外では誰にも明かしていないことだが、パウル・フォン・オーベルシュタイン軍務尚書の趣味は小説の執筆である。
子供時代から隠れてこっそり書いており、今ではかなりの量になっていた。
ジャンルはその時の気分で変えているため、恋愛ものからSFまで様々だ。
自分の達成感のために製本して自邸の書庫に収めてあるが、誰にも見せることは考えておらず、自分が死んだら処分するように遺言もしたためてあった。
だが魔が差したとでも言うのだろうか。
誰かに読んでもらいたい、とふと思った。
遺伝子は遺すつもりはないが、せめて情報素子だけでも伝えてみたいと感じた。
その小さな思いの芽は心の中で日に日に育ち、無視出来ないほどにまで深く根付いて大きくなるばかりだ。
もちろん知り合いに渡して読んでもらうといった身元がばれるようなことは論外だ。
自身の立場上相手も感想をどう言えば良いか困るだろうし、何よりも恥ずかしい。
しばらく悩んで出した結論はペンネームを使って賞に応募することだ。
別に出版したいと思っているわけではない。
ただこれならば少なくとも選評者は読むし、評価なども送られてくる。
決めた後のオーベルシュタインの行動は早く、子供時代に書いた恋愛ものを手直ししてから応募してみた。
ペンネームはフィリーネ・オルフ。
昔から印刷の際に使っている名だ。
するとわずか一カ月程度で書面で連絡がきた。
なんと送った作品が賞をとり、是非出版したいというのである。
会って詳細を詰めたいとのことが書いてあったが、素性がばれると面倒なため編集に頼み込んで音声通話のみでの話にしてもらった。
声に関してはボイスチェンジャーで女声に変えたため、編集はなんの疑問も抱かずオーベルシュタインを女性だと思い、彼の作品を褒めたたえた。
『いやぁ、長年編集をやっていますが、応募作品を読んで泣いたのは初めてですよ』
そのありきたりでも心のこもった褒め言葉が素直に嬉しくて、オーベルシュタインは出版に同意した。
この決断がかなりの大騒動になるとは、帝国の頭脳すら予測していなかった。
ある日の会議。
何故か出席者の大半が酷く沈んだ顔をしていた。
その様はまるで戦友が亡くなったかのようであり、中には涙すら滲ませている者もいる。
「……何があったというのだ?」
少数派である皇帝ラインハルトが当然疑問に思って、近場にいたオーベルシュタインに尋ねた。
尋ねられた方も平生と変わらず、「さあ?存じません」と受け流していつもどおり淡々と報告を読み上げる。
ならばと明らかに落ち込んだ顔をしたビッテンフェルトに聞いてみても「なんでもございません。私事にございます」と首を振るのみ。
他の面々に聞いても大体同じ答えで、ラインハルトと同じく少数派のロイエンタールも困惑している様子だ。
理由はかなり気になったが、表情が暗いだけで別に悪いことをしているわけではないし、会議の時間も決まっている。
皆の様子を無視してさっさと会議を進行していく軍務尚書をやや恨めしく思いつつ、その日の会議も滞りなく終わった。
「オーベルシュタイン。本当に卿は何も知らないのか?」
会議が終わり、オーベルシュタインからの報告を聞き終えた後、さっさと退室しようとする彼にラインハルトは問う。
しかしこれは問いというよりも、『本当はわかってるだろう?』という確認だ。
現にオーベルシュタインは作りが細い肩を竦めて、目を細めた。
「彼らの間で今流行っているものがあり、そちらで悲劇が起きた。おそらくそれだけの話でございます」
「流行っているもの?」
「はい、小説です」
「……小説?」
もしや賭博などが流行っているのではないかと警戒していたのだが、教えられた単語に一瞬呆気をとられてしまった。
近くにいた皇妃が『ああ!』と納得の声をあげて手を叩く。
「フィリーネ・オルフの『英雄の烙印』の新刊発売は昨日でございましたものね!」
「ええ。おそらくそのせいではないかと」
「・・・・・・落ち込むような展開が待っているということですね。ああ、覚悟して読みませんと」
「皇妃。・・・知っているのか」
自分を残して勝手に進む話に、ラインハルトは慌てて割り込んだ。
ヒルダは女学生のようにはしゃいでしまったことを恥じるように頬を赤らめて説明する。
フィリーネ・オルフは最近話題沸騰の女流作家であり、ゴールデンバウム王朝滅亡後の出版自由化で生まれた天才だという。
彼女の描く物語は本当にジャンルが幅が広く、精密かつ引き込まれる筆致と豊かな感情表現やギミックが魅力で、短期間で熱狂的なファンを多数獲得したそうだ。
「……そんなに有名な作家なのか。今まで全く聞いたことがないが」
「陛下の立場上、このような話は耳に入りづらいでしょう。それに本を出版しだしたのはごく最近にございます」
「ですが、元々かなり書き溜めていらしたらしくて、刊行ペースが非常に早いのです。もうすでに長短編合計27冊も出しておられます」
「ほう。面白いのか」
「ええ、とても!今回続きが出た『英雄の烙印』は英雄に祭り上げられた一軍人の悲喜劇を描いたもので」
勢いこんであらすじなどを説明しようとする可愛いらしい皇妃に若き皇帝は苦笑する。
「待て待て待て。余も読みたいからそれ以上言わないでくれ。・・・ふむ。読書か。隙間の時間に出来る良い趣味だな」
戦略などの参考のためにその手の古書などは熱心に読んだが、娯楽小説の類は読んだことがあまりない。
平和になって仕事も減って来たことだし、流行りを経験するのも悪くないだろう。
オーベルシュタインも淡々と同意を示す。
「良いと思います。他者や場所を準備せずとも行える理想的な娯楽かと」
「うむ。ところで、卿もそのオルフという婦人の小説を読んでいるのか?」
「……はい。うちのメイドのひとりが勧めて参りましたので」
「ほう。卿に小説を勧めるとは肝の据わったメイドだな。卿はどれが面白かった?」
「……そうでございますね」
主君の問いに、義眼の軍務尚書はやや悩む素振りを見せた。
「個人的には『雌虎と呼ばれた女』が気に入っております」
「あ、私もあのお話が大好きです!痛快なお話ですよね!」
「ええ」
再びファントークが盛り上がり出しそうだったため、ラインハルトは再び苦笑した。
「だから待てと言っている。皇妃。読みたいから後で貸してくれるだろうか」
「はい、もちろん」
オーベルシュタインは穏やかに見つめ合う夫妻を邪魔せぬよう一礼して退室する。
皇妃の面白かったという感想で心を温めながら、通常の業務に戻った。
「……まさかアルフレッドが死ぬなんて」
「ああ。本当に良い奴だったのに。惜しい男を亡くした」
「奴がつまらない詩を書いて幸せに暮らせるような世界を見たかったのに」
海鷲に集った上級大将達はまるで葬式の後か何かのように悲嘆に暮れていた。
それを少し離れたところで見聞きしながら、ロイエンタールは不思議そうな顔をしている。
「なあ、ミッターマイヤー。アルフレッドとは誰だ?」
「ああ、『英雄の烙印』に出てくる主人公の親友だ。今回の話で主人公を爆破テロから庇って死んでな。俺も読んでいてショックだった。良い奴だったのに」
「……架空の人物だろう?大袈裟な。会議で皆がおかしかったのはそれが原因か」
ロイエンタールはいつも通りの冷笑で呆れを示すが、ミッターマイヤーはゆったり首を振って窘めた。
「そう言うな、ロイエンタール。フロイライン・オルフの作品は話に引き込まれて、まるで自身が主人公になったような気持ちになるんだ。だからアルフレッドが死んだ時は、本当に親友が死んでしまった気持ちになってエヴァに心配されるくらい泣いたよ」
「俺はいもしない奴と同格なのか?」
「何故そう悪くとる。そういう気持ちになったというだけで、現実では絶対に味わいたくない」
明らかに拗ねている親友に、ミッターマイヤーは困った顔をする。
ロイエンタールはあまり娯楽小説の類を読まないので、ひとりだけ仲間外れにされたようで納得できないのだろう。
だからといって自分も周りに合わせて流行りにのるというのも嫌だと感じているに違いない。
一度へそを曲げるとなかなか元に戻らない友人の性質を知る元帥は、どうしたものかと頭を悩ませた。
すると、不意にこんな言葉が耳に飛び込んでくる。
「小官はフロイライン・オルフを平民ではなく貴族の女性だと思っております」
「……ほう。何故」
「表現に上品さが滲んでるんですよ。それに物凄く学がある方だ。もちろん学がある平民女性もいるでしょうが、ここまでだと考えづらいと思います」
「……なるほど」
部下の自信ありげな主張に、平坦な相槌が返る。
アントン・フェルナー准将とパウル・フォン・オーベルシュタイン軍務尚書だ。
どうやら彼らも比較的近場で飲んでいたらしい。
あんなほの暗い男も部下と交友を深めることがあるとは意外だ。
だがそんな珍しい光景よりも、謎の人気女流作家フロイライン・オルフの話の方が気になったのだろう。
葬式顔組がフェルナーに注目しているようだ。
「あと小官の勘だと年齢は30代ではないかと」
「いや、もっと若いだろ」
「待て。むしろ三十代でも若いんじゃないか」
フェルナー准将の言葉にビッテンフェルト達はやいのやいの自論を展開していく。
ロイエンタールはミッターマイヤーがその議論に興味を持っていることはわかったが、わざと意地悪をして帰りを促した。
「時間は良いのか、ミッターマイヤー」
「ああ。もうこんな時間か」
愛妻家は少し慌てたように席を立って帰って行く。
残されたのは楽しそうに謎の作家を推理する一団と、それに加わらないふたりだけだ。
オーベルシュタインは一緒に飲みに来た部下が自分を放って他の面々と言い合っていても気にする様子はなく、淡々と酒杯を重ねている。
その薄い口許に笑みがあるように見え、ロイエンタールは妙に興味を惹かれて、普段なら率先して近づきたくもない義眼の男の隣へ移動した。
人工の視線が一瞬向けられるが、特にそれ以上の反応はない。
美丈夫は不満そうに高い鼻を鳴らした。
「……ふん。相変わらずつまらん男だな、オーベルシュタイン。あの副官も何が楽しくて卿と飲みに来たのやら」
「卿はわざわざ席を移動して喧嘩を売りに来たのか。この中の誰よりも欲求の発散方法の心得がありそうだが」
絶対零度の異名をとる男は珍しく応じる。
それだけ聞いていると険悪に思えるが、色の異なる目には陰気な男が表情こそ全く変化はないがやはりどこか楽しそうに見えた。
「……何がおかしい?」
この仄暗い男が楽しそうなところなど今までに見たことがない。
怪しんで尋ねれば、人工の瞳に微かに疑問符が浮かんだようだった。
「おかしい?いや、特に卿の顔をおかしいと感じたことはないが」
「違う。卿の冬の沼地のような顔が中途半端に陽が差していると言ったのだ」
「……そうか」
オーベルシュタインはそう言ったっきりロイエンタールから再び視線を外す。
だが、その小さな耳は少し離れた場所で繰り広げられる話を熱心に拾っているように思えた。
「なんだ。卿も謎の女流作家が気になるのか?」
揶揄するように尋ねれば、鶴のような首が竦められた。
「……これほど話題になっていればな。ここまで大騒ぎになるとは予想外だったが」
「それだけ娯楽が不足しているのだろう。ゴールデンバウム王朝時代の出版規制の反動も大きい」
「確かに。これをきっかけとして様々な作品が世に出るだろう。良い作品が後の世に残ってほしいものだ」
祈りのような言葉を口にしながら、グラスを傾ける。
珍しく人らしい感情が見える台詞に、ロイエンタールは皮肉気に笑った。
「ほう。卿にしては随分優しい願いだな」
「受け継がれる物語というのは尊いものだ。さらに言うなら本が売れるというのは国にとって良いことだ。売れるだけの識字率があるということだからな」
「なるほど」
淡々とした口調で意外に穏やかなことを言いだした男に驚きを感じながら、美丈夫は酒で多少滑らかになった口で問う。
「卿はフロイライン・オルフはどんな女だと思っている?」
「……どのようなとは?」
「別になんでも構わんさ。年齢でも出自でも。卿はどんな女だと思う?」
「気になるなら卿も討論に交じってきてはいかがか。私に聞くより多彩な意見が聞ける」
「遠慮しておこう。俺は卿の意見が知りたい。というか卿がその女の話で妙に楽しそうな理由が気になる。教えろ」
言いながら、ロイエンタールはバーテンにオーベルシュタインと同じ酒を注文した。
勝手な話ではあるが、自分が楽しくない時に他人が楽しそうだと腹が立つものだ。
オーベルシュタインもロイエンタールの八つ当たり気味な好奇心に付き合わされていることがわかっているのだろう。
やや批判的な視線を投げるが、意外に長い睫毛をゆっくりと瞬かせ、諦めたようなため息をついた。
「彼らが子供のように賑やかに話し合っているのが微笑ましいと思っているだけだ。あとフロイライン・オルフのことだが……年齢まではわからんが別にどこにでもいるような平凡な女性だろう」
「ほう」
意外な答えに、出てきた酒を一息で飲み干す。
思っていたよりかなり強い度数で少し驚いたが、それよりもオーベルシュタインの予想が気になった。
相変わらず平坦な口調が続く。
「普段自己主張が出来ないタイプなのだろうな。溜めこまれた感情や思い、願いが頭の中の想像の種に注がれ、実ったものを文字に起こした。それだけだろう」
「どこにでもいる女がこれほど多くの人間の心を動かすとは思えんが」
未だ熱心に交わされている議論を横目に、軍務尚書の意見を軽く否定する。
義眼の男は残り少なかった酒を空けると、また同じものを注文した。
ロイエンタールもついでの頼んだ。
すぐに出てきた酒を静かに、しかしあっという間に干しながら、温度のない声が流れる。
「時代のせいだろう。卿が言ったように今までの規制の反動だ。おそらく出版社も大乗り気だったろうしな。別にフロイライン・オルフが書かなくとも、いずれ旧時代のしきたりや常識を打ち破る物語は生まれた。彼女の作品はタイミングが合ったから売れた。別に不思議なことはない」
「本当につまらない意見しか言わんな、卿は。たまには感情や主観で物を言ってみれば良いものを。卿も読んだのだろう?何か感じることはないのか?」
また酒杯を空にして、注文する。
オーベルシュタインはやや呆れた様子で息を吐いた。
「ないわけではないが、感想や見方は人それぞれだろう。そもそも卿の質問は大味過ぎだ。著作はそれなりの数があるのに、どれのことを言っている」
「卿はどれがお気に入りだ?そもそもお気に入りがあるのか?」
「それも読んでいない卿に言っても仕方があるまい。……さっきから飲みすぎだ。ペースが早い」
「卿に合わせてやっている」
「……妙なところで対抗するな。せめて自力で帰ってもらおう。明日あたり卿の変死体が見つかったとケスラーに報告されるのは御免こうむりたい」
「随分サービスが悪いな。部下に放っておかれている悲しい男に、わざわざ付き合ってやっている優しいこの俺を放置して帰るのか?」
またすでに味がわからなくなっている酒を胃に流し込む。
ロイエンタール自身、何故この無愛想な男にこれほど絡んでいるのかわからなかった。
おそらくそれはオーベルシュタインが非常に珍しく仕事以外のことを話したからであり、つまらないと言いつつも案外普通に話せることが新鮮だったからだ。
ひとりで飲むよりは多少ましだと思ったからに違いない。
帝国一の色男の記憶はこのあたりで途切れた。
目覚めると、見覚えのない天井があった。
おそらく貴族の屋敷の客室だろう。
ミッターマイヤーと飲んでいて奴が帰って、……確か軍務尚書に声をかけた。
その後どうしたのだろう。
女に声をかけられて、家に転がり込んだのだろうか。
だが、その予想はすぐに否定される。
寝ていたベッドには明らかに一人分の痕跡しかなく、綺麗過ぎた。
さらに夜着をしっかり着ている。
疑問が解消されないまま、まだ酒が残っている頭を軽く揺すって、近くに畳まれていた軍服に袖を通す。
するとタイミングを計っていたかのように、ドアが控え目にノックされた。
入室の許可を与えると、丁寧に一礼して入って来たのは品の良い老執事だ。
「おはようございます、ロイエンタール様。朝食の準備が整っております」
「ああ、いただこう。ところで……すまない。酔っていたせいでここにどうやってきたのかもよく覚えていないのだが」
最初は状況だけで判断しようと試みていたが、正直に尋ねることにする。
すると、執事は穏やかにここはオーベルシュタインの屋敷で自分は執事のラーベナルトであると説明した。
「主人からは可能な限りもてなすようにと仰せつかっております。仕事場にはすでに体調不良での欠席のご連絡をしておりますのでご安心を、とのことです」
ロイエンタールは頭を抱えたくなった。
それと同時に昨晩の記憶が蘇ってくる。
うっすらとではあるが、オーベルシュタインと話している時に泊めろだのなんだのとごねた記憶があった。
失態である。
酔った勢いであのオーベルシュタインの屋敷に一泊したなどありえない。
まあ、やってしまったものは仕方がない。
ロイエンタールは早々に開き直ると、遅めの美味い朝食を味わい、病欠扱いなので外に出ず、屋敷内を暇つぶしに探索した。
清掃の行き届いた古い屋敷は、華美な部分はなく、家主の性格を反映するように実用をかなり重視されている。
だが意外に居心地は悪くなく、使用人達の気立ても良かった。
あてもなくうろうろしていると、偶然書庫を発見する。
そこはなかなかの広さで、棚から溢れんばかりの本があった。
貴族の多くはこのような書庫を所有しているが、それはあくまでの財産やステータスの位置づけであり、飾り物と同義であることがほとんどだ。
しかしここは例外であるようで、ぎっしりと敷き詰められたそれらは読みこんだ痕跡があった。
おそらく帝国最高の頭脳の礎となった場所なのだろう。
山のような専門書や古書を何気なく眺めていると、他とは明らかに異なる棚が一番奥の目立たないところにあった。
収められていた比較的新しく見える本は小説らしい。
作者はフィリーネ・オルフ。
噂の女流作家の本だ。
なるほど、オーベルシュタインは読んだことがあるどころかこの作家の信奉者であったのか。
あのつまらない男の秘密を見つけたと多少得意な気分になり、適当に手に取ろうとしたが、そこで違和感に気付いた。
本の数が多いのである。
本棚に収められている本はどんぶり勘定でも軽く300冊は超えている。
だが、漏れ聞いた話では出版されている本はせいぜい2、30冊だったはず。
これが市販されているものならばどう考えても計算が合わない。
不審に思いながらも手に取ると、しっかりと丁寧な装丁がされており、市販されているものではないとすぐにわかった。
そこでロイエンタールはある可能性に思い当たる。
もしや目の前に置いてあるのは出版前の原本を製本したものなのではないだろうか。
「……ないな」
考えておいて自分で否定する。
奴に家族や友人の類はいないし、使用人が製本して勝手にここに収めているなどありえないだろう。
一番自然に考えるならばここに置いてある本の作者=フィリーネ・オルフはオーベルシュタインということになる。
だがあの情緒や感情が乏しい男が、人の心を揺さぶる文章を書けるはずはない。
ならばこの目の前の本をどう説明するのかという問題になるのだが、悩んでみてもうまい説明が思いつかなかった。
手の中の『悪女』と題された本を開き、最初の方だけ読んでみる。
なるほど、感触は悪くない。
するすると自然に文章が頭に入ってきて、文字を追うのが楽しく感じられた。
話の内容としては、架空の国の妾腹の王女が生き残るために女王を目指すというものだ。
時には陰謀を用い、時には信頼する仲間を切り捨てねばならず、心身を傷つけ苦しみながら戦う彼女の姿は、虚構の人物とわかっていても胸を打つものがある。
一番最初に味方になってくれた忠臣に汚名を着せて死なせる選択をするシーンなど、本当に泣き出しそうになった。
物語が希望のある終わりを迎えなければ、しばらく落ち込んでいたかもしれない。
次のシリーズは銀河帝国の一都市を舞台に、そこで暮らす平民達の人間模様をコミカルに描いた話だった。
どこにでも転がっているような話を笑いあり涙ありで表現していて、行ったことがない町にいつも行っている商店街のような親しみを抱かせる。
さらに次のシリーズは辺境の海賊討伐を任務とする帝国軍の話で、そこを任された女性司令官の奮闘記だ。
こんなとんでもない女はいないだろうが、彼女の思わず笑ってしまうようないい意味での非常識さや強さに惹かれて多くの兵が集まるのはよくわかった。
ただ明らかに彼女には何か秘密がある。
彼女は何を隠しているのか。
「……ロイエンタール元帥」
「…………」
「ロイエンタール元帥」
「……っ!」
声に反応して顔を上げると、家主がとても複雑そうな顔でこちらを見ていた。
気付くと本にかなり集中していたらしく、首が痛い。
オーベルシュタインは相変わらずなんとも言えない顔で眉間に皺を寄せた。
「……卿は今日も泊るのかね?」
「……は?」
何を言っているのかと思い何気なく時計を見て驚いた。
書庫に入ったのは午前中だったはずだが、今はもう夜だ。
半日近くが経過している。
信じられないほど本にのめりこんでいたらしい。
「……悪かった」
「ああ。これからは自分の限界を見極めて飲んでいただきたいものだ」
「違う。俺は卿に文才などないと高を括っていたが間違いだった。卿の書く話は面白い」
その賛辞に軍務尚書の双眸が見開かれた。
暗殺者相手にも一切動揺しない男が後ずさったのを見て、ロイエンタールは自分の推測は間違いではないと確信する。
青白かった頬に赤みが差していた。
楽しくなってきたロイエンタールがさらに気合を入れて褒めたたえると、耐えかねたのか痩身が踵を返して逃げて行く。
もちろん客人は追いかけた。
数分後捕まえられたオーベルシュタインが、ロイエンタールにさらに色々言われて困っているところを使用人達は目撃したという。