柱となって、既に一月が経過した。
柱になってまず増えたのは、大まかに二つ。
俺専用のそこそこ広い屋敷と、定期巡回を行えと定められた区間。これは槇寿郎のやっていた場所を引き継ぐ形になったので然程苦労する訳ではない。
初日は、あまりの俺の私物の少なさに部屋が伽藍堂だった。この広さに、一人で……? と少しだけ絶望した。
結局すぐさま鬼を狩りに行くからあんまり関係なかったが。
夜に鬼を殺して、朝に戻って寝る。
起きたら湯浴みをして、昼過ぎに飯を食う。小一時間ほど鍛錬を行なって、鎹鴉がうるさいので鬼狩りに向かう。そうして着いた場所で鬼を狩って、余った時間で巡回を済ませる。
そしてまた家に帰っての繰り返しを一月程行なった結果──体調を崩した。
げほげほと、抑えられない咳が悩ましい。
やはり一日一食は良くなかったか。飯を食う時間よりも鬼を殺す時間が欲しい。自分の技を磨く時間が欲しい。なによりも時間が惜しい。こうやって無駄に苦労する時間が勿体無い。
無理やり身体を動かす。死ぬかもしれんが、死にはしない。恐らく。
身体が重い。思考が纏まらない。だが、俺は柱だ。
止まる訳にはいかない。俺はあの煉獄杏寿郎の代わりに柱となったのだ。無様な姿を見せるわけには行かない。
鬼を殺せ。日にならずとも、悪鬼を討て。
いつもならもっと早く着くはずの道のりがやけに遠く感じる。感覚が麻痺しているのか、現実を認識出来てない。だが、この状態でも戦えるようにならなければ。柱なら、柱ならこの状態でも鬼を狩る。殺す。
俺もそうならねばならない。この身を燃やして、突き進む。
藤の花の家紋を掲げた家に、寄ることなく進む。
惡鬼滅殺──鬼殺隊の柱は、それを体現するべし。
鬼を殺して殺して殺し尽くせば、いつの日かあの上弦に出会える。必ずだ。
「──ん」
くそ、なんか聞こえてくる。
幻聴まで聞こえ始めたか。いよいよ限界が近づいてきてるのかもしれない。熱で、思考がまとまらない。
「──さん」
俺を、呼ぶのは、誰だ。
黄泉の、誰かか? 母さん、父さん、姉さん……真菰。俺を、連れて行くのか? まだだ、まだ死ねない。仇を討つまでは、あの憎たらしい鬼を殺すその日までは。
「──不磨さん!」
幻聴の方を見る。
藤の花の家紋を掲げた家の前に、見覚えのある女性が立っている。腰あたりまで伸びる長い髪、特徴的な頭の飾り。その蝶の髪飾りには見覚えがあり、間違いなく俺が助けた人物のもの。
──なん、だ。死ん、だのか?
「……不磨さん? なんか様子が」
なんだ。どうなってるんだ。
俺は生きてるのか? 死んでるのか? そもそもこれは何だ。現実なのか? 夢なのか。わからない。これは、本当に俺の認識する現実なのか?
手を伸ばす。
……触れた感覚は、ある。なんだ、現実か。なら、幻聴じゃなかったのか。
「何叫んでるの、姉さ、ん……」
「あ、しのぶ。良かった、不磨さんの様子がなんかおかしくて」
「──……そう、ね。姉さんの人生だものね。私は何も言う事はないわ。でもね、幾ら何でも、こんな昼間から、こんな街中で、堂々とそういう行為をするのは早いと思うの」
「どうしましょ、勘違いされてるわ」
幻聴じゃないなら、いい。俺は問題ない。
悪い、邪魔したな。
「不磨さん、大丈夫ですか?」
何がだ。
「……大丈夫じゃなさそうですけど」
歩き出した俺の手を掴む、胡蝶カナエ。
今日も鬼を殺さなくちゃいけない、離して
「うーん……しのぶ、どう思う?」
「ええ……? こんな場所じゃアレですし、とりあえず中に入りましょうよ」
ぐいぐいと腕を引っ張られる。
なんだよ。何の用だ。俺は大丈夫だって。
「いやいや、口調が崩れまくってますから。大分調子悪そうですし」
「はい、熱測りますから早く来てください」
思ったより力が入らない。
そのまま抵抗することもできず、藤の花の家に連れ込まれた。
「はい、大人しく咥えててください」
口の中に何かを捻じ込まれた。
なんだ、これ。無味。
「体温計ですよ。体温を測るための道具です──わ、すごい汗かいてますね。よくここまで普通に歩いてましたね」
顔を布で拭う。
あ──冷たい。心地いい。
「これは本格的に熱っぽいですね。しのぶ、一部屋用意して貰えるか聞いてきてー」
「はーい」
視界がボヤけてる。
休んでる、場合じゃない。鬼を、鬼を殺さないと。人としての機能なんか、要らない。鬼を殺させろ。なんだってやるから、鬼を殺させてくれ。
身体を起き上がらせる。力が入らない腕に、力を振り絞る。
「駄目ですよ、安静にしてないと。そう簡単に治りませんからね」
……咳によって呼吸が安定しないのは確かにあるが、それを踏まえても訓練だ。まだ成長の余地がある。
「駄目です! ほら、ゆっくり寝てて下さい」
布団を被せられる。
暑い。だが、心地いい。
なんだか、他人と話すのは久しぶりな気がする。
「どうせ夜まで移動しませんから、栄養のあるものを摂ってゆっくりしてください」
こんな感じの事が、昔あった気がする。
そうだ、あの時は確か──……
泣いている。
痛くて、苦しくて、泣いて叫んで。それでも消えない痛みに悶えて、ずっと泣いていた。
……動物に襲われて、崖から落ちて。
折れた脚の痛みに、泣き叫んでいた。
誰も来てくれなくて、どこにも行けなくて。そんな中で、遠くから聞こえてきた姉の声にひどく狼狽えた。必死に声を上げて、見つけてもらえるように。それこそ命を懸けていると言っても過言ではない程全力で。
そうして、助けに来てくれた姉。
泣いている俺を、身体が元気ではないのに、病気を持っているのに助けに来てくれた。
それがどんなに大変か、俺にはわからない。あの人の苦しみは、あの人にしかわからないから。だけど、一つだけ言える事がある。俺は、あの人を苦しめた存在が嫌いだ。
きっとそれは、あの上弦の弐だけじゃない。
俺自身の事も、俺は──……
暑い。
汗で服がくっついて、不快感が増す。身体が水分を求めてる。喉が渇いて仕方ない。
状況を把握しよう。ここは──……部屋。何処だ。
待て、そもそも俺は何をしていた。どこに行っていた。
いつも通り、鬼を殺して、家に帰って、寝て、飯食って、風呂入って、そしてまた鬼を殺そうとして。
その途中、か……?
身体を起こす。
外はすでに暗くなっており、夕方という表現は出来ない。鬼が出現し、活動を始める夜になっている。……自分の体調の管理もできないとはな。いや、油断していた。
病気ならば、死ぬ寸前で治せばいい。
怪我ならば、死ぬ寸前で治せばいい。
殺せればいい。鬼を、悪鬼を。
そう考えていた。いや、それが正しい。だが、戦えなくなるのは駄目だ。原因はよくわからんが、単純に考えれば栄養不足による免疫力の低下。詳しいのは知らん。俺は医者じゃない。
飯はちゃんと食うべき、か。倒れて動けませんは話にならない。柱として、いや。
それ以前に──鬼殺隊として。
「あ、目が覚めたんですね」
記憶の中に、朧げにある。
そうだ、カナエの目の前で倒れたんだった。正確には倒れた訳ではないが、まぁ似たようなものだ。
これは、恥ずかしい所をお見せしましたね。
「ええと、口調が戻ってるってことは……大丈夫ですか?」
お陰様で、熱に魘されることは無くなりましたよ。
鬼は、何処へ?
「……変わらないですね、不磨さん」
変わらない、とは。
以前に何処かでお会いしたこと、ありましたか?
そう言うと、カナエはくすりと笑った。
「いいえ。そういう意味じゃありません。……寝てる間も、ずっと魘されてましたよ。ちゃんと寝てますか?」
……ええ。睡眠はしっかり取っています。今回の体調不良はまぁ、ちょっとした事故です。
痛みはある。苦しみもある。だけれど、死ぬ事はない。
頭でそう理解してしまってる。だからこそ、そこに気を配らねばならない。
人か、怪物か──そんなのは、わからない。大事じゃない。そんなもの必要ない。俺にはソレを、人らしさを、共有する人も居ないのだから。そんな必要も、無い。
ありがとうございました。私はもう行きます。
「あ、ちょっと待ってください」
ガサガサと自分の懐を弄るカナエ。
少し目のやり場に困るから、別の場所を見る。
「こんなのが、鎹鴉を通して送られてきたんですけど」
そうして取り出したのは、一枚の手紙。
それは、誰から……いえ。鎹鴉という事は──お館様ですね。
「はい。宛先が私なんですけど、本文は不磨さんになってるんですよ」
何だそれは。
あの方が、変な事をするとは思えないが──というか、本当にそうなのか。カナエが書いたという線も無くは無い。……いや、無いな。する得が無い。
手紙を受け取って開く。
『炎柱不磨回帰、これより胡蝶カナエと共に鬼を滅する事』
短く、そう綴られていた。
そしてこの字は間違いなくお館様の物。
……窓を開けて、鎹鴉を呼ぶ。
夜だが、問題なく俺の元へと飛んできた鎹鴉に対してこの手紙は本物かどうか確認する。
啄むことすらしない当たり、本当にお館様の手紙。
何を考えてるんだ、お館様は。
「あのー……どんな内容でした?」
無言で手紙を差し出す。
カナエが手に取って、読む。俺を一度見て、再度手紙を見る。
「…………ええと」
俺に聞かないでくれ。
お館様、何を考えてるんだ。
「……よ、よろしくお願いします?」
……ええ。真意は掴みかねますが、よろしくお願いします。出来るだけ、迷惑にはならないつもりです。
一応返事を返そう。どういった意図でこんな命令を出したのか、カナエも気になる筈だ。
「しのぶちゃんにどう説明しようかしら」
……絶対に睨まれる。
音を立てながら二階に登ってくる、胡蝶妹の存在を考えつつ溜息を吐いた。