Honesty   作:松村順

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ヒカル

Ⅲ ヒカル

 

(ここから第三者視点)

 

 佐為との対局の2日後,アキラは,その日用事で棋院に来ていたヒカルをつかまえて話しかけた。

「ボクと佐為の対局,見てくれたかい?」

ヒカルは黙ってうなずく。

「一緒に検討したいんだ。ほかにも,いろいろ話したいこともある。このところ,すれ違いが多いからね」

実際は,すれ違っているのではなく,倉田に無残な敗北を喫した後,ヒカルがアキラを避けている。アキラもそれに気づいているが,敢えて責めないような言葉遣いをした。

「これから用事がないのなら,久しぶりにうちに来ないか?」

「オマエんちか?」

ヒカルはためらっている。塔矢邸でアキラと二人になればどんな話が出されるか,想像できる。そんなヒカルの気持ちを察して,アキラはヒカルに顔を寄せ小声でつぶやいた。

「決して,キミを責めるようなことは話さないから」

それを聞いて,ヒカルはちょっとびっくりした。そして,なんだかおかしくなった。

「オマエがオレを責めないなんて,そんなことこれまで一度でもあったかよ」

アキラはムッとしかけたが,ここは抑えた。

「たまには,そんなこともある」

いつもらしくないアキラにヒカルはまたおかしさがこみ上げた。それが,ヒカルの心に少しばかり余裕を与えた。アキラと二人になればどんな話題になるかは容易に想像できるけど,それもいいかと思う。いつか話そうと思っていた,それを話すよい機会かもしれない。

「まあいいか。名人様のたってのお願いとあっては」

 

 塔矢邸。いつもヒカルとアキラが碁を打つ座敷。アキラが佐為との対局の石を並べていく。まぎれもない佐為の手筋を見て,ヒカルはどうしても目頭が熱くなる。〔とうとう佐為が,自分の名を名乗ってアキラと対局したんだ〕検討は終盤のアキラの一手に至った。

「自慢じゃないけど,オレ,テレビで見ていて,オマエが気づく前に分かったぜ。オマエの手に秘められていた意味。オマエの手を見て佐為が考えたこと」

「そうか」

「佐為の考えることは,オレにはよく分かる」

思わず口をついて出てきた言葉。言ってしまって,ヒカルはうつむいた。そして,アキラの顔を見ないまま,話しかけた。

「対局の後,いろいろ話したんだろう?」

「ああ,いろいろ話してくれた」

「オレのことも」

「うん」

ヒカルは顔をあげてアキラを見つめる。その表情に安堵がにじんでいる。でも,悔いと落胆とわずかばかり怒りも混じっている。

「先に話されてしまったな。いつかオマエには話すつもりでいたけど,オレが話す前に話されてしまったな」

「ボクが無理に聞き出したんだ。藤原さんは,なるべくキミの名前を出したくなかったんだ。優勝者インタビューで記者にそう対応していただろう」

「だけど,オマエは無理に聞き出した」

アキラはむっとした気持ちになったが,我慢した。〔今日は,どんなことがあっても,ボクは進藤に対して怒らない〕

「どうしても知りたかったから。それで,キミのことを話してもらう代わりに,ボクは2つの約束をさせられた。1つは他言無用ということ。もう1つは,キミをぜったい責めないということ」

「責めない?」

「そう。キミが,佐為が宿っていた頃のキミが佐為の存在を隠そうとしたことも,そのために嘘を重ねたことも,その頃のキミにとっては仕方ないことだったんだから,それを決して責めないようにと」

「そんなこと,言われたのか?」

「そうだよ。くれぐれも念を押された。どんなことをしてでも,キミを傷つけるのを避けたいようだった」

ヒカルはフッと息を吐いた。

「優しい人だね。そこまでオレのことを考えてくれてるんだ」

「そうだよ」

ヒカルはちょっと皮肉っぽい表情をした。

「どうりで,オマエが優しいわけだ。ふだんなら,オレの顔を見るなり『ふざけんな!』と怒鳴りそうじゃないか」

アキラは苦笑いした。

「進藤,どうやらいつもの進藤が戻ってきたみたいだな。そんな憎まれ口をたたくとは」

二人は顔を見合わせて笑った。ヒカルの笑みには,まだ寂しさが残っているが。そんなヒカルに,アキラはまじめな顔に戻って語りかける。

「進藤,なるべく早く藤原さんに会いに行くといい。藤原ヒロミさんだけじゃなく,藤原佐為にも。今のキミには,それが必要だよ。二人とも,ぜったいキミを歓迎してくれる」

「『二人とも』・・・・藤原ヒロミさんはオレを歓迎してくれるかな?」

「あたりまえじゃないか。そうでないことなんか,あり得ないだろう。でなきゃ,なぜこれほど細やかな心遣いをするんだ。あの人が,キミに」

「・・・・塔矢・・・・ありがとう」

 

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(ここからロミー視点)

 

 塔矢アキラとの対局から3日後,ヒカルさんから連絡があった。塔矢アキラにボクのメールアドレスを教えていた,そのアドレスにメールが届いた。ぜひ会いたいということ,そして,わがままを聞いてもらえるなら,実家の自分の部屋で会いたいということ。

「わたしがヒカルと一緒に過ごした部屋です。ヒカルは今は実家を出て一人暮らししているらしいですが,やはりあの部屋は思い出深いのでしょう」

「とりわけ,佐為の思い出がしみついている部屋なんだろうね」

 簡単なメールのやりとりをして,その3日後,つまり緒方精次との対局の前日に会うことにした。その日はそのまま対局会場となっているホテルに泊まる。

 最寄りの駅に約束の時間に着くと,もうヒカルさんが待っていた。お互い,印象的な容姿をしているので,すぐに見分けられた。

「お待たせしました」

「いや,オレもたった今来たばかりだ」

と言ってあいさつを交わす間もなく,ヒカルさんはボクに尋ねた。

「佐為,いるんだよね?」

「はい,ボクの左にいます」

「そうか・・・・」

ヒカルさんは肩を落とす。今のヒカルさんに佐為が見えないことはすでに分かっていたはずだけど,改めて現実を突きつけられて落胆している様子。そんなヒカルさんの様子を見て,佐為も悲しげな表情になった。ヒカルさんは,気を取り直すように「こっちだよ」と言って歩き始めた。年末で賑わう夕暮れ時の商店街を抜けると,意外なほど閑静な住宅地になり,じきにヒカルさんの実家に着いた。

 玄関を開けるとお母さんらしき人が出迎えてくれた。

「ヒカルのお友達って,この方?」

彼女は怪訝(けげん)そうな顔でボクを見る。

「そうだよ・・・・あっ,ゆっくり話したいから,お茶とか要らないから」

「まあ,そんな失礼な。お茶くらいもって上がりますよ。お友達は緑茶と紅茶,どっちが好きなのかしら」

お母様がボクを見る。

「では,紅茶をお願いします」

「じゃあ,お菓子はおせんべいよりケーキがいいかしら」

「・・・・あっ,はい。その方が・・・・」

こんな問答を無視して,ヒカルさんは

「さあ,上がろう」

と言って2階に上がる階段を昇る。ボクもついて行った。ヒカルさんの部屋に入ると,真ん中に置かれている碁盤が目に入った。途中まで石が並べられている。それを見て佐為はハッと息をのんでいるけど,ヒカルさんには佐為の様子は分からない。ボクも,ごくありふれた碁盤と碁石を見て佐為が息をのむ理由が分からない。

「この碁盤は・・・・」

「ああ,それはオレがじいちゃんから買ってもらった碁盤。これで毎日,夜遅くまでいやっちゅうほど打ってた。なあ,佐為」

ヒカルさんはボクの左隣の空間に話しかける。佐為の表情がちょっとばかり明るくなった。ヒカルさんは碁盤の片側に座る。佐為はその対面に座り,自然にボクはその間に座った。

「この碁石は?」

「それは・・・・」

《それは・・・・》

ヒカルさんと佐為がほとんど同時に声を発した。ヒカルさんは目が潤んでいる。佐為も。それに続く言葉を待っている時,部屋の外から

「入ってもいいかしら」

と声がして,返事を待たずにお母様が紅茶とケーキを持って入ってきた。ボクたちの脇に紅茶とケーキを置いて,

「じゃあ,ごゆっくり・・・・お友達は晩ご飯はどうなさるの? うちで食べていかれますか?」

「えっ?」

突然,そんなことを言われて,ボクはびっくりした。

「ああ,藤原さん,この後なにも用事はないんだろう。ゆっくりしていくといいよ。オレもいろいろ話したいこと,聞きたいことがあるし。晩ご飯うちで食べなよ」

「じゃあ・・・・『藤原さん』とおっしゃるの?・・・・お友達の分も用意しておきますね」

「あっ,ありがとうございます。ただ・・・・」

「ただ?」

「今の時間にケーキを食べると,夕食はあまり入らないかも」

というボクの言葉に,ヒカルさんとお母様の視線がボクに集中した。

「えっ? 何か変なこと言いました?」

「・・・・あの・・・・ケーキを食べると晩ご飯は要らないの?」

「要らないわけじゃないのですが,あまり入らないということで・・・・」

「・・・・はあ・・・・まあ,分かりました。無理強いはしませんから,食べれるだけ食べてください」

そう言って,彼女は部屋を出て行った。ヒカルさんは相変わらずボクをじっと見ている。

「すげー小食なんだ」

「そうですか?」

「そうだよ。ケーキなんて,別腹だろう」

「そんなこと言っても,ケーキ1個で300カロリーか400カロリーくらいあるんですから」

「一々そんな計算をしてるのか?」

またびっくりされた。

「いや,まあ,自然に・・・・」

なんだか,さっきのしんみりした雰囲気をボクが壊してしまったみたいで,気が引ける。それで,話題を戻した。

「この碁盤に並べてある石・・・・」

「ああ,この石は・・・・」

と言いかけてヒカルさんが苦笑いした。

「さっきは泣き出しそうになってたけど,そんな気分,ケーキの話でぶっ飛んじまったなあ」

「すみません」

「いいんだよ。謝らなくて。むしろ,その方が良かった」

と言いながら,ヒカルさんはまじめな表情に戻り,向かいに座っているはずの佐為に

「佐為,オレが話す」

と言って,説明を始めてくれた。5月5日の朝,ヒカルさんと佐為は碁を打っていたけど,前日のイベントの疲れでヒカルさんは途中で居眠りをしてしまい,その間に佐為が消えてしまったこと。目を覚ましたら,佐為の影も形もなく,ただ打ち掛けの石が並んでいただけだったこと。その未完成の棋譜はヒカルさんの記憶にしっかり刻まれていること。それが,今ここに並べてあること。

「佐為,続きを打ってくれるな。オマエの番だぞ。オレが寝てる間にしっかり考えていたんだろう」

佐為は笑みを浮かべて扇で碁盤の1点を指す。ボクは佐為の脇の碁笥から白石をつまんで碁盤に置く。すかさずヒカルさんが黒石を打ち返し,それに佐為が応酬する・・・・お互いあまり長考しない。二人とも相手の考え,思考のパターンが見えているからかな? 終局したら,ヒカルさんの4目半負け。つまり,ヒカルさんは塔矢アキラと同じくらいの強さということ?

「やっぱり佐為は強いな」

というヒカルさんの言葉に佐為は反応せず,碁盤をじっと見ている。

「佐為,どうしたの?」

《4目半ではなくて,3目半の差でないですか? 白のわたしが65目,コミを入れて70目半,黒のヒカルが67目,3目半の差でしょう》

ボクは,コミという意味不明の言葉が混じっていることは気にせず,とりあえず佐為の言葉をそのままヒカルさんに伝える。

「何言ってんだ。オマエが65目だから,コミ入れれば71目半だろう。4目半の差であってるよ」

と言ってから,ヒカルさんはハッとした。

「そうか,オマエ,まだコミが5目半だと思ってるんだ。あれからルールが変わって,今ではコミは6目半になってるんだ」

この説明に,佐為は納得した。

《そういうことでしたか。コミが6目半になっていたんですね。それで,アキラとの対局が4目半の勝ちだったことも分かりました》

ボクには難しくてよく分からない。そんなボクの様子を見て,佐為は

《コミについては,後で説明してあげますよ》

と言ってくれた。ヒカルさんはそんなボクたちの会話が聞こえるはずもなく,

「それにしても,オマエ,これまでコミのルールが変わったことを知らずに打ってたのか?」

《ええ,まあ,これまではほとんど中押し勝ちでしたから。最後まで打った時もコミの1目の違いが響くような勝負ではなかったから》

この言葉はきちんとヒカルさんに伝えた。それを聞いてヒカルさんは苦笑いした。

「1目の違いくらいはどうでもいいってか。ほんとうにぶっちぎりに強いよな」

《ヒカルも強くなりました。本因坊の名に恥じません》

「佐為が,ヒカルさんも強くなった,本因坊の名に恥じませんと言ってます」

ヒカルさんはうれしそうに笑みを浮かべ,それからちょっと視線を落とした。

「ありがとう。ここしばらく,名を汚すような碁を打ってたけど・・・・もう大丈夫だ・・・・たぶん」

ヒカルさんはボクの方に向き直る。

「佐為と話したいことはいっぱいあるんだけど,その前にオレは藤原さんにお礼を言わないといけない」

ここでヒカルさんは息を継ぐ。

「佐為の名前を出して,ありがとう。うれしいよ。碁を打つ人がみな佐為の名前を知っている。オレが願っても,叶えられなかったことなんだ。だって,オレは幽霊の話なんて誰も信じてもらえないと思い込んで,佐為を隠し通したから。いろんな嘘をついて。藤原さんの優勝者インタビューを聞いてて,よく分かったよ。何もこそこそ隠し立てしなくてよかったんだ。堂々と,佐為のことを話せばよかったんだ」

ヒカルさんの目から涙がこぼれている。

「ヒカルさん,そんなに自分を責めないでください」

「ありがとう。塔矢にもそう言ってくれたんだよな。佐為を隠すために嘘をついていたオレを『責めるな』って言ってくれた。責められても仕方ないのにな」

「そんなことはありません」

ボクは反論した。

「ボクが佐為の存在を隠し立てせず堂々と明かすという選択をしたのは,ヒカルさんの経験に学んだ部分もあるのです」

「オレの経験に学んだ?」

「そうです。佐為はヒカルさんと一緒にいた頃のことをたくさん話してくれました。ヒカルさんが佐為の存在を隠し通そうとしたために,お二人がとても困った状況に追い込まれてしまったことも話してくれました。それを知っていたからボクは,佐為の存在を隠さずありのままを語るという選択に自信が持てたんです」

ヒカルさんはボクをまじまじと見つめる。

「オレの失敗が役に立ったんだ」

「失敗と決めつけなくていいんです。幽霊という常識外れの現象に出会った12歳の少年の精一杯の選択なんです。それを後から振り返って,後出しジャンケンのように,失敗だとかなんだとか批判すべきではありません。それに,仮に失敗だとしても,かまわないじゃないですか。神様じゃない人間なんだから,失敗するのは当たり前です。たとえ失敗だったとしても,自分で『これがいい,こうしよう』と思ってやったことなら,それでいいでしょう。自分の人生なんだから」

「自分の人生?」

「そう,自分の人生です。自分の人生なんだから,自分の判断で自由に生きていいんです」

「だけど,その判断が間違っていたら・・・・」

「その時は,その失敗から学べばいいんです。次に同じ失敗をしないよう」

「そんなふうにスカッと割り切れるといいけどな・・・・」

「じゃあ,スカッと割り切れるようになりましょう」

「ずいぶんあっさり言うなあ・・・・まあ,オレもがんばるよ。でも・・・・それでも,佐為のことは割り切れない。ほかの失敗は割り切れても,佐為のことは・・・・」

ヒカルさんは寂しそうにうつむく。そんなヒカルさんに佐為が語りかける。

《ヒカル,失敗だなんて言わないで。わたしはヒカルと一緒にいてとても楽しかった。とても幸せでした。それを失敗だなんて言わないで》

「ヒカルさん,佐為も言ってます。佐為はヒカルさんと一緒にいてとても楽しかった,幸せだったって。それを失敗だなんて言わないで,と」

「ほんとうにそう思ってくれるか? オレと一緒にいて幸せだったと,ほんとうに思ってくれるのか? だって,オレは,佐為を隠そうとして,碁を打ちたいと言う佐為を邪魔に思ってしまったことさえあるんだ・・・・」

佐為は深くうなずいて,

《あの状況でヒカルがそのように思ってしまっても,それは仕方のないことです。そんなこと,気にしてませんよ。そんなこと,気にしないで。いろんなことはあったけど,わたしはヒカルと一緒にいて幸せだったんです》

と語る。ボクはそれをヒカルさんに伝える。

「そうか,オレと一緒にいて幸せと思ってくれてたのか・・・・よかった」

ヒカルさんはほっとしたように息をついた。それを見て,佐為が語りかける。

《わたしはこれをヒカルに伝えたかったんです。わたしはヒカルと一緒にいて幸せだったと。それをどうしても伝えたかった》

「佐為はこのことを,ヒカルさんと一緒にいて幸せだったことをどうしても伝えたかったと言ってます。だから,後悔なんかしないでください。ヒカルさんは佐為と一緒にいて,佐為を幸せにしたんですよ」

「ありがとう」

ヒカルさんは潤んだ目でボクを見,それから左隣にいるはずの佐為を見,そしてまたボクを見た。

《ヒカル,今宵はいやっちゅうほど打ちましょう》

「佐為が,今宵はいやっちゅうほど打ちましょうと言ってます」

「ああ,そうしよう」

そう言ってヒカルさんが碁盤に並んだ碁石を碁笥に片づけている時,下から声がした。

「そろそろ晩ご飯にしない?」

「はい」

とボクが返事した。ヒカルさんが笑っている。

 

 お父様は帰りが遅いとのことで,3人で囲んだ夕食の卓。ヒカルさんは旺盛な食欲を見せている。

「藤原さん,ほんとうにそれだけでいいの?」

「はい。お気遣いなく」

「そうか・・・・」

ヒカルさんは不思議そうというか,拍子抜けしたというか,なんとも表現しにくい表情を浮かべている。

「ヒカルが食べ過ぎなくらいなんですよ」

「うるさいんだよ,お母さんは」

こんな会話も微笑ましい。

 

 夕食が済むと,すぐに2階に戻って「いやっちゅうほど」碁を打った。ボクは,

「佐為もヒカルさんも,碁を打つだけでいいの? いろいろ話したいことがあるなじゃない?」

と問うたら,二人同時に

「いいんだよ」

《いいんです》

と返事が返ってきた。佐為はさらに説明を加えてくれた。

《碁の対局は「石による対話」とも言われます。お互い言葉を交わさなくても,石を打ち合うだけで,心が通い合うんです。だから,こうやって対局するのが何よりもヒカルと心を通じ合うやり方なんです》

そうなのか。碁を打たないボクには分からない心境だな。でも,二人が満足なら,それでいい。それに,石を打ち合う二人の表情を見ているのもおもしろい。佐為の表情もおもしろいけど,ヒカルさんの表情も見ていて飽きない。真剣なことはもちろん真剣なのだけど,それに加えて,碁を打つ歓びとでも形容したい表情が浮かんでいる。これまでインターネットで見たことがあるヒカルさんの対局で,こんな表情は見たことがない。佐為が相手だからなのだろう。そんな2人を見ていて,ボクも時のたつのを忘れた。そんなボクたちに時間を知らせてくれたのは,またしてもお母様。

「ヒカル!もう11時よ。いくら何でも,藤原さんも帰らないといけない時間でしょう」

ヒカルさんは時計を見る。

「あっ,やべー。佐為は明日,緒方さんと対局なんだよな。この1局で終わりにしよう」

「まあ,対局は午後からですから・・・・」

「それでも,対局の前の日はちゃんと寝ないといけない・・・・と,いつも佐為がオレに説教した」

佐為が笑っている。ボクも笑った。

 

 その1局が終わって,ヒカルさんは車でホテルまで送ってくれた。ボクは,まだ電車が動いている時間だからと遠慮したけど,

「藤原さんみたいなきれいな人をこの時間に駅まで一人歩きさせるのは心配だ」

と言って送ってくれた。親切はありがたく受け取った。

 車は30分ほどでホテルに着いた。ドアを開けて外に出ようとしたボクにヒカルさんが声をかけた。

「藤原さん,あんたと会って話せてよかったよ。オレ,最初は,あんたはオレに聞こえない佐為の声を伝えてくれればそれでいいと思ってた。でも,それってとても失礼なことだったな。佐為だけじゃなくて,あんたも・・・・なんて言えばいいかな,オレにとってありがたい人だよ」

「ありがとう」

ヒカルさんの素直な言葉に,ボクも素直に礼を返した。ヒカルさんがそう思ってくれるのはうれしかった。ヒカルさんは,ボクと,ボクの隣にいるはずの佐為に笑顔を見せ,それから前に向きなおして車を発進させた。走り去る車を見ながら,ボクはヒカルさんがボクを「あんた」と呼んだことに気づいた。

 ホテルの部屋に入って,佐為がボクに話しかけた。

《ロミー,今日はほんとうにありがとう。わたしも,そしてヒカルも・・・・》

ここから先,言葉が出てこない。

《ヒカルはこのところ調子を崩していたようですが,きっと明日から調子を取り戻しますよ》

「そうだね。きっとそうだよね」

ここで,この幸せな雰囲気のまま,会話を終わりにするのが良いのかもしれない。でも,ボクは自分の考えを話しておきたい,佐為には。

「以前から思っていたことだけど,今日,ヒカルさんに会って,ヒカルさんと話して,佐為とヒカルさんの交流を間近に見て確信したことがあるんだ。5年前,いやもう6年前になるのかな,別れは佐為にとってもヒカルさんにとっても辛く悲しかったと思うけど,それでも,あの時点で別れるのが二人にとって一番良かったんだと思うよ。あの時点で別れていたからこそ,今,あの2年間を幸せな日々として振り返られるんじゃないのかな」

佐為は〔なぜ?〕というような表情を見せる。

「過去の思い出は美化されがちだけど,冷静に思い返してごらん。別れる直前の日々,何週間か何ヶ月かの日々,二人とも苦しんでいたんでしょう。佐為は,自分が碁を打てないことを,そして自分が碁を打ちたいと願うのがヒカルさんを追い詰めてしまうことを,さらには自分に碁を打たせないヒカルさんを恨みそうになることを。ヒカルさんは,佐為に碁を打たせてあげられないことを,そして碁を打ちたいと願う佐為を邪魔に思ってしまうことを。その関係が,あれからずっと,1年,2年,3年,さらに5年,10年と続いていたら,二人はどうなったと思う? 幸せでいられた?・・・・ボクは,もしそうなっていたら,大きな不幸か悲劇が待ち受けていたんじゃないかと思うんだ」

佐為はじっと考え込んでいる。そして,深くため息をついた。

《ロミーの言うことは思い当たる節があります。そうだったかもしれないと思います。ただ,それでも,せめて別れの言葉を告げたかった。何も言葉をかける暇もなく分かれてしまったのは,心から悲しいです》

「確かに言葉をかけることもできずに引き離されてしまったのは,悲しかったと思う。でも・・・・別れを告げたら,きっとヒカルさんは引き留めたよ。その時,引き留めるヒカルさんを佐為は振り切ることができた?」

佐為はボクの言葉を聞いて顔を伏せ,唇をかみしめている。そして,顔を上げ,ボクを見る。

《きっとそうだったのでしょう。ロミーの言うことは正しい。でも,その正しさがわたしを傷つけます》

今度は,ボクが顔を伏せ,唇をかみしめる。

「・・・・そうなんだ。だから,ボクは医者になるのをためらうんだ。医者になって,患者にこんなことを言ってしまうんじゃないかと」

しばらく顔を伏せていて,ボクは顔を上げた。佐為がボクを見ている。悲しさと,慈しみの混じった眼差し。その眼差しを受け止めるのは辛かった。ボクは,視線をそらしかけて,視線を戻した。

「でも,一番話したかったのは,これから話すことなんだ。つまり・・・・だからこそ3度目があったのかもしれない。ヒカルさんとの最初の出会いをリセットして,もう一度,佐為を隠さなくていい状況でヒカルさんと出会うために,この3度目があるのかもしれないということ」

《ロミー・・・・》

佐為の表情が微妙に変化する。

「もちろん,それだけが3度目の目的ではないと思うよ。もしそれだけが目的なら,ヒカルさんとの再会を果たした佐為はもうじき消えてしまうかもしれない。でも,それは寂しいから。『去る者は追わず』であるにしても,それでも,親しい人が去るのは寂しいからね」

《もちろん,すぐに消えたりしませんよ。わたしだって,ロミーと別れるのは寂しいです》

「佐為,ありがとう」

《わたしこそ,ありがとうございます》

ボクたちは笑みを交わした。

「明日は緒方さんとの対局だよ。もう寝よう」

《そうですね》

 

 翌日の昼過ぎ,対局用にしつらえられた小パーティールームに入ると,もう緒方棋聖が席についていた。解説者席には塔矢アキラともう一人,ボクの知らない棋士が座っている。まだ対局開始時間前のはずだけど,タイトルホルダーを待たせて失礼なことをしたと思い,あわてて座った。自分の正面ではなく,自分と正面の間に座ったボクに笑みを見せて,緒方精次棋聖は話しかける。

「対局相手が空座というのも,奇妙なものだな」

「佐為の気配でも感じていただければと思います」

「オレは,見れも触れもしないものは信じない主義なんだ」

「ボクも以前はそうでした。ただ,現実に佐為という存在に出会ってしまうと,そうとも言ってられなくなりました。もっとも,ボクにしても佐為を見ることはできますが,触ることはできません。触ろうとすると通り抜けるので」

「通り抜ける?」

「はい。たとえば,ボクが佐為の手を握ると,佐為の手を通り抜けて自分の手でこぶしを握るだけなんです」

「それは何とも奇妙だな」

「まあそうなのですが,碁石を置く場所を佐為が扇で示すのは見えますし,その指示の通りに石を置いていけばこれまで全戦全勝なのもご存じの通りです。ボクとしては,佐為の存在を信じないわけにはいきません」

緒方棋聖はまた笑みを浮かべる。

「インタビューの時と同じ,弁舌さわやかだな。まあ,そんなことはどうでもいい。オレは不敗を誇る佐為と対局できればそれでいい」

「もちろん,ボクも佐為の代理人として緒方棋聖との対局をお手伝いできれば,それでいいのです」

ふと,解説者席の塔矢アキラを見ると,このやりとりを見て笑っていた。

 まだ対局開始までちょっと間がある。それでまた,緒方さんがボクに話しかけてきた。

「失礼な質問かもしれないが,藤原ヒロミさん,その容貌でその体型だと,女に間違われないか?」

この質問には慣れている。子供の頃から何百回,何千回も聞かされた。でも,まさか対局の場で聞かされるとは思わなかった。

「それは,しょっちゅうですよ」

「間違えられるのは腹立たしいだろう」

「別に,そんなことありませんよ」

「そうかい?」

「ボクはエレガントで美しいものが好きです。人がそのように振る舞うのを見るのが好きだし,自分の立ち居振る舞いや服装も,ふだんからエレガントで美しくを心掛けています。そして日本では,日本に限らず世界のどこでもそうかもしれませんが,エレガンスや美は女らしい資質と見なされているから,そのように振る舞うボクが女に間違われるのはごく自然なことです。自然な現象にいちいち腹を立てるのは心の無駄遣いですよ」

ボクはふだんから思っていることを説明した。緒方さんはあっけにとられたような顔をしている。それを見て佐為が笑う。

《ロミー,緒方さんの盤外戦をみごとにかわしましたね》

《バンガイセン?》

《ああ,ロミーは盤外戦という言葉を知らないのですね。後で説明してあげます》

と言って,佐為はまた笑った。解説者席を見ると塔矢アキラが笑いをこらえていた。

 

 やがて時間となり,対局が始まった。前回同様,タイトルホルダーに敬意を表して佐為が先番を取る。

 序盤から中盤へと対局は進む。ボクは盤面を見ても状勢は分からない。ただ,対局相手の表情が少しずつ厳しくなっていくことから,佐為が優勢になっていると判断できる。今日もそうだ。初めのうちはポーカーフェイスだった緒方棋聖が,中盤を過ぎるあたりから,少しずつ厳しい表情になっていく。そして佐為は時おり例の「氷の微笑み」を見せる。ボクが一番好きな瞬間。やがて終盤に入り,しばらく進んだところで,前回の塔矢アキラと同じせりふを緒方棋聖が口にした。

「オレの負けは分かっているが,最後まで打ち切らせてくれ」

ボクはうなずいた。今回は前回のようなハプニングはなく,穏やかに必然の一本道を進んで終局した。佐為が5目半の勝ち。

《塔矢アキラは4目半の差だったね。緒方さんの方が1目分弱いの?》

《そんなことはありません。1目,2目くらいはその時の状況でどうにでも変動します。1目の違いでどちらが強いとか弱いとか言えませんよ》

《ふーん・・・・》

こんな佐為とボクの沈黙の会話は緒方さんの

「検討を始めていいかな?」

という声で中断された。

「はい。もちろん」

そして,前回と同じように解説者も交えた検討が行なわれた。塔矢アキラが積極的に意見を述べる。それを,緒方さんはちょっと煙たそうな顔で見ている。

《アキラさんと緒方さんは仲が悪いの?》

《そんなことはありません。ただ,緒方さんは塔矢行洋の一番弟子。アキラは弟弟子にあたるから,弟弟子からいろいろ言われるのが癪に障るのでしょう》

「空座に座っていると藤原さんが主張する人・・・・いや幽霊か・・・・ともかく空座の主とFJWRsaiが同一であることは認めざるを得ないな」

「認めてくださって,ありがとうございます。空座の主の名前は藤原佐為です」

ボクはしっかりアピールする。ちょっと子供っぽいかな。でも,ボクは藤原佐為の名前を囲碁の歴史に刻みつけたいんだ。

 こうして検討も終わり,ボクたちは対局室を出た。ゆっくり歩くボクに緒方さんが小声で話しかける。

「この後,二人だけでちょっと話したいことがあるんだが」

と言って

「二人だけと言っても,口説こうってわけじゃないから,安心してくれ」

と冗談めかして付け加えた。ボクが

「口説いてもかまいませんよ。ボクは拒絶するだけのことですから」

と答えると,すぐ後から笑い声が響いた。塔矢アキラの笑い声。いつの間にかそばにいて,今のやりとりを聞いていたらしい。対局が終われば遠慮することもないという感じで,ほがらかに笑っている。緒方さんは塔矢アキラをにらみつけているけど,塔矢アキラはそんな兄弟子の視線に臆する気配はない。ボクは,二人の間に交わされる火花を無視して話を続ける。

「じゃあ,ほかの人に話を聞かれない場所に行きましょう。緒方さん,どこにするか当てはあるんですね?」

「・・・・ああ,このホテルのラウンジに仕切りのある部屋があるので,そこを予約している」

「この前と同じですね。たぶん,お話の内容もこの前と同じなんでしょうね」

 その通り。この前と同じラウンジの一角で,緒方さんは塔矢アキラと同じことを尋ね,ボクは同じように答えた。ボクの前に佐為が宿っていたのは進藤ヒカルであること。そして,このことは他言無用であること。そしてまた,進藤ヒカルが佐為のことを隠し,そのためにいろんな嘘を重ねたことを決して責めてはいけないということ。

「もちろん,オレを信用して話してくれたんだ。信義は守るよ。オレだって,別に進藤を困らせたいわけじゃないし,進藤を責めるつもりもない」

 

 「人の噂も七十五日」とはよく言ったものだと思う。この年も終わりかける頃,トーナメント決勝戦から75日,2ヶ月半が過ぎようとしていた。あれほどたくさん押し寄せていたメディアからの取材の申込みやTV局からの出演依頼,オカルト科学研究組織からの招請もめっきり減っていく。それでもぽつぽつとやって来る郵便やメールはほとんど無視しているけど,1つだけ,おもしろそうな企画があった。佐為の似顔絵を作って雑誌に載せるという企画。具体的な方法は,まず,「兄弟くらいには似ている」というボクの写真をパソコンに収め,髪と目の色を黒に変える。コンピューターグラフィックスの技術なら,それくらい訳ないことだろう。それから,ボクが「目尻はちょっと上がり気味」とか「髪は肩甲骨の下辺あたりまで」とか説明し,それを聞いてデザイナーが修正を加えて佐為の顔に近づけていくというもの。承諾を得られれば年明けに作業を始めたいとのこと。ボクはおおいに乗り気だった。以前から,佐為の棋力だけでなく,その端正な美貌も世間の人たちに知ってほしいと思っていたから。でも,佐為は猛反対した。

《ロミー,何をバカなことを言うんですか。わたしの顔を雑誌に載せるなんて・・・・》

「別に,バカなことじゃないでしょう。美しいものを多くの人に知ってほしいというのは,ごく自然な発想じゃない」

《それはそうかもしれませんが,なぜわたしの顔なんですか?》

「それは,佐為が類い希な美貌だからだよ」

正面切ってこう言われると,佐為も反論に困ったようだ。それで,ヒカルさんを引き合いに出した。

《ヒカルの意見も聞くべきです。ロミーの一存で決めてはいけません》

「確かに,それはそうだね。でも,ヒカルさんだって賛成すると思うよ。ヒカルさんは佐為を多くの人に知ってほしいんだから」

《そんなことはありません。ヒカルはぜったい,こんなバカな話は拒否します》

ボクはヒカルさんに電話した。事情を話すと,ヒカルさんはちょっと驚いたような,戸惑ったような口ぶりになった。そして,

「じゃあ,オレがそっちに行くよ。今日の十段戦の棋譜を佐為に見せたいんだ。会心の対局だったから。その時,一緒にその話もしよう」

「千葉まで来てくれるんですか?」

「高速とばせば,すぐだよ」

その感覚は,車を使わないボクには分からない。ともあれ,それから1時間もしないで,待ち合わせ場所にしていた千葉大正門前に着いたと電話があった。すぐに迎えに行き,近くの駐車場に車を置いて,部屋まで歩く。ヒカルさんはボクの部屋に入るなり,

「今日の棋譜だ。十段戦。相手は芹澤9段」

と言って1枚の紙を見せた。それを見た瞬間,佐為の顔いっぱいに笑みが広がった。

《すばらしい・・・・》

「佐為,喜んでるだろう。何となく気配で分かる」

「はい。満面の笑みを浮かべています」

「オレも,今年で一番の対局だと思う・・・・藤原さん,あんたのおかげだよ」

「別に,ボクのおかげとか,そんな・・・・ヒカルさんが実力を発揮しただけです」

「実力を発揮させてくれたのは,あんたなんだ。ああ,もちろん佐為も」

と言ってヒカルさんはボクの左隣を見る。佐為はヒカルさんの視線を受け止めて微笑んでいる。それから,二人は紙をはさんで検討を始めた。30分くらいで検討が終わると,ヒカルさんが,ちょっと気まずそうに

「例の話なんだけど」

と,佐為の似顔絵のことを話題にした。

「オレとしては,断ってほしい」

「えっ?・・・・」

ボクは意外な返事に驚いた。隣で佐為がはしゃいでいる。

《ほら,ごらんなさい。ヒカルはちゃんと断ったでしょう。わたしの顔を出すなんて,そんなバカな話に乗るはずはないんです》

「・・・・でも,ヒカルさんは佐為のことをみんなに知ってほしいんじゃないの?」

佐為のはしゃぎぶりとは対照的に,ヒカルさんは気詰まりというか申し訳なさそうな顔をしている。

「そりゃあ,そうだよ・・・・佐為の碁はみんなに知ってほしいけど,でも・・・・」

「似顔絵はだめ?」

「なんと言えばいいのかなあ・・・・」

ヒカルさんは説明に困っている。ボクはヒカルさんの次の言葉を待った。

「たとえばさあ,恋人の写真を自分だけが持っていてそれをみんなに見せるのはいいけど,アイドルみたいに雑誌に載るのはいやだろう? 雑誌に載るのは・・・・自分の手から離れてみんなのアイドルになるみたいで・・・・恋人の写真は自分だけのものにしておきたいだろう?」

ヒカルさんの口調は冗談っぽいけど,目は真剣だ。本気で話してるんだと分かる。

「佐為はヒカルさんの恋人なの?」

「いや,そんなことは・・・・」

ヒカルさんはあわてて否定する。

「ごめん,茶化したわけじゃないんだ。つまり,ヒカルさんにとって佐為は,恋人以上の存在,なみの恋人なんかよりずっと大切な存在なんだよね・・・・ヒカルさんは佐為を独り占めにしたい? 自分だけのものにしておきたいの?」

ヒカルさんはじっとうつむいている。目から涙がこぼれている? そして,ボクを見ないままボクに語りかける。まるで言い訳をするような口ぶりで。

「ごめん。そんなこと考えちゃいけないってことは分かっているよ。今,オレは佐為を独り占めなんかできないんだ。オレじゃなくて藤原さんと一緒にいるんだから。佐為と一緒にいるのはオレじゃなくて藤原さんなんだ。よく,分かっているよ・・・・」

「ヒカルさん,ボクに謝らなくてもいいんだよ。ヒカルさんが佐為にどれほどの愛着を抱いているか,分かってるよ。その佐為の姿も見えず,声も聞こえないのが辛いだろうということも分かっているよ」

「そんなことじゃないんだ」

「そんなことじゃない?」

「オレ,藤原さんに嫉妬してるんだ。いつも佐為と一緒にいられる藤原さんに嫉妬してるんだ」

「嫉妬?」

ヒカルさんはがっくりとうなだれた。

「馬鹿みたいだな。自分でも情けないよ。藤原さんは恩人なのに。佐為の名前をみんなに広めてくれた恩人なのに,それなのに,そんな人に嫉妬して・・・・」

嫉妬?・・・・確かに,ヒカルさんから見れば,ボクは嫉妬される立場なのかもしれない。それは理解できる。でも,理解できたとして,ボクは何もしてあげられない。

「ヒカルさんの気持ちは理解できるよ。ヒカルさんと佐為の絆は,ボクと佐為との絆よりずっと深かった。できることなら,佐為をヒカルさんのところに返してあげたい。でも,できないんだよ。それはボクにはできないんだよ。佐為が3度目はヒカルさんじゃなくてボクに宿ったのは,ボクの力ではどうしようもない運命だから」

その時,ヒカルさんは顔を上げ,ボクを見つめる。泣き出しそうな顔。

「藤原さん,どうしてそんなに優しいんだ・・・・怒ってもいいんだよ。怒鳴ってもいいんだよ。オレ,どうしようもない身勝手なことを言ってるんだよ。なのに,なんでそんなに優しいんだ?」

「優しい,とは違うんだ」

「違わないよ。藤原さんは天使みたいに優しい人だよ」

ああ,この問答,塔矢アキラともやった。

「怒るとか怒鳴るとか,そんな粗暴な振る舞いはしたくないんです。エレガントじゃないから。ボクの美意識に反するから,そんなことしたくないんです。優しいから,じゃないんです」

ヒカルさんは茫然とした目でボクを見ている。それまでヒカルさんとボクのやりとりを切なそうな顔で見つめていた佐為がボクに話しかける。

《ロミー,どのような理由であれ,そのように怒りを抑え,相手の立場に思いやれるというのは,「優しい」ということなのですよ》

《そうなの?》

佐為とのやりとりが聞こえないヒカルさんは相変わらずボクを見つめている。小さな部屋で,こんなふうに雰囲気が煮詰まるのは,よくない。

「ヒカルさん,寒さがとても苦手ではないなら,大学の中を散歩しない? ボクはもうこの時間帯なら外を出歩いて大丈夫だし,大学の中は意外に木立が多いんです。部屋にこもっているより,歩きながら話しませんか?」

「ああ,オレはかまわないよ」

と答えるヒカルさんの表情はちょっとばかり落ち着いてきたなかな?

 ・・・・ボクたちは,学期も終わり人気の少ないキャンパスの中を並んで歩く。ボクの左に佐為,その左にヒカルさん。ヒカルさんは佐為が見えないはずなのに,佐為と触れあわない,でも離れすぎもしない,絶妙な間隔を置いて歩いている。部屋を出て,大学の門を抜けて,キャンパスの中に入るまで,ボクは佐為と語り合った。

《ボクが千葉に住んでいるのは,何かと不便だね。ヒカルさんだって,しょっちゅうは来れないし。佐為も,できれば毎日でもヒカルさんに会いたいでしょう》

《・・・・えっ,それは,そうなのですが。でも,千葉から引っ越すとロミーの勉強が・・・・》

《それについては,考えがある》

ボクたちは,キャンパスの中の小さな公園のような木立の間を歩いていく。葉を落とした落葉樹の間に常緑樹が交じっている。ボクはヒカルさんに話しかけた。

「ヒカルさんから嫉妬されるのは辛いです。ヒカルさんだって辛いでしょう。佐為も,辛いと思う」

「オレのせいなんだ・・・・オレが,こんなくだらない嫉妬なんか感じないようにすればいいんだ」

ヒカルさんはまたうなだれている。

「そうかもしれないけど,気持ちの問題だと言うだけでは解決が難しいでしょう。環境整備も重要ですよ」

「環境整備?」

「うん。ヒカルさんと佐為の距離を縮めるためにできることを考えているんです。たとえば,ボクが東京に引っ越して,もっとひんぱんに会えるようになれば,ヒカルさんの気持ちも今より落ち着いくんじゃないかと」

「えっ,でも,オレのためにわざわざ引っ越してもらうなんて」

「ヒカルさんのためだけではないんです。ボクのためでもあるんです。この1年,千葉大で興味のある分野の講義は学部も大学院も含めてあらかた聴講しました。来年も,同じ科目の講義はあります。今年とまったく同じ内容ではないはずだけど,基本的に,同じ研究者が担当するんだから,似たような内容でしょう。だったら,来年は別の大学の講義を聴講するのも悪くない。たとえば東大の聴講生になってもいいんです」

「藤原さん,東大に受かったのか?!」

「いや,学生として入学するわけではないんです。聴講生としていくつかの講義を聴くだけです」

「はあ・・・・」

ヒカルさんはこの辺の話はよく分からないようだ。まあ,それはいい。

「地図で調べたんだけど,たとえば駒込あたりに住むと,東大に行くにも便利だし,ヒカルさんの実家にも行きやすい。それに市ヶ谷の日本棋院にも簡単に行けるんですね」

「オレは,そうしてくれるとありがたいけど・・・・」

「さっきも話したように,ヒカルさんのためだけではないんです。ボクのためでもあるんです。ヒカルさんのためにもなり,ボクのためにもなることなら,しない理由はないでしょう? ついでに言えば,佐為のためでもあります。佐為はヒカルさんに会いたがっていますから。ねえ,佐為」

突然話を振られて,佐為は一瞬戸惑ったけど,すぐに明るい声で答えた。

《もちろんですよ。ヒカルにしょっちゅう会えるようになるのはうれしいです》

「藤原さんは,それでいいのか?」

「もちろん。たった今話したでしょう。千葉から東京に引っ越しても勉強はできます。むしろその方が便利なくらいです」

「そうじゃなくって・・・・」

ヒカルさんは考え込んでいる。

「つまり,オレがしょっちゅう佐為に会うようになると・・・・」

「ああ,ヒカルさんと佐為の間の通訳をするのでボクの時間が取られるということですね。まあ,それは,お互いが妥協できるところを探せばいいんじゃないの?」

「いや,それでもないんだ・・・・つまり・・・・藤原さんにとっても佐為は大切な人なんだろう? オレがしょっちゅう会うようになって・・・・つまり,いやじゃないかい? 大切な友達を取られるみたいで・・・・」

ボクは意表を突かれた。そんなこと,考えてもみなかった。

「そんな・・・・ヒカルさんと佐為が会うのをいやだなんて・・・・考えもしなかった」

「そう?・・・・」

今度はヒカルさんが驚いている。

「藤原さん,嫉妬とか,しないのか?」

「嫉妬はしない」

「ずいぶん,あっさり言い切るなあ」

「だって,エレガントじゃないから」

「エレガントじゃない?」

「うん。嫉妬って,エレガントじゃないよ」

ヒカルさんは,珍しい生き物を見るようにボクを見る。

「エレガントという言葉がヒカルさんの心に響かないのなら,独占欲や嫉妬は,自分も含めて誰も幸せにしない,と言ってもいいです」

「それは確かにそうだけど・・・・」

 こんな話をしているうちにボクたちは小公園の木立を抜けて,校舎の間の並木道を歩いている。ケヤキはすっかり葉を落としている。会話はちょっと途切れている。ボクは,ちょうど良い機会だと思って,もう1つの話を切り出した。

「ヒカルさん,まだ佐為の2番目の宿主として名乗り出る決心はつきませんか?」

突然この話を切り出されて,ヒカルさんは驚いている。ボクを見て,それから上に視線を向けた。葉を落としたケヤキの枝の透き間から星がいくつかまたたき始めている。

「いつかは,そうしないといけないとは分かってるんだ・・・・」

「そうすれば・・・・今は佐為との係わりでボクだけが注目されているけど,そうすれば,ヒカルさんも注目される。ヒカルさんも佐為への思いを堂々と語れるようになる。その方が,気持ちが楽になるんじゃないのかな」

ヒカルさんは黙って聞いている。

「それに,安心できるでしょう」

「安心?」

「つまり・・・・さっき,ヒカルさんは佐為を恋人にたとえましたよね。世間に公表すれば,いうなれば公認の恋人になるわけでしょう?」

このたとえ話に,ヒカルさんは思わず吹き出した。

「まじめに話してるつもりですけど」

「いや,藤原さんがオレのことをまじめに考えてくれてることは分かる・・・・」

後の言葉が続かないけど,ヒカルさんの表情に笑みが漏れていることは分かる。少しは気持ちがほぐれたかな・・・・。それっきり,ヒカルさんは黙り込んだ。ボクたちは黙って並木道を歩き,正門を出たところで,ボクは空を見上げた。月の出ていない夜。都会にしては星がたくさん見える。ボクは空の星を指さす。オリオン座,牡牛座,御者座・・・・。去年の今頃,亥鼻(いのはな)の大学病院を出て,こんなふうに佐為に星を指さしたことがあった。

「星は,何億年,何十億年という宇宙の歴史を経て生まれて,何億年,何十億年の間光り輝いて,やがて消えていく。そんな星がこの宇宙にはそれこそ数え切れないくらいあるんだ。太陽よりも大きな星も,地球よりずっと小さな星も。そんな宇宙のことを考えていると,人間世界のちっぽけなことに心を悩ませるのが馬鹿馬鹿しくならない?」

ヒカルさんはまたちょっと笑みを浮かべた。さっきよりはずいぶん落ち着いたみたい。

「蝸牛角上何事か争わん 石火光中この身を寄す」

とつぶやいたら,佐為が

《富に隨い貧に随いしばらく歓楽せよ 口を開けて笑わざるはこれ痴人》

と,後を続けた。

「なんて意味?」

「カタツムリの角の上のような狭い場所で何を争うのだ? 火打ち石の火花のような短い人生なのに,という意味」

「オレは,まだそんな悟りを開けないなあ」

と,ヒカルさんは笑った。自嘲の笑いでも苦笑いでもない,素直な笑い。

街路をしばらく歩いた。ハンバーガーショップが目に留まる。

「ヒカルさん,おなかすいてない?」

「実は,すいてる。宇宙のことより,こっちの方が今はずっと大事だよ」

ヒカルさんの声に元気が戻った。

「じゃあ,ここに入る? ハンバーガーも好きなんですよね。ラーメンの次に好きなのかな。佐為が話してくれました」

と言って,ボクたちは中に入った。カウンターでヒカルさんは「ダブルチーズバーガーにポテトのLサイズにコーラのMサイズ」と注文して,相変わらず旺盛な食欲を見せている。ボクはハンバーガーにカフェオレSサイズを注文した。できあがった商品を持って席に着くと

「藤原さん,それだけでいいの? 相変わらず小食だなあ」

とヒカルさんが感心したように言う。

《ヒカルが食べ過ぎなくらいなんです》

という佐為の言葉は伝えなかった。ポテトを口に放り込みながらヒカルさんが話しかけた。

「あのさ,藤原さんが東京に引っ越したら,部屋に碁盤と碁石を揃えてくれないか? せっかく佐為がそばにいても碁が打てないとつまんないんだ」

「ああ,そうですね。そうすれば,碁を打ちながら語り合えるんですよね」

 

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