加賀さんの優しさは分かりにくい   作:坂下郁

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第1話

 ほうじ茶と羊羹、ですか。悪くない取り合わせですね。間宮羊羹…いえ、色の淡さからすると、これは伊良湖羊羹ね。がっつりした甘さの密度が売りの間宮羊羹に対し、溶けるようなすっとした甘さが特徴の伊良湖羊羹。この暑さを考えると伊良湖製の方が嬉しいかしら。どちらにしても気分は高揚しますけど。

 

 などと自分の世界に入っていましたが、お茶とお茶請けを持ってきてくれた子が、ちょこんと正座して私の方を見ているのに気が付いた。何でしょう、何となく視線を逸らさずにじぃっと見返してみる。

 

 すぅっと軽い音を立て襖が開くまで、その子と私のにらみ合いは続いていた。

 

 

 「お待たせしてすみません、加賀さん。久しぶりですね。……あら、どうしたの?」

 

 

 奇麗な所作で部屋に入ってきたのは赤城さん。かつて同じ鎮守府に所属し、文字通り死線を潜り抜け戦い続けた無二の親友。でもこうやって顔をあわせるのはいつ以来かしら。

 

 

 雲一つない突き抜けた青空の眩しさに目を細めたあの夏の日、日本を含む世界は深海棲艦の脅威から解放された。戦争は終わり、時計の針はそれまでと違う時間を刻み始めた。世の中は癒えぬ傷が透ける薄皮を纏いながらも、前に向かって歩みを進めている。戦後、私と赤城さんの航路は交わらず、私は外地から先日帰国したばかりだ。

 

 

 目の前の子供は金縛りが解けた様に赤城さんにすすっと寄り添うと、腕にしがみ付き恐々とこちらを眺めている。その様子に気が付き、赤城さんが肩をすくめてやれやれ、と苦笑いを浮かべていた。

 

 「いくら羊羹が好きだからって、その鋭い眼光はあんまりですよ、加賀さん」

間違いなく羊羹は好きですが、そんなつもりでは…。

 

 「なら……? あ、加賀さん、ちゃんと『ありがとう』しましたか?」

 言われてみれば。確かに羊羹に気を取られ、礼を失していたようです。

 

 すっと脇にずれ、座礼でその子にお礼を言う。おずおずと赤城さんの背中から顔をだし、おっかなびっくり、という様子で私を眺めている。僅かにその子の表情が綻んだ気がします。再び襖が開き、次の人が現れて赤城さんの隣に座り胡坐をかく。

 

 

 ………その恰好、どういうつもりかしら。

 

 私が知っている貴方の姿は濃紺の第一種軍装か真っ白な第二種軍装でしたが。控えめに言って、貴方にエプロンは似合わないわ、提督。一方の赤城さんは、とても穏やか目で隣に寄り添う子供の髪を優しい手櫛で整え、提督はそんな赤城さんの様子を眺め続ける。

 

 貴女とはずいぶん長い付き合いだと思いますが、そんな表情は初めて見ました。修復バケツいっぱいの間宮羊羹を貪った後でも見せたことのない表情だわ。そんな私の考えを見透かしたように、赤城さんがジト目でこちらを見る。

 

 「……加賀さん、何か失礼なことを考えてませんでしたか?」

 

 

 失礼、ですか……確かに。

 

 ロクに返事を返さない私に、赤城さんはそれでもこまめに連絡をしてくれたから彼女の状況は知っているつもり。いえ、つもりだった―――だいたい赤城さんも赤城さんです。こういうことは前もって言ってくれないと、こちらにも準備というものが。居住まいを正し改めて座礼します。親しき仲でも礼儀は大事、しばらく音信不通だった間に状況が変わっていても不思議はないわ。不調法を詫びないと。気の利いた出産祝いは選べなかったでしょうが、それでもお祝い事は時宜に叶うべきだったわ。

 

 「はぁっ!? 加賀さん、何を言ってるの!? え、この子が私と提督の!? ち、違いますっ!!」

 

 赤城さんがあたふたして大声を出し、提督もお茶を吹き出している。何が違うの? いくら世事に疎い所のある私でも知ってるわ。双方に貞操の独占権を認め合った男女……すなわち夫婦間で行われる、一日計四回のデイリー生体建造任務の成果でしょう?

 

 「い、一日四回っ!? 夜三朝一なら確かに…って、そ、そうじゃなくてっ!」

 

 私の指摘に赤城さんは頭を抱えたようで、大きく肩を落としている。何ですかその様は、まるで私がとんちんかんな事を言ってるようではないですか。はぁっ、と、深いため息を吐いた赤城さんは気持ちを切り替えるように、私に向き合った。

 

 

 「加賀さん。今日来ていただいたのは他でもありません。提督からも聞いていると思いますが…はい? 聞いてない、ですか…来れば分かる、とだけ? 貴方はもう…。簡潔に言いますね、加賀さん、私達に力を貸して下さい」

 

 軽く頬を膨らませて提督を肘で軽く小突く赤城さんに向かい、サイドテールを揺らしてふんすとガッツポーズを見せる私。一航戦の出番というわけね。鎧袖一触よ、心配いらないわ。今度こそ赤城さんは、本気でがっくりとうなだれている。そして真剣な表情で私に訴えかける。その声は、言葉は、私の心にちくりと音を立てて刺さった。

 

 

 「……加賀さん、戦争が終わってからどれだけ経っていると…。私と提督が運営するこの施設を手伝ってほしいのです」

 

 

 

 赤城さんと提督(正確には元、ですが)が運営するのは、戦災孤児のための民間養護施設。

 

 深海棲艦との戦争で身寄りを失った子供たちを引き取り、養親との縁組が整い送り出すまで養育するのが役割。公的資金の大半が経済復興に向けられ、かつての経済大国としての姿を取り戻そうと官も民も躍起になっている中、忘れてはいけない物を守るかのように、二人はこの施設の実現に奔走したという。

 

 戦時中は救国の戦乙女などと持て囃された私達艦娘。戦後は艤装の能力を封印され、その代償のように莫大な退職金が与えられた。私達と共に命を賭けた提督も同様に。お互いを生涯の伴侶として定めた赤城さんと提督は、退職金の大半をつぎ込んでこの施設を設立したという。以来、様々な理由や背景の子供が預けられるが、施設の規模ゆえ受け入れ可能な子供の数が限られているのが赤城さんの悩みのよう。

 

 

 かつて私や赤城さんが軍艦だった時の大戦、ミッドウェーで私達が果てた後も帝国はボロボロになるまで戦い、そして敗れた。そして今、艦娘として現界した私達は深海棲艦と戦い続け、今度は勝った。どれだけ時が流れても変わらないのは、戦のしわ寄せは必ず弱者に向かう現実。かつての大戦同様に、私達艦娘を以ってしても止め難かった深海棲艦の艦載機による間断ない空襲は、街を破壊し人々の命を奪い、この施設で暮らす子供たちを生み出した。

 

 

 雲一つない突き抜けた青空の眩しさに目を細めたあの夏の日、日本を含む世界は深海棲艦の脅威から解放された。細めた目の先に映った景色は―――破壊され尽くした街並みと傷ついた銃後の民。

 

 

 経済は疲弊し物資も何もかも不足、治安もかつてとは比べ物にならないほど悪化、何より人の心は長く続いた戦争に染め上げられたように荒んでいた。鎮守府という閉ざされた世界で戦い続けた私は、自分の戦った結果を知った。無力だと思い知った。

 

 それでも多くの人に感謝されたけど、それ以上に心に残ったのは人々の慟哭。私達がもっと強ければ、あの戦いで勝っていれば、もっと早く終戦になっていれば…。取り返せない大切な物を失った人々の声。起きた事全てが私たち艦娘のせいであるはずがない。けれど、戦争によって人生を歪められた人は多く、私達の戦いはそれらを光として影として彩っている。

 

 

 だから私は逃げるように旅立った。救えたものよりも、救えなかったものを見るのが怖かったから。

 

 

 けれど赤城さんは怖れずに立ち向かった。救えなかったものに向き合い、両手を広げ抱きとめている。

 

 

 「何の罪もなく戦争に人生を歪められた人はたくさんいます。戦没した艦娘だってたくさん…。中でも、本当なら親御さんから無条件で与えられるはずの愛情を失った子供たちに、人生はそれでも悪い事ばかりじゃないよ、って誰かが教えてあげないと。そのために私達は、生かされたんだと思う……そんな提督のお考えに、私は心打たれたんです。戦いのために生まれ、敵を殺し破壊するのが役割だった私が、誰かの温もりになれるなら…」

 

 

 眩しすぎる光は、見るのがつらい。輝くような笑顔で胸を張って微笑む赤城さんを、私は見ていられなかった。でも、何故私に声をかけたの?

 

 

 「あら…私は加賀さんを誰よりも知ってるつもりですよ? 一見無口で不愛想でとっつきにくいけれど、でも、心の中は誰よりも愛情豊かだってことも。ただ、表現が下手なだけで。それに―――」

 

 人差し指を立てどや顔でウインクする赤城さんに言い返そうと口を開きかけた。でも、続く言葉に再び口を閉ざしてしまった。

 

 「ここには、加賀さんじゃないとできないことがありますから」

 

 

 雲一つない突き抜けた青空の眩しさ、だけど世界は、赤城さんは、目を細めることなく焼け付く夏を、その先の季節を見つめていた。

 

 

 ただ私の時計だけは、時が止まっていた。

 

 

 

 納得したわけではないけれど、他にやることも無く、赤城さんの言葉を受け入れた私がここで暮らすようになって早数か月――――。

 

 

 あの子――ここを訪れた時に最初に出会った女の子が、私を見上げています。そうね、次はあなたの番ね。背の低い子用の踏み台を用意して台に上らせ蛇口を捻る。勢いのある水流が重なり合い前後に動く小さな手を覆い、泡立った石鹸とともに白濁しながらシンクに落ちてゆく。

 

 普段なら面倒くさがったり嫌がる子もいる手洗い、でもおやつの時間は別。我先にと手洗い場が埋まってゆく。そして列に割り込まれても何も言わないあの子はいつも一番最後。控えめというには遠慮が過ぎ、無口というには静かすぎる。私の視線に気づいたあの子は、どこかおどおどした様子で、何か言いたげな視線を返してくる。

 

 

 気にはなるけれど、どうにもできない事もある。

 

 

 この子が喋っているのを聞いたことがない。赤城さんによれば、知能テストや身体検査の結果に問題はなく、心因性の失語症が疑われるようだ。この子を保護し警察に連れて行った人の話では、深海棲艦機の機銃掃射で両親が目の前で肉塊になるのを目撃したらしい。行きずりのその人がこの子の支えになるはずがなく、紆余曲折を経て赤城さんの元に預けられた、ということなのね。

 

 くいくい。くいくい。

 

 

 エプロンが引っ張られているのに気が付きました。ああ、ごめんね、手洗いが終わってたのね。手を繋ぎちゃぶ台までの短いお散歩を経て着座します。今は子供たちと一緒におやつを頂く大切な時間です。補給は大事。

 

 

 児童養護施設で働くと言っても、保育士の資格を持たない私は、昼間は赤城さんや提督のアシスタントとして事務処理や施設設備のメンテナンス、調理、雑用などを中心に担当。艦娘、いえ、元艦娘はその職務上多種多様な資格を保有しています。例えば軍用大型特殊船舶免許、クレーン運転免許、フォークリフト免許、ボイラー、危険物取扱者、調理師免許などなど。そして夜は保育士資格取得のため勉強、という日々。ふぅ、私の事はともかく、今はみんなに目を配らないと。

 

 

 む、テーブルの端すれすれにいくつかお皿が置かれているわね。一緒にプラカップの中のジュースの量も確認。うん、三分の一くらい。これなら子供が呷っても零れないはず。ああ、まだエプロンを付けてない子がいる。いえ、それよりも……何も言わないあの子のおやつを狙う不届きな男の子がいますね。

 

 

 「加賀さん、海域哨戒じゃないのですから、そんなに鋭い視線で睨むと『いただきます』ができませんよ。笑顔、笑顔♪」

 

 

 赤城さんは苦笑いしながら、音頭を取って元気な声で『いただきます』をします。それにしても……自覚はありましたが、どうもこの仕事に向いてない気がしますね。

 

 

 

 おやつのあとの片づけ、お昼寝の寝かしつけを終え、いったん職員控室へと戻る。時間にして二時間程度ですが、職員にとって書類の整理や休憩に充てる時間。

 

 現在、常勤の職員は施設のオーナーの赤城さんと提督、そして私。あの戦争を生き残った艦娘達は皆それぞれに新たな生を送っていますが、赤城さんの主旨に賛同した数名―――天龍や山城、龍鳳、祥鳳などが、時折ボランティアで短時間でも顔を出してくれる。保育士向きとは到底言えない私なんかに相手されるよりは、よっぽどその方がよさそうな気がします。

 

 

 ふうっと小さく息を吐きひと段落、支給されたノートパッドからメールアプリを立ち上げ、覚悟を決めて入力し送信する。待機状態の黒いスクリーンは鏡のようで、ふと映り込んだ自分と目が合う。

 

 

 笑顔、笑顔……か。

 

 

 唇の端を上げてみる。目が笑ってないとかえって怖いですね。目を細めてみる。細めすぎて視界が遮られました。どうにもぎこちないですね。

 

 

 「頬に人差し指をあて下から少しだけ押し上げてみて。そうすれば自然と口角があがって笑顔になりますよ」

 

 

 それはいい事を聞きました。さっそくやってみましょう。これは…自分で言うのもなんですが自然なえが…お…?

 

 

 私の後ろに赤城さんが立っていて、モニター越しに目が合うと、笑顔でひらひらと手を振っています。

 

 声にならない叫び、というのはこういう事を言うのでしょう。比喩ではなく飛び上がってしまいました。顔が熱いのが自分で分かります。きっと真っ赤になっているのでしょう。涙目で赤城さんを振り返り、いつから見ていたの、と言いたかったのですが、口がぱくぱくするだけで言葉になりません。

 

 「加賀さんが唇の端を上げようと一生懸命だった辺りからでしょうか」

 

 それはほとんど全部見ていたってことですね。慌ててエプロンを直すふりをして、ついでにぱたぱたと手で頬に風を送り、表情も引き締めます。けれど頬の熱さだけはなかなか引かないわね…。

 

 私の狼狽ぶりを気にする事もなく、赤城さんは自分の席に座り自分のラップトップを立ち上げ何かを確認しながらぽつりと言葉を零す。

 

 

 「加賀さん、笑顔はするものではありません、なるものです。なので、加賀さんが笑顔になれる日が来るまで、この届出は保留しますね」

 

 

 私の退職届は、ほんの数分で宙ぶらりんにされてしまった。何故、何故赤城さんは私にこだわるの? そんな疑問などお見通し、と言う様に赤城さんは言葉を続け、私はその言葉に、自分の中の深い所を揺さぶられた、そんな気がしていた。

 

 

 「本来得られるはずの愛情を失い傷ついた子供たちを温もりで包む……でもそれだけじゃ足りません。命は戦い、生きて戦って自分を燃やすもの。加賀さんはそれを教えられる、数少ない人ですから」

 

 

 特定の子を指しての言葉ではないのでしょうが、いえ、それとも――――私の脳裏に真っ先に浮かんだのは、言葉を出せないあの子の事。赤城さんの掌で転がされているようで面白くありませんが、私にも……できることがあるのかも知れない。

 

 

 

 新しく来る子もいれば、養親が決まり施設を去る子もいる。幾たびかの夏が過ぎ、いくつもの出会いと別れを繰り返し、私も保育士の資格試験を受験し、合格発表を待つだけとなった。それでもあの子は、変わらずに私のそばにいる。整った顔立ちに華奢な骨格、成長すればかなり可愛らしくなるだろう女の子。もちろん、職員としてこの子だけを特別扱いはできず、他の子供たち同様に公平に接してきた。

 

 

 「あの子、本当に加賀さんに似てきましたね。目つきの鋭い所なんて特に」

 「……頭に来ました」

 

 僅かばかりの休憩時間、私と赤城さんの話題はあの子のことになった。施設の開設当初からここにいるあの子とは、自然と一緒にいる時間が長い。影響がないと言えば嘘になるだろう。でもだからって……。悪戯っぽく長い黒髪を揺らした赤城さんは、お茶をゆっくりと味わってから大きく頷いた。

 

 

 「視線は真っ直ぐ前を見つめ、意志を行動でしっかりと示すようになりました。そういう所ですよ、似てきたのは。やっぱりアレが良かったのかしら」

 

 

 赤城さんの言うアレ――――弓道。

 

 

 命は戦い、赤城さんはそう言った。その言葉が頭から離れなかった私が行きついたのは、何度となく私を、味方を守り、何度となく敵を屠った弓と矢。提督の尽力で当時の艤装を精密に再現した和弓と競技用の矢が届いた時、私の手は震えた。

 

 

 何のために、私は弓を引き矢を番え、射るのか。

 

 

 深海棲艦と戦い、平和な日々を取り戻す。それは目的であって動機ではなかった。そして多くの人が夢見た平和な日々が訪れた今、手にした弓と矢が途方もなく重く感じる。何のために射るのか――――自分に問いかけながら射た矢は乱れた心を映す鏡、的に収束しなかった。

 

 一人早朝の修練を続けていたが、真新しい木の香が鮮烈な弓道場を好奇心旺盛な子供たちが放っておくはずがなく、あっという間に弓道教室のようになった。でも、興味の移り変わりが早いのも子供らしく、いつしか毎朝顔を出すのはあの子だけになった。

 

 

 「背筋を伸ばし胸を張って。そうね……ああでも、反身にならないで。左腕の延長線上に的を置き、視線は真っ直ぐに前を見て。でも的に囚われず……」

 

 

 喋るのは、といっても私も多弁ではないので、訥々と静かに重ねる言の葉が道場に積る。あの子は、私の言葉を聞き漏らさまいと視線を外さずにこくこくと頷き、聞いた内容は所作の変化として表現した。

 

 自分の身長と変わらない弓をおっかなびっくり手にしたあの子でしたが、成長に合わせて弓を作り直す頃には確かな上達を見せていた。その頃には私からかける言葉もなく、ただお互い目線を交わすだけで、何となく分かったような気がしていた。

 

 

 静謐な朝の時間に響く弦の音と、矢が的に当たる乾いた音、それは私とあの子が雄弁に語り合う言葉だった。

 

 

 「別に……あの子に素養があっただけで」

 「素養を認め、育てるのは師の役割ですよ」

 

 繰り返すが、あの子は本当にいい子。おはようからおやすみまで、ほとんどの時間を一緒に過ごしている私が保証します。けれど、あの子の成長を見守り、共に時を過ごす保護者はどこにもいない。この施設のもう一つの役割、養親探しもこの子に関しては難航していると聞く。提督はきっかえさえあれば、と言うけれど、いつどんなきっかけがあればこの子の失語症が回復するのか分からないのが現状。

 

 

 

 子供の成長はとても早く、繰り返される毎日の中にあっても、一日として同じ日はない。それはあの子にも――――養親が決まったのだ。

 

 

 ホームスタディ(身元調査)で、養親を希望する夫妻の在職証明書、源泉徴収票と給与明細、貯蓄額証明書、その他の全ての資産証明、借金やローンの金額、健康診断結果、非犯罪証明書(NCR)、養子縁組を希望する理由書、友人や親類からの推薦状などの提出を受け、数度に渡る面談を行った結果、問題がないと判断された。その後、あの子は養親候補とのマッチングを見るため何度も日帰り、時にはお泊りで外出、その都度双方からレポートの提出を受け、よりよい関係づくりのためのフィードバックを繰り返した。

 

 といっても、文字で自分の感情を表現するにはまだ幼いあの子の場合、根気強くヒアリングするしかなく、それも失語症のため円滑はいかず、不安は拭えなかった。どこか作ったような、ぎこちない笑顔でこちらの質問にこくこく頷くだけ。

 

 全体として見れば大きな問題はどこにも感得されず、このご縁はあの子にとって得難いものになる、と判断しなければならない。

 

 

 あの子は去ってゆく。それで……いい。

 

 

 昨夜までの激しい雨が上がった今朝、あの子の迎えに養親候補の夫妻がやってきた。脇に少し厚めの大きな封筒を挟んだ赤城さんに抱っこされたあの子が母親となるだろう女性に引き渡され、提督はぶ厚い書類の束を父親となるだろう男性に説明している。優しそうな二人ね。あの子を引き取って娘にしようというくらいだから、信頼のできる方々なのでしょう。

 

 所定の手続きを終えた二人は、施設の入り口前に立つ私の所まで戻ってきた。何ですか赤城さん、子供じゃないんですから、手を繋がないでください。何度こういう場面に立ち会ったと思っているんですか。

 

 

 ただ………目の前の光景にはハラハラしてしまう。母親になる予定の女性の腕の中で、あの子は暴れ、女性も困惑している。これまで何回か行われた面談では、あの子がこんな姿を見せたことがないから。

 

 

 

 ああ、違うわ、脇の下を手で支えるんじゃなくて、左手に座らせてあげると落ち着くのよ。

 

 

 あの子がそうやって泣きだした時は、無理に笑わそうとしなくてもいいの。ただ何も言わずに抱きしめてあげて。

 

 

 けれど、いつもと様子が違う。黒目がちの瞳から涙を流し、視線は私に注がれて離れない。何とか声を出そうとして、でもできない、それがもどかしくて余計いらいらいする、そんな静かで激しい泣き方。

 

 「ああっ!」

 

 赤城さんが声を上げ両手で口を押えている。めちゃめちゃに動かすあの子の手が顔に当たりそうになり、女性が思わず顔を背けた拍子に、腕から滑り落ちた。反射的に男性が伸ばした手に一旦は受け止められたが、支えきれなかったようで、昨夜までの雨でぬかるんだ地面にあの子はべしゃりと転んでしまった。そして立ち上がり、一直線に私に向かって、涙声で叫びながら駆け寄ってくる。

 

 

 私の…名前? たどたどしい、あやふやな発音だけれど、それでも私の名前。

 

 気が付けば私も走り出していた。私に向かい、ぐしゃぐしゃの顔で両手を広げ走ってくるあの子。何度も呼ぶ私の名前。貴女は可愛らしい声をしてたのね。せっかく着せてあげたよそ行きの服が泥だらけ……まぁいいです、洗えば済むことです。

 

 どんっ、と胸に飛び込んできたあの子を抱きしめる。私のエプロンも洋服も泥で汚れ、顔にも泥がはねた。

 

 

 私は、言わなければならない。ぎこちない出会い、夜泣きに慌てて病院に駆け込もうとして赤城さんに窘められた夜、いつしかお揃いにしていた髪型、苦手な椎茸は小さく刻めば案外大丈夫だったこと、毎朝弓道場で無言で語り合ったこと……この施設での私の日々は、ほとんどがあの子と一緒だった。だからこそ、言わないと。

 

 私はあの子の両肩を掴み、腕を伸ばし距離を空ける。じぃっと目を覗き込む。

 

 

 

 「離れを迎えた矢は、前へと進むものよ。背筋を伸ばし胸を張って、真っ直ぐに前を見て。何物にも囚われず、自分の命を生きなさい」

 

 

 

 それは繰り返し説いて聞かせた、射法の基本。それは弓と矢の形をした人生そのもの。あの子にも私にも、背負ったものは捨てられない。だからそのままでいい、真っ直ぐ前を向いて歩いてゆこう。もう一度、今度は一瞬だけあの子を抱きしめ、耳元に語り掛ける。

 

 

 「貴女のご両親が待っているわ、さぁ、行きなさい」

 

 

 去り際に一言残し、あの子は涙と泥を頬に幾筋か残しながらも、精一杯の笑顔で、今度は振り返らずに走っていった。

 

 

 「加賀さん、いい笑顔でしたよ。とても優しく力強い、去り行く子を送り出す最高の表情でした。ここでの最後の思い出が、私達の泣き顔になってしまうのは悲しいですから」

 

 吹き抜ける風に長い髪を遊ばせながら、赤城さんがかみしめるように言う。そう……あの時、私はそんな表情をしていたのね。ぺたぺたと頬を触りますが、自分では良く分かりません。一転、赤城さんは表情を引き締め沈痛な面持ちで私に相対する。

 

 

 「私は、加賀さんが自然な笑顔になるまで退職届は保留にします、そう言いました。そして今日、加賀さんは自然にそうしていた。私には、貴女を引き留める理由がなくなってしまいました」

 

 

 え? いや……え? はっきりと狼狽を表に出した私は今、どんな表情をしているのでしょう。挙動不審にわたわたする手は何を掴もうとしているのか。私は……私は、ここの職員であり続ける、そうしたい……今こそ、はっきり口に出さないと。

 

 

 俯く赤城さんの表情は伺えないが、小刻みに揺れる肩が気持ちを物語る。視線を上げないまま、赤城さんは脇に挟んでいた大きめの封筒を手に取ると、ひらひら動かす。そういえばその書類、何なのでしょう。

 

 「なので……この保育士資格試験の合格通知も意味のない――――」

 

 

 自分がこんなに早く動けたのか、という速度で赤城さんの懐に踏み込むと封筒を奪い去り、両手でしっかりと抱え込む。誰にも触らせない、と言わんばかりに赤城さんを睨みつける。

 

 

 ………やられました。

 

 

 赤城さんが堪えていたのは涙ではなく笑いだった、と。何ですか、目の端に涙まで浮かべて。

 

 

 「……頭に来ました。それも相当」

 

 

 指先で涙を拭った赤城さんは、ふふーんと勝ち誇ったような表情を見せると、くるりと振り返り施設へと戻ってゆく。少し小走りで赤城さんに追い付いた私に、柔らかな笑顔で宣言する。そうね、心配いらないわ。

 

 

 「きっとあの子は幸せになりますよ。加賀()()に愛された子ですから」

 



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