Honesty   作:松村順

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この章は,佐為とオリ主=ロミーとの出会いが主に叙述されていて,碁を打つ場面が少ないです。次章からはちゃんと『ヒカルの碁』の二次小説らしく碁を打つ場面がふんだんに出てきます。それまで,ご辛抱ください。


再降臨

Ⅰ 再降臨

 

本妙寺の墓地。毎年12月中頃にこの墓に詣でる。親戚ではないけど,ボクが心から敬愛し,ボクを深く優しく愛してくれた人,ボクの医学部進学のきっかけにもなった人だから,大学に入学してから毎年,命日に近い休日に墓参する。今年で8回目。医学部に入学し,卒業し,2年間の臨床研修もあと3ヶ月あまりで終わる。その後どうするか,迷いのある気持ちを持て余しながら墓に手を合わせ,しばし考え込み,結局なんの答も見つけられないまま帰途に就いた。日が落ちて間もない墓地,ボクのほかにほとんど人はいない。

時おり落ち葉を踏みしめながら静かに歩くボクの前方に人影が見える。和服,と言っても,小袖とか振袖ではなく,もっと改まった直衣とか狩衣のような衣装に烏帽子らしき帽子を被った,なんとも時代がかった衣装。烏帽子から垂れた髪は艶のある黒髪で肩甲骨のあたりまでまっすぐ流れている。顔立ちは横顔しか見えないけど,端正だ。肌は抜けるほど白い。そして,全体にただようなんとも優雅な,そしていくぶん悲しげな雰囲気。好ましい気持ちを抱き,ボクはその人に近づいた。その人もボクに気づいたらしく,ボクの方を向いた。その顔を,ボクは思わずじっと見つめてしまった。その人もボクを見つめている。同じことを思っているのだろうか? 似ている。ボクによく似ている。双子のようにとは言わないまでも,兄弟と間違えられそうなくらいには似ている。ただ,アルビノ症で髪にも目にも色素がなく,亜麻色の髪,青い目をしているボクと違い,その人は漆黒の髪に黒い目をしている。肌はボクと同じくらい白い。背はボクより高い。どれくらいそうやって見つめあっていただろ。その人が口を開いた。

「わたしが見えるのですか?」

「えっ?」

ボクはその問いに驚いた。もちろん,見える。目の前に立っているのだから,見えないはずはない。そんな表情を浮かべたボクに,その人はさらに問いかける。

「わたしの声が聞こえるのですね?」

ボクはまた驚いた。もちろん,聞こえる。だって,これほど明瞭に発声しているのだから,聞こえないはずはない。ボクは戸惑いながらもゆっくりうなずいた。すると,その人の顔に歓喜の表情が溢れた。

「神よ,感謝いたします。わたしはもう一度この世に戻り,碁を打てる。神の一手を探求できる」

なんとも奇妙なことを言う人だなと思ったその時,ボクは気づいた。その人の体が透けていること。その人の体に遮られて見えないはずの墓石や木立が透けて見えることに。〔幽霊?・・・・確かに,「逢魔が時」ではあるけれど・・・・〕こんなことを考えながら,ボクは不思議と恐怖を感じなかった。目の前にいる幽霊があまりに美しく優雅だから? その顔立ちに兄弟のような親近感を覚えたから? それとも,驚きが大きすぎて恐怖を感じる余裕がないのか?

「あなたは?」

とボクはごく自然に問いかけた。

「わたしは藤原佐為(ふじわらのさい)と申します」

「わたしは藤原ヒロミといいます」

なぜか,幽霊と自然に会話を交わしている。なぜこれほど自然に,何の恐怖心も不信感も抱かずその人と話ができるのか,不思議に思いながらも口が自然に動いていく。

「同じ藤原姓ですね。ひょっとして,ボクのご先祖様でしょうか? 顔立ちもとても似ていますし」

「わたしもそう思って,あなたをじっと見つめてしまいました。失礼いたしました」

「失礼はお互い様です。それより,あなたは,幽霊ですよね。体が透けています」

その人は手にした扇を口元に広げてフッと笑った。そのしぐさは優雅だけど,扇さえ透けているので,笑う口元が見える。

「そんなにあっさりと受け入れてくださるのですか?」

「だって,目の前にいて,こうして話を交わしているのですから。受け入れるしかないでしょう。ボクはこれまで霊感などなかったし,幽霊とか心霊現象なんて信じてもいなかったけど,こうもありありと目の前に現れたら,その存在を受け入れないわけにはいきません。それをどうやって科学的に説明できるかは,とりあえず不問にするとしても」

「ずいぶんと柔軟というか,心の広いお方ですね。わたしとしてはありがたいです」

幽霊と会話する。なんとも不思議で非日常的なことが,ごく自然にボクの日常に入り込むようだ。

「立ち話もなんでしょう。ここに留まらなければいけない事情がないのなら,一緒に歩きませんか?」

「はい,そういたします。・・・・あなたのことは,ヒロミと呼んでよろしいのでしょうか?」

「もちろん,それでかまいません。わたしはあなたを佐為と呼んでよいのですね?」

「はい。これまでもそう呼ばれていましたから」

「これまでも?」

その人,佐為はゆっくりうなずいた。そのうなずきに誘われるように,ボクは佐為に語りかけた。

「・・・・いや,ヒロミじゃなくて,ロミーと呼んでください」

「ロミー?」

「はい。子供の頃,親しい人たちからはそう呼ばれていたんです」

「では,ロミーとお呼びいたします・・・・それにしても,わたしを『親しい人たち』の仲間に加えてくださるのですか?」

「ええ。なぜか親しみを感じます。たった今お会いしたばかりなのに。まして,あなたは幽霊なのに」

こう言って佐為の顔を見る。佐為もボクの顔を見る。そして二人してフッと笑顔を見せあった。そしてボクは思い至った。ボクは,この白すぎる肌,亜麻色の髪,青い目のため,子供の頃「ガイジン」と嘲られた。ボクも,そんなふうにボクを嘲る悪ガキたちと付き合おうとしなかった。子供の頃,ボクは「異類」だった。周りはそのような目でボクを見,ボクも自分でそれを受け入れた。その体験が,同じ異類として幽霊を自然に受け入れているのか・・・・。

 墓地を抜けて,それなりに人通りの多い街路を最寄りの駅まで歩きながら,佐為という幽霊がボクにしか見えないこと,ほかの誰もその存在に気付かないことをはっきり理解した。誰も彼の存在を気に留めない。彼はすれ違う人を避けようとするけど,雑踏の中で避けきれないと,ほかの人の体やキャリーバッグや自転車さえ,彼の体をすり抜ける。だからこそ,彼はボクに「わたしが見えるのですか?」と問うたのだ。それにしても,なぜボクだけ佐為が見え,佐為の声が聞こえるのか? 問いたいけれど,ほかの人がいる中で,ボクにしか見えない,ほかの誰にも見えない幽霊に話しかけるのは憚られた。こんなボクの思いとは別に,佐為は,歩きながら,さらには電車の中で,自身の数奇な運命を語った。

 

― わたしは千年も昔,都で帝の碁の指南をしておりました。しかし,御前対局で罠に落ち,都を追い出されて,入水自殺いたしました。恨みと未練を残したわたしの霊は成仏することなく,それから何百年も碁盤に潜んでおりました。わたしは碁盤に近づく人に呼びかけるのですが,わたしの声は誰にも聞こえません。そんな虚しい数百年が過ぎたある日,虎次郎という幼い子供がわたしの声を聞いてくれたのです。その子供は碁を学んでおりました。そして,わたしの願いを聞き届け,以後はわたしに碁を打たせてくれました。・・・・ああ,もう分かっておられると思いますが,わたしには体がありません。自分では碁石はおろか塵一つ動かすことさえできません。ですから,わたしが碁を打つためには,虎次郎がわたしの声を聞き,わたしの言うとおりに碁盤に碁石を置いてくれないといけないのです。でもそれは,わたしを見ることのできないほかの人たちの目には虎次郎の碁にしか見えません。

わたしの棋力を宿した虎次郎の碁の名声は高まり,城碁を打つようになり,ついには本因坊家の世嗣に迎えられました。本因坊秀策その人です。秀策の体を借りて,わたしは碁の最善の一手,神の一手を目指しました。ですが,虎次郎は・・・・はやりやまいで34歳の若さで死んでしまいました。わたしは願いを遂げられぬまま,また碁盤に潜んで時を過ごすことになったのです。

それから百年以上を経て,進藤ヒカルという少年がわたしの声を聞きました。ヒカルは虎次郎と違って,碁にはまったく興味のない子供でした。でも,わたしの願いで碁会所に行き,そこにたまたま居合わせた同じ年頃の子供と対局してくれました。その子は塔矢アキラといって,すぐにでもプロの棋士として通用するほどの腕の持ち主でしたが,わたしは勝ちました。その時の塔矢アキラの真剣な眼差し。ヒカルはそれに感化されて碁に興味を持つようになりました。わたしはもちろん喜んでヒカルに教えました。わたしのすべてをつぎ込むように教えました。そしてヒカルはそれに応えてくれました。乾いた砂が水を吸い込むようにわたしの教えを吸収しました。しかも,ヒカルは塔矢アキラにも勝る素質,才能の持ち主でした。わたしから碁を学び始めて,たった2年でプロ試験に合格しプロの棋士になったのです。だけど,いや当然のことですが,ヒカルは自分の碁を打ちたがりました。

お分かりいただけますか?

さきほども申し上げたとおり,わたしは体を持ちません。自分では碁石を置くことができないのです。わたしが碁を打とうと思えば,ヒカルに打ってもらわないといけないのです。ヒカルが,自分の考えではなく,わたしの言うとおりの場所に碁石を置かないといけません。でも,それは傍目にはヒカルが打っていることになります。その頃,わたしとヒカルの棋力は圧倒的な差がありました。その状態でわたしが打てば,つまり,ヒカルにわたしの碁を打たせれば,ヒカルはあっというまに最強の棋士になってしまいます。そして,ヒカルが自分の碁を打とうとすれば,「手抜き」との非難を浴びることになるでしょう。ヒカルはそんなことを望みませんでした。当たり前です。碁打ちであれば誰しも,自分の碁を打ちたいのです。たとえ,自分で考えるよりわたしの言うままに打つ方が勝てるとしても,それでも,自分の碁を打ちたいと願うのです。それが碁打ちというものです。そして,ヒカルをそのような碁打ちに育てたのは,ほかでもないわたしなのです。こうして,ヒカルが自分の碁を打つためには,わたしに碁を打たせてはいけない,そんな状況になってしまったのです。

そんな中でも,ヒカルは,わたしが碁を打てるよう,できるだけのことをしてくれました。そして,日本棋界の最高峰と言うべき塔矢行洋名人とネット碁で対局する機会さえ作ってくれました。それはわたしにとって最高の対局,最良の思い出です。そして,ヒカルに最善の手を示すことができたと自負しています。この対局を終えて,わたしはまさにこのために,この最高の対局をヒカルに見せるために,ヒカルのもとによみがえったのだと悟りました。そこでわたしの役目は終わったはずでした。でも,わたしはまだずっとヒカルと一緒にいたかった。そして,わたし自身が碁を打つ機会を得て神の一手を極めたいと願っていました。だけど運命はこんなわたしの願いを聞くこともなく,役目を終えたわたしをヒカルから引き離したのです。

 あれから,どれほどの時が過ぎたのでしょうか。今,この電車の窓から見る景色は,ヒカルと別れた日からさほど時を隔てているように見えませんが・・・・ ―

 

 それは,進藤ヒカルという少年と別れたのが何年何月のことなのか教えてくれれば,答えられる。そう問いかけようとして,ボクは口をつぐんだ。今は電車の中。ボクたちの周りには多くの人がいる。それどころか,しだいに混み合ってきた車両で,ボクの前に立っている佐為の体に重なるようにほかの人が立っている。こんなところで,ほかの誰にも見えないはずの幽霊に話しかけるわけにはいかない。佐為は,ボクの戸惑いに気づいて語りかけた。

《ロミー,わたしたちは声を出さなくても語り合えます。ロミーがわたしに話そうと思ったことは,声にしなくてもわたしに通じます》

ボクは思わず前を見た。そしてすぐに視線を脇にそらした。佐為を見るボクの視線は,傍目には目の前に立っている人を見ていると思われてしまうから。

《信じられないですか? では試しに,何でもいいからわたしに話そうと思ってください。思うだけで,声には出さないで》

《ほんとうに,そんなことができるの?》

《ロミー,今「ほんとうに,そんなことができるの?」と言おうとしたでしょう?》

《うん》

《そう。こんなふうに,わたしたちは声を出さないで語り合えます。でも,ご心配なく。決してわたしがロミーの心の中を覗くというわけではありません。ロミーがわたしに話そうと思ったことだけがわたしに通じるのですよ》

《それならいいけど・・・・ところで,佐為はボクの部屋までついてくるの?》

《はい。そうです。そうせざるを得ません。わたしは,虎次郎,ヒカルの次に,ロミーに宿ることになりました。ロミーから離れることはできないのです》

《えっ!》

ボクは思わず絶句した。佐為はボクの反応を見て申し訳なさそうにしている。

《申し訳ありません。でも,決してご迷惑はかけません。幽霊ですので,飲み食いする必要はないし,着るものもこれだけで十分ですし・・・・ほかに,何が必要ということもありませんから》

《まあ,そうだろうけど・・・・》

ボクはこれまで誰かと一緒に暮らした経験はある。でも,もう8年ほども一人暮らしをしていて,それにすっかり慣れている。佐為が悪い人でないことは分かる。その美しく優雅な姿形や立ち居振る舞いは心地よいくらいだ。でも,これからずっと一緒にいるというのは・・・・。こんなボクの気持ちを察しているのかいないのか,佐為はボクに尋ねた。

《ロミーのお住まいはどのあたりに?》

《千葉》

《ちば?・・・・ちばというのは,あの一敗地にまみれた頼朝公を数千の軍勢で迎えた千葉常胤(つねたね)にゆかりの千葉でしょうか?》

《ずいぶん詳しいね。まさに,その千葉だよ》

《それは・・・・》

《ちょっと遠いね。でも,もうすぐだよ》

ここで会話が途切れた。

 やがて電車はボクの最寄りの駅に着き,そこから10分ほど歩いてボクの部屋に帰り着いた。佐為は部屋の中を見回している。

《ずいぶんきれいに片付いてますね》

「うん。いろんなものが乱雑に散らかっている部屋というのは,エレガントじゃないから。余計なものを持たず,少ない持ち物もきちんと片づけているのがエレガントで美しいよね。

“Simple is elegant. Simple is beautiful.”」

《申し訳ありません,今の言葉は何という意味でしょうか?》

「あっそうだ。英語には疎いはずだよね。『簡潔は雅。簡素は美』と言えば分かってくれる?」

《ああ,それは確かに。昔から文人墨客が理想としたものです》

「実を言えば,必要ないものを買うお金がないという事情もある」

とボクは笑った。佐為も笑っている。ボクは,部屋に着いたら声を出して話すことにした。声を出さないで語るのは慣れないせいか疲れる。もともと大声ではないから,隣に聞かれる心配はない。ボクは一番知りたいことを尋ねた。

「どうして,佐為はボクに宿ったの? ほかの誰でもなく,このボクに?」

《それは,わたしにも分かりません》

「そうなんだ・・・・じゃあ,なぜ,何のために,佐為はボクに宿ったの? もっと碁を打ちたいから?」

《そうです。もっと碁を打ちたいのです。神の一手を極めるために》

「でも,どうやって? 碁は相手がいないと打てないよ。ボクは相手になってあげられない。ボクの事情はおいおい話すけど,進藤ヒカルさんみたいに碁に興味を持つことはないと思うから」

《それは》

と言って佐為は机の上のパソコンを指さした。

《これはパソコンともうすものですね。これで碁が打てるはずです。ネット碁といいます》

「ああ,インターネットで碁が打てるんだ・・・・ずいぶん新しいことを知ってるね?」

《ヒカルと一緒の頃,1ヶ月ほど毎日のようにネット碁を打っていましたから》

「なるほど・・・・じゃあ,さっそく打ってみようか」

《よろしいのですか?》

佐為は跳び上がらんばかりに喜んでいる。その姿を見ると,ちょっとくらいネット碁に付き合ってもいいかと思う。

 パソコンを立ち上げ,インターネットに接続し,ネット碁ができるサイトを探す。幾つかあるけど,まあ適当にWorldGoというサイトにした。まずアカウントを作る。アカウント名は,Fujiwaranosaiでは長すぎるな。FJWRsaiでいいだろう。パスワードは・・・・FJWRromyでいいか。サクサクと作業を進めたけど,「段位の自己申告」という項目で入力作業の手が止まった。注意書きを読むと,WorldGoには20級から8段までの段位があって,最初は自己申告とのこと。ただし,実際に対局を始めて,勝敗から推測される実力が自己申告を下回っていれば,容赦なく段位が下がり,上回っていれば段位が上がる。基本的に自分が対戦を申し込めるのは自分の段より4段上までとのこと。弱い参加者がむやみに強い参加者に対局を申し込むのは,申し込まれる側にとって迷惑だから作られた規定らしい。ボクは佐為に説明する。

《では,8段と申告してください》

「すごい自信だね」

と話しかけると

《本因坊秀策ですから》

と胸を張って答えた。ボクは笑みをこぼした。とても美しくて優雅だけど,どこか無邪気というか子供っぽいところがある人だな。ともかく,アカウント作成が終わり,晴れて対局。同じ8段を名乗っている参加者にさっそく対局を申し込む。最初の2名には拒否されたけど,3人目は受けてくれた。佐為が扇で指示する場所をボクがクリックする。1時間もしないうちにあっさり佐為が勝った。

「ほんとうに強いんだね」

佐為は誇らしげにうなずく。その時,ボクにふとあることが思い浮かんだ。

「ボクは碁のことはほとんど何も知らないけど,本因坊という名前くらいは知っている。それと,とても碁の強い人は,碁を打ってお金を稼げることも知っている」

ボクはここで言葉を切って佐為を見る。思ったとおり,佐為はちょっと顔をしかめている。

「佐為のように純粋に碁を愛する人にとっては,碁でお金儲けする話を聞かせられるのは不愉快だと思うけど,ボクの事情が係わることだから,最後までがまんして聞いてほしい」

佐為はゆっくりうなずいた。

「ボクは,身寄りがないんだ。12歳の時に両親と姉が事故で死んだ。それからしばらく叔母さんのところに身を寄せていた。17歳くらいから東京に出てきて生活している。でも勉強は好きで,まあ自分で言うのも何だけど,頭も良かった。それで20歳で医学部に入学した。お金を出してくれる人がいないから,借金して学校に通った」

《借金?》

「奨学金と言うんだけど,要するに借金だよ。学費と生活費あわせて1年で200万,6年で1200万円。要するに今のボクは1200万の借金を抱えているんだ」

佐為は驚いたように目を見開いている。

「2年前に卒業して,今は研修の2年目。来年3月で研修は終わる。4月から医者になれば,1200万の借金を返すめどは立つんだけど・・・・」

ここでボクは言いよどむ。

《ロミーは医者になりたくない?》

ボクは言葉を選ぶのにちょっと考え込んだ。

「医学の勉強は好きだった。基礎医学も臨床系も。医者の仕事も嫌いじゃないんだ。内科系も外科系も精神科も。研修ではいろんな科をローテーションする。どの科もそれなりに面白い。でも,医者の仕事はそれなりに面白いけど,医者たちとの付き合いは・・・・。どうしてなんだろうね,医者,一人一人を見れば,悪人ばかりじゃないんだけど,それがたくさん集まって医者の世界を作ると,その世界は何とも・・・・いや,それは重大な問題じゃない。一番の問題じゃない。一番の問題は,ボクが迷っていることなんだ。このまま臨床医になるか,それとも研究者を目指すか」

《リンショウイ?》

「ああ,佐為には分からない言葉だね。臨床医というのは,まあ,普通のお医者さん。患者を診て,治療するお医者さん」

《そのほかに,どんな医者がいるのでしょう?》

「患者を診ないで,研究している人たちもいる」

《なるほど。それで,ロミーは研究者になりたいと思っている》

「そこが,ボクにもはっきり分からないんだ。興味のある分野,好きなテーマはある。比較解剖学とか進化形態学と言われる分野なんだ。子供の頃から好きだった」

《難しい言葉を言われても分かりませんが,子供の頃から好きだったのなら,その道に進めば良いのではないですか? わたしが碁の道に進んだように》

「そこで迷っているんだよ。確かに子供の頃から好きだったけど,自分の一生の仕事にするほど好きなのかと自問すると,確信がもてない。かといって,こんなあやふやな気持ちで臨床医になって患者を診るのは,患者に失礼だね。そう思って,とりあえず自分の研究への熱意を見極めようと思って,来年の4月から,進化形態学関係の講義を聴講する手続きを進めている。ただ,そうなると,しばらく無収入になるんだ」

佐為はうなずいた。

《・・・・分かりました。事情はおよそ分かりました。そのように迷うのは,それだけ医者の仕事についてまじめに考えているからこそでしょう。医者という仕事について真剣に考えていればこそのことでしょう。いい加減な気持ちで医者になる者たちより,よほど立派ですよ。・・・・つまりロミーは,これからしばらくの間は,わたしが碁を打って稼ぐお金で生計を立て,その間に自分の行く末をじっくり考えたい,迷いを振り切るための時間がほしいということですね。よろしいですよ。そういうことなら許せます。手助けしましょう。それに,むしろうれしいくらいです。わたしはロミーの体を借りないと碁を打てません。ロミーがわたしに代わって碁を打ってくれるのは,わたしにとってこの上なく大きな恩義です。その恩義に報いるために,これからしばらくロミーの生計を支えるのは,ささやかな恩返しですよ》

「佐為,ありがとう」

ボクは深々と頭を下げた。

《ロミー,頭を上げて。そんなに深々と頭を下げないでください。そんなに頭を下げられるほど大それたことをするわけではないのですから》

ボクは頭を上げ,ゆっくり首を振った。

「大きなことなんだよ。生身の人間は,幽霊と違って,飲み食いしないといけないし,たまには服も買わないといけないし,雨露をしのぐ住まいも借りないといけない。そのためのお金を稼がないといけない。その苦労を解消してくれるのは,大きなことなんだよ。ボクが迷うための時間を与えてくれるのは,大きなことなんだ」

佐為はこう語るボクに慈しむような笑みを見せた。

《それにしても,借金してまで勉学に励むとはなんとも見上げた・・・・ヒカルに爪の垢でも煎じて飲ませてあげたい》

「えっ?」

《あっ,いや,何でもありません》

そのあわてぶりに,この場の雰囲気がなごんだ。「ヒカル」という名前を聞いて,ボクはインターネットで「進藤ヒカル」という名前を検索した。同姓同名の人が何人かいるけど,棋士の進藤ヒカルは一人しかいない。日本棋院のサイトに小さな顔写真付きで略歴が記載されている。

「佐為,ヒカルって,この人?」

佐為はパソコンの画面を見て,一瞬驚き,懐かしむような表情になり,そして涙を浮かべた。

《ヒカル・・・・》

それから先は言葉にならないような。ボクは紹介記事を読む。

「1986年生まれ。ボクより8歳年下だね。今19歳だけど,別れた時は何歳だったの?」

《確か,14歳でした》

「じゃあ,5年前なんだ」

こんなボクの言葉が耳に入っているのかいないのか,佐為は進藤ヒカルの写真をじっと見つめている。

「会いたい?」

佐為はしばらく考え込んだ。

《いえ,会わない方がいいでしょう。ヒカルはこの5年の間に自分の碁を作り上げ,自分の世界を築いているはずだから。わたしが邪魔しない方がいいはずです》

佐為は深く自分の思いに沈んでいる。

「画面を変えるよ」

と声を掛けて,ボクは,アマチュアも参加できて賞金稼ぎのできる碁のイベントをインターネットで調べた。意外なほどあっさりと見つかった。「日本オープン碁トーナメント」。全国を16の地区に分け,地区大会を行ない,その優勝者16人とプロなどのシード棋士16人あわせて32人で全国大会を行なう。1回戦,2回戦,準々決勝,準決勝,決勝を勝ち抜けば優勝。優勝賞金は300万円。

「300万あれば2年暮らせるね」

《そうですか?》

「うん。1年で150万,1か月12万5000円。それだけで生活する自信はあるよ。15万なら余裕だね」

こんな冗談を言いながら,ボクはサイトの説明を読んでいく。地区大会は5月から7月にかけて行なわれ,全国大会は9月から10月にかけて行なわれる。参加申込みはその年の1月から3月末まで。

「来年になったら申し込もう。それまではネット碁で腕を磨こう。佐為の強さはさっきの対局で分かったけど,佐為の目指すのはトーナメント優勝なんて小さな目標ではないからね」

佐為はうれしそうにうなずく。ボクは時計を見る。まだ8時をちょっと回ったくらい。

「今夜は,寝るまでネット碁をやる?」

《よろしいのですか?》

「うん。ご祝儀だよ。生活の不安を取り除いてくれたことへの感謝を込めて」

《わたしこそ,ありがとうございます》

そう言って,ネット碁を始めたら真剣な勝負師の表情になった。12時近くまで,何局打ったのだろう。よく覚えていない。すべて佐為の勝ち。これが新たなsai=FJWRsaiの不敗神話の始まりだとは,この時のボクには思いも及ばなかった。

 

 翌日,ボクは日傘をさして仕事に出かける。佐為は驚いた。

《冬に日傘をさすのですか?》

「ボクはそうしないといけないんだ」

と言って,ボクは事情を説明した。医学的にはアルビノ症,メラニン色素が合成できない先天異常。直射日光を浴びるとやけどのように肌が赤く腫れあがり,長期的にはガンのリスクが上がる。だから,日中の外出は厳重に制限されている。どうしても日中外出する時は夏でも長袖に長ズボン,日傘をさし日陰を選んで歩く。だからボクは物心つく頃からほとんど外でほかの子たちと遊ばず,家の中で本を読んで過ごした。

《それで,ロミーは物知りなんですね。でも,ほかの子供たちと外で遊べなくて,かわいそうでしたね》

「そんなことはなかったよ。ボクにとってはむしろうれしいことだった。本を読むのが好きだったし,がさつな野蛮人みたいな子供たちと一緒に外で遊びたいなんて一度たりとも思ったことはないから」

《そうですか・・・・》

「それに,夕日が沈む頃には散歩することも許されていたんだ。姉と一緒に散歩して,夕焼けを眺めていた。三日月も。日の光より月の光が好きだけど,とりわけ三日月が好きだよ」

《ああ,蛾眉の三日月。すてきですね》

その姉がヒカルという名前であることは話さなかった。まだ佐為には話せない。進藤ヒカルさんと同じ名前だから,かえってうかつに話せない気がする。

 こんな話をしているうちに,研修先の病院に着いた。研修の間,佐為はずっとボクのそばにいる。ボクに宿った幽霊だから当然なのだけど,そばに幽霊の存在を感じながら仕事をするのは奇妙な感覚だった。でも,それもじきに慣れた。

 仕事を終えて帰る時,外はもうすっかり夜だった。

「初夏の頃は,この時間にちょうど夕焼けなんだけど,今の時季だともうすっかり暗くなっているね。その代わり星が見えるから,それはそれでいいんだけど」

そう言いながら,ボクは冬の星空を指さした。シリウスはまだ昇っていないけど,オリオン座,牡牛座,御者座は東の空に見える。佐為もボクの指さした方角を見ている。すばるは4等星の集まりだから都会の空では見えにくい。

「『星はすばる』と清少納言が称えているけど,よく見えないね。都会は地上の明かりが多すぎて,夜空が真っ暗にならないから,すばるのような光の弱い星たちは見えにくいんだ」

そう言って,ボクは牡牛座を構成するV字形のヒアデス星団の上の方を指さした。そこにあるはずと思って目をこらせば,何とか見える。佐為も見つけたらしい。

《ああ,そうやって指さされれば見分けられます》

「星も好きだった。星にまつわる神話や物語。それに,星の科学もね。天文学,ニュートン力学,相対論,宇宙物理学,原子物理学,素粒子論・・・・」

 こんな話をしながら帰宅して,軽い夕食を摂り,ボクはその日の研修で気づいたこと,学んだこと,あるいは疑問に思ったことや「こうしておけばよかった」という反省などをパソコンのノートに記入する。それが終わると,佐為のネット碁に付き合う。だいたい2局。たまに3局。それが終わるとボクの勉強。そして12時前くらいに寝る。これが,佐為がやって来てからのボクの生活パターンになった。当直のある日は,残念ながらネット碁はできない。それは佐為も了解してくれる。その代わりというわけでもないけど,休みの日は,午前と午後と夜に2局ずつくらい対局する。

 

 佐為との生活は静かに淡々と流れていく。年が明けて,ボクはトーナメントに参加を申し込んだ。この頃になるとネット碁の世界で佐為の強さが広く知られるようになったらしい。ログインするとすぐに対局が申し込まれる。それもほとんど8段とか7段といった強い人たちから。佐為は喜んでいる。ボクも,佐為の強さが認められるのはうれしい。ボク以外の誰にも見えない佐為だけど,ネット碁の世界には佐為が確実に存在している。

 ネット碁を終えてボクが勉強している間,佐為は静かに過ごしている。打ち終えたばかりの対局の経過をたどりなおして検討しているのだと語る。でも,たまに勉強しているボクを斜め後ろから見守っていることもある。

「退屈しない?」

《そんなことはありません。人が熱心に勉強している姿は見ていて飽きません》

「それならいいけど」

《それに,ロミーが勉強している姿は凜々しいですよ》

「凜々しい?・・・・初めてだよ,そんなこと言われるの」

《勉強しているロミーの凜々しさを分かる者がこれまで一人もいなかったのですか? それこそ,信じられないですね》

「まあ,ボクは勉強する時は一人だから,考えみるとボクが勉強している姿を目にするのは佐為が初めてかも」

《なるほど,それで納得しました》

ごくたまには,話しかけることがある。「勉強の邪魔になるのなら,相手しなくていいのですが」と断りを言って。勉強の内容に興味があるらしい。ボクは,めったに断らない。ボクにとって無駄なおしゃべりではないし,佐為と語り合うのは,楽しいから。人と語り合うのが楽しい,何年ぶりだろう,この感覚。

 

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(ここから第三者視点)

 

 ヒカルは「塔矢,いるか?」と声をかけて塔矢邸に上がり込んだ。

 最初の出会いから7年あまり。ヒカルは,行洋夫妻がいない日には遠慮なく塔矢邸を訪れ,夜が更けるまで碁を打つ。夜が遅くなると泊まっていくこともある。対局の後の検討で「子供のけんか」のような激しい言い合いになるのは相変わらずだが,棋界にあって若手の両翼と見なされている二人は互いに良きライバルであり,かけがえのない友でもある。そして,ほかの誰と打つよりも,ヒカルはアキラと打つのが,アキラはヒカルと打つのが楽しいと感じている。その気持ちを相手に伝えるのはできないままであるけど。

 その日,いつも碁を打つ座敷で,アキラはパソコンに向かっていた。

「棋譜の整理か?」

とヒカルが声をかけても振り向きもしない。画面を見ると,ネット碁をやっている。「オマエがネット碁なんて珍しいな。明日は雪でも降るか」などと冗談を言おうとしたヒカルはパソコン画面に繰り広げられる対局に目を奪われ,冗談を言うゆとりなど消え失せた。

「佐為・・・・」

思わず口にしてしまった。はっと思って口を手で押さえたが,幸いアキラは対局に夢中で聞こえなかったようだ。アキラはすぐそばにいるヒカルの存在に気づかないほど,パソコン上の対局に集中している。その傍らで,顔色の変わったヒカルは心の中でつぶやいた〔佐為,いつ戻ってきたんだ? 今どこにいるんだ? なんで,オレじゃなくて,ほかの人なんだ?・・・・〕アキラが対局に集中しているのがありがたかった。

 対局は30分ほどで終わった。アキラの中押し負け。この間,ヒカルは平静をよそおい,冗談をたたけるほどには落ち着きを取り戻した。

「史上最年少の名人様が中押し負けかよ」

アキラは脇にいるヒカルに顔を向けた。いささかむっとした表情。

「来てたのか」

「30分くらい前にな」

いつものアキラなら,自分をからかうような冗談に本気で返すのだが,この時は,平静をよそおいながらもヒカルの瞳に浮かんでいる悲しみ,寂しさの色に気づいて,〔進藤は時おり,こんな表情を見せる〕と思いながら,怒りの口調を抑えた。

「相手がsaiなら,負けても恥ではないよ」

「本物のsaiなのかよ」

「この打ち筋を見て,saiじゃないと言うか? どう見ても,saiだよ。かつて1ヶ月だけネット碁に存在し,ボクを打ち負かし,不敗神話を作り上げ,忽然と姿を消し,それから1度だけ現れて父と対局した。あのsaiのほかに,誰が考えられる? saiが復活したんだよ。5年の時を隔てて。今回はFJWRsaiと名乗っているけど」

 もちろん,ヒカルにもそれがsai=佐為であることはよく分かっている。

「いつから,いるんだ」

「1ヶ月くらい前,去年の12月の中頃かららしい」

「もう,何度も打ってるのか?」

「いや,ボクはこれが初めてだ。『今回は』と言うべきかな・・・・キミこそ,まだsaiと対局していないのか?」

「あっ・・・・オレは,まだだ・・・・」

ここでヒカルは黙り込んだ。アキラは考える〔進藤がここにいるということは,saiは進藤じゃない。でも,かつて,6年前,7年前,確かに進藤の中にsaiがいた。そうとしか思えない・・・・〕そしてアキラはヒカルに話しかける。

「相変わらず,saiは対局の後にいっさい検討をしない。キミ,saiの立場になって今の対局をボクと検討してくれないか?」

「オレがsaiの立場になる?」

ヒカルは,また内心によみがえりそうな動揺を隠すため,ぶっきらぼうな口調で問う。

「無理かい?」

「無理に決まってるだろう」

「そうか・・・・」

こうなると,ヒカルをこれ以上問い詰めても仕方ないと,アキラは長年のつきあいから学習している。アキラは碁盤を取り出して二人の間に置いた。

「打とうか」

「ああ」

ヒカルはアキラに向き合って座る。打ち始めれば,対局にひたりきるのはヒカルもアキラも同じ。雑念や不安が消え去り,ヒカルの心は澄み渡る。〔ああ,オマエと打ってるのが一番楽しい〕

 1局打ち終え,いつものようなけんか腰の検討も終える頃には夜も更けていた。

「泊まっていくか?」

「いや,今日は帰る」

そう言って,ヒカルは塔矢邸をあとにした。

 

 sai=佐為の復活に動揺しながらも,ヒカルはもう14歳の子供ではない。動揺しながらも手合をサボりはしないし,気が散って負けることもない。sai=佐為の復活はヒカルの対局に何の影響も及ぼさない・・・・いや,そうではない。それは確かにヒカルの対局に影響した。ヒカルは強くなった。碁を打つことで,対局に没頭することで,内心の動揺を乗り越えようとするかのように,ヒカルはひたすら打った。

「進藤9段,また一段と強くなった」

「一皮むけたみたいだな」

「鬼神のような強さだ」

などと,ささやかれた。ただ,体には負担となった。対局の後にしばらく立ち上がれず,対局の相手から「進藤9段,大丈夫ですか?」と声をかけられることもある。対局を見に来ていたアキラから「進藤,大丈夫か?」と体を揺すられることもある。こんな時,ヒカルはいつもの口調で,

「こんだけの碁を打ったんだ。疲れるのが当たり前だろう」

と切り返す。

 折からの本因坊リーグ戦を鬼神の強さで勝ち抜き,挑戦者となった。

 

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(ここからロミー視点)

 

 2月末頃の土曜日の夜だった。ネット碁を終え,勉強を始めた頃から千葉に珍しい雪が降り始めた。車の往来も減り,街のざわめきも雪に吸い取られる静けさの中,佐為が語りかけた。

《もう2か月あまり,わたしはロミーを身近に見ています。医師として仕事をする時も,こうやって自分の部屋で勉強する時も。ロミーはまじめに研鑽を積んでいます。そして,誠実です。もしわたしが病気になったら,ロミーに診てもらいたいと思うほどです。それなのに,どうしてロミーは医者,臨床医になるのをためらうのですか?》

ボクは佐為の方に向き直った。佐為はボクをまじめなまなざしで見ている。ボクは心の中でつぶやいた〔そうだね。佐為にはきちんと説明しよう。佐為なら分かってくれるかもしれない〕

「どうして医者になるのをためらうのか,それは,ボクには心がないから。心がないかもしれないと恐れているかから」

《心がない? それはいったいどういう意味ですか? ロミーに心がないなんて,こんなに優しく気配りのできるロミーに心がないなんて》

「それはね・・・・」

ボクは佐為を見る。

「佐為,これからの話はかなり長くなる。途中で何か言いたくなるかもしれないけど,とりあえず最後までボクに話させて」

佐為はしっかりうなずいた。ボクはゆっくり深呼吸して,話し始めた。

「たとえば,誰かを好きになったとする。たいていの人は,男であれ女であれ,相手に告白しようかどうしようか迷い,思い悩むのが普通だけど,ボクはそれを見ていて『さっさと打ち明ければいい』と醒めた気持ちで考えるんだ。そんなことをウジウジ悩んでいるのは時間の無駄,心の無駄遣い。さっさと告白して,相手が受けてくれればもちろんうれしいし,拒否されても,もうそれで相手の気持ちを思い悩む必要はなくなるから,それはそれで悪くない。どうしてこんなふうに割り切れないんだろうと思ってしまう。

たとえば,誰かと付き合っているとする。なぜか分からないけど,相手に嫌われてしまって,もう付き合いたくないと言われたら,もちろんボクだって悲しい。でも,それはそれで仕方ないと割り切って,後に引きずらないと思う。『去る者は追わず』とさらりと割り切る。だから,そんな時に未練がましく思い悩み,悲しみ,傷つく人を見ていると,歯がゆくなるんだ。

たとえば,誰かと付き合っているとして,それでも,毎日24時間一緒にいるわけじゃない。ボクは,その人がボクと一緒にいる時,ボクに優しくしてくれれば,それでいい。ボクと離れている時,ほかの誰かに優しくしていても,別に何とも思わない。だって,自分のそばにいない人が自分の見えないところで何をしていても,ボクには関係ないことだから。でも,たいていの人はこんな時に嫉妬するんだよね。なぜ,嫉妬なんてするんだろう。自分も幸せにしないし,相手も幸せにしないのに。

昔,ある人にこの話をしたことがある。その人は『ロミーはほんとうの恋をしたことがないのよ』と言った。そう言われた時,ボクの半分は『だったら,人はほんとうの恋なんかしない方が幸せ』と思った。でも,ボクのもう半分は『ひょっとしたら,ボクには,何か決定的に大切なものが欠けているのかもしれない』とも思った」

ボクはここで一息ついた。佐為はじっとボクを見ている。ボクは話を続けた。

「こんなこともある。ボクは好きなものは好き,嫌いなものは嫌い,正しいと思うことは正しい,間違っていると思うことは間違いと,嘘偽りなく言うんだ。その方が人として正しい生き方だというだけでなく,その方が楽だから。自分の気持ちや判断を偽るより,正直である方がずっと楽だから,そうしている。その結果,誰かから嫌われるとしても,それはそれで仕方ないと割り切れる。人に嫌われないために自分の気持ちを偽る方が辛いから,正直に振舞う。でも,たいていの人はこんな風に割り切れないで悩み苦しむんだよね。

現実の世界もそうだし,物語の世界でもそうだね。たとえば『源氏物語』を読むと,好きを好きと言えない悩み,嫌いを嫌いといえない苦しみ,去って行く人への未練,愛しい人への嫉妬,率直な振る舞いを許されない苦悩とかが描かれている。その気持ちを理解はできる。頭で理解することはできる。でも心で感じること,自分のこととして切実に体感することはできないんだ。そんな悩みや苦しみはボクには縁がないから」

ボクはここまで話して,佐為に顔を向けた。佐為もボクを見つめる。そして,ボクに語りかけた。

《それは,少しも悪いことではないと思います。そのように何事もさらりと流せて余計な嫉妬もしないのは,むしろ立派なことではないでしょうか? 正直は恥じるべきことではありません。人の機嫌を取るために自分の気持ちを偽る必要はありません。確かに,恋を知らないのは不幸かもしれません。でも,それを補ってあまりある幸せがあると思います。ロミーの生き方には》

「ボクもそう思う。『君子の交わりの淡きこと水の如し』というのはボクの理想だし,人とそのように付き合える方が幸せだと思う。自分を偽るより自分に正直に生きる方が幸せだと思う。ただ,ボクは普通の人たちの悩みや苦しみが分からないということなんだ。いや,一応は分かると言ってもいい。人はこんな時こんな風に悩むんだろう,こんな風に苦しむんだろう,こんな風に嫉妬に胸を焦がすのだろうと理解はできる。でもその気持ちを自分のこととして切実に感じることはできないんだ。むしろ,そのような感情にとらわれる人たちを冷ややかに見てしまいがちなんだ。ボクが誰とも付き合わず一人で生きていくのなら,人と触れ合うことのない仕事をするのなら,それで構わない。でも,医者というのは,人と触れ合わないではいられない仕事なんだよ。しかも,医者の方が患者より強い立場なんだ。強い立場の方が弱い立場にある人の思いに配慮すべきはずだけど,相手の思いそのものを実感できないとしたら,ボクは知らず知らずのうちに患者を傷つけてしまうんじゃないかと心配なんだよ。多くの人が悩み苦しむことに悩みもしない苦しみもしない人間が医者になっていいのかと迷うんだ。まして,ボクが一番興味のある臨床科目は精神科なんだ。今ちょうど,研修でやってるところだけどね」

佐為はボクをまじまじと見る。そしてフッと息を漏らした。

《ロミーは,ほんとうに誠実な人ですね》

佐為はボクを慈しむように見る。こういう時,ボクは佐為がずっと年上に見える。見た目は同じくらいの年頃なのだけど・・・・。

《それで,ロミーは臨床医の道は選ばず,研究者になるつもりなのですか?》

ボクは,自分の思いから引き戻された。

「それは,この前も説明したけど,その点で迷っているんだ。臨床医の仕事も諦めきれてはいないけど,とりあえず,もうちょっと勉強を続けたい・・・・ああ,ちょうどいい機会だ。説明しようか,ボクが興味を持っている比較解剖学,進化形態学のこと。佐為はけっこう知的なことに興味があるみたいだから」

「それはぜひ,お願いします」

佐為の目が輝いている。

佐為の知識はたぶん幕末のレベルで止まっている。進藤ヒカルさんとこの種の話はほとんどしていないだろうから。だから,幕末の人にも分かるように進化論の基礎を説明し,それから動物の体の進化,魚類から哺乳類に至る体の形の進化を説明する。そして,人の体の進化論。もともと魚から進化したヒトという生き物が,遠い昔の魚類や爬虫類から受け継いだ体の構造を,直立歩行という自分の条件にあわせて変化させ,使いこなした。その結果としての今のヒトの解剖的構造。その構造の部品一つ一つもまた機能にあわせた意味ある形になっている。こんなボクの話を,佐為はまじめに聞いている。真剣な興味を示し,理解している。

「佐為は碁バカじゃないんだね。碁以外のことにも興味を示すんだね。そして,すごく理解力がいいよ」

ボクは素直に褒めたつもりだけど,佐為は気分を害した。

《何をおっしゃいますか。わたしだって,和歌も学びました。笙や琵琶もたしなみます。舞だってちゃんと舞えるんですよ》

まじめに反論する佐為の表情に思わず笑みが漏れそうになる。こういう時の佐為は子供っぽい。

「ごめん,ごめん」

ボクは素直に謝った。それから,ちょっと間をおいて話を続けた。

「最近知ったんだけど,進化形態学のほかに,進化心理学というのもあるらしい。心を進化論的に研究する分野」

「・・・・?」

佐為は何のことだか分からないような表情をしている。無理もない。でも,説明すれば分かってくれるはず。

「佐為,動物に心はあると思う?」

佐為はちょっと考え込んだ。

《あると思います。犬や猫を見ていて,喜んだり悲しんだりしているように思えます。馬や牛もそうです》

「そうだね。心は直接には見えないから,確実なことは言えないけど,目に見える表情や行動から推測する限り,哺乳動物には心というか,感情,あるいは情動はありそうだね。じゃあ,魚には?」

《魚の心ですか?》

佐為は返事に詰まった。

「今の段階の研究によれば,魚類や両生類もごく原始的な感情,情動,とりわけ恐怖は持ち合わせていると考えられている。その方が生存に有利だから」

佐為は首をかしげている。

「ちょっと考えてごらん。蛇を見て反射的に『怖い』と感じて逃げ出すカエルと,蛇を見ても平気でいるカエル,どっちが生き延びやすい?」

《ああ,なるほど,そういうわけですね》

「そういうわけだよ。生存に有利だから恐怖という感情が動物の脳に生まれ,維持された。やがて,爬虫類を経て鳥類になれば,恐怖だけじゃなく喜びや愛着といった感情も生まれたと推測されている」

《確かに,雛を育てる親鳥を見ていると,そう思えます》

「うん。雛を愛し丹念に育てる親鳥の方がそうでない親鳥より自分の子孫を残しやすいだろう。だから愛着も生存に有利だね。とまあ,こんな具合でいろんな感情が生き物の脳に生まれ,定着していった。そしてボクたちヒトに至る。基本的に,感情は生存に有利だから脳に固定された。生存に不利な感情,そんな感情を持った個体は淘汰されたんだろう。こんな進化論的な観点から動物やヒトの心を研究する分野だよ」

「なんだか,おもしろそうですね」

「うん。だから,この4月から,進化形態学だけでなく進化心理学の講義も聴講することにしてるんだ」

 こんなことを語り合ううちに,窓の外がかすかに明るくなっていた。雪明りだけでない,長い冬の夜が明けかけた,朝の先駆けのかすかな光も空から漏れているようだった。

 

 臨床研修ローテーションの最後は精神科だった。その日の仕事を終えて病院の廊下を歩いていると,教授が話しかけてきた。

「学生の頃から,キミには目をつけていたんだけどねえ。わたしだけじゃない。たぶんすべての科の教授がキミを自分の医局に迎えたいと思っていただろう。学生の時から群を抜いていたけど,研修に入っても卒業したばかりとは思えない手並みで仕事をこなしている。別に研究の意義を軽んじるわけではないが,なぜ臨床の現場に立とうとしないのだ? なぜ,その人並み優れた能力を患者のために役立てようとしないのだ? そもそも,キミを引き付ける研究とは,どんなものなんだ?」

「進化形態学と進化心理学です」

ボクは簡潔に答えた。

「進化心理学・・・・そんなもの・・・・」

と言って,さすがにまずいと思ったのか教授はそこで言葉を切った。ふだんのボクなら,そんな言葉はさらりと受け流しただろう。でも,この時,ボクは一言返したかった。

「お言葉ですが,進化心理学は『そんなもの』ではありません」

ボクは教授をきつい視線で見つめる。教授も,一介の研修医から反論されて不愉快なのだろう,ボクをにらみつけている。ボクはそんな教授に背を向けて歩き始めた。佐為があわててボクに話しかける。

《ロミー,大丈夫なんですか? 教授にあんな口をきいて》

《大丈夫だよ。どうせ3月末でこの病院とは縁が切れるんだ》

《そうかもしれませんが・・・・いつの日かロミーが迷いを吹っ切って医者の仕事をしようと思った時,教授の機嫌を損ねていてはまずいのではありませんか?》

《その心配も不要だよ。・・・・佐為,世界は広いんだ。その広い世界で,たかだか1つの大学の医学部の精神科の教授の力が及ぶ範囲なんて,米粒ほどに小さなものだよ。小さな米粒の外には,広くて自由な天地が広がっているんだよ》

ボクは明るい口調で明るい表情で佐為に語りかけた。

《ロミーは見かけによらず豪胆ですね》

《豪胆・・・・? 豪胆というのとは違うと思うな。そうじゃなくて,ボクは無意味な恐怖は抱かないんだ。今のボクにとって医学部の精神科の教授を恐れる理由はない,だから恐れない。それだけのことだよ》

《そのようにきっぱり割り切れるのを「豪胆」と言うのですよ。恐れるべき理由のあることさえ恐れないのは「蛮勇」というものです》

《なるほど・・・・》

 

 3月末で臨床研修が終わった。4月になって,ボクは進化形態学や進化心理学に多少なりと関連のある講義を聴講するため,医学部のある亥鼻(いのはな)キャンパスから,理学部や文学部のある西千葉キャンパスのそばに引っ越した。

 週にいくつか,学部や大学院の講義を聴き,図書館で文献を探し,借り出せないものは館内で閲覧し,借り出せるものは借りる手続きをする。そばにはいつも佐為がいる。佐為はボクと一緒に興味深げに講義を聴いている。

《今の世にはこのような学問があるんですね。わたしにとって学問といえば,四書五経,仏教の教学,あるいは『史記』や『漢書』のような歴史書だったのですが》

《秀策の時代には蘭学もあったでしょう》

《ああ,ありました。わたしはあまり深く触れる機会がありませんでしたが》

《おおざっぱに言えば,今の世の学問の多くは蘭学の系譜を引いてるんだよ》

《そうなんですか・・・・》

 佐為は美しくて優雅なだけでなく,知性にも恵まれている。その知性を碁だけに使うのはもったいないとボクはつい思ってしまう。一度,それを口にしたことがある。佐為はとても気を悪くした。

《何をおっしゃいますか! わたしには碁があればそれで十分なんです。わたしにとって碁は,ロミーにとっての医学のようなもの。ひょっとしたらそれ以上のものなんです。「碁だけに打ち込むのはもったいない」とは,何という言いぐさ!・・・・》

《分かった,分かった。佐為,そんなに怒らないで。もう二度とこんなことは言わないから》

ボクは必死で佐為の怒りをなだめた。「地雷を踏む」とは,こういうことなんだな。

 こんなふうに佐為を怒らせたこともあったけど,研修が終わってからは自由な時間が増えたので,佐為にたくさんネット碁を打たせてあげられる。だから,基本的に佐為は機嫌がいい。そして5月,トーナメントの予選が始まった。

 

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