Honesty   作:松村順

4 / 7
ロミー

Ⅳ ロミー

 

 こうして,何かと多事多端だった年が暮れ,新しい年が明けた。年が明けてすぐ,ボクは東大に聴講生の願書を出した。

 そして,1月中旬,塔矢行洋との対局。塔矢行洋は日本の棋界を引退して日本棋院には所属していないから,主催は中国リーグ。北京での開催を打診されたけど,ボクは東京を希望し,塔矢行洋も「この機会にわたしも日本に帰りたい」と言って後押ししてくれた。北斗通信スペシャルは午後から対局開始だったけど,今日は午前10時から始まる。

《今回は,持ち時間が3時間。二人分で6時間。それに,持ち時間がなくなってからの早碁の時間を加えれば,7時間か8時間くらいになります。この時間から始めないと今日のうちに終わらないんです》

と,佐為が説明してくれた。解説は,日本の棋士2名と中国の棋士2名。そのうちの1名は塔矢アキラ。ほかに,日本棋院と中国リーグの関係者が10人ずつくらい来ている。その中にヒカルさんの顔も見えた。

《なんだか,北斗通信スペシャルの時より大がかりだね》

《はっきり言って,アキラや緒方さんより,行洋殿の方が格が上ですから》

《そんなにすごい人なの?》

佐為はゆっくりうなずく。

 佐為とこんなことを話しながら会場を歩いていると,相川さんにばったり出くわした。

「おや,北斗通信社もこのイベントにからんでるんですか?」

「残念ながら,からめなかったの。今日は“sai vs toya koyo”の第2ラウンドに興味があるから見に来たんです」

「それは・・・・ずいぶん熱心ですね」

「実は,業務として来てるんです」

「業務?」

「まあ,敵情視察というか,今後の当社の企画の参考にするためというか」

「なるほど」

「それと,藤原さんにお会いしてお礼を言うためもあります」

「ボクにお礼?」

「はい。おかげさまで『北斗通信スペシャル』は好評で,碁番組にしては視聴率も高く,営業的に『儲かった』企画なんです。できれば,今後ともお付き合い願いたいと・・・・」

「それはもちろん・・・・佐為がトップレベルの棋士と対局できるのなら,大歓迎です・・・・ひょっとして,何か具体的な企画が持ち上がってるんですか?」

「まだ正式決定ではありませんが,たぶん通ると思われる企画を検討しています。藤原さんの期待,佐為の期待を裏切らない企画だと思いますよ」

「それは,楽しみにお待ちしています」

脇を見ると,佐為が心からうれしそうな笑顔を見せている。こういう時,佐為はほんとうに単純素朴だな。

「ところで今回も,北斗通信スペシャルの時のように,対局者の椅子には藤原ヒロミさんではなくて,藤原佐為が座るんですか?」

「そのようにお願いしてあります」

「うん。あれはいいよ。わたしも藤原さんから提案された時,一瞬『えっ?』と思ったけど,よく考えてみるとおもしろいと思いました。実際,あの対局の場面を見て,『これ,最高』と思ったんです。空の椅子に,藤原さんに似て,でも髪も目も黒で,狩衣を着て烏帽子をかぶった青年貴族が座ってるのを想像すると,どきどきします。藤原さんに似てるんだから美形ですよね」

「佐為は,碁を打つ時はもっときれいになりますよ。そのように想像していてください」

こう言ってボクは相川さんと別れ,対局の準備の整ったステージに上がった。

 

 相川さんに話したように,塔矢行洋に向き合う席は佐為が座るよう空座になっている。その空座をじっと見つめて,塔矢行洋は

「確かに,あの時と同じ気迫を感じる」

と語る。佐為は「我が意を得たり」というようにうなずく。

「あの時?」

とボクは尋ねた。

「ああ,佐為とネット碁で対局した時のことだよ。6年前になるのか。それから・・・・」

と塔矢行洋が言いかけたのを見て,佐為が気遣わしげな表情を見せる。塔矢行洋は,そんな佐為の表情が見えるはずはないのに,

「いや,何でもない」

と言って話を打ち切った。ボクは,ヒカルさんの新初段戦のことを話そうとして,やめたのだと想像した。確かに,この場で,ほかに多くの人がいる場で,あの話をされては困る。

 塔矢行洋は目を閉じた。瞑想しているかのように。佐為は目を開いて,正面を見据えている。やがて対局開始が告げられた。前回,塔矢行洋が負けているので,彼が先番を取る。対局開始とほぼ同時に塔矢行洋は目を開き,鋭い表情で1手目を打ち込んだ。何日も前から考えていたんだろう。19路の碁盤に打ち込まれた1個の黒石を見て,佐為はふと笑みを漏らし,それからいつものように表情が冴え渡っていった。何度見ても美しい。佐為のこの顔。そして,扇が1点を指した。

 持ち時間3時間に設定されているから,対局はふだんよりゆっくり進む。序盤の布石を終え,中盤の攻防が進んでいる頃,

「打掛けにしてください」

という声がした。

「打掛け?」

ボクは思わず声にした。周りにいる何人かのスタッフが「えっ,打掛けも知らないの?」という顔でボクを見る。そんな顔で見られても,碁については素人なんだから知らなくても仕方ないだろうと思っていると,塔矢行洋が,それまでの厳しい表情から一転した優しい顔で

「打掛けというのは,昼休みのことだよ。朝10時から始めて,夕方かひょっとしたら夜にも及ぶ長丁場だ。この辺で休憩して食事を取りなさいということだよ」

とていねいに説明してくれた。ボクは

「ありがとうございます」

とお礼を言った。それにしても,対局中の鋭い刃のような表情と,この穏やかな顔の落差は大きいな。

時計を見ると午後1時。とういことは3時間も経っていたことになる。ふだんのネット碁なら2局くらい打ち終わっている時間。こんなことを考えていると,ヒカルさんが駆け寄ってきて,まず塔矢行洋にあいさつした。

「塔矢先生,お久しぶりです」

「ああ,進藤君,元気かね」

「はい。先生も元気そうで」

「ありがとう」

ヒカルさん,塔矢行洋の前ではずいぶん殊勝だな。と思っていると,ボクに話しかけてきた。

「藤原さん,昼飯食べる場所のあて,ある?」

「ありません。ヒカルさんこそ,ご存じないですか?」

「オレは,こういう高級ホテルってのは苦手なんだ」

「じゃあ,ボクが案内しましょうか?」

という声のした方を振り向くと,塔矢アキラがにこやかに立っている。

「ありがとうございます。ぜひ,案内してください」

というわけで,3人して歩き始めた。

「塔矢行洋さんは?」

とボクが尋ねると

「若い人たちだけで行ってきなさい」

と笑みを浮かべて送り出してくれた。塔矢アキラは,このホテルにあるいくつかのレストランのうち,一番カジュアルでくつろげるところに連れて行ってくれた。

 

 塔矢アキラについて,佐為からはいろいろ聞かされていたけど,実際に会ったのはこの前の対局が初めて。緒方さんとの対局の時を含めても,今日が3回目。佐為の話から,碁一途の求道者のような人をイメージしていたけど,会ってみると優雅で礼儀正しい好感の持てる人だった。髪型がボクに似ているのも親近感が湧く。そんなわけで,ヒカルさんとはもちろん,塔矢アキラともくつろいだ雰囲気の中で昼食を摂り,雑談していた。と言っても,二人が語りあうのをボクが脇で聞いていることが多い。そんな流れの中で,対局で佐為とボクが座る位置が話題になった。

「対局相手が空座,ほんとうは佐為が座っているだけど,ボクたちには見えないから,空座というのは,最初は面食らったけど,3回目になると見慣れてきて,佐為の対局ならこれがいいと思えるようになったよ」

「オレは,最初から,佐為の対局ならぜったいこれだと思ってた」

ボクは,この打ち解けた雰囲気に油断して

「実は・・・・」

と,打ち明け話を始めてしまった。

「ヒカルさんは知ってると思うけど,佐為は,ふだんから美しいけど,対局の時は,それこそ冬空の月のように冴え渡った表情を見せて,ふだん以上に美しいんだ」

「ああ,分かる,分かる」

とヒカルさんが相づちを打つ。

「その,ふだん以上に美しい佐為の顔を見るには,あの位置が好都合なんです。ボクが対局者の椅子に座って佐為が真横にいるより,あの位置関係の方が見やすいでしょう」

二人は「なるほど」と納得してくれたけど,佐為は

《ロミー,そんな邪(よこしま)なことを考えてたんですか!》

と叱りつけた。ボクは思わず,

「『よこしま』ってことはないでしょう」

と声に出して答えてしまったので,二人がボクを見つめた。

「あっ,済みません・・・・佐為はなぜか自分の美貌を話題にされることを嫌うんです。星や花の美しさには,音楽や絵の美しさには,とても繊細な感受性を持ちあわせているのに,棋譜の美しさについてさえ熱心に語るのに,自分の美には無頓着というか,語られるのをいやがるんです。それで,今もボクを叱りつけて・・・・なんで,『きれい』と言われて怒るんでしょうね?」

二人は笑っている。

「お二人も言われたことあるでしょう。塔矢さんは典型的な美形だし,ヒカルさんだって美形の部類ですよ。これまで『きれい』と言われたことはあるでしょう。そんな時,怒りますか?」

「怒りはしないけど・・・・」

塔矢アキラが歯切れ悪く答える。ヒカルさんが

「藤原さん,あんたこそ,『きれい』ってしょっちゅう言われるだろう。うれしいかい?」

「もちろん,うれしいですよ」

二人は驚いたようにボクを見る。

「男が『きれい』って言われてもなあ・・・・」

とヒカルさんがつぶやいたから

「男とか女とか,どうでもいいでしょう」

と答えたら,二人はもっと驚いた顔でボクを見た。そしてヒカルさんがふと,

「藤原さんは強いなあ」

とつぶやいた。

「ボクが,強い?」

「うん。人が何と言おうと,世間が何と思おうと,自分の生き方を貫いてる」

 

 ともあれ,こんなささやかなハプニングを交えながら昼休みは終わった。対局者の椅子に座った佐為は,その美貌を眺めるのに好都合な位置に座ったボクをにらみつける。

《まだ怒ってるの?》

と問いかけたら,ふっと笑みを浮かべてくれた。そして,午後の対局の開始。19路の碁盤に黒石と白石の模様が徐々に成長していく。それは,ボクには,溶液の中で結晶が少しずつ成長していくさまにも見える。違うのは,結晶はその元となる原子や分子によって出来上がる形がある程度決まっているけど,碁盤の黒石と白石の模様は2つとして同じものはないこと。

 終盤に入っても,両者の緊張は緩まない。最後まで勝負が見えないのだろう。そして,残り15目くらいのところで佐為が,

《どうやら,わたしの半目負けのようです》

とつぶやいた。

《えっ,佐為が負けるの》

《おそらく》

それから,二人は淡々と打ち合って終局した。佐為が負けの碁盤を静かに眺めている時,

「盤面では黒72目,白66目,コミを入れて白の半目勝ちです」

というアナウンスが流れた。

ボクは思わず〔えっ?〕と心の中でつぶやいて,佐為を見,そして塔矢行洋を見た。佐為も狐につままれたような顔をしている。

「藤原さん,どうしたのだね?」

「あの・・・・佐為が勝ったんですか?」

「そうだよ。相変わらず佐為は強い。また半目及ばなかった」

この時,

《そうでした。コミのルールが変わっていました。この前ヒカルから説明してもらったのに,忘れていました。6目半でしたね》

「藤原さん,佐為の負けと思ったのか?」

「あっ,はい。佐為が,『コミのルールが変わったのを忘れていました』と話してます」

「ああ,そういうことか。確かに,わたしも対局しているうちに,この前の対局から間を置かずに打っているような気分になりかけた。この間に流れた時間を飛び越えているような気分だった」

 

ボクの周囲では碁盤が片付けられ,次のプログラムの準備が進められている。今回は対局者を交えた検討は行なわれず,代わりに対局者に感想を聞くインタビューが予定されている。準備作業は手早く終わり,塔矢行洋とボクが並んで座り,隣に司会者の机がある。その脇に,日本棋院と中国棋院の関係者の席も用意されている。インタビューはすぐに始まった。

「まず,対局の感想を。塔矢行洋先生から」

「佐為は強い。ただそれだけだね」

と塔矢行洋は手短に答える。それで,ボクに話が振られた。

《佐為,何か話して》

《わたしも同じです。行洋殿は強い。機会があればこれからも何度でも打ち合いたい》

ボクはこの言葉をその通り伝えた。

「藤原ヒロミさんは,オープン碁トーナメントの優勝者インタビューで,『佐為が対局を望む相手が2人いる』と話しておられました。そのうちの1人は塔矢行洋先生で間違いないですね?」

「はい」

「もう1人の名前は?」

「それはまだ・・・・」

とボクが言いかけた時,棋院関係者の席から

「藤原さん,話してもいいよ」

と声がした。まぎれもないヒカルさんの声。ボクは声の方を向いた。ヒカルさんはボクにうなずいている。ボクもうなずいた。

「もう1人は,進藤ヒカルさんです」

会場がどよめいた。司会者は意外な進行にちょっと戸惑っていたけど,すぐに気持ちを切り替えた。

「それはどうしてですか? 塔矢行洋先生の場合は,あのネット碁の伝説的な名勝負がありました。進藤本因坊とはどのような?」

ボクはまたヒカルさんを見る。ヒカルさんはまたしっかりうなずいた。

「それは,ヒカルさんこそ,佐為の2番目の宿主,ボクに宿る前,佐為はヒカルさんに宿っていたからです」

ここで会場から,さっきより大きなどよめきが生じた。その中に「やっぱりそうか」という声がいくつか混じっている。ボクは話を続ける。

「ヒカルさんが12歳の年,小学校6年生だった年の冬から,14歳の年,中学3年になったばかり,言い換えればプロになったばかりの年の5月5日まで,2年半くらい,二人は,佐為とヒカルさんは,毎日何度も何度も碁を打っていたのです。ヒカルさんは佐為が最も深い愛着を寄せる棋士なのです。佐為は,自分の持てるものすべてを注ぎ込んでヒカルさんを育てたんです。ヒカルさんは佐為の弟子,たった一人の愛弟子なのです」

会場はざわめいている。司会者はその場の状況を読んで,

「予定を変更して,進藤本因坊に藤原佐為との係わりについてインタビューしたいと思います。いかがでしょうか?」

と会場に問いかけると,会場から拍手と「いいよ」,「ぜひ聞きたい」という声が返ってきた。ヒカルさんは立ち上がり,まず司会者に一礼し,それから会場に向かって一礼した。そして,

「何でも訊いてください。この期に及んで隠し立てなんかしません。藤原さんを見習って,事実をその通りに答えます」

さっそく,なぜ隠していたのかという質問が出された。

「怖かったからです。幽霊がいるなんて話しても,信じてもらえないだろう,馬鹿にされるだろう,おかしな奴だと思われるだろう,そんな気持ちでいっぱいで,話せなかったんです」

なぜ,今になって打ち明けるのかという質問には

「藤原さんのおかげです。藤原さんのしていることを見て,分かったんです。嘘つくより,事実をありのままに話す方がずっと楽なんだって。それでも,すぐには決心できなかった。今日,やっと覚悟を決めました」

それからヒカルさんは,問われるままに,いや問われるまでもなく,語り始めた。お祖父様の蔵の中での出会い,最初はいやいやながら始めた囲碁,塔矢アキラとの出会い,小学生なのに学ランを着て出場した中学囲碁大会,中学1年生の1学期の囲碁大会での塔矢アキラとの再会,ネット碁ざんまいだった中学1年の夏休み,院生になる決意,院生時代の思い出,プロ試験,塔矢行洋との新初段戦,塔矢行洋と佐為のネット碁対局を取り持ったこと,そして何より,自分の碁を打とうと思えば佐為に碁を打たせてやれなくなった葛藤。会場全体がヒカルさんの話に聞き入っているようだった。だけど,鋭い質問は飛んでくる。

「感動的なお話でした。進藤本因坊は真実を語っておられると思います。嘘偽りはないと思います。それでも,1つだけ疑いが消えません。プロ試験,佐為の力を借りず自力だけで戦ったということですね。そう信じたいのですが,確実な証拠がありますか?」

ヒカルさんは首を振る。

「証拠なんか,ありません。オレを信じてもらうしかありません」

ここでボクは話に割り込んだ。

「確実な証拠とは言えませんが,状況証拠はあります。ヒカルさんのプロ試験の成績は23勝3敗です。佐為の力を借りたのなら,26戦全勝だったはずです。それに,プロ試験を佐為の力で勝ち抜いたのなら,プロになってすぐ佐為は消えたのですから,ヒカルさんはプロになって連敗したはずです。でも,実際は,ショックで手合を休んだ不戦敗はありましたが,実際に対局して負けたことはなかったはずです。それどころか,その頃のヒカルさんは『最強初段』と言われていたんですよね。この戦績が,プロ試験を自力で勝ち抜いた証拠にならないでしょうか?」

「まあ,そう言えば,言えますが・・・・」

この時,解説者席から,

「ボクがもう1つの証拠をお見せします」

という声が上がった。塔矢アキラだった。彼はその場にいたスタッフに,

「大盤解説用のスクリーンを立ち上げてください。これからボクが2枚の棋譜をご覧に入れます。それを見れば,あの頃の佐為の碁と進藤の碁の違いが分かるはずです」

「塔矢・・・・」

ヒカルさんはそれだけ言って,ほかには何も言えず,塔矢アキラの振る舞いを眺めている。塔矢アキラはパソコンのマウスを操作して,あっという間に1枚の棋譜をスクリーン上に作り上げた。

「これはボクが初めて進藤と,つまり佐為と対局した時の棋譜です。この時,佐為はボクを相手に遙かな高みから指導碁を打ちました。次に・・・・」

と言ったところで,ヒカルさんが

「2枚目はオレが打つ」

と言って塔矢アキラからマウスを取り上げた。塔矢アキラはほほえんでその場を譲った。ヒカルさんもあっという間に棋譜を作った。棋譜が作られている途中から,その脇で塔矢アキラが説明する。

「これはボクと佐為の2回目の対局です。この時,佐為はボクを一刀両断に切り捨てました。碁を打つ人には一目瞭然でしょう。この棋譜にある佐為の手筋と進藤の打ち方は違います。確かに愛弟子ですから似ているところはあります。でも明らかに別です。この頃の進藤の棋譜は残っていません。プロ試験も棋譜に残りません。でも,この頃の進藤と打ち合った人はこの会場にもいるはずです。明らかに違っているでしょう。プロ試験で進藤は,佐為に打たせたのではありません」

 会場にいる人たちの視線がヒカルさんと塔矢アキラに集まっている。ボクに視線を向ける人もいる。ボクは発言を求めた。

「状況証拠はあくまで状況証拠です。いくら積み重ねても100%確実な証拠にはなりません。でも,それなりの説得力はあるはずです。ボクの話と塔矢アキラさんの話を聞いて,ヒカルさん・・・・進藤本因坊の言い分を信じてもいいと思ってくれる人も多いと信じています。もちろん,それでもまだ疑う人もいるでしょう。それは進藤本因坊も覚悟の上だと思います」

その時,

「わたしは,進藤君を信じるよ」

と塔矢行洋が発言した。その瞬間,会場が静まった。ボクの脇で佐為が

《行洋殿,ありがとうございます。心から感謝いたします》

と目を潤ませながら塔矢行洋に話しかけた。

 

 時間も内容も予定から大幅にはみ出した対局後インタビューが終わり,ボクはステージから降りたところで,脇に並んでいる塔矢行洋に

「ヒカルさんのために発言していただいて,ありがとうございます。ボクもですが,佐為が心から感謝しています」

と,佐為の言葉とボクの気持ちを伝えた。

「当たり前のことを言ったまでだよ。碁打ちであれば誰だって,自分の碁を打ちたいと思う。たとえ,佐為に打たせる方が勝てると分かっていても,それでも自分で打ちたいと思う,それが碁打ちというものだ。進藤君は碁打ちだよ。それ以外の何者でもない」

「ありがとうございます」

ボクはもう一度礼を言って歩き出そうとしたけど,塔矢アキラの声に呼び止められた。

「藤原さん,これからお暇ですか?」

「ええ,特に用事はありませんが」

「それなら,我が家にご招待したいのですが・・・・いえ,藤原さんに特別な用件があるわけではありません。夕食にお誘いしたいというだけのことです」

「ああ,わたしの口から言うのも何だが,明子の手料理はなかなかのものだよ。ぜひ藤原さんに召し上がってほしい。できれば佐為にも食べてもらいたいのだが,それは無理だな」

塔矢行洋は,対局中の厳しい表情とも,インタビューの終わりに一言で会場を静かにした時の威厳ある表情とも違う,穏やかな表情で語る。そこに,

「先生,ほんとうにありがとうございます」

というヒカルさんの声がした。

「それから,藤原さんも塔矢も,ほんとうにありがとう」

と頭を下げた。

「キミは,ボクの生涯のライバルだ。そして,かけがえのない友だ。あれくらい,当然だよ」

と塔矢アキラが答えた。ボクがこの上さらに何も付け加えることはないだろう。

「じゃあ,ボクは車を出してきますから,ホテルの出口で待っていてください。あっ,進藤も来るだろう?」

「もちろんだ。久しぶりに明子さんの手料理,楽しみだ。もちろん,その後で打つよな?」

その言葉に,ボクは驚いた。これから塔矢さんの家で夕食をごちそうになれば,かなり遅い時間になる。ボクは帰りの電車の時間を気にしているのに,ヒカルさんはそれからまた碁を打とうというのか。確かに,碁打ち以外の何者でもないな。

 

 塔矢アキラの運転する車は外堀に沿って走り,しばらくして本郷通りに入って北に向かっている。〔このまま行くと駒込だけど〕と思っているうちに駒込駅が見え始めた。そして車は左に折れていくつかの路地を走り抜けて,立派なお屋敷の前で止まった。

「ここが塔矢さんのうち?」

「はい」

「立派なお屋敷ですね」

「そうなんだよ。オレんちとは桁違いだろう」

というヒカルさんの言葉にみんな笑った。門を開けると庭があり,その先に建物がある。玄関を開けると,明子さんが

「いらっしゃいませ。藤原さんは初めてですね」

と,にこやかにあいさつしてくれた。

「こちらですよ」

とダイニングルームに案内された。

「藤原さん,何か嫌いなものとかありますか?」

「いえ,特には」

「藤原さんは小食だから,張り合いがないかもしれないよ」

ヒカルさんは気軽に話しかけている。まるで自分の家にいるみたい。

「ヒカルさん,なんだか自分の実家にいるよりくつろいでるね」

と話しかけたら,

「そうかなあ」

と苦笑いされた。

 ともあれ,こんなくつろいだ雰囲気で塔矢家の晩餐は進む。確かに,ボクはグルメじゃないけど,それでも明子さんの料理が一流なことは分かる。この感想を伝えたら

「男を落とすにはまず胃袋から,と言いますからね」

と,思いがけなく色っぽいことを言われた。

「そんなことわざがあるんですね・・・・でも,食欲を制したら簡単に落とせるなんて,男って単純な生き物ですね」

というボクの反応を明子さんはおもしろがった。

「藤原さん,まるで自分が男じゃないかのような言い方」

「まあ,男と意識してはいませんから」

「じゃあ,女と意識してらっしゃるの?」

「女とも意識してません。男とか女とか,そんなことふだんぜんぜん意識しないんです」

この返事には明子さんだけでなく,ほかのみんなもあきれたような顔をボクに向けた。まあ,この反応は慣れている・・・・。

 この日の塔矢家の晩餐でボクが注目を集めたのはこの時だけ。ほかはほとんど碁の話ばかり。佐為は喜んで聞いているけど,ボクはいささか蚊帳の外。別にいやではないけど・・・・。そんなボクに気を遣ってくれたのか,塔矢アキラが来月に予定されている高永夏(ホ・ヨンハ)との対局を話題にした。

「福岡でやるんだよね」

「はい。東京とソウルの中間ということなんです。実際は,福岡は東京よりソウルの方がずっと近いんですけどね」

「そうなんですか?」

「福岡~大阪と福岡~ソウルがほぼ同じ距離です」

「そんなに近いんですか」

「そうなんです。ちなみに,福岡~東京と福岡~上海(シャンハイ)がほぼ同じ距離です」

「あら,それじゃ,わたしたち,福岡に住めば何かと便利かも」

と明子さんが冗談めかしてから,

「それにしても,ずいぶん詳しいんですね」

と感心したように言う。すかさずヒカルさんが,

「藤原さんは何でも知ってるんだ。知らないことがないんじゃないか?」

「そんなこともないけど・・・・福岡に住んでいたんです。17歳の時まで」

「へえー,そうだったんだ」

「福岡のどのあたり?」

「博多中州です」

実際は,中州から川一つ隔てた所だけど,そこまで詳しく言わなくてもいいだろう。

「で,17歳の時からは千葉?」

「じゃないんです。17歳から20歳までは新宿に住んでました。20歳で大学に入学して千葉に引っ越したんです」

「そうだったんだ。オレ,考えてみると,藤原さんの昔のこと,ぜんぜん知らないな」

「まあ,特に知らなくても・・・・」

ボクは話題をそらすために引っ越しの話をすることにした。

「もうじき,都内に引っ越そうと思ってるんです」

「都内のどのあたりを考えてらっしゃるの?」

「それが,駒込を考えているんですけど・・・・」

「あら・・・・」

「やっぱり,ここは駒込の近くですよね?」

「はい。駅まで歩いて10分はかかりません。7~8分くらいでしょう」

と言って明子さんはまた冗談めかした口調で

「いっそ,うちに寄宿なされば? 空いてる部屋の1つや2つ,ありますよ」

すると塔矢アキラが

「それはいい。うちに住んでくれれば,ボクは毎日佐為と打てる」

とまじめに言い出したから,ヒカルさんが

「それはだめだ。オレを差し置いて」

とまじめに言い返した。ボクはそのやりとりの子供っぽさに笑いそうになって二人を見たけど,どちらも真剣な顔つきなので,びっくりした。

「まあまあ,冗談ですよ。藤原さんだって,うちに住むのは何かと気詰まりでしょう。でも,近くに住まわれるのなら,ちょくちょくいらしてください。進藤さんも一緒にね。アキラが恨まれては困りますから」

と,明子さんはこの話を丸く収めてくれた。

 こうして夕食を終え,ボクは帰ろうとしたけど,ヒカルさんは予定通り塔矢アキラと1局打っていくとのこと。

「藤原さん,帰るの? オレと塔矢の対局,見ていかない? まあ,藤原さんじゃなくて,佐為に見せたいんだけど。佐為は,オレと塔矢の対局,見たことないんじゃない?」

「そうなの?」

佐為はちょっと考え込んで,

《そういえば,中学1年生の時の囲碁大会での対局だけです》

「中学1年生の時の囲碁大会だけだって」

「そうだよな」

ボクは困った。佐為はきっと見たいはず。でも,ここで二人の対局に付き合うと,きっと終電に乗り遅れる。明日は朝から聴講したい講義があるから,ボクは今夜のうちに千葉に帰っておきたい。

《佐為,ボクは明日の朝の講義を聴講したいからから,帰りたいんだ》

佐為はうなずいた。

《もちろん,ロミーの勉強の邪魔はしたくありません。ヒカルとアキラの対局を見る機会はこれからたくさんあるでしょう。今日でなくても》

そう言いながら,未練がましい表情になっている。それは仕方ない。

《ありがとう》

と,佐為に言って,ヒカルさんに説明する。

「残念だけど,二人の対局を見ていると終電に乗り遅れるんです。明日は朝から聴講したい講義があるので,今日のうちに帰りたいんです」

ヒカルさんは残念そうな顔をしたけど,

「まあ,そういうことなら仕方ないな。藤原さんの勉強の邪魔はできないから」

という言葉で見送ってくれた。

 

/ / / / / / / / / / / / / / / / / / / / / 

 

(ここから第三者視点)

 

 佐為と塔矢行洋の対局の前日,相川は北斗通信の社長室に呼ばれていた。

「北斗通信スペシャルは成功だった。視聴率も,二桁などは無理だが,碁番組としては記録的な数字だったし,コストは対局料と会場費その他もろもろの諸経費を含めてもたいしてかからないから,コストパフォーマンス的にはすばらしい企画だった」

「ありがとうございます。担当者として,うれしいです」

「それにしても,あの藤原ヒロミという人,実に得がたい素材だね。美しいだけなら,ほかにもいるが,ああいう美しさはほかにいない。しかも経歴がすごい。メディア情報だから誇張もあるかもしれないが,12歳の時に両親を事故で失って,博多中州でバーをやっていた叔母に引き取られ,中州の花街で育ち,17歳からは新宿歌舞伎町で暮らした。ショーダンサーをやってたんだね。ふつうに男の子の衣装でも踊ったけど,ドレスを着ても踊っていた」

「それが,ノーメイクなんですよ。『ロミーちゃんは,汗で化粧が流れるのを嫌ってノーメイクで踊るの。すっぴんでドレス着て似合うんだから,もう嫉妬を通り越してただ惚れ惚れ見てたわよ』って談話も載ってました」

「しかも,とびきり頭がよくて,高校にも予備校にも通わずに医学部に入学した。20歳の時だからふつうに言えば二浪なんだけど,境遇を考えればすごいことだ・・・・テレビドラマの1つや2つ,いや映画だって作れそうじゃないか」

「残念ながら社長,すでにたくさんのテレビ局や映画会社がアタックしてるんですが,すべて拒否されています」

「それは知っている。ただ,ドラマとか映画じゃなくても,たとえば当社のイメージキャラクターとかになってくれないものかね? 碁をからめて頼んでみたら・・・・」

「それは・・・・北斗杯のイメージキャラクターくらいなら引き受けてもらえるかもしれませんが,でも年齢が・・・・確かもうすぐ29歳になられる・・・・」

「いや,それは名案だ。ぜひお願いしてみよう。へたなジャリタレよりよほど我が社のイメージアップになる。北斗杯は出場する棋士たちこそ十代だが,宣伝のターゲットは企業関係者であれ一般消費者であれ,基本的に大人たちなんだから。イメージキャラクターだけじゃなくて,北斗杯にあわせて中国,韓国の棋士との対局を設定してもいい。若手の有望な棋士がやって来るんだし,団長としてはそれぞれの国のトップレベルの棋士が来る。その人たちとの対局を北斗杯関連のエグジビジョンとして流せば十分ビジネスになる。向こうだって,佐為,FJWRsaiとの対局なら望むところだろう。わざわざ日本に来るのは大変かもしれないが,どうせ北斗杯で来日するんだから」

「そうですね。高永夏なんか,佐為と何の縁もゆかりもないのに,対局に名乗り出て,来月福岡で対局するんですからね」

 

 その2日後,つまりsai vs toya koyo第2ラウンドの翌日,相川は再び社長室に呼ばれた。

「藤原ヒロミさんの感触はどうだった?」

「なかなか良かったです。佐為がトップレベルの棋士と対局できる機会は大歓迎のようです。イメージキャラクターの話はしてませんけど」

「では,すぐに話を進めてくれ」

 相川はすぐにロミーに連絡した。ロミーは,北斗杯関連の対局はよろこんで受け入れた。イメージキャラクターについても,北斗通信のサイトの北斗杯関連のページに佐為ではなく自分の顔写真が載るだけならということで了承した。

 

/ / / / / / / / / / / / / / / / / / / / / 

 

(ここからロミー視点)

 

 2月上旬,高永夏との対局の前日,ボクは12年ぶりに福岡の街を訪れた。対局会場であり,ボクの宿泊先でもあるホテルは博多駅のそばにある。夕暮れ時,ボクはホテルを出て,12歳から17歳まで5年間を過ごした街区にのんびり歩いて出かけた。大きなビルが3棟建っている。そうでしかあり得ない。かつてこの地に立ち並んでいた小さな商家,1階が商店,2階が住まいになっている小さな家屋はほとんど,ボクが博多を去る頃に取り壊され,再開発ビルの建設が始められた。ボクが子供から大人に変わりかける5年を過ごした街区はもう存在しない。それはただ,ボクの記憶の中だけにある,そのことを確かめに来ただけなんだ。ボクはビルの中には入らず,周りをぐるりと歩いただけで引き返した。

 ホテルに戻ってしばらくすると,フロントから電話がかかってきた。面会人が来ているという。その名前に心当たりはない。その旨を伝えて確認しても,間違いなくボク,藤原ヒロミに面会希望なのだという。ちょっと気味が悪いけど,人目の多いホテルのロビーで会うのなら大丈夫だろうと思って,降りていった。

 フロントに,ボクの見知らぬ中年の女性が立っている。向こうはボクを見知っているようで,

「ヒロミさんですね」

と声をかけられた。

「はい。でも,どなた様でしょうか? ボクには面識がないのですが」

「覚えていなくても仕方ないわ。ほんの2~3回しか会ったことはないから。あなたの叔母よ。と言っても,もちろんあなたを5年間育ててくれたミユキさんではなくて,父方の叔母,あなたのお父さんの妹」

ああ,それで納得した。ボクの両親は父方の親戚とはほとんどつきあいがなかった。だから,父方の叔母を覚えていなくても不思議じゃない。でも,それならどうして,そんな縁の薄い叔母がボクにわざわざ会いに来たんだろう? まさか,ボクが有名人になったから?

「お兄さん,あなたにとっては伯父に当たる人のことで話したいことがあるの」

「伯父?」

「そう。あなたのお父さんのお兄さん。あいつを横領罪で告発しようと思うの。それで,告訴状に署名捺印してほしいの」

「横領罪で告訴? 署名捺印?」

ボクは訳が分からなかった。

「こういうことなのよ」

と,叔母は自分が用意した告訴状を読ませてくれた。そこには,17年前の事故でボクの両親と姉が死んだこと。両親が子供のために契約しておいた生命保険の保険金と,事故を起こしたタンクローリーを保有する会社から支払われた賠償金が唯一の受取人であるボクの銀行口座に振込まれたこと。当時,ボクが12歳の子供であったことをよいことに,親戚の中で一番発言力の大きかった伯父がその通帳と印鑑を預かったこと。そして,そのお金を自分が運営する医療法人に勝手に貸し付けていることが記載されている。

 ボクは,思い出した。確かに,両親と姉が死んですぐ,伯父といわれる人に連れられて銀行に行き,通帳を作った。ただそれだけ。その後のことは何も覚えていない。通帳のことさえ忘れていた。伯父のことさえ,あの時は「威張りくさったいやな人」と思ったけど,そう思えばこそ,さっさと忘れようと思い,実際,今の今まで忘れていた。

 こんな伯父への気持ちとは別に,ボクは叔母が用意した告訴状を丁寧に読み返した。

「叔母さん,これには『貸し付けた』と書いてあって,『奪った』とは書いてないよね。実際に貸し付けたのなら,横領にはならないよ。ただ,期限が来たら返すように言えばいいだけのことでしょう」

「あいつがそんなに素直に要求に応じたりしないわよ。あいつがどんな人間か,わたしがよく知ってるんだから」

それから,彼女は自分の兄の悪口を述べ立てた。

「ほんとうにいやな奴なの。自分が世界で一番偉いと思ってる。田舎の医療法人の理事長くらいで。特にわたしは,一族の中で一人だけ,医者にもならず,医者と結婚もしなかったから,人間のくずみたいに思ってる。自分だってたかが田舎の私立の医学部出ただけなのに。ヒロミさんの方がずっと偉いわよ。国立の医学部出てんだから」

「はあ・・・・」

ここまで露骨に学歴で人を差別されると,怒る気にもならない。それにしても,この叔母さんも相当な人だな。両親が父方の親戚と付き合いを絶っていた気持ちがよく分かる。どうやら,この叔母さんという人は,ボクへの親切心のためでなく,自分の恨みを晴らすためにボクを利用しようとしているらしい。それならばなおさら,この話にはおいそれと乗れない。伯父がいやな人だというのは,ぼくも同感だけど・・・・。

「刑事告訴というのは,重大なことだから,やるべきことをやってからの方がいいですよ。まず,返還を求めて,それを拒否するとか,そもそも貸し付けの事実そのものを否定するとか,そういうことになってからのことです。まず,手順として伯父に返還を求めるのが筋でしょう」

叔母さんはいかにも残念そうな顔をした。

「ヒロミさんがそう言うのなら,仕方ないけど・・・・ちゃんと文書で請求するのよ。電話とかじゃだめ。手紙よ。ここでの仕事が終わって東京に戻ったら,すぐに手紙を書きなさい」

と言って,叔母さんは伯父の住所を教えてくれた。

「内容証明,受取証明付きの手紙にするのよ。『そんなもの受け取っていない』なんて言わせないために。なんたって,1億を超えるお金なんだから」

「そんな大金なんですか?」

「当たり前でしょう。あなたのお父さんとお母さん,2人分の生命保険金と,お姉さんも入れた3人分の交通事故の賠償金でしょう,それくらいにはなるわよ。ともかく,なるべく早く手紙を書くのよ」

叔母さんという人は言うことだけ言うと帰って行った。

 

 部屋に戻ると佐為が

《ロミー,事情を説明してくれますか? 話したくないなら無理にとは申しませんが》

「話してもいいよ」

と言って,ボクは話し始めた。家にタンクローリーが突っ込んで一瞬のうちに家が火に包まれたこと。ボクだけ散歩に出かけていたから助かったこと。両親は子供のために生命保険に入っていたから保険金が支払われ,タンクローリーを保有する運送会社からも賠償金が支払われ,ただ一人生き残ったボクが受取人だったこと。まだ子供だから伯父が管理することになったこと。

《でも,ロミーはその伯父のところで暮らしたのではないんですよね?》

「うん。ボクは叔母さん,母の妹に当たる人のところで暮らした。今日行ってきたあの辺にあった。1階が飲み屋で2階が住まいになっていた小さな家」

《飲み屋?》

「うん。楽しかったよ。叔母さんもお客さんたちもボクをかわいがってくれた」

《そうですか・・・・》

佐為は複雑な表情をしている。

 ここでとりあえず話は終わり。ボクは窓から外の景色を見る。中州にひしめくネオンサイン。その上には,ほとんど星の見えない暗い空。ボクは,伯父のことは頭から追い払って,中州で過ごした5年の日々を思い出す。傍目にはどう見えたか分からないけど,ボクは幸せだった・・・・。それから,また先ほどの話題が意識に戻ってきた。

「ボクが遺産のことを忘れないでいたら,医学部で勉強するのに借金する必要はなかったんだね。その遺産を請求すれば良かったんだから」

《確かに・・・・》

「でも,これで良かったんだよ。借金がなくても,ボクは佐為に出会う運命だったとは思う。佐為の願いを聞いて碁を打たせてあげたとも思う。でも,賞金目当てにトーナメントに出場させることはなかった。結果として佐為が今のように有名にもならなかった。そして,『3回目,佐為がボクに宿ったのは,ほかの誰でもない藤原佐為の名前を碁の歴史にしっかり刻み込むためなんだ』なんてことを思いつきもしなかったよ。だから,ボクが遺産のことを忘れて借金したのは正解だったんだよ。佐為のために・・・・そして,ボクのためにも」

《ロミー・・・・》

佐為は,両手をボクの肩に置いてボクを見つめる。ボクへの感謝の気持ちと,おそらくは愛着も込められたその眼差しをボクは受け止める。〔ほんとうに,美しい人。いくら見ても見飽きない〕ふとそう思った。

「・・・・それに,もしそのお金を自由に使えたら,ボクはごく普通の子供時代を過ごすことになって,中州で5年,新宿で3年を生きることはなかっただろう。でも,中州と新宿で過ごした歳月はボクにとってかけがえのないものなんだ。その意味でも,お金のことを忘れていた方が良かったんだよ」

佐為は,穏やかな笑みを浮かべる。

《そのように自分の運命を肯定的にとらえるのは,よいことですね》

「ボクもそう思うよ」

ボクたちはしばらく見つめ合った。

「そろそろ寝よう。明日は高永夏(ホ・ヨンハ)との対局だから」

《そうですね。韓国を代表する棋士との対局ですからね》

 

 翌日の朝,対局が設定されているパーティールームに入ると,

「今日はぜったいヨンハの奴をやっつけてくれよ」

と声を掛けられた。ヒカルさんだった。

「あれ,なんでヒカルさんがここにいるの?」

「棋院とテレビ局に頼み込んで解説者にしてもらった。昨日,仕事が終わって最終便で飛んできたんだよ。佐為とヨンハの対局は見逃せないからな。そばで見ていたい。ぜったい勝ってくれよ。コテンパンにしてやってくれ」

ヒカルさん,ふだん以上に気合いが入っている。

「ヒカルさん,どうしたの? まるで自分が打つみたい」

「うん,あいつとはいろいろ因縁があるんだ」

「まあ,北斗杯のことは聞いてるけど,それはそれとして,解説は公平にやるんだよ」

「なんだか,テレビ局の人みたいなこと言うなあ」

と笑いながらヒカルさんが立ち去るのと入れ替わるように,反対側から写真で見たとおりの美形が歩いてきて,ボクの前で立ち止まった。ボクは会釈して顔を上げる。彼はかなり背が高いから自然に見上げるようになる。

「ヨンハさんですね」

とボクは声を掛けた。ついさっき,ヒカルさんが「ヨンハ」と呼んでいたから,ボクもついファーストネームで呼びかけた。ヨンハはボクのあいさつに笑顔で答え,それから指先で軽くボクのまつげに触れて,何か語りかけた。通訳係が戸惑っているけど,ヨンハが「ちゃんと通訳しろ」という仕草をしている。

「わたしもまつげが長いと言われるけど,あなたもかなり長いですね」

ボクはにっこり笑って

「ありがとう」

と答えたけど,脇からヒカルさんが飛んできて,

「ヨンハ! 何をしてる? 藤原さんの顔に触るな」

と怒鳴り込んだ。ボクはヒカルさんをなだめる。

「ヒカルさん,そんなに怒らないで。まつげが長いというのは美人の条件だよ。ボクを美人と褒めてくれたんだ。素直に喜ぼう」

「はあ・・・・」

ヒカルさんは気の抜けたような声を出した。このやりとりを端で見ていた佐為が笑っている。

《この前の緒方さんの時もそうでしたけど,ロミーにはこの種の盤外戦は通じませんね。それにしても,ヒカル,今日はどうしたんでしょう。そんなに熱くなって・・・・》

ヒカルさんとボクのやりとりを通訳係から説明されたヨンハも,ヒカルさんとボクを交互に見ながらおかしそうに笑っている。こんなところが,ヒカルさんの気に障るのかな。ボクは平気だけど。

 

 午前10時に対局が始まった。塔矢行洋の時と同じく,持ち時間は3時間。途中に打掛けが入る。事前の打ち合わせのとおり,佐為が先番を取る。「たとえネットで不敗無敵であっても無冠の棋士に対して自分が先番を取るわけにはいかない」とヨンハが主張したから。ヒカルさんは「なんて傲慢な奴だ」と言うかもしれないけど,ボクは自国でいくつかのタイトルを保持している者のプライドだと思う。ともあれ,対局開始が告げられると同時に,佐為が盤上の1点を扇で指した。

 碁盤がしだいに黒石と白石で覆われていく。佐為はいつものように冴えわたった表情で盤上の戦いを眺めている。

《同じ囲碁でも国ごとに戦い方は違いますね。でも,この打ち筋,見覚えがあります。以前ネット碁で対戦したはずです》

ということは,FJWRsaiはネット碁で無敗だから,この相手にも勝っているはず。そのせいか,佐為の表情には余裕がうかがえる。ヨンハの方は,先ほどの人を小馬鹿にしたような表情は影をひそめ,真剣そのものという顔をしている。こっちの顔の方が好感が持てる,などと不謹慎なことをボクはふと思った。

 やがて,打掛け。ヨンハは,フーッと息をつき,それまでの真剣な表情から,にこやかな,でもちょっと人を小馬鹿にしたような表情に戻り,ボクに何か声を掛けた。すぐに通訳係が駆け寄って

「このホテルにはおいしい韓国料理のレストランがあります。よろしければ招待したい」

と伝えてくれた。

「ボクは,香辛料の効いた料理は苦手なのです」

と答えたら,

「韓国料理がすべて辛いわけではありません。薄口の,お気に召す料理もありますよ」

と返答された。そう言われれば,断る理由もない。もともと,食事をする場所のあてはなかったから,素直に招待に応じることにして,彼と一緒に歩きかけたら,ヒカルさんがにらんでいる。

「ヒカルさんも行く?」

と尋ねたら,ムッとした表情で

「行く」

と答えた。今日のヒカルさんはほんとうに子供っぽい。

 途中,ヨンハがなにか話しかける。通訳係がまた困った顔をしている。ヨンハは「通訳しろ」というようなことを言ったのだろう。通訳係が「ヨンハさんの言葉をそのまま伝えます」と前置きして,

「藤原さんの分は招待だからわたしが払うけど,進藤さんの分は進藤さんが自分で払ってください」

と言った。

「そんなの,分かってる!」

と怒ったような声でヒカルさんが答える。ヨンハは笑っている。彼は人をからかうのが趣味なんだな。あまり良い趣味とは言えないけど,そうと分かっていて一々反応するヒカルさんも大人げない。

 レストランの席について,日本語とハングルで書かれたメニューを見せながらヨンハは料理を勧めてくれる。

「これが,薄味でお口に合うのでは」

と通訳係が説明する。ボクはそれでいいと返事した。ヨンハがウェイターを呼んで韓国語でオーダーしている。ボクが驚いていると,通訳係が

「このレストランは韓国語が通じるんです」

と説明してくれた。さすが,東京よりソウルに近い都会の一流ホテル・・・・。ほどなく出された料理は確かにボクの好みに合っている。ただ,量が多い。こういう場で,出された料理を残すのは礼儀に反することは分かっているけど,食べきれないものは仕方ない。丁重にお詫びを言った。通訳係から伝えられて,ヨンハは笑みを浮かべて了解のしぐさをし,何か語りかける。

「藤原さんが残したものは,わたしが食べましょう」

と通訳してくれた。それを聞いてヒカルさんが

「オレが食べてあげるよ」

と口を挟んだ。ボクはヒカルさんとヨンハ,両方の顔を見る。〔こんなことで競い合わなくてもいいのに〕と,おかしくなった。

 食事を終えて対局会場に引き返す時,ヒカルさんが近寄って耳元でささやいた。

「ヨンハにあまり係わらないでくれよ」

「係わるって,昼食に招かれただけじゃないの」

「まあ,そうだけど・・・・」

ヒカルさんは不服そうな顔をしている。

「それに,ボクが係わるだけで,佐為が係わるわけじゃないんだから」

「まあ,そうだけど・・・・」

ヒカルさんは,今度は不服というより気まずそうな顔をして下を向いた。

 

 打掛けが終わって再開された対局。一度だけ,ヨンハの打ち込みに佐為がハッとした表情になり,長考する場面があった。ボクの手が止まったのを見て,ヨンハはまずボクを見てニヤリと笑い,それから鋭い視線を正面にいるはずの佐為に向けた。佐為は,それまで盤面に向けていた視線を上げ,ヨンハをしっかり見据える。ピリピリした緊張感がただよう。佐為が見えない周りの人たちにもこの緊張感が伝わってるようだ。・・・・やがて,佐為の表情が変わる。厳しい緊張が薄れ,次第にあの笑み,「氷の微笑み」が広がる。そして,扇で盤面の1点を指す。ボクはそこに石を置く。その瞬間,ヨンハが顔をしかめた。

 結果は,佐為の3目半勝ち。終局から2~3分,じっと盤面を見つめていたヨンハは,厳しい表情を消して笑顔を作り,立ち上がり,腕を前に差し出し,佐為に握手を求めた。佐為も席から立ち上がり,笑み,「氷の微笑み」ではない,優しさと相手への敬意を込めた笑みを浮かべて,ヨンハの手を握った。この場面はテレビで放映されるだけでなく,新聞や雑誌の紙面を飾った。「受け狙いのパフォーマンス」という批判や,やっかみの声はあったし,ヒカルさんは「まったく,ヨンハはキザな奴だ」と怒っているけど,二人の対局を間近に感じていたボクは,全力を尽くした戦いの後の自然な振る舞いだと思う。

 その後のインタビューで感想を求められたヨンハは開口一番

「佐為は間違いなく存在します。あれほどの気迫がわたしの幻覚妄想であるはずがない」

と断言した。ヒカルさんも,この言葉には素直に喜んだ。もっとも,この後にヨンハが

「佐為は,わたしの知る限り,現在の世界で最強の棋士です。世界中の棋士が『打倒佐為』を目指しているでしょう。でも,佐為を最初に盤上で打ち負かすのはわたしです」

と発言した時には,

「何を言ってやがる。佐為を最初に倒すのはオレなんだよ」

と,また怒っていた。

 対局,インタビューなど,この日のイベントがすべて終わったのは夜の8時過ぎ。ヨンハたちは「明日も仕事がある」ということで,ソウル行き最終便に乗るため慌ただしくホテルを出て福岡空港に向かった。

「たいへんですね」

と声をかけると

「ソウルまで1時間ちょっとですから」

と通訳係が笑顔で返事した。

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。