Ⅴ 恋心
ボクたちはホテルに泊まって翌朝,福岡空港に向かった。ボクは,千葉には成田からの方が近いので成田行き,ヒカルさんは羽田行きに乗るけど,出発時間が近いので一緒にホテルを出て,空港のカフェで朝食を摂った。
「ヒカルさん,解説の仕事,ちゃんとこなせました?」
「うん。何とかNGは出されなかった」
「よかったね」
「ありがとう」
ヒカルさんは,ちょっと笑みを見せたけど,すぐに何かを考え込んでいるように,うつむいている。それから,ボクの方に顔を向け,
「藤原さんは正直がモットーだから,オレも正直に話すよ。藤原さん,あんまりほかの人と親しくしないでくれ」
「えっ?・・・・それは,どうして? というか,ボクは誰ともそんなに親しくしていないよ。ヒカルさんが一番親しい人だよ。・・・・ああ,佐為は別として」
「うん・・・・分かっているよ。だから,今のままでいてほしい。藤原さんはルックスもいいし,性格もいいから,その気になればみんなの人気者になる。でも,今のまま,佐為の対局に付き合う以外は,静かに勉強していてほしい」
「まあ,言われなくてもそのつもりだけど・・・・どうしたの,急にそんなこと言い出して?」
ヒカルさんは苦笑いした。
「要するに,焼きもちだよ」
「焼きもち?・・・・」
「ほんと,オレってバカだよな・・・・」
ヒカルさんはまたうつむいている。佐為はそんなヒカルさんを心配そうな,でも慈しみを込めた表情で見つめている。ボクは率直に自分の気持ちを伝える。
「ボクは,そういうの苦手なんです。焼きもちを焼かれるとか,束縛されるとか・・・・たぶん,今のボクは誰かと恋に落ちることはない。だから,結果としてヒカルさんの願いは叶えてあげられると思う。でも,そのような束縛は嫌いなんです」
「分かるよ。オレだって,自分がそんなこと言われたら,いやだもんな。まして男から言われたら」
「男,女は関係ありません。束縛されるのがいやなんです。束縛するのもいやだし」
「うん。分かってる。藤原さんはそういう人だ。こんなバカバカしい気持ちなんか縁がないよな。何でもスパッと割り切れる」
そう言われると,ボクは何も返す言葉がない。しばらく沈黙が続いたあと,ヒカルさんがおずおずとした口調では話しかけた。
「オレ,こんなバカだけど,これからも今までどおり付き合ってくれるか? 駒込に引っ越したら,ちょくちょく遊びに来てもいいかい?」
「もちろん。いいに決まってるじゃないですか。ヒカルさんはボクの一番親しい人なんだから」
「ありがとう。藤原さん・・・・ほんと,いい人だね」
やがて,ヒカルさんの乗る便の出発時刻が迫った。ヒカルさんは手荷物検査場に歩いて行く。ボクは手を振って見送った。ヒカルさんも手を振っている。そして,手荷物検査場を抜け,搭乗口に向かって歩いて行く。その姿を見送って,ボクは飲み残しのカフェオレのカップを手に取った。ヒカルさんが座っていた椅子に佐為が腰掛けてボクを見ている。
「嫉妬って,どうしてこんなに根深く人の心に埋め込まれているんだろう」
ボクは思わず小さな声で語ってしまった。幸い,周りの誰も聞きとがめはしないけど,佐為には聞かれてしまった。
《どうして,と問われても・・・・》
《別に,答えを期待してるわけではないんだよ。進化心理学では,それなりの説明はされているけど》
ボクは軽くため息をついた。
《ロミーは・・・・嫉妬などしたことがないとは思いますが,誰かから嫉妬されたこともないのですか?》
《昔はあった・・・・10年くらい前までは,何度かあったよ。だから,嫉妬する人の気持ちが想像できないわけじゃなんだ。そうだけど,それでもやっぱり,ため息が出る》
佐為はそんなボクをいたわるように見つめる。
《それにしても,なんでヒカルは・・・・》
《ひょっとしたら,ヒカルさんは佐為の身替わりにボクに心を寄せているのかもしれない》
《わたしの身替わりにロミーを?》
《うん・・・・もちろん推測だけどね。人の心を直接見ることはできないから,推測に過ぎないけど・・・・ヒカルさんと佐為の絆はとても深い。ボクと佐為との絆よりずっと深い。ボクだって佐為を好ましく思っているし,佐為もボクに好意を持ってくれているだろう。でもそれは,静かで穏やかな感情だよね。熱い気持ちではない,と思う。でもヒカルさんは佐為に熱い思いを抱いているんだよ。今も。そして,たぶん佐為もそうなんだ》
《そんな・・・・ロミーを差し置いて》
《別に,ボクに遠慮しなくていいよ。責めてるわけじゃないから。事実を述べているだけだよ。それに,ボクは今の佐為との関係に満足しているから・・・・ともかく,以前佐為がヒカルさんに宿っていた頃の話を聞いても,今のヒカルさんの佐為に対する態度を見ても,それはよく分かる。今もヒカルさんにとって佐為は特別な人,この世界で唯一の人なんだ。佐為と碁を打つ時,ヒカルさんはとてもいい顔をしてるよ。人生で一番素晴らしい時間を過ごしているような。そして,佐為もそうなんだ。ほかの誰と対局する時よりも,もちろんネット碁を打ってる時よりも,ヒカルさんと対局している時が一番楽しそうだ。そして,ヒカルさんと打ってる時はぜったいにあの氷の微笑みを見せないよ。どんなにうまい手を思いついても,どれほどヒカルさんの手筋を読み切っても,あの凍えるような微笑みは見せないんだ。そんな時でも佐為はヒカルさんに対しては優しい包み込むような笑みを浮かべる》
ボクはちょっと息を継いだ。話してて,ヒカルさんのことが切なくなった。
《でも,それほどお互いに熱い愛着を抱き合っていても,ヒカルさんは佐為が見えない,佐為の声が聞こえない。辛いと思うよ。ヒカルさんは佐為への思いをボクに向けているのかもしれない。ボクに向けようとしている,ボクに向けたつもりでいるのかもしれない。ボクは,見えるし,声も聞こえるから,少しは辛さが減るのかも》
《ヒカルの気持ちは,分からなくもないのですが,それではロミーが困るでしょう》
《まあ,困ると言えば,困るけど・・・・これくらいなら許容範囲だよ。ヒカルさんはボクにとっても大切な人だから,これくらいはがまんしてもいい。それに,駒込に引っ越せば,今よりひんぱんに佐為に会いに来れるから,ヒカルさんの気持ちも変わるかも》
《そうだと,いいですね》
佐為は,期待と少しばかりの憂いが入り交じったような表情になった。ボクも,同じような表情だったかもしれない。
《そろそろ,ボクたちも出発時刻だよ。行こう》
手荷物検査を終え,搭乗口で待つ間,佐為がボクに話しかけた。
《ヒカルもアキラも言ってましたが,ロミーはほんとうに優しい》
《いや,ボクは・・・・》
と言いかけたボクを制止して佐為は話を続ける。
《ロミーは心と頭を切り離して考えますが,それは違っていると思いますよ。良き心には明晰な頭脳が必要なんです。たとえば,いくら優しい善意を持ちあわせていても,相手の事情を理解し,相手が何を求め何を嫌っているかを正確に分からなければ,ほんとうに相手の役に立つことをして上げられないでしょう。相手が嫌っていることを善意でしてあげたとしても,それは迷惑でしかないのだから。ほかのいろんな場面でも同じですよ。相手の事情,周りの状況を正しく認識する分別があってこそ,優しい振る舞いができるんです。そのような分別に裏付けられて相手のために振る舞うのが「優しい」ということなのです。ロミーはもっと自信を持っていいのですよ》
《ありがとう》
ボクは佐為に微笑みかけた。
2月も後半になると大学の講義は終わる。ボクは2つの雑用を手早く片付けることにした。1つは,遺産に係わること。伯父宛に,ボクの遺産について問い合わせる手紙を,叔母さんのアドバイスに従い内容証明受取証明付きの手紙で通知した。すぐに返事が来た。ボクの遺産は伯父が責任をもって管理してきたこと,低金利時代に預金として寝かせておくよりも有利な運用として伯父が理事長を務める医療法人に貸し付けていること,3年の金銭賃貸借契約の期限が来るたびに借換えを行なっていること,現在の金銭賃貸借契約の期限は来年3月末であることが,丁寧な,だけど自分たちの行為の合法性を強調するような文面で説明されていた。ボクは,金銭賃貸借契約の契約書をボクに送ることと,来年3月には借換えではなく償還を求めることを伝えた。ほどなくして,金銭賃貸借契約書が書留郵便で送られてきた。ちゃんとボクの署名捺印がある。有印私文書偽造として罪に問える行為だけど,刑事告訴など事を荒立てることはしない。ただ,この点を指摘する手紙を書き送った。これで一件落着,なのだろう。
もう1つの雑用は都内,目安としては駒込近辺での部屋探し,と思っていたら,また別の雑用が舞い込んだ。いや,これを「雑用」と言うのは失礼かも。オープン碁トーナメントの事務局からシード棋士としての参加を打診された。佐為と,ネット碁ではなく直接に対局したいと希望する人はプロ,アマを問わず多いから,ぜひ参加してほしいとの要請。
「できるだけ多くの人に佐為と対局させたいのなら,シードじゃなくて,地区予選から参加する方がいいじゃない?」
とボクが問いかけると,佐為は笑って答えた。
《理屈の上ではそうなりますが,主催者としては,参加を乞うにはシード棋士として遇するのが礼儀だと考えたのでしょう》
「そんな気を遣わなくてもいいのにね。でも,佐為としては,どっちがいい?」
《そうですね・・・・どんな弱い相手との対局でも,それなりに得るものはあるのですが,それでもやっぱり,神の一手を目指すには強者と打ち合いたいですね》
「それじゃあ,シードを受けよう・・・・それにしても,あれからもう1年経ったんだね」
《そうですねえ・・・・》
というわけで,これも一件落着して,いよいよ部屋探し。条件としては,なるべく駅に近いこと,日当たりが良すぎないこと,駅まで日陰を歩いて行けること。インターネットで探して見つけた物件を現地確認するため2月の終わり頃,駒込の不動産屋に出向いた。部屋を見て,特に不満はないから,その場で契約し,3月初めに引っ越すことにした。
持ち物が少ないから引っ越しも簡単に終わる。今までの部屋を引き払うのも,新しい部屋を片付けるのも1時間くらいで終わる。片付けが終わり,のんびりカフェオレを飲んでる頃,ヒカルさんがやってきた。
「なんだ,もう終わってたんだ。手伝おうと思ったのに」
「その気持ちだけで,うれしいよ。忙しいんでしょう?」
「まあ,用事を手早く片付けた。ここは市ヶ谷の棋院からも近いから,すぐに来れる」
そう答えるヒカルさんは大きな荷物をぶら下げている。
「それ,何?」
「碁盤と碁石だよ。本ガヤを奮発しようかと思ったけど,実家にあるのと同じくらいのにしておいた。こっちの方が部屋で佐為と打つにはなじんでるんだよなあ」
本ガヤと言われてもボクには分からないけど,きっと高級品なんだろう。そんな高級品より,実家にあるような安物と言っては悪いけど,普及品の方がなじんでいるというヒカルさんの気持ち,何となく分かる。
「どこに置こうか?」
「使わない時は,ベッドの下の空いてるところに適当に押し込んでおいて。使う時は,床の適当な所に」
「今から,打てるかい?」
「いいよ。今日はきっとそんな展開になると思ってたから」
さっそく,対局が始まった。ヒカルさんはいつもの「人生で一番素晴らしい時間を過ごしているような」表情を浮かべている。佐為は,ふだんは盤面を見つめているけど,今日は時々視線を挙げてヒカルさんを見ている。そして時おりうなずいている。
《確かに,ロミーの言うとおり,ヒカルはとてもいい顔をしてますね》
《佐為も,ほかの誰と対局する時よりもいい顔をしてるよ》
この日も順当に佐為の勝ち。〔ヒカルさん,いつ佐為に勝てるようになるのかなあ。ヨンハより先に勝てるかな?〕なんてことを考えていると,ヒカルさんは碁盤をベッドの下にしまっている。
「もう,いいの?」
「うん。これからはちょくちょく来れるから・・・・ずっと対局に付き合わせると,藤原さんの勉強の時間がなくなるだろう」
「ありがとう。気を遣ってくれて」
「うん」
ヒカルさんは照れたように笑っている。それからちょっとモジモジしていたけど,また話し始めた。
「オレが佐為と打つには,藤原さんの手を借りないといけない。すると,藤原さんが自分の勉強をする時間が減るんだよな。オレはなるべく佐為と一緒にいたいんだけど,藤原さんの邪魔はしたくない。それで思いついたんだけど,この部屋で棋譜の検討をさせてくれないか?」
「棋譜の検討?」
「うん。オレが打った棋譜とか,ほかの誰かの棋譜とかを碁盤に並べて検討するんだ。ここでやれば,そばに佐為を感じられる。佐為にいろんな棋譜を見せることもできる。しかも藤原さんの手間を取らせないだろう」
ああ,ヒカルさんなりにいろいろ考えてくれてるんだ。それはとてもうれしい,でも・・・・
「ヒカルさん・・・・確かにそれなら,ボクの時間が取られることはない。でも,それでも自分の部屋に誰かがいるというのは,気詰まりなんだ。ヒカルさんであっても,毎日ずっとだと息が詰まる。だから,『だめ』とは言わないから,節度を守ってください」
「うん。まあ,そうだよな」
ヒカルさんはちょっと気を落としたようにうなだれている。
「友達甲斐がないと思うかもしれないね。でも,ボクとしては,これからもずっとヒカルさんと友達でいたいから,こんなことを言うんだよ。ヒカルさんがボクにとってどれほど親しい人であっても,毎日のように入り浸られたら,ボクはきっといやになる。そして『もう来ないでくれ』と言ってしまうかもしれない。そうならないよう・・・・」
「藤原さん,あんたが謝んなくていい。オレがわがまま言ってんだから。約束するよ。あんたの邪魔はしない。気詰まりにさせるようなこともしない。でも,たまになら,いいだろう?」
「もちろんです。『たまに』じゃなくて『ちょくちょく』でいいですよ。・・・・こうしましょう。ヒカルさんが長居して,ボクがいい加減気詰まりになったら『そろそろ帰って』と言います。そうしたら,きりのいいところで切り上げて帰ってください。ボクは変な遠慮はしません。帰ってほしいと思ったら,遠慮なく『帰ってください』と言います。だから,逆に,ボクがそう言わない間は,ヒカルさんは余計な気を遣わずに,ここに居ていいです。こういうルールにしませんか?」
「そうだな。あんたは,はっきりものを言ってくれるから分かりやすくていいよ」
窓から外を見るとちょうど日が沈んで夕焼けが広がっている頃だった。
「ヒカルさん,一緒に散歩しない? 夕焼け空を眺めてよう」
「夕焼け?・・・・まあ,いいけど」
ボクたちは部屋を出て2~3分歩いて,線路の上をまたぐ橋にたたずみ,西の空を眺めた。ちょっと先にお隣の巣鴨駅が見え,その向こうに池袋のいくつかの高層ビルが見え,その上に夕焼け空が広がっている。時おり,目の下の線路を電車が行き過ぎる。新月が白い糸の切れ端のように見える。細すぎて,見落としそうなほど。
「ああ,新月が・・・・」
とボクが指さしたけど,ヒカルさんは
「えっ,どこ?」
と見つけられないでいる。
「あと10分もしたら空が暗くなって,月が明るく輝くようになるから,そうしたら,はっきり見えるよ」
そう説明して,ボクはまた夕焼け空を眺める。そして,ヒカルさんに語り始めた。
「ボクは直射日光を浴びてはいけないから,子供の頃から日中は部屋の中にいたけど,今くらいの時間になると外に出てもいいと言われていた。だから,夕焼けの頃に散歩した。いつも姉が付き添ってくれた」
「藤原さん,お姉さんがいるんだ」
ヒカルさんはちょっと驚いている。姉の話はこれまでしたことがなかったから。
「いるんじゃなくて,『いた』んです。ボクが12歳の時に死んでしまったから」
「そうだったのか・・・・」
「その姉の名前が,ヒカルっていうんです」
「えっ?!」
ヒカルさんはボクをまじまじと見る。ボクはヒカルさんに微笑みかけた。そしてまた正面に顔を向けた。もう新月がオレンジ色に輝いている。
「ヒカルさん,ほら,あそこ。細い月がオレンジ色に輝いているでしょう」
「ほんとうだ。きれいだなあ」
「見ようと思って目を向ければ,美しいものは身の周りにたくさんあるんです。夕焼け空も,月も,星も。空だけじゃなく,地上にも,これからの季節,名も知らない小さな花が道ばたに咲くでしょう。そんな花もよく見ればきれいですよ」
「藤原さんって,不思議な人だね」
「そうですか?」
「すごく理詰めなところがあるのに,そんなふうにロマンチストなんだなあ」
「ロマンチスト?・・・・まあ,ボクは美しいものが好きだというだけです。美しいものが身の周りにあると幸せです。だから,身の周りに美しいものを見つけるようにしている」
「それがロマンチストなんだよ」
「そうですか?・・・・」
まあ,ロマンチストの定義をめぐってここでヒカルさんと議論することもない。
それからちょくちょくヒカルさんは部屋にやってくるようになった。実際に経験すると,ヒカルさんの存在はそれほど気詰まりではない。それでもいい加減長引くと,ボクも一人になりたくなる。それで,「ヒカルさん,もうそろそろ」と声をかけると「ああ,分かった。この棋譜の検討が終わったら帰るよ」と答えてくれる。
引っ越しから半月ほど経った頃,塔矢アキラから「進藤と一緒にうちに遊びに来てくれませんか」とのお誘いがあった。
「ぜひ進藤とボクの対局を佐為に見てほしいんです。そのうち進藤が連れてきてくれるだろうと思って待っていたのですが,ぜんぜんその気配がないので,ボクからお誘いしました」
とのこと。
「何か,夕食を用意しておきます。ボクはこう見えてもけっこう料理はうまいんですよ。藤原さんの好物は何ですか?」
実は,これと言って好物というほどのものはない。
「それを訊かれると困るんです。ボクはぜんぜんグルメじゃないんです。特にこれと言って・・・・トーストとカフェオレがあればそれでいいという人ですから」
塔矢アキラは拍子抜けしたようだ。グルメ趣味の人にとっては,そうだろうなあ・・・・。それはともかく,
「せっかく藤原さん,つまり佐為が来るのなら,ぜひ対局をお願いしたいし,そうなれば,ボクだけ抜け駆けはできないので,進藤も佐為と対局することになる。あわせて3局だと,いくら早打ちでもそれなりの時間が掛かるから,午後のまだ日の高いうちに来ていただかないといけないけど,藤原さんに日差しの中を歩かせては申し訳ないから,車で迎えに来ます」
ということで,塔矢アキラの車に乗って塔矢邸に着いた時,ヒカルさんはまだ来ていなかった。
出された緑茶を飲みながら塔矢アキラと向かい合って座っていると,話しかけられた。
「とても失礼な,というか,立ち入った質問ですが,藤原さんは恋愛経験ありますよね?」
確かに,とても立ち入った質問。よりによって塔矢アキラからそんな質問をされて,ボクは思わず口に含んでいたお茶を吹きそうになった。
「済みません。びっくりさせて」
「いや,まあいいんですけど・・・・そりゃあ,恋の1つや2つは経験ありますけど,急にどうしたんですか,そんな質問?」
彼は,ボクの質問には答えず,自分の話を続ける。
「初めて藤原さんがうちに来た時,母の手料理を食べながら,『男とか女とか,そんなことふだんぜんぜん意識しないんです』と話したことがあったでしょう」
「うん,あったね」
「藤原さんの恋の相手は男だったんですか,それとも女?」
これもまた,ずいぶんぶしつけな質問。
「ボクが恋した相手は,今までのところ,女の人だけです」
「それはどうして?」
「ボクの美意識からすると,男より女の方が美しいからです。あの柔らかな体の曲線,筋肉の付きすぎていない柔らかい体の感触,滑らかな肌。顔も,男顔より女顔の方がボクの好みだし」
「ふーん」
塔矢さんは考え込んでいる。塔矢さん,男に恋しているのかな? その相手はひょっとしてヒカルさん?・・・・
「ただし,もしこれまで出会ったことのないような超絶的に美しい男の人に出会ったら,その人を好きになるかもしれない」
そう言ってボクは,真横にいる佐為には分からないように,でも正面にいる塔矢さんには分かるように,目配せした。塔矢さんはちょっと考えて,その目配せの意味に気づいた。佐為は勘づいていないようだ。
「そうですか・・・・藤原さんは,男に恋することに抵抗はないんですよね」
「もちろん。その人がほんとうに美しい人なら,そして性格も良くて,知性・感性もボクと響き合う人なら」
「そうですよね。藤原さんは分かってくれる。ほかの人たちは・・・・」
「ほかの人たちの噂の種になるのが気になりますか?」
「・・・・それは,やはり,気になります」
「塔矢さんが誰か男の人を好きだとして,その人の存在と,ほかの人たちの無責任な噂話と,どっちが重い?」
「そんなこと,決まってるじゃないですか!」
「それなら,何も迷うことはないでしょう。まあ,自分から触れて回る必要はありませんが,知られるのを恐れる必要もありません・・・・塔矢さん,自分の選択に自信を持ってください。“Honesty is the best policy.”ですよ」
塔矢さんは唇をかみしめた。ちょうどこの時,玄関から「塔矢,いるか?」という声が聞こえてきて,この話は中断された。
それから,まず塔矢アキラvs佐為,そしてヒカルvs佐為が対局し,順当に佐為が勝った。
そして,ヒカルさんと塔矢アキラの対局が始まった。二人とも顔つきが変わる。でも・・・・ボクは驚いた。ヒカルさん,佐為と打つ時と同じような表情になっている。碁を打つのが楽しくてたまらないという表情。これまでインターネットで見たヒカルさんの棋戦の映像でほかの棋士を相手にしている時の表情とはぜんぜん違う。そして,塔矢アキラもそうなんだ。ふだんの棋戦とも,佐為と対局した時とも違う,心から碁を打つのを楽しんでいるような表情。ヒカルさんにとって塔矢アキラと打つのが,塔矢アキラにとってヒカルさんと打つのが,何より楽しいということが伝わってくる。ボクは佐為に話しかけようと横を見て,言葉を飲み込んだ。佐為もまた,二人の対局に夢中になっている。そしてボクは,3人の表情を眺めて時を過ごした。対局が進み,盤面の状況が変化するにつれ,碁を打つのを楽しんでいる二人の表情も微妙に変化する。そして局面の推移を見守る佐為の表情も様々に変化する。
対局も終わりに近づく頃,佐為が
《どうやら,ヒカルの勝ちのようです》
とつぶやいた。
《とは言え,二人の力は互角ですね。お互い,勝ったり負けたりを繰り返しているのでしょう》
《ほんとうに,いいライバルだね。でも,それだけじゃないような・・・・》
《それだけじゃない?》
《うん・・・・後で話すね》
こんな会話をしているうちに,二人の対局は終わった。佐為の予想どおり,ヒカルさんの勝ち。と言っても1目半という僅差の勝利。それでも勝ちは勝ち,ヒカルさんは喜んでいる。
「やったー! 佐為の前でいいかっこできたぞ」
塔矢アキラは悔しさを隠さない。
「今日はキミに一歩後れを取ったが,ふだんはボクの方が勝ってるからな」
「何言ってる。五分五分じゃないか」
「いや,ボクの勝率が55%くらいのはずだ」
「オマエ,いちいち計算してるのか?」
ボクは思わず笑ってしまった。佐為も笑っている。
「もう,ヒカルさんも塔矢さんも。佐為が笑ってますよ」
というボクの言葉に,二人はバツの悪そうな顔をした。
「検討は,別の機会にしようか?」
「そうだな・・・・」
ヒカルさんも素直にうなずいている。
「どうしたの?」
「いや,その・・・・」
ヒカルさんは口ごもっている。塔矢アキラが説明する。
「ボクたち検討は『子供のけんか』みたいになるんです。さすがに藤原さんや佐為にそれを見せるのは・・・・」
ボクは,「子供のけんか」のような二人の検討を見たい気もするけど,意地悪なことは言わないことにした。それにしても,対局後の検討が激して「子供のけんか」のようになってしまうのは,それだけ二人が互いを特別な存在と思い,深い愛着を抱きあっているからだろう。対局中の二人の表情を思い浮かべながら,ボクはこんなふうに想像した。つまり,塔矢アキラがヒカルさんを好きなだけでなく,ヒカルさんも塔矢アキラを好きなんだ。
それから,塔矢アキラの手料理をごちそうになった。確かに,自分で「けっこう料理はうまい」というだけのことはある。お母さんに仕込まれているのかな?
夕食を終え,二人はまだこれから夜が更けるまで対局をするのだけど,ボクはここで塔矢邸を辞することにした。この時,一悶着あった。
「塔矢さん,今日は夕食に招いていただき,そしてヒカルさんとの対局も見せていただき,ありがとうございました」
「またいつでも来てください。藤原さんと佐為,それに進藤なら,いつでも大歓迎ですよ」
「ありがとう」
と言ってボクが外に出ようとすると。塔矢アキラが
「藤原さん,お部屋まで送ります」
と申し出た。それを聞いてヒカルさんが
「オレが送ってくよ」
と言い出した。ボクは,
「お気持ちはうれしいけど,一人で帰れますよ。道順は覚えてるし,歩いて10分くらいだし」
と答えたけど,
「だめだよ。藤原さんみたいにきれいな人がこの時間に一人で外を歩いちゃダメだよ。オレが送る」
とヒカルさんは言い張る。そんなヒカルさんを塔矢アキラはにらみつけている。〔ああ,これがもうちょっと激しくなると「子供のけんか」になるんだ〕と思って,ボクはおかしくなったけど,ボクが理由で「子供のけんか」を始められるのも困る。
「まあまあ,心配していただいてありがとうございます。それなら二人に送っていただきましょうか」
我ながら名案だと思う。二人はうなずいて,ボクを間に挟んで歩き出した。佐為は仕方ないから後ろからついて歩く。振り返ると,苦笑いしている。ボクより背の高い二人に左右を挟まれて歩いて,ボクは,送ってもらっている,というより,護送されているような気分だった。
二人は,ボクを部屋まで送り届けると,塔矢邸に戻っていった。
《ヒカルたちはまた対局を続けるのでしょうね》
「そうだね。ほんとうに仲がいいね」
《お互い,意地っ張りですけどね》
「意地を張りながら,お互い惹かれあっている」
《生涯のライバルどうしですからね》
「それだけかな?」
《・・・・?》
「ボクは,誰かとライバルという関係になったことがないから,確定的なことは言えないけど,あの二人はただのライバルの関係を越えていると思うよ。佐為,気づいてた? ヒカルさんは塔矢アキラと打つ時,佐為と打つ時と同じ表情になるんだ。ヒカルさんにとって塔矢アキラは佐為と同じくらい大切な人,同じくらい深い愛着を抱いている相手なんだよ。塔矢アキラも,今日の対局では,これまで見たどの対局でも,佐為との対局でも見せなかった表情だったよ。ほんとうに,ヒカルさんとの対局を心から楽しんでいるような。そしてそれだけじゃない。この世で一番大切な人を見るような眼差しだったよ」
《ライバルを越える関係というと》
「親友,いやむしろ恋人かな?」
《恋人!?・・・・男どうしで?》
「そんなに驚かなくてもいいでしょう。平安時代にも江戸時代にも,衆道や男色はありふれていたんじゃない? 井原西鶴の『男色大鑑-本朝若風俗』なんて本が普通に読まれていたくらいだから」
《そうですが・・・・》
「今の時代にも,そんなに珍しいことではないんだよ」
《・・・・ヒカルとアキラが良きライバル,良き友となることはわたしの願いでしたが,恋心を抱くとは・・・・》
「困る?」
《・・・・困りはしませんが・・・・》
「佐為,ボクたちだけでも二人を祝福してあげようよ」
《・・・・そうですね・・・・》
佐為はちょっと考え込んでから答えた。
それからまた2週間ほどして,塔矢アキラがボクを車で迎えに来た。塔矢アキラvs佐為,ヒカルさんvs佐為の対局を塔矢邸で行なうため。思っていたより早い時間にドアホンが鳴り,彼が現れたので,ボクがすぐに出かけようとすると,
「ちょっとだけ,ここでご相談したいことがあるのです。部屋に入ってよろしいでしょうか?」
と問われた。拒否する理由はないけど,彼の車が心配。
「駐車禁止になってませんか?」
「すぐそばのコインパーキングに入れてます」
ということなので,部屋に入ってもらった。食事にも勉強にも読書にも使う長テーブルに並べた2つの椅子のうちの1つに塔矢アキラを座らせ,ボクはその隣に座る。
「ほんとうは,これから話すことを藤原さんに相談するのは筋違いなのかもしれませんが,ボクの身の周りにこういうことを相談できるのは藤原さんしか思いつかないものだから」
と言って,塔矢アキラはうつむいて,しばらく黙り込んでいる。ボクは,彼が話しだすまで待っている。彼が目を上げ,ボクと視線が合った。
「すみません。相談があるといって部屋に上げてもらったのに黙り込んでいて。何をどう話したら良いか分からなくて・・・・」
「思いつくことを,思いつくままに話してくれればいいんです。『まとまりがない』とか,『筋が通っていない』とか,『支離滅裂』とか,そんな余計なこと考えないで,思いつくことを,思いつくままに話せばいいんですよ」
これは,臨床研修で問診の際に患者に話しかける言葉として習った。この言葉を聞いて,しばらく考え込んで,
「この前,藤原さんは『恋の1つや2つは経験している』と話してくれましたが,仮に,藤原さんが誰かに恋して,でもその誰かが藤原さんとは違う別の人に心を寄せているとしましょう。藤原さんは,こんな状況で何を考えて何をしますか?」
と尋ねた。ボクは,〔ああ,嫉妬に係わるお話なのか〕と心の中でつぶやいた。
「そういう状況で,ボクはその『別の人』のことは放っておいて,恋しい相手に確認します。『ボクと一緒にいて楽しいか,ボクと過ごす時間は幸せか』って。もし,楽しくもないし,幸せでもないと答えられたら,ボクは身を引きます。相手に辛い思い,いやな思いをさせてまで付き合いたくはないから」
「楽しい,幸せだって答えてくれたら?」
「それなら,それで十分。ほかに何も望むことはありませんよ。だって,相思相愛ってことでしょう。ボクはその人を愛している。その人もボクと一緒にいて楽しい,幸せと言ってくれる。ほかに何を望むんですか?」
塔矢さんはボクの返事に驚いている。
「・・・・でも,それじゃあ,『別の人』のことは放っといていいんですか?」
「いいんです。だって,ボクと一緒にいない時に恋人が別の人と幸せな時間を過ごしているからといって,ボクが恋人と過ごす時間の幸せが減るわけではないから。ボクが恋人と過ごす時間の幸せはそれだけで充実,充足しています。ほかの出来事に左右されません。と言うか,ほかの出来事に左右されてしまうとしたら,ボクの恋人への思いは,たかだかその程度のものということでしょう」
塔矢アキラは考え込んでいる。脇を見ると,そんな彼とボクを佐為が興味深げに見守っている。
「でも,恋人が別の人も愛しているとしたら,ボクに向ける愛がそれだけ減るでしょう」
「塔矢さんは,『愛情量一定の法則』みたいなものを想定してるんですね。人の心の中にある愛情の量は一定で,その一部を別の人に振り向けたら,自分に向けられる分が減るみたいな発想」
「間違ってますか?」
「間違っていると断定はできないけど,正しいと断定もできません。検証しようがないから。そんな発想もあり得るかもしれない。でも,別の発想もあり得ます」
「どんな発想?」
「人の心の中にある愛情の量はその時々の状況によって増えたり減ったりする。たとえば,誰かを愛するという経験そのものが,その人の恋愛感受性みたいなものを高めて,その人の愛情の量を増やすかもしれない」
「そんな都合のいい話・・・・」
塔矢アキラは皮肉っぽく笑う。ボクは1つのたとえ話を思いついた。
「たとえば,碁への情熱の量は一定で,それを若いうちに使い果たしたら,年を取ってから碁への情熱が枯れてしまう,と主張されたら,塔矢さんはどう思う? 賛成する?」
「それは・・・・」
彼は返事に詰まった。
「『碁を打てば打つほど,碁がおもしろくなるんです。碁を打つことで碁への情熱がますます高まるんです』って,反論したくならない?」
「人への愛情も同じだと?」
「違うという証明はありません」
「同じだという証明もないでしょう」
塔矢アキラは口調がちょっと荒々しい。
「もちろん,どちらの証明もありません。この問題を研究する心理学者なら,証明の方法をいろいろ考えるでしょう。でも,ボクたち素人は,自分を幸せにする発想を信じればいいんじゃないでしょうか」
「ずいぶん,都合がいいですね」
「そうかもしれませんが,ボクから見ると,どちらも確実な証明のない2つの仮説を前にして,わざわざ自分やほかの人たちを不幸にする仮説に固執する態度の方が不思議です。なぜ,もっと素直に幸せになろうとしないのですか?」
塔矢アキラはムッとしている。確かに,こんなふうに理詰めで迫られると,人は愉快ではない。
「正直に話せば,ボクだってこんなふうに理詰めに考えて,『別の人のことを放っておこう』と決めたんじゃありません。もっと単純で直感的な理由です。つまり,嫉妬はエレガントじゃないからです」
「エレガントじゃない?」
「はい。ボクの美意識に従えば,嫉妬はエレガントじゃない。とてもみっともない振る舞いです。そんな振る舞いはしたくないから,しないよう努力しました」
塔矢アキラはムッとした表情から気落ちした表情に変わった。
「それはボクも認めます。嫉妬はみっともないです・・・・藤原さんは,どうしてそんなふうに『嫉妬はエレガントじゃない』とあっさり切り捨てることができたんですか?」
「ボクは・・・・」
そう問われて,ボクは思い出を探った。初めての恋,いや違う,2度目の恋,ボクが好きになった人には恋人がいた。
「ボクは,自然にそうできてしまった。その人がボクと一緒にいる時,ボクを愛してくれるならそれで十分と思っていた。周りから『嫉妬しないの?』と訊かれて,逆に不思議だった。なぜ,嫉妬しないといけないのか。だってボクは,その人と一緒にいる時にその人がボクだけを見ていてくれるなら,それで幸せだったから」
塔矢アキラは「信じられない」という顔をしている。
「それから何年かして,逆の立場になった。ある人がボクを好きになり,ボクもその人を好きだけど,でもほかにも好きな人がいる。その時ボクはその人に『あなたと一緒にいる時は,身も心もあなたに捧げます。だから,一緒にいない時は自由にさせてください』とお願いしました」
「それって,相手から見ればずいぶん身勝手な言い分だと思うけど」
「そうかもしれません。でも,ボクは何より束縛されるのがいやだった。自由はボクにとってかけがえのないものだから」
「それで,相手はその願いを・・・・」
「聞き入れてくれました」
「ほんとう?!」
「ほんとうです」
「・・・・それは,きっと・・・・藤原さんが,そんな願いを聞いてでも一緒にいたいと思わせるほど魅力的だったから・・・・」
そう言って塔矢アキラは黙り込んだ。ボクもこれ以上言葉が続かない。ボクは時計を見る。まだ時間はある。それなら,ボクの方から本題に切り込むか・・・・。
「ボクのことではなくて,塔矢さんのことを話しましょう。塔矢さんは誰かに恋していて,でもその誰かが塔矢さんとは違う別の人に心を寄せている,少なくとも塔矢さんはそう信じている」
ここで一息置いて,ボクは塔矢アキラを見る。彼もボクを見ている。
「塔矢さんが恋している相手は進藤ヒカルですね?」
「・・・・恋してる,というのは・・・・」
「恋という言い方に抵抗があるのなら,別の言い方にしてもいいですよ。塔矢さんはヒカルさんと一緒にいるのが楽しい,その時間が一番幸せだと感じている。そして,ヒカルさんの行動や言葉が気になって仕方ない」
「・・・・まあ,そのとおりです・・・・でも,どうして分かったんですか?」
「この前の対局を見ていて,分かりました。塔矢さんとヒカルさんの対局です。あの時,塔矢さんはほんとうにいい顔してました。人生で一番幸せな時間を過ごしているような,ヒカルさんと対局している時が一番楽しいというような」
「そんなに,見え見えでしたか」
「まあ,ボクはお二人の表情を一番見やすい特等席で眺めていたから」
ボクは笑みを浮かべ,それからまた真面目な顔に戻った。
「そして,ヒカルさんが心を寄せていると塔矢さんが信じている『別の人』は佐為ですね?」
「それも,顔に出てましたか?」
「いえ,これは推測,状況に基づく推測です。確かに,ヒカルさんは佐為に深い愛着を抱いている。二人の間にはほかの人間が立ち入れない強い絆がありますから」
塔矢アキラは悔しそうに唇を噛む。
「塔矢さん,二人を引き離したい? ヒカルさんから佐為を取り上げたい?」
彼は黙ってうつむく。
「もしそうなったら,ヒカルさんはとても悲しむでしょう」
彼は黙っている。ボクはもう一歩踏み込んだ。
「塔矢さんは先ほど,ボクの経験を聞いて『そんな願いを聞いてでも一緒にいたいと思わせるほど魅力的だったから』と言ったけど,塔矢さんにとってヒカルさんはどれほど魅力的なの?」
彼はなお黙ったまま唇をかみしめている。それで,ボクが話し続ける。
「『好き』という言葉にはいろんな意味があるね。『あなたのために命を捧げます』とか『わたしを差し置いてもあなたに幸せになってほしい』というような意味にもなるし,『オマエを独占したい,オマエを束縛したい,オマエを支配したい,オマエのすべてを奪い尽くしたい』という意味にもなる」
「ずいぶん手厳しいこと言いますね」
「そういう意味で『好き』という言葉を使う人もいるということです。でも,ボクは,自分の幸せより以上に相手の幸せを願う,そんな意味で『好き』という言葉を使ってほしい」
塔矢アキラは,今度はちょっと悲しげな表情でうつむいている。ボクはその肩にそっと手を置いた。
「感情の奴隷となって,感情に溺れ,感情に流されるままでは,不幸に行き着くだけだと思いませんか?」
彼は顔を上げ,ボクと目を合わせる。ボクは微笑みかける。
「まあ,ボクが塔矢さんの立場なら,そんな佐為のことよりも何よりもまず,ヒカルさんの気持ちを確かめますけどね。相手が自分をどう思っているか分からないのに,あれこれ思い悩んでも仕方ないから。塔矢さんとしては,今さら確かめるまでもないと信じているかもしれないけど,でもやっぱり,ご自分で確かめ,本人の口から答えてもらう方がうれしいですよ」
ボクは笑みを浮かべた。彼は唇をかみしめながらも,勝ち気な表情になっている。〔あっ,それ,いい顔〕
「そろそろ出かける時間でしょう。ひょっとしたら,もうヒカルさんが塔矢さんの家でボクたちを待っているかも」
そう言ってボクが出かけようとしたら,
「藤原さんは,ここで待っていてください。ボクが車をコインパーキングからマンションの前まで持ってきます。日差しの中をコインパーキングまで歩かせるわけにはいきません」
と言って,一人で出て行った。
《こんな時にも配慮を忘れないとは,さすがアキラ》
佐為が感心している。それを聞いて,ボクは笑った。
ほどなく,塔矢アキラが迎えに来た。ボクたちはマンションの前に停めてある車に乗った。車ならほんの2~3分の距離。車を発進させると,彼がボクに問うた。
「藤原さんは,『好き,にはいろんな意味がある』と言ったけど,その人と一緒にいるのが楽しい,ほかの誰よりその人と一緒にいるのが楽しいと感じるのは,『好き』の意味に含まれますよね?」
「それこそ,一番基本的な意味じゃないの? 一緒にいて楽しくない人を『好き』とは言わないでしょう」
「そうですよね」
塔矢邸に着き,車を降りようとする時,ボクは塔矢アキラに話しかけた。
「今日の話は塔矢さんの心を乱したかもしれません。でも,動揺を対局に引きずらないでくださいね。白熱した対局を期待していますから」
「もちろんです」
と答えた塔矢アキラの顔はしっかり碁打ちの顔になっていた。
ヒカルさんがやって来るのを待つ間,佐為がボクに語りかけた。
《ロミーがあれほど深くアキラの心に踏み込むとは思ってませんでした》
《外科医がメスで患者の体を切り開く時って,こんな気持ちなのかもしれないね》
佐為がうなずいている。
《でも,外科医は,それが必要だと判断したからメスを持つんだよ。それともう1つ。患者が手術に耐えられると信じているから手術に踏み切るんだよ》
《ロミーはアキラが耐えられると信じていた?》
《信じていたよ》
佐為がまたうなずいた。
ヒカルさんがやって来た。そして,まず塔矢アキラvs佐為の対局が始まった。対局が始まって間もない頃,佐為がボクに話しかけた。
《ロミー,アキラにしっかり発破を掛けてくれましたね。前回に比べて気迫が違います。タイトル戦なみの意気込みですよ》
《悪かった?》
《とんでもない。望むところです》
と言って佐為は微笑んだ。
途中,佐為の余裕の笑みが消えることが何度かあった。それでも結局は佐為が1目半差で勝ち。
「すげえな,アキラ。この4ヶ月で強くなったなあ。佐為を1目半差まで追い詰めるとは」
と,ヒカルさんが感心したように語りかける。塔矢アキラはにっこり笑った。心からうれしそう。
「じゃあ,次はオレの番だ」
ヒカルさんも,塔矢アキラに触発されたのか,ふだん以上に強い。最終的に1目半差。
「お二人,ほんとうに仲がいい。どちらも1目半差とは」
というボクの言葉に,ヒカルさんは照れて笑い,塔矢アキラはちょっと気まずそうに笑った。この日,ボクは夕食を摂らずここで帰った。二人はきっとこれから,夕食をはさんで夜更けまで打ち合うのだろう。
塔矢邸からボクの部屋に戻るには,山手線の線路の上に架かる橋を渡る。日は沈んだけど,まだ暗くなってはない薄暮(はくぼ)の頃,ボクは橋の上で立ち止まり,夕暮れ時の空を眺めた。この空を眺めるために,ボクは塔矢邸での夕食を辞したのだ。ヒカルさんと一緒にここに佇んだのはほぼ1ヶ月前。あの時よりちょっと幅の広い三日月が見える。
/ / / / / / / / / / / / / / / / / / / / /
(ここから第三者視点)
ヒカルとアキラは夜更けまで打ち合った。日付が変わってしばらくして,さすがに二人も疲れた。その日何度目か対局が終わり,
「今日はこれで終わりにしようか?」
「そうだね・・・・進藤,泊まっていくか?」
「ああ,今日は泊めてもらおうかな」
そう言ってヒカルが立ち上がりかけた時,アキラが問いかけた。
「進藤,キミはボクと一緒にいて楽しいか?」
「えっ?」
ヒカルは,思ってもいなかった問いかけに驚いた。
「何だよ,急に・・・・」
「いや,まあ・・・・ともかく答えてくれないか? キミの答えを聞きたいんだ」
「・・・・そりゃあ,楽しいさ。楽しくなきゃ,こんな時間まで一緒にいないだろう」
「ありがとう。それを聞けてうれしいよ」
アキラは笑みを浮かべた。ヒカルは,かえって気味が悪い。
「オマエ,今日はいったいどうしたんだ?」
「いや,つまり・・・・ボクはキミと碁を打つのがとても楽しい。ほかの何より楽しい。ほかの誰といるより楽しい。だから,キミも同じ気持ちでいてくれるならうれしいと思って・・・・」
「やっぱり,オマエ,今日はちょっと変だな・・・・まあ,いいけど・・・・オレはオマエと打つのが楽しい。それは間違いないから・・・・佐為と打つのと同じくらい楽しい」
佐為の名を聞いて,アキラの表情から笑みが消えた。
「佐為と打つのと,ボクと打つのと,どっちが楽しい?」
「そんなの,比べられないよ。オマエと佐為とは,比べようがないよ・・・・オマエは生涯のライバルだ」
「佐為はキミの師だね」
「・・・・それだけじゃない。ずっと一緒にいたんだ。2年間,いつも朝起きて夜寝るまで,ずっと一緒だったんだ・・・・」
ヒカルの声が涙ぐむ。
「それから突然いなくなって。そしてまた戻ってきた。オレのところにじゃないけど・・・・」
ヒカルは悲しげにうつむいた。そんなヒカルをアキラは見つめる。ヒカルの悲しみに心を打たれながら,それでも,ヒカルがそれほどまで佐為を慕っていることに,心おだやかではいられない。
「オレ,藤原さんに嫉妬したんだ」
「藤原さんに嫉妬?」
「だって,毎日ずっと佐為と一緒にいれるじゃないか・・・・馬鹿だよな。オレにとって恩人みたいな人なのに。そんな人に嫉妬なんかして・・・・」
「それで,藤原さんは?」
「オレを許してくれた。オレのこと,理解してくれた。そんな気持ちになるのも仕方ないって。佐為は今でも,藤原さんよりオレに深い愛着を持ってる,佐為とオレとの絆は藤原さんとの絆よりずっと深いとも言ってくれたよ。藤原さんは,嫉妬なんかしないって。嫉妬はエレガントじゃないから。嫉妬はだれも幸せにしないからって」
「同じ事をボクも言われた」
「オマエが?」
「うん。実は,今日,早めに藤原さんを迎えに行って,いろいろ相談したんだ・・・・そしたら,同じ事を言われたよ。嫉妬はエレガントじゃない。嫉妬は自分も含めてだれも幸せにしないって」
「何だか,オレたちって似てるな」
「そうだね」
二人は,寂しさと悲しさの混じった笑顔を向けあった。
「それに比べて藤原さんはエレガントだよな」
「・・・・確かに・・・・でも,友にするなら・・・・もし,キミか藤原さん,どちらか一人だけ選べと言われたら,ボクは迷わずキミを選ぶよ」
「ありがとう・・・・なんだか今日はオマエ,ずいぶん素直だな」
そう言われてアキラは苦笑いした。
「藤原さんのおかげかな」
「そうかもしれない」
二人は笑顔を向け合った。
/ / / / / / / / / / / / / / / / / / / / /
(ここからロミー視点)
明日から東大の講義が始まる。入学するわけではないから,ドキドキはしないけど,それなりの期待はある。そんな気持ちでいる時,北斗通信社の相川さんからメールが届いた。サイトの北斗杯関連のページに載せるボクの写真を撮りたいから都合の良い日時を知らせてほしいとのこと。相川さんがボクの部屋に来て,携帯電話でさっさと撮影するのかと思ったら,プロのカメラマンが撮るとのこと。場所は北斗通信社の本社の会議室と,外の適当な場所を背景にして撮影の予定。〔ずいぶん本格的だな〕と思いながら,1月で29歳になったボクにとって今年は20代最後の年だということに気づいた。その記念にプロのカメラマンに写真を撮ってもらってもいいなと思いながら,ボクの都合の良い日時をいくつか挙げてメールに返信した。そして,佐為に話しかけた。
「ボクは来年で30歳になるんだよ。子供の頃,10代の頃,自分が30歳になるのを想像できなかった。でも,人は生きていれば年を取るんだね。子供の頃は,30歳ってすごい大人と思えたけど,実際自分がその年に近づいてみると,そんなに変わるものじゃないね」
《わたしも同じような感慨を持ちましたよ。三十路というのは人生の節目のはずなのですが,実際に自分がそれに近づいてみると・・・・》
「佐為は,いくつなの?」
佐為はフッと笑った。
《単純に計算すれば,1000歳くらいのはずですが》
それを聞いて,ボクも笑った。
「幽霊は年を取らないからね」
それから,ボクは物思いに沈んだ。
《ロミー,どうしましたか?》
その問いに答える代わりに,ボクは佐為に問いかけた。
「ボクたち,いつまで一緒にいられるんだろうね?」
《ずっと,一緒ですよ》
「そうだね・・・・」
そう答えるボクの声が沈んだ調子なので,佐為は気遣った。
《ひょっとして,ロミーはわたしとずっと一緒にいたくないのですか?》
「複雑な心境だよ。もちろん,ずっと一緒にいたいという気持ちもある。深く強く願ってもいる。でも・・・・」
《でも・・・・?》
「でも,ボクは生身の人間として年を取っていく。佐為はいつまでも今のままだ。やがて,ボクの方が佐為の親と言えるくらいの年になるだろう。そしてさらにそれを越えてボクは老いていく。それを考えると,ちょっと悲しい。ボクはいつまでも今のように兄弟のようでいたいよ」
《・・・・》
「ボクはこれまで,誰も羨んだり妬んだりしたことがない。でも今,ボクは佐為が羨ましい,妬ましいのかも」
《ロミー,年を取れば年を取ることの幸せがあります。人には成熟の美しさがあります。ロミーはきっと,美しく年を取り成熟しますよ》
「ありがとう」
《決して,お世辞でも慰めでもなく,本心から言っているんですよ》
「分かってるよ。佐為はいつでも誠心誠意だよね」
こんなしんみりした会話を交わしている時,相川さんから返信があった。撮影は今週の金曜日の午後3時から。まず,北斗通信社の本社で撮影とのこと。それに続けて,北斗杯エグジビジョンの日程についても書かれている。大会前日のレセプションが終わる午後から中国チームの団長と対局,大会終了の翌日の午前に韓国チームの団長との対局。中国チームの団長は陸力という人。韓国チームの団長はなんと高永夏。相川さんのメールによれば,もともと別の人が団長に決まっていたけど,急に変更になった。たぶん,団長は佐為と対局できると知って無理やり自分を団長にさせたのだろうとのこと。
「佐為,ずいぶん好かれてるみたいだよ」
《高永夏なら,何度でも対局したいです》
つい先ほどまでのしんみりした表情から一転して,うれしさいっぱいの顔になっている。その豹変ぶりがおもしろい。「君子は豹変す」,つまり佐為は君子なのかな?