだったから。

 アイリスは少しだけ驚いたような顔をしていた。力の無い目でシオンをぼんやりと眺めながら、彼女は何を思っただろう。

 アイリスはこの先も、ずっと、誰かを殺し続けることになるだろう。笑いながら、紅蓮に呑まれて、楽しげに。次に殺すのは誰になるか。いつか、シオンさえも切り刻んでしまうかもしれない。それだけは怖かった。シオンだってそれは怖かったけれど。

 

 ──それでも、アイリスに生きてほしい。

 

 だから、“殺して”という親友の願いに、激しい怒りと恐怖と悲しみが綯交ぜになって、シオンの胸の中に、自分でもよくわからない感情が渦巻いていた。ただ、どうしようもなく、苦しい。

 

「大丈夫、だから……。絶対に、大丈夫だから、アタシがどうにかしてみせるから! もう、二度とそんなこと言わないで……お願いだ」

 

 両目に涙を溜めたまま、親友の目を見て、シオンは懇願する。

 

「うん……ごめんね」

 

 それに対して、視線を虚空に彷徨わせたまま、アイリスは謝罪をした。

 ──どうにかって、どうするんだよ。

 シオンは迷子になった子供のような気分だった。

 

 

***

 

 

 それから3回、昇る太陽を見ただろうか。

 アイリスの殺戮は続いた。人形か廃人のように座りこんでいたかと思うと、急に立ち上がって、フラフラと何かを求めて歩きだし、命あるものを見つけては〈アイソレイト〉で切り刻んで、あの醜悪な高笑いを響かせる。彼女の通ったあとには、バラバラの肉片しか残らない。

 そうして殺しては、急に我に帰って、アイリスは自分のした事に絶望して泣き叫んで、自分を傷付けて、胃液を吐き出して、また、人形か廃人のように動かなくなる。

 

 “私のこと、殺してよ”

 

 脳内で反響する。その台詞。

 見ていられなかった。シオンは、もういっそアイリスを殺してやったほうが楽になるのではないかと、考えもした。考えて、考えて、段々恐くなってきて、結局何も行動できないままでいた。

 親友を失いたくないから。死んでほしくないから。生きてほしいから。全部、シオンのための我儘だ。本気でアイリスのことを考えて行動するなら、もう答えは出ていたのに。シオンはそこから逃げ出していた。

 

「アイリス……」

 

 散々殺しまわって、木にもたれ掛かってじっとしていたアイリスに声をかけた。

 そのとき、シオンは初めて、虚空に彷徨わせていると思っていたアイリスの視線の先を知った。それから、絶望した。

 最近ずっと、何処を見ているかわからなかった彼女は、シオンの肌に無数に付けられた傷口を見ていたのだ。血を、無意識のうちに目で追っている。それに気が付くと、シオンの中で何かが音を立てて崩折れていく。

 ──もう、駄目なんだ。アイリスは帰ってこない。

 シオンの両目から、ボロボロと涙が溢れる。

 

「やだよ……アタシたち、生きるって。言ったじゃん……」

「…………」

「なんか、言ってくれよアイリス」

「…………」

「ねぇ……」

「…………」

 

 シオンは、ふらつく足取りでアイリスに近づいて行って、彼女の隣に立った。今まで自分が傷付けられることが怖くて、距離を置いていたのに。人形のように座りこんで動かない、アイリス。シオンがゆっくりと屈むと、視線がアイリスと同じ高さにくる。のに、目は合わない。彼女が見ているのはシオンの体に無数に付けられた傷であり、シオンが見ていたのは、アイリスの首元だったから。

 シオンは、アイリスの首を両手で覆った。久々に触れた彼女の体温は暖かくて。アイリスはいつも暖かったな、なんて、思う。

 

「シオン?」

 

 アイリスの視線がようやくシオンの顔に向けられる。シオンは両手の指先に思い切り力を込めた。掌に脈動が伝わってくる。視線が怖くて、息ができないのはアイリスの筈なのに、シオンの息も止まってしまったように錯覚する。

 アイリスは少しだけ驚いたような目をしていたけれど、抵抗するわけでも、〈アイソレイト〉を使うわけでもなく。

 

 ただ、寂しそうに微笑んだ。

 それを見たら、もう駄目だった。

 

「……っ、でき、ない……!」

 

 震える指先から、力は抜けていく。明確な殺意は、急速に萎んでゆく。遂にシオンは手を離してしまった。

 涙を溢れさせながら、何度も首を振る。できるはずがなかった。親友の命を奪うなんて。

 アイリスは、尚も微笑んだまま、シオンの体に残る傷口を見ていた。

 

 

***

 

 

 どれだけ切実に願っても、祈りは届かない。だって、神様なんていないから。

 次の日もやっぱりアイリスはフラフラと何処かを目指して歩き始めた。新しい獲物を求めて。シオンは力無くその後を追いかける。その矛先が自分に向かないことに、微かな安堵を覚えながら。

 

 アイリスの行く先には民家が見えた。嫌な予感がしたが、どうやらそこは廃村らしく、ヒトの気配は無い。アイリスは誰も殺さずに済む。親友がヒトを殺す姿を見ずに済むかもとシオンは胸を撫で下ろした。

 それでもアイリスはキョロキョロと辺りを見回す。その表情には微かに笑みが浮かべられていて、薄ピンクの瞳はギラギラと不気味な光を湛えている。大丈夫、此処には誰もいないから。

 そうやって、自分に言い聞かせた途端、ギイ、と何かの物音を聞いた。ひとりでに民家のドアが開かれた。違う。中から少女が出てきたのだ。

 なんで。そう思うよりも先に、アイリスは口角を不自然なほど吊り上げて、嗤う。

 後は、あっという間だった。

 

 接近していったアイリスが手を翳すだけで、少女の薄い胸に亀裂が入って、切断された腕が地面に落ちて、喉が捌かれて、両足にも切り込みが入る。一気に辺りに濃い鉄錆の臭いが広まった。少女が驚きに声を上げる暇さえなかった。勢い良く真っ赤な血飛沫を上げながら、膝を付いて、ズルリと背後に倒れる。まだ生きているのか、残った手足が陸に打ち上げられた魚のように跳ねたが、それさえもアイリスの〈アイソレイト〉が切断する。やがて血溜まりはゆっくりと広がっていって、そこに沈む少女は動かなくなった。

 

「ふふっ」

 

 彼女が息絶えたのを見届けると、アイリスは後は興味もなさそうに踵を返して、またフラフラと歩き出す。作業でもするみたいに、ヒトの命を奪った。

 命なんかどうでもいい。ただ、肉を割くことができればそれでいい。そういうことなのだろうか。

 シオンは転がった遺体を見ないようにして、再びアイリスを追いかける。いつの間にか、目の前でヒトの体がバラバラに捌かれる様子に慣れている自分がいた。アイリスは冷酷で非道な殺人兵器だが、それを傍観するシオンも同罪だ。

 シオンは肩を落とす。あいつ、今日は何人殺すのかな。何だか他人事みたいにそんなことを考えた。アレは、アイリスの見た目をした兵器で、アイリスじゃない。そうやって思い込んで逃避して。シオンは疲れきった目でアイリスの背中を眺めた。

 

 廃村だから人間はいない。そう考えたシオンの思考自体は正しかった。人間でない者が潜んでいる可能性なんてシオン達は知らなかった。

 アイリスの行く先に、異形の腕の男と、傷だらけの少年の姿があった。

 なんで、廃村なのにこんなにヒトがいるんだ。一瞬シオンの脳裏に疑問が浮かんだが、男の腕を見れば直ぐに悟ることとなる。人間じゃない。自分たちと同族だ。バーコード、なのだろう。

 男はアイリスと同じような目をしていた。ギラギラと君の悪い光を湛えた紫の瞳で、少年とアイリスとシオンを見比べて、それから裂けてしまいそうなほど口を開けて、笑いだした。

 

「楽しい楽しい楽しいいいいいい!! ボクのためにこおんなにヒトが集まってくれてええええ嬉しーよおおおおあはははは」

 

 甲高い声で喚くあの男も、紅蓮バーコードか。異形の腕──両肩から先が、鞭のようにしなやかに伸びているが、その材質はギザギザと鋭利に波打つ刃物になっている。それが蛇か百足の如く蠢いていて、刃先の所々に赤黒くべたつく汚れがこびり着いているから、既に誰かを傷付けた後なのだろう。

 男と対峙していた少年は、柄まで黒一色のナイフを逆手に持って、アイリスとシオンを睨みつけていた。その顔には左目の上から鼻筋を通って、右頬まで続く痛々しい縫合痕があった。顔以外にも、体の至るところに継ぎ接ぎの跡がある上に、紅蓮バーコードの男につけられたのか、肘やら膝に今も尚鮮血を滲ませる傷を沢山残していた。

 突然男が笑顔のまま、体の向きを少年からアイリスの方に向けて、右腕の刃物を振り被る。波打った刃先が空を切って、彼女に迫る。

 

「アイリス!」

 

 シオンは咄嗟に右手を伸ばした。掌から青白い閃光が迸って、バチバチと唸りながら、男の伸ばした右腕にぶつかって、押し負けた男の腕が明後日の方向に弾き飛ばされた。シオンは〈ミョルニル〉を、研究施設から逃亡したとき以外使ってないため、若干コントロールに不安があったが、アイリスに当たらずにすんで、ほっとした。

 

「おおおおおぅお前らもバーコードか! いいねぇいいねぇ無抵抗な人間殺すのにも飽きてきたとこなんっ、」

 

 喋っている途中に男が素早く左手をしならせた。金属と金属のぶつかり合う甲高い音が鳴って、黒いナイフが地面に突き刺さる。どうやら少年が投擲したものを弾いたらしい。

 男は少年に顔だけ向けると、また口が裂けそうなほど口角を吊り上げて、甲高い声で喋りだす。

 

「3対1かあああコレはボクピンチかもしれなあああいめっちゃ楽しいいいボク悪役に囲まれる英雄みたいでカッコイイなあああ……あ?」

 

 その行動に、アイリスを除いた全員が目を剥いただろう。彼女は突然、男に向かって距離を詰めて行ったのだ。迷いの無い足取りで、軽やかに。男の腕の届く範囲に踏み込んで行く。

 

「むっ、何だ何だ何だそんなニコニコしながらこっち来るなあああッ怖いよおおお」

 

 男が両腕をアイリス目掛けてしならせたため、シオンは慌てて電撃を放とうとしたが、それよりも先に優雅な動きでアイリスが右手を振ると、金属音と火花が迸って、男の両腕が弾かれる。

 

「うふふ、ごきげんよう。私はアイリスと申します。ねえ、あなたのお名前を聞かせて下さらない?」

 

 アイリスが紅蓮バーコードになる前は、いいとこのお嬢様だったらしく、その育ちの良さを彷彿とさせる口調で、彼女は優しく男に語りかける。でも、歩みを止めることはない。男が顔を引き攣らせて、再び刃物の腕をしならせるが、アイリスはやはり、それをいとも簡単に弾き飛ばす。男とアイリスの距離が縮んでゆく。

 

「ねえ、教えて下さらないの? 私、知りたいの。それから、できればあなたとお友達になりたいわ」

「やめろよ来るなよお、お前頭おかしいのかよおおお!」

 

 何度も、何度も、何度も。男は刃物をアイリス目掛けて振り被るのに、その全てを〈アイソレイト〉で正確に弾き飛ばす。思わず見惚れるほど優雅に。そうして、アイリスはついに男の眼前にまで距離を詰めた。

 男は目を見開いてアイリスの顔を見ている。時間が凍ってしまったような、一瞬。

 アイリスの深い溜め息が聞こえて、彼女は右手の人差し指でつ、と男の腹の辺りをなぞった。

 

「……残念。私、お友達の内臓ってどんな感じなのか、知りたかっただけなのに」

「ああああああああああああああああああああああああああああああああああッ」

 

 耳を劈くような断末魔が響き渡る。男の腹が大きく裂けて、口元からごぷ、と鮮血が溢れ出した。アイリスは笑いながら男の腹の断面に腕を突っ込んで、中身を掴むと、ソレを引きずり出した。聞いたこともないような、醜悪な音がする。シオンは目を塞いでしまいたいのに、思うように動けなかった。

 男が脱力して、地面に崩れ落ちる。倒れた男の腹から伸びた細長い臓器を引き裂いて、アイリスがうっとりと口元を緩めた。

 

「あはっ、素敵! 素敵ねえ! うふふっ、あははっ」

 

 しばらくアイリスは、腹からソレを引き出しては裂いて、バラバラに細かくなっていく様子を見ては嬉しそうに笑っていた。

 

 不意に、アイリスが首の角度を変える。顔を顰めながらアイリスの様子を呆然と見守っていた少年の方を見たのだ。

 彼女が少年に微笑みかける。淑やかに、慎ましく。

 少年は咄嗟に身の危険を察知してアイリスに背を向けたが、逃げ出すにはあまりにも遅すぎた。〈アイソレイト〉の斬撃が、少年の右足首を傷付けて、短い悲鳴と共に彼は地面に転がった。立ち上がろうと地面に右手を付くと、その右腕が大きく裂けて、血飛沫が上がる。少年が断末魔を上げながら地面の上で藻掻いている。アイリスはそれを見て、クスクスと笑いながら少年に接近して行く。

 

「ねえ、あなたのお名前はなあに?」

 

 少年の背中を見下ろしながら、アイリスは問う。無事な左手で体を起こしながら、彼はアイリスの顔を睨みつけて、掠れた声で吐き捨てるように言った。

 

「誰が、お前なんか、にッ」

「そう。残念だわ」

 

 少年の背中から脇腹にかけて、大きな亀裂が入る。彼は吐血しながらも、しばらく苦しそうに血走った目でアイリスを睨みつけていたが、やがて力無く目を閉じて、ぐったりと横たわったまま、動かなくなった。

 シオンはやるせない気持ちのままそれをぼんやり傍観していたが、アイリスの視線が今度は自分に向けられているのに気が付いて、全身が粟立った。

 

「お友達の、臓器。そっか、あなたがいたわねええシオン」

 

 可愛らしく首を傾ける。その拍子に彼女の紅色の長髪がふわりと揺れる。1歩、2歩と、ゆったりとした足取りでアイリスがシオンに歩み寄ってきた。恐怖にすくみあがって、シオンは思うように動けなかった。

 

「嫌! こ、来ないでっ」

 

 シオンが怯えて引き攣った喉から金切り声を上げると、無意識に放った電撃が、アイリスの足元に迸る。幸い、彼女には当たらなかったようだった。

 その一撃で我に帰ったアイリスが、青ざめた表情でゆっくりと辺りを見回した。それから、口元を押さえて力無くその場に膝を付いた。

 

「あ……アイリ、」

「来ないでッ!!」

 

 今度はアイリスがそれを口にする番だった。けれど、シオンの叫んだそれよりも掠れて、擦り切れて、ずっと悲痛に響いた。

 彼女の薄ピンクの瞳が潤んでいって、大粒の涙がボロボロと頬を伝っては、地面に吸い込まれて行く。シオンはそれを、呆然と眺めていた。

 

「なんでよ、なんでなの!? 私、誰も殺したくなんかないのに! シオンのことも……なのに今、殺したら、楽しそうだって、切り刻みたいって、思った。心の底から思ったの。シオンを殺してみたいって、凄く」

「……、……」

「もう、嫌。死んじゃいたい……」

 

 シオンはぐっと唇を噛み締めた。親友がこんなに苦しんでいるのに、自分は何も行動できない。

 僅かに動かした右手を、恐怖が引き止める。〈ミョルニル〉を使えば、きっと一瞬で。本当に一瞬でできてしまうことを、シオンは拒んだ。できるわけが無かった。

 ごめん。アイリスには聞こえないように口にして、シオンは項垂れた。足元では、忘れられたように咲いた二輪の花が、萎れていた。

 

 しばらく泣き続けていたアイリスが、またふらりと立ち上がったので、反射的にシオンは肩を強張らせた。けれど、その目にはあの狂気的な光は無く、ただ泣き腫らして少し充血し、疲れきった目元があるだけ。

 アイリスは血に汚れた両手を見つめて、溜息をついたあと、ふらりと近くにあった民家の中に入って行った。研究施設で適当に着せられていた服も、〈アイソレイト〉で引き裂いたり、返り血を浴びてボロボロになっていたから、代わりのものを探しに入ったのだろう。廃村だから、あまりマシなものは無さそうだが。

 残されたシオンは、アイリスが殺したら紅蓮バーコードの男と少年の死体を一瞥して、息を呑んだ。

 

 先程背中から脇腹を引き裂かれたはずの少年が、五体満足でその場に座っていたのだ。

 

「え……」

 

 思わず声が漏れて、少年と目が合う。シオンも目付きは良くなかったが、それ以上に鋭いエメラルドグリーンの瞳が、こちらをじっと見ていた。

 シオンは覚束無い足取りで少年に近付いて行って、震えた声で生きてる? と問う。

 少年は少し言いづらそうに口を開閉させたあとに、立ち上がりながら言った。

 

「君に生きてるように見えるなら、そうなんじゃない?」

 

 どうしてか。生きているヒトの姿に安心したのか、アイリスが少年を死なせたわけではなかったことに安心したのか。兎に角、急に雪崩れこんできた安堵感にシオンは涙を零して、少年を抱き締めていた。

 

「よかった、よかったぁ……!」

「な、なに、離れてよ……」

 

 少年は戸惑い、シオンを引き剥がそうとしたが、その泣き顔をしばらく見つめていたらそんな気も失せて、代わりに呆れたように溜息をついた。

 

「君ね。僕みたいな得体の知れないバーコードに抱き着くとか、危機感無さすぎでしょ。死にたいの? 僕がナイフ持ってるの、さっき見たでしょう?」

 

 そう言われて、ようやくシオンは少年を軽く突き飛ばすような形で離れた。先程の黒いナイフが自分の胸元に刺さってはいないか、確認する。勿論、そんなことは無かったので、シオンは安堵した。

 

「……あれ、紅蓮バーコードでしょう?」

 

 少年が静かな声で訊ねてくる。あれ、とはアイリスのことだろう。シオンは表情を翳らせて小さく頷き、ポツポツと話し始めた。

 

「アイリスは……アタシの親友だ。一緒に施設を逃げてきて、その、アタシは群青バーコードなんだけど、あいつだけ紅蓮で。今までにも沢山、沢山殺してきて……アタシのことも何度か殺しそうになったし、これからも、こんな感じでアイリスは、誰かを殺し続けるんだ。アタシ、どうしたらいいか、わかんなくて」

 

 もうきっと、誰でもいいから縋り付きたかったのだ。見ず知らずの少年でも。アイリスが傷付けた、死にそびれの少年でも。だから、シオンは全て話した。それを彼は黙って聞いていてくれた。

 聞いたあとも、少年はしばらく黙っていた。

 彼は少し息を吐いてから、項垂れるシオンを見つめて、冷たい声で言い放つ。

 

「だったら、殺してやりなよ」

「駄目だ!!」

 

 シオンは弾かれたように顔を上げて、声を荒げた。少年は尚も冷たい目をしている。氷柱か何かで、心臓を抉られているような気分になる。シオンは地面を睨みつけて、掌を強く握り締めた。絞り出すようにして口にする声は、掠れて。

 

「……わかってるよ。アイリスが一番苦しんでるよ。アイツは優しいから。誰かの命を奪いながら生きるなんて、とてもできない……。アタシの事も何度も殺しそうになって、そのたびに自分を傷付けてまで必死に自分を抑えて。いつもいつも、傷だらけになってさ。もう、見てらんないよ」

 

 アイリスが痛みに耐えながら、自分の身体を〈アイソレイト〉で切り付けて、涙を零す姿はもう、見たくなかった。

 少年の放つ声は、相変わらず鋭利で冷え切っていた。

 

「だったら、殺してやるのが彼女のためになるでしょ?」

「そんな、訳……だって、アタシたちは……一緒に生きるんだ……約束したんだ」

「殺したくない。死んでほしくない。生きてほしい。そんなこと思ってるなら、それは全部君のエゴだよ。彼女はさっき“死にたい”って言ったんだから」

 

 シオンは大きく息を吸い込む。肺を満たす酸素が、何故か痛みを伴う。

 少年の声は冷たく聞こえたけれど、確かにその通りで。だから、シオンは苦しくなる。

 沈黙が続いた。

 遠くから土を踏む音が近付いてくるのが聞こえて、シオンはアイリスが近づいて来てるのだと直ぐに気が付いた。

 

「……僕は、殺せる」

「やめてッ! アイリスに手を出すな!」

 

 少年の言葉は、なんのために放たれたものだったか。シオンはそれを考えるよりも先に叫んでいた。

 少年の視線は、シオンの背後にいるアイリスに向けられていた。

 

「あなた、お名前は?」

 

 さっき、紅蓮に呑まれて吐いた声とは違う。落ち着いた口調でアイリスが問う。少年もまた、同じような声色で名乗る。

 

「僕はジン。僕なら君の望みを、叶えてあげられるよ」

 

 シオンは振り返って、アイリスを見た。

 ──どうして、そんなに安心したような目をするんだよ。

 彼女の瞳の中の、覚悟を見てしまった。目を逸らしたって、どうしようもないことを知っているから、シオンはまた、泣いてしまいそうになる。

 

 

***

 

 

 彼と2人で話がしたい。

 アイリスがそう告げると、シオンは何か言いたそうにしていたが、結局硬い表情のまま頷いて、2人を送り出した。

 シオンの側を離れ、先程入った民家の方へ歩いていくと、ジンと名乗った少年も、アイリスの後をしっかりと着いてきた。

 

「もう、限界なんでしょ?」

 

 長く放置されていたのか、薄汚れて所々表面の木が剥がれた扉にアイリスが手を触れたとき、ジンが声をかけてきた。

 

「わかるの、ね……」

 

 シオンに2人の会話は聞こえないだろうし、彼女のいる位置からは死角になっているため、姿も見えないから、わざわざ中に入る必要もないだろう。

 扉の表面に爪を立てて、内側でのた打ち回る衝動をどうにか抑制して、アイリスは乾いた笑みを零す。力を入れすぎた爪にヒビが入って、血が滲む。痛みは気にならなかった。扉の表面の脆い木が剥がれ落ちるのを見ていると、同じように、理性が剥離しそうになる。もう少しだけ、耐えて。アイリスは自分に言い聞かせた。

 

「僕は、何人も殺してきたから。殺して、殺されて、殺して、また殺す。そういう、役目なんだ」

 

 殺されて。ジンのその言葉に、先程の自分の行動を思い出して、吐き気と高揚感が綯交ぜになる。彼の腹を裂いた瞬間の、醜悪で鮮麗な光景が脳裏でフラッシュバックして、おかしくなりそうになる。でも、確かに殺したのにどうして彼は今、自分と言葉を交わしているのだろう。それを不思議に思うよりも先に、また殺せる楽しみに口角が上がるのは、抑えきれなかった。

 

「さっきは、ごめんなさいね、痛かったわよね」

「いいよ。どうせ死なないんだから」

 

 死なないとはどういうことか何度でも殺せるということかそれって素敵だなんて素敵なのだろう何度でも殺しても殺しても生き返るのだろうか素晴らしいこんな愉悦があっていいのか、違う。違うだろう、と。アイリスは荒い呼吸を繰り返しながら、殺意を抑制する。

 

「嫌ね……なんで、こんなふうに、殺したくなっちゃうのかしら……」

「君は悪くないよ。“僕ら”のせいで、苦しませてしまって、ごめんね」

 

 バリバリと音を立てて、扉の表面の木と、自分の爪が剥がれ落ちて、指先が甘美に香る。どうしてこうも、この色彩は美麗に映るのだろう。視線が釘付けになる。指先から滴る紅玉に、意識が揺らぐ。

 理性までもが剥がれ落ちる前に、アイリスは必死に言葉を紡ぐ。

 

「早く、殺して。生きていたら、シオンを殺して、しまう……かもしれない、から。それだけは、怖いわ」

 

 アイリスの中で、その恐怖さえも揺らぎはじめているのだ。親友を殺すなんて、引き裂くなんて、でもきっと彼女の叫び声は妖艶に空気を震わせて、この世のどんなものにも劣らぬ艶やかな旋律となるだろう。

 シオンの空色の髪色に、赤はよく映えるだろう。きっとこの世の何よりも美しい花になる。親友を咲き誇らせるのは自分であるべきだ、そうだ。そうに決まっている。

 ジンは、爪から血を滲ませるアイリスを痛々しげに見つめながら、少し大振りの黒いナイフを出現させた。一突きで楽にさせたいという、彼なりの優しさによるものだった。アイリスのことなどよく知らないが、その苦しみを想像することは容易にできた。その目で同じような光景を何度も目にしてきたから。バーコードを殺す。その役目を背負ってきたから。しかし、こうして胸を痛めることは、ジンの役目では無い。

 

「……遺言は?」

 

 遺される片割れの顔が。シオンの顔が浮かんで、ジンはそんなことを聞く。余計なお世話かもしれないが、どうしても先程泣き付いてきたシオンの顔が、ジンの脳裏に焼き付いて離れなかった。

 せめて、避けられない別れになるとしても。できるだけアイリスを丁寧に送り出してあげたい。ジンはそんなふうに考えた。

 

「……私のこと、忘れないでくれれば。それだけで、」

 

 その優しさが。甘さがいけなかった。

 ジンは、空気の裂けるような音を聞いた。

 

 遅れて自分の体を襲う苛烈な痛みに目を剥いて、地面に崩れ落ちる。

 まともに呼吸をすることもできない。右肩から、胸、腹にかけて、溶けた鉄でも流し込まれたのかと錯覚する。実際には、流し込まれたというよりは、中身が流れ出ているのだが。

 ジンのぼやけた視界に、彼女の足首が映る。直後、左肩が爆ぜるような感覚。喉の奥から声が漏れそうになるが、代わりに暖かく鉄臭い鮮血が口の中を満たして、噎せ返る。吸い込んだはずの空気が、ひゅう、と喉から抜ける音がする。ああ、そこも裂かれたのか、どうりで声が出ない訳だ。そんな思考を最後に、ジンの意識は途絶える。

 

 

***

 

 

 木の根元に蹲るようにして腰掛けていたが、突如響いたけたたましく鼓膜を揺るがす哄笑に、シオンは顔を上げる。そうして、もう何度目かも分からない絶望に打ちのめされる。ああ、どうして。シオンの問いは、誰にも届かず空気に溶けていく。

 覚束無い足取りで、親友の形をした殺戮の機械が距離を縮めてくるのを、シオンは半ば諦めたように眺めた。

 もういい。もういいから、いっそ殺してくれよ。シオンは肩を落として命の終わりを待ったが、彼女はまだ、シオンの親友を留めていた。

 シオンのすぐ目の前でアイリスは自らの肌を裂いて、蹲って、喚くように声を絞り出す。涙に邪魔をされているせいで、掠れて擦り切れて、なんとも聞き苦しい、酷い声だった。

 

「殺して。私を。殺して! ……この力が、あなたを殺してしまう前に! お願いだからっ……シオン!」

「……!」

 

 親友の嘆きを聞いて、シオンは咄嗟に右手を翳した。電流の手応えで、掌が熱を持つ。アイリスに向かって、手を伸ばす。指先が震える。アイリスの泣き顔が、シオンを見上げている。殺してやらないと。アイリスの覚悟に応えてやらないと。そう思うのに、掌で爆ぜる電撃は、線香花火の火よりも、ずっとずっと弱々しくて。

 シオンの頬を涙が伝う。

 

 

 

 

 

 やはりシオンには、親友の懇願を聞き入れることなんて、できなかった。

 

「できない、駄目だよ。アイリスを殺すなんて……。なあ、生きてよ……アタシ達、一緒に、」

 

 刹那、左の二の腕に熱が迸る。シオンが耐え難い痛みに声を漏らすと、鮮血も漏れ出した。見ると、大きく裂けた傷口から湧き水の様に血が滴っていて。一気に血の気が引く。断面から、中の構造がよく伺えた。

 もう、アイリスはいなくなった。彼女の中に微かに残された親友は、消え失せた。目の前に佇む少女は、紅蓮バーコード。殺戮の機械だ。

 

「あ、ああ、う、あい、りす……」

 

 ──なんでよ。なんで。どうして殺そうとするの。どうして死にたがるの。帰ってきてよ、アイリス。

 声は、何1つ届かないのだろう。

 シオンは痛みに耐えながらも、まだ動く右腕で彼女の肩を突き飛ばした。殺されたくないから、そのまま背中を向けて逃げ出す。でもきっと、間に合わないだろうと知りながら。

 ──それでもいいか。

 

 

 

 

 

 諦めかけながらも駆けるシオンの背後で、何度も側で聞いた、馴染みのある音がした。出血と短い悲鳴の音。命の終わりに聞こえるもの。

 

「っ、よかったぁ……これで、あなたヲ、殺さなぃで、」

 

 シオンが振り返ったときには、黒い大型のナイフが数本、背中に深々と突き刺さったアイリスが、地面に転がっていて。彼女の衣服を凄い速さで鮮血が染め上げていく。

 その背後で、ジンが呆然と立ち尽くしていた。

 信じられないというよりも、認めることを脳が拒む、光景。

 

「アイリス!!」

 

 シオンは叫びながら駆け寄って、アイリスの背に突き刺さったナイフを引き抜いた。湧き水みたいに、真っ赤な血がどんどん溢れて、断面すら見えなくなる。

 

「っ止血、止血するから、ちょっとだけ頑張れよッ」

「な……、え」

「しっかりしろよ、アタシ達生きるんだ、一緒に! 生きてさ、幸せになるんだって……あんたが言ったんだろ!? なあ……返事しろよ、アイリスッ!」

 

 急速に彼女の瞳から光が失われていく。嫌だ。嫌だ。死なないで。ねえ、神様。アイリスを連れて行かないで。お願いします、お願いします、お願いします! いくら祈ったって、絶対に届かないのに、シオンはアイリスの手を握り締めて、必死に祈る。分かっているはずなのに。神様なんかいないことくらい、ずっと前から知っていた。だけど、シオンは諦め方なんて知らなかった。

 じわじわと血溜まりが広がっていく。アイリスの出血の中に、シオンも浸っていた。温かい。彼女の生命が外に溢れ出してゆくから、彼女の体は次第に熱を失っていく。

 どうしたってアイリスが死ぬのを避けられない。それがわかってしまうから、シオンは怖くて仕方がない。

 どうしようもないまま、見守ることしかできないシオンを視界に捉えたアイリスが、微かに微笑む。

 

「たしの、なま、え……もら、……」

「は、な、名前? なんでだよ……?」

「、あな……の、中……、……わす、れ」

 

 混濁する意識の中。きっとそれは走馬灯だ。アイリスの脳裏を巡るのは、人間として暮らしていた頃の生活よりも、会って短いシオンのことばかりで。

 自分は妾の子だったから、家族にはあまり相手にされなかった。いらない子だったのだ。ずっと寂しい思いをしていた。でもシオンは、初めてアイリスを見てくれた。初めての友達だった。知らないことを沢山教えてくれた。楽しいことも、悲しいことも、一緒なら乗り越えられること。よく笑う子だった。よく怒る子だった。コロコロと万華鏡のように表情が変わって。最近は、泣いてる顔と、悲しそうな顔ばかりしていた。

 今もそうだ。ああ、笑ってほしいのに。どうしてそんなに悲しむの。

 ──シオン。どうか、

 

「嫌だっ、待ってくれよ……! なぁ、死ぬな! 生きるんだろ、2人で! 2人じゃなきゃ意味ないんだろ? やだよ、ねえ、お願い、死なないでよ! ……約束したのにっ」

 

 シオンがいくらアイリスの肩を揺さぶっても、もう一切の反応もなかった。人形みたいにカタカタ揺れるだけで、半開きの薄ピンクの瞳に、生命の光は灯らない。

 

 ──ああ。死んだんだ。アイリスは。

 

「ねえ、ひとりに、しないでよ……」

 

 アイリスの頬に透明な雫が落ちる。幾つも、幾つも落ちて。けれど、アイリスは一切反応なんてしない。

 シオンは、アイリスの薄く開いた瞼にそっと触れて、目を閉ざしてやった。もう、おやすみ。声も無く告げて。

 

 シオンはしばらく彼女の亡骸に寄り添っていたが、不意にふらりと立ち上がると、側で立ち尽くしていたジンを睨み付けた。

 

「どうして。どうしてあんな優しいやつが殺されなくちゃなんねぇんだよ!! あいつは! アイリスは誰よりも優しかった! なのにっ! なんでアイリスが……死ななきゃなんねぇんだ!」

「……ごめんね、シオン」

 

 怒りをぶつけてくるシオンの言葉を受け止めて、ジンは落ち着いた様子で黒いナイフを差し出してきた。

 

「許してとは言わない。僕は死ねない身体だから、もし僕を殺して、君の気が少しでも晴れるなら……何度でもそうしてよ」

 

 シオンは困惑してたじろいだ。急に何を言い出すのか、怒りと憎悪と戸惑いが混ざって、上手く言葉を発することもできない。

 

「……アイリスのことは、仕方なかったんだ」

 

 ジンのその言葉で、戸惑いは吹き飛び、一瞬で怒りがシオンの中を埋め尽くす。シオンはジンの胸ぐらに掴みかかって、声を荒げた。

 

「仕方ない!? んな訳あるかよ! あいつはそもそもヒトを殺せるような娘じゃなかったんだ! あんな優しいアイリスが、なんで、なんでだよ……!」

「そうだね。彼女は優しかった。だから、壊れちゃうよ。もう、壊れかけていたと思う。紅蓮バーコードは、殺人衝動から逃れられないんだよ。殺し続けることなんか、耐えられるわけない」

 

 ジンは一度言葉を切って、俯きながらも静かな声で言う。

 

「怯えていたよ。シオンを殺してしまうかもしれない。それだけは嫌だって。だから、こうするしかなかった。……ごめんね」

 

 そう言って、再び漆黒のナイフをシオンに差し出してきた。

 シオンは渡されたナイフを引っ掴んで、振り上げる。抑えきれない怒りのせいか、それ以外の理由か、刃物を握る右手は震えて、まるで自分の体の一部ではないみたいに感じられた。

 ──こいつが憎い。殺せ!!

 シオンは憎悪と憤怒に染まった双眸でジンの顔を睨みつけていたが、段々と腕の力が抜けていく。

 遂にはナイフを握っていられなくなって、カラン、と無機質な音を立てて、地面に転がった。

 

「あんたを殺したって……アイリスは、帰ってこない」

「そう、だね」

「だったら。虚しいよ、こんなの」

 

 喪失感で脚に力が入らなくなって、シオンはその場にへたり込んでしまう。それから、自然と頬を伝う涙を拭った。何度も、何度も拭うのに、さざ波のように次から次へと溢れて止まらなくて、いつの間にか嗚咽を零しながら泣いていた。

 ジンは黙ってそれを見つめていた。

 

 しばらくして、落ち着くと、シオンは俯いたまま、静かにジンに語りかける。

 

「あんたさ。アタシに恨まれて、殺されて、楽になりたかったんだろ」

 

 ジンは返事をしない。シオンは構わず続ける。

 

「殺してなんかやんない。アタシ、あんたのこと許さないから。アタシは死ぬまであんたに対する恨みを抱えながら、生きるよ。だから、あんたは毎日毎日、この日の事を悔いながら、生きろ……」

 

 憎悪と深い哀しみに沈んだ、低くて冷たい声だった。

 

「……シオン」

「違う」

 

 シオンは親友の亡骸に視線を落とした。それから、彼女の紅色の髪に結ばれた紫色のリボンを解くと、それを自分の左の二の腕に巻き付けた。

 

「アタシは──アイリスだ」

 

 彼女の真似をして、シオンは──否、アイリスは淑やかに微笑んでみて、でも直ぐに自分には似合わないだろう、と苦笑した。

 アイリスはジン、と短く彼の名を呼んだ。

 

「アタシがアイリスでいるためには、名前を呼んでくれる誰かが必要だ。そんで、あいつが、アタシを殺したくないって。生きてほしいって願ってくれた。だから、少しだけ、生きていたいんだ」

 

 アイリスは先程地面に落とした黒いナイフを拾い上げると、それをジンに突き付けて、言い放つ。

 

「ジン。いつか、お前の手で。アタシをアイリスに会わせてくれよ」

 

 死んだヒトに会う方法なんて存在しない。だからこそその言葉は、覚悟と悲哀の色彩を孕んで、空気を震わせる。

 

「わかったよ。アイリス」

 

 それを承諾することで、ジンは結局は許されたかったのかもしれない。許されないのを理解しながらも。

 

 親友を殺した相手との、歪んだ約束と共に。アイリスは生きる。




***
花束というのは、一輪では成り立たないものです。でも、一輪で無いのなら。二本以上揃えば花束と呼べますね。
また、“約束”という言葉にも束が含まれますね。それがタイトルの由来です。

ジンとアイリスがタンザナイトの仲間達に出会うよりも前の話。本編の2年くらい前です。
思いやり合うっていうのは、何処かで互いを傷つけ合うことなんじゃないかなーとか考えながら書いてました。
シオンにとってアイリスがもっとどうでもいい存在なら、あのとき殺してやることができたかもしれなかったわけですし。大切に思うから殺せなくて、でも、殺すことでしかアイリスを救う方法は無くて。……何処かで2人がただ笑って過ごせるだけの世界線とかあったら良かったのにね。


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