Ⅵ 到達
北斗杯までの1ヶ月は平穏に過ぎた。そして,北斗杯のエグジビジョンも,レセプションの後に行なわれた中国チームの陸力との対局は淡々と進み,佐為が3目半の差で勝った。
大会終了の翌日に行なわれた高永夏との対局。前回,彼が負けているので,彼が先番に指定されている。
「わたしが黒を持つのは久しぶりだ」
と語る。ボクは佐為に
《コミがあっても,黒の方が有利なの?》
と尋ねる。
《人それぞれ好みはありますが,わたしはやはり黒の方が有利に打てる気がします》
と,佐為が答えた。それでも,終わってみれば佐為の1目半差の勝ち。高永夏は終局した盤面をじっと見つめている。2~3分ほどそうしていて,顔を上げた。それから前回のように握手をするため手を差し出すのかと思っていたら,そうではなかった。彼は通訳を介して語る。
「今日は,申し訳ないが握手をする気になれない。同じ相手に連敗した自分がふがいない。まだまだ努力が足りないと思い知らされた。これからしばらく,わたしはあなたと対局しない。あなたを確実に倒せると確信できるまで,あなたと対局はしない。だからそれまで,地上に留まっていてくれ。成仏するなというのは残酷な願いだと分かっているが,敢えて残酷なお願いをする」
高永夏は頭を下げた。
「アイツが頭を下げるなんて,びっくりしたぜ。プライドの塊みたいな奴なんだぜ」
翌日ボクの部屋にやって来たヒカルさんは語る。
《あのように願われるのは,まあ幽霊冥利ですね》
「だけど,あのせりふを聞いて,オレ思ったんだ。オレも同じこと考えてるなって。オレも,オレが佐為に勝つまでは消えないでほしいと思ってるんだ」
《わたしも,ヒカルがわたしを越えるまでは消えたくありません》
この言葉をヒカルさんに伝えると,ニコッと笑った。そして,ベッドの下から碁盤を出してきた。
「さあ,対局」
この日は結局,ヒカルさんの3目半差負け。
「せっかくこないだ1目半差まで迫ったのになあ」
と悔しがるヒカルさんを佐為は
《まあ,焦らないで。1目,2目はその時々の状況で動くものです》
と励ましている。ボクから見ると微笑ましい。それでヒカルさんは機嫌を直したようだけど,またちょっと気落ちしたような顔になった。
「ヒカルさん,どうしたの?」
「うん・・・・」
ヒカルさんはちょっとためらってから,話し始めた。
「藤原さん,北斗杯のサイトに写真が載ってただろう」
「うん・・・・ヒカルさん,いやだった?」
「まあ・・・・」
「別に,ボクだって好きこのんで露出してるわけじゃないけど,北斗杯のイメージキャラクターを引き受けたから,顔写真くらいは載せないと」
「イメージキャラクター? そんなの引き受けたの?」
「うん,まあ,ことの成り行きで・・・・相川さんの口ぶりでは,イメージキャラクターを引き受けるのと,北斗杯のエグジビジョンがセットになってるみたいで・・・・」
「じゃあ,佐為を陸力やヨンハと打たせるために,引き受けたのか?」
「まあ,そうだけど・・・・なんでそんなにこだわるの? たかが写真じゃない。碁のイベントのサイトにボクの写真が載るのが,そんなに大ごとなの?」
「大ごとだよ!」
「ふーん・・・・まあ,感じ方は人それぞれだけど」
ヒカルさんは,大声を出した後,それを恥じるようにうつむいている。
「オレ,藤原さんにあまり有名になってほしくない。まあ,今でも有名だけど,碁以外のことで有名になってほしくないんだ。なんだか,このままタレントになって俺の手の届かないところに行ってしまいそうで」
「それはない。それは断じてあり得ないよ。その手の話は,去年のトーナメントで優勝した直後にたくさん舞い込んだけど,全部拒否したから。そんな心配はしなくていいよ」
「分かってるけど・・・・」
「ひょっとして,昔,佐為が突然消えたことと,ボクのことを重ね合わせてるの? ボクが突然,ヒカルさんから遠く離れてしまうんじゃないかって」
「そうかもしれない・・・・」
ヒカルさんは悲しげにうつむく。
「佐為が突然いなくなった時,オレ,すごく悲しかった。辛かった。佐為が戻ってきて,とてもうれしいんだ。だだから,もう消えたりしないでほしい」
《ヒカル・・・・》
佐為は,ヒカルさんの肩を優しく抱いて慰めている。
「ヒカルさんに佐為が見えないのが残念だけど,今,佐為はヒカルさんを優しくハグして慰めてるよ」
「ありがとう・・・・ほんとうに,優しいよな。佐為も藤原さんも・・・・」
5月,6月は淡々と過ぎた。ほぼ1日おきにヒカルさんがやって来る。さすがに毎日というのは遠慮しているらしい。佐為と対局し,しばらく棋譜を検討して帰って行く。まれに,ヒカルさんの棋譜の検討を端で見ている佐為がどうしても意見を言いたくなることがある。佐為もボクの勉強の邪魔をしないよう遠慮しているけど,どうしてもヒカルに話しかけたい時はボクに頼む。ボクも,例外的なことなので2~3分勉強を中断して付き合う。その回数が増えることはない。佐為も気を遣ってくれている。
2週間に1回くらい,塔矢アキラが車でボクを迎えに来る。その日は昼頃から,まず塔矢アキラと佐為,次にヒカルさんと佐為が対局する。二人とも佐為に対して3目半~4目半くらいの差で負けることが多い。あの日の1目半差は,まぐれと言っては失礼だけど,例外的なことだった。それから,ヒカルさんと塔矢アキラの対局を1局だけ観戦して,彼の手料理をごちそうになって,ボクと佐為は帰る。もちろん,二人はそれからずっと夜更けまで打ち合うはず。たまには行洋夫妻が帰国していることもあるはずだけど,塔矢邸で顔を合わせたことはない。尋ねたら,
「父がいると,父と佐為の対局になってしまう。そうすると,それだけで1日終わって,ボクや進藤が佐為と打つ時間がなくなるから,父がいない日にお招きしてるんです」
と,まるでイタズラを見つけられた子供のように恥ずかしげに塔矢アキラは答えた。
7月に入ると,いくつかの出来事が起こった。
まず,ヒカルさんが本因坊を防衛した。7番勝負だけど,2敗しただけなので,6戦目でけりが付いた。挑戦者は倉田という人。
《ああ,倉田6段・・・・いや,もうとっくに9段になっているはずですが》
「知ってる?」
《ええ。なかなかおもしろい人です。ヒカルの才能を早くから認めていた人でもあります。もちろん,強いです。いつか対局の機会があるといいのですが》
「相川さんに話してみようか。北斗通信スペシャルPartⅡを企画してくれるよう」
《ああそれは,いい考え・・・・》
と言いかけて,
《でも,またイメージなんとやらみたいな話を持ちかけられたら》
「拒否すべきかな?」
佐為は考え込んでいる。倉田さんや,ほかの棋士たちとも対局したいけど,ボクに変なこともさせたくない。ボクを気遣ってというだけでなく,ヒカルさんを気遣って。
「まあ,今すぐ決めなくていいことだよ」
ヒカルさんの本因坊防衛祝賀パーティーには出席しなかった。ボクもそういう場はあまり好きじゃないし,ヒカルさんも,ボクがそういう場に顔を出すのを嫌うだろうから。それに,パーティーに出なくても,ヒカルさんは絶対やって来る。そして,やって来た。それも,翌日のうちに。さすがに上機嫌だった。
「おめでとう」
《おめでとう》
「ありがとう」
「ご祝儀は何がいい? やっぱり佐為との対局?」
「うーん。お祝い気分の時に佐為に負かされるのもなあ」
《では,ご祝儀に負けてあげましょうか?》
という佐為の言葉を伝えたら。
「それもいやだ」
と断固拒否された。結局,いつものように3目半差でヒカルさんの負け。
「まあ,鍛えてもらうのも祝儀のうちか」
「そうですよ。なんと言っても,佐為と打ち合う時間は,ヒカルさんにとって人生で一番幸せな時間なんだから」
と言うと,ヒカルさんは照れたような,でも心からうれしそうな表情を見せた。
それから,中国と韓国から立て続けに手紙が届いた。それぞれ,春蘭杯,LG杯というトーナメント棋戦にシード棋士として招待したという内容。それは,佐為のために何よりありがたい話。日程によっては,講義やゼミを何回か休まないといけないけど,ボクは,授業やゼミを欠席しても,来年受け直すこともできるし,本や論文で内容をフォローすることもできる。佐為は,いつ消えてしまうか分からない。としたら,迷う必要はない。ボクはどちらの手紙にも承諾の返事を書いた。もっとも,どちらも実際の棋戦が始まるのは来年なのだけど。
そして,7月末に伯父の医療法人から債権放棄を求める手紙が届いた。医療法人が経営破綻し,別の医療法人に救済合併される話が進んでいるけど,救済する側の医療法人が伯父の法人に債務の圧縮を求めている。それで,債権の70%を放棄してほしいという内容。脇で一緒に読んでいた佐為は腹を立てた。
《要するに借金を踏み倒そうということじゃないですか!》
「まあまあ,そんなに怒らないで」
《ロミーは怒らないんですか? こんな無礼な仕打ちに》
「怒らないわけじゃないけど,こういう時は冷静に考えるべきだよ。ボクは債権放棄をしてもいいし,しなくてもいい。しないと,どうなるか?」
《どうなるんですか?》
「債権者はボク一人じゃないはずだから,ボク一人の意見が通るかどうか分からないけど,ほかの債権者も放棄に応じないとなれば,救済合併の話がなくなる。そうなれば,たぶん伯父の医療法人は倒産する」
《倒産させればいいじゃないですか》
「まあまあ,落ち着いて・・・・倒産すれば,資産が競売され,売上金で債務を返済するんだけど,売上金が債務総額に見合うことは,まずもってあり得ない。半分以下,へたしたら30%とか20%とか。つまり,お金のことだけ考えると,倒産させるより債権放棄に応じる方が得かもしれない。救済合併する側も,伯父の法人の資産状況を把握した上で,70%という数字を債権者に出してきたんじゃないのかな。30%でも受け取る方が,倒産させるより得ですよという意図で」
《何とも腹黒い》
「まあ,ビジネスって,そんなものだよ」
《ロミーは,よくもそんなに冷静でいられますね》
「うーん,実感がないんだよね。今年の2月に突然1億以上のお金があると言われたけど,ボクにとっては金銭貸借契約書の数字,それ以上の実感がないんだ。それに30%といっても,3500万くらいにはなるんだよ。もう1つ付け加えれば,医療法人が倒産すれば,職員,従業員だけでなく,入院患者も路頭に迷う。それはかわいそうじゃない。ボクの受け取るものが変わらないのなら,救済合併を認める方がいいんじゃない?」
《ロミーはいつだったか「人や物への執着が薄い」と言ってましたけど,ほんとうにそうですね》
佐為はちょっとあきれたような口調で語った。
「不可能なことに執着するのは,自分を不幸にするだけだよ。今のボクの状況で伯父への貸金を全額取り返すのは不可能なことなんだ。・・・・まあ,伯父の家に強盗に押し入るとか,伯父の子供を誘拐して身代金を要求するとかすれば可能かもしれないけど,それはそれで,ボクの一生を棒に振るようなものじゃない。常識の範囲内というか合法性の範囲内では,不可能なことなんだ。だとしたら,不可能なことに未練がましく執着するより,きっぱり諦める方が幸せじゃない」
《そうであっても,それほどきっぱり諦めきれるとは・・・・》
佐為は,それから先の言葉が続かず,ボクを見つめている。ボクは債権放棄に応じるという返事を書き送った。
こんな7月が終わり,8月になった。翌月から始まるオープン碁トーナメント全国大会のシード棋士16人のうち1人は佐為だから,残り15人。日本棋院が推薦する。例年はそんなに揉めることはない。アマ・プロ混合戦だから,プロといってもあまり強い人,たとえばタイトルホルダーとか,タイトル戦に常時参加している棋士とかは参加しないのが暗黙の了解になっている。だけど今年は,佐為と打ちたがる棋士が多くて選考に困っているという噂をヒカルさんが伝えてくれた。
「まさか,ヒカルさんは名乗り出ていないよね」
「オレはいいよ。アキラもさすがに遠慮している。でも,緒方先生は出たがってるって話だよ。棋聖様がアマ・プロ混合戦に参加するなんて,前代未聞だぜ」
「去年対局してるのに,欲張りだね」
「1度打ったら,また打ちたくなる。それが佐為の碁なんだ」
ヒカルさんはうれしそうに話している。佐為の碁が認められること,それがヒカルさんの念願なんだろう。
まあ,こんな波乱もありながら,9月になれば無事に全国大会が始まった。15人のシード棋士に緒方さんの名前はなかったけど,倉田さんの名前があった。この大会では,対局者の席にボクが座る。佐為はボクの真横に座ろうとしたけど,
《ふだんボクが座っている位置に座ってくれない? 佐為の顔が見やすいように》
と頼んだら,〔困った人だなあ〕というような顔をしながら,ボクの頼みをきいてくれた。
ボクはいつものように3本指で石を置くけど,もう誰もそれを笑いはしない。1回戦の相手はアマチュアの人。かなり盤面に余白のある段階で投了した。2回戦の相手は5段のプロ。やはりかなり早い段階で投了した。
2回戦と準々決勝の中間くらいの日にヒカルさんがやって来た。いつものように佐為と対局し,それから棋譜の検討を始めようとする時,
「男が21歳にもなって彼女がいないって,おかしいのかな?」
と話しかけてきた。
「別におかしくはないですよ。仮に,おかしいとしても,ヒカルさんがそれで困らないのなら,いいでしょう。人間だれしも『なくて七癖』って言うくらい,世間の常識から外れたことの1つや2つどころか7つくらいはあります」
「まあ,藤原さんならそう言うな・・・・昨日,オレの誕生日で・・・・」
「ああ,そうでしたね」
ヒカルさんは,誕生日を和谷(わや)とか伊角(いすみ)とか奈瀬(なせ)といった古くからの友達と一緒に過ごすのが毎年の習慣になっている。今年もそうだったんだろう。
「そこで,みんなから言われたんだ『進藤,オマエまだ彼女の一人もいないのか?』って」
「言わせておけばいいでしょう」
「やっぱり,藤原さんはそう言うな。ほんとうに,ブレないよな」
「ヒカルさんもブレなくていいんです。そもそも恋も恋人も人生の必需品じゃありませんから。そんなものなくても,人は幸せに生きていけます。現に,ヒカルさんは今だって幸せでしょう」
「まあ,そうだな」
「それに,ヒカルさんのそばには,そんじょそこらの恋人よりずっと素晴らしい人がいるんだから」
「佐為だな。それに藤原さんも」
「もう一人」
「もう一人?」
「塔矢さんですよ」
「ああ,アキラ・・・・」
「『ああ』じゃないでしょう。ヒカルさんは塔矢さんと打ち合う時,とても幸せそうな顔をしてますよ。佐為と打ち合う時,人生で一番幸せそうな顔になるけど,塔矢さんと打ち合う時も同じ顔をしてますよ」
「そうなのか?」
「そうですよ」
「そうか・・・・」
と言って,ヒカルさんはしばらく黙って考え込んだ。そして,
「そういえば,そんなこと思うことがある。塔矢と打ってる時,『オマエと打つのが一番楽しい』と思うことがある」
とつぶやいた。それを聞いて,ボクも微笑んだけど,佐為も微笑んだ。
トーナメントの準々決勝。相手は誕生パーティーでヒカルさんをからかった和谷さん。だからといって恨むわけではないけど。
《和谷さん,お久しぶりです。以前,ネット碁で対局しましたね》
という佐為の言葉を伝えたら,
「よく覚えているよ。今日はあのリベンジのつもりなんだ」
と勝ち気な口調で返事した。
《そうは問屋が卸しません》
という言葉はスルーしてたら,
《ロミー,ちゃんと伝えてください!》
とつつかれた。仕方ないからその通りに伝えたら,和谷さんはムッとした表情になり,
「佐為はどこに座ってる?」
と訊いてきた。佐為の座っている所を指さしたら,そちらをにらみつけた。それでも結果は佐為の6目半差の勝ち。和谷さんはすごく悔しがっていた。
準決勝の相手は7段のプロなのだけど,正直なところ和谷さんより印象が薄い。そして決勝の相手は,予想どおり倉田さん。
「倉田さん,参加なさったんですね」
「そうだよ。悪いか?」
「いえ,悪いとは申しませんが・・・・」
「『タイトル戦の常連がアマ・プロ混合トーナメントなどに顔を出すな』って,余計なお世話だ。オレの知ったことじゃないよ。オレは佐為と打ちたいんだ」
ボクとは違う意味でマイペースな人だな。佐為が笑っている。佐為の笑みは対局中も途絶えなかった。例の「氷の微笑み」ではない。もっと無心に碁を楽しんでいる笑み。
《この者,おもしろい。勝敗よりも,わたしを相手にいろんな手を試そうとしている。望むところです。わたしも新しい打ち方を試してみましょう。相手にとって不足はありませんから》
結果は佐為の1目半差の勝ち。
「くそーっ。いいところまで行ったのになあ。最後のヨセで振り落とされてしまった・・・・でも,おもしろかったよ。こんなワクワクする碁は久しぶりだった。ありがとう」
倉田さんは笑顔であいさつする。佐為も相手への敬意を込めた笑顔を返した。
優勝者インタビューは,去年のように荒れることはなかった。今年は準優勝者も一緒にインタビューを受ける。倉田さんクラスなら注目度がいつもと違うんだろう。ボクより倉田さんの方がよくしゃべっていた。ボクへの質問にも割り込むくらい。ほんとうにマイペースな人だ。ボクとしては,この場ではありがたいけど。
それから1ヶ月ほどして,塔矢さんが2度目の名人位防衛を果たした。
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(ここから第三者視点)
佐為とロミーを交えた1回目の対局を終えて,この日はロミーは「明日までに読み終えたい本がある」と言って夕食を摂らずに帰ったので,ヒカルとアキラが二人で夕食を摂っている。
「ちょっと遅くなったけど,2回目の名人タイトル防衛おめでとう」
「ありがとう」
と言うアキラの口調はぶっきらぼうにも聞こえた。
「なんだか,あまりうれしくなさそうだな。オレから祝福されてもうれしくないか?」
「率直に言って,キミから祝福されてもあまりうれしくない」
「どうしてだよ!?」
ヒカルは声を荒げた。
「約束,覚えてるか?」
「約束?」
「ああ。1回目の北斗杯が終わって間もない頃に交わした約束。まず,二人とも必ずタイトルを取る。キミは思い入れの深い本因坊。ボクはボクなりに思い入れの深い名人。そして,二人ともタイトルホルダーになったら,お互いに相手の挑戦者になるという約束だよ。キミはいつ,名人戦の挑戦者になってくれる? 今年も,残念ながら挑戦者はキミじゃなかった」
「それを言うなら,オマエだって」
「まあ,そうなんだが・・・・待ってるんだよ。キミが挑戦者としてボクの前に現れるのを。思い入れの深いタイトルの防衛戦は,この世で一番・・・・」
ここでアキラは言葉に詰まった。
「この世で一番?」
ヒカルは問い返す。
「この世で一番深い愛着を寄せる相手と戦いたい」
ヒカルはびっくりしてアキラを見る。一瞬,笑おうと思ったが,アキラの真剣な表情を見ると笑うわけにはいかない。何と言っていいのか分からない気詰まりの中で,ヒカルは黙ってアキラを見る。
「こんな言い方されて,いやかい?」
「いや・・・・じゃない・・・・けど・・・・」
途切れ途切れに答えるヒカルを見て,アキラは笑みを漏らした。
「タイトル防衛を祝ってくれて,ありがとう。ほんとうはキミから祝福されるのが一番うれしいんだ」
そう言われて,ヒカルは照れた。
「・・・・オレだって,祝賀パーティーなんかより,オマエから『おめでとう』と言われたのがずっとうれしかった」
「キミは,藤原さんを見習って,佐為が自分に宿っていたことを堂々と認めた。ボクは,藤原さんを見習って,自分の思いに素直のなることにしたよ」
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(ここからロミー視点)
12月,今年も北斗通信スペシャルが開催される。今年は,佐為が白を持つ。昨年,緒方棋聖と塔矢名人を破り,塔矢行洋にも高永夏にも勝った実績から,相手に先番を持たせるべきという意見が大勢を占めたかららしい。佐為はタイトルホルダーよりも強いと公式に認められたようなもので,ボクはうれしかった。相手は,碁聖というタイトルを持つ芹澤という棋士と,社(やしろ)というヒカルさんや塔矢さんと同年配の若手の棋士。まだタイトルは持っていないけど,この世代では二人に次ぐ実力の持ち主で,かつて北斗杯には一緒に参加したらしい。
「佐為,社と対局するんだ。そりゃあ,おもしれえ。ぜひ見に行かないと」
と興奮気味に話すヒカルさんは,北斗杯での彼の棋譜と,最近のいくつかの棋戦の棋譜を見せてくれた。佐為はそれを見て,
《荒削りなところがありますが,おもしろい碁を打ちますね。大器の素質は感じます》
と語る。
そんな社との対局。第1手は碁盤の真ん中,天元に打たれた。それを見て佐為は驚く。
《初手天元ですか!・・・・》
《珍しいの?》
《とても珍しい。わたしは今まで一度も打ったことがありません》
そう言って佐為はゆっくり考えている。佐為にしては異例なほどの長考。そして,おもむろに扇で碁盤の1点を指した。それからはふだんのペースで対局が進む。序盤から中盤にさしかかる頃,
《初手天元は,決して攪乱だけを狙った目くらましの手ではない,きちんとした計算に裏付けられた初手でしたね。こういう展開を作れるとは,なかなかの逸材です。だからと言って,負ける気はしませんが》
と,佐為が語る。その言葉どおり,しだいに社が唇をかみしめて考え込む場面が増えていった。そして,去年は塔矢さんが口にしたせりふ,
「オレの負けは見えてるんだが,最後まで打たせてくれ」
佐為はうなずいた。結果は,6目半の差が付いた。
対局後の検討が始まると,ヒカルさんが駆け寄って,
「社!オマエ,オレの時には初手天元を使わなかったくせに」
と語りかけた。社はニヤリと笑った。それから始まった検討でも,かなりの時間がこの初手天元に充てられた。
《やがて,定石とは言わないまでも,初手の選択肢の一つとして広く知られるようになるかもしれませんね。わたしも使ってみたい》
という佐為の言葉を伝えると,社はとてもうれしそうな顔をした。
芹澤碁聖との対局はこれとは対照的に淡々と進み,淡々と終局した。それでも結果は4目半の差だから,塔矢さんや緒方さんに匹敵する実力者ではある。検討の場で佐為が
《まるで打ち方の手本のような棋譜になりましたね》
と語ると,芹澤碁聖は
「世界最強と称される佐為が相手であればこそ,正攻法に徹したんです」
と答えた。ああ,穏やかな表情の下に社への熱い対抗心を秘めていたんだとボクは気がついた。
こうして,前年同様,さまざまな出来事のあったこの年も暮れていきかけた頃,ボクにとってビッグイベントが出来した。クリスマスの翌日,ボクの部屋にやって来たヒカルさんは,碁盤を出すのも忘れて開口一番,
「昨日,塔矢から告白されてしまったよ」
と話しかけた。ボクは〔あっ,ついに〕と思った。不意打ちではないけど,それでもビッグイベントには違いない。
「面と向かって『好きだ』と言われて・・・・」
「それで,ヒカルさんは何と答えたの?」
「答えるも何も,びっくりして,思わず『好きってどういう意味だ?』と聞き返したよ」
まあ,それは悪い対応ではない。
「それで,塔矢さんは何て答えたの?」
「ほかの誰よりオレと一緒にいるのが楽しいんだ,オレと一緒にいる時が一番幸せと感じるんだって返事した」
うん,それはなかなかいい答え。
「それから,こんなことも言った。面倒だからアイツのせりふをそのまま伝えるけど,『ボクは藤原さんみたいに心が広くないから,進藤がほかの人と親しそうにしているのを見るといやな気持ちになる』って。それを聞いて,オレ,ちょっとおかしかったよ。以前,オレが藤原さんに言ったのと同じせりふだもんな」
ボクも,ちょっとおかしくなった。
「アイツ,藤原さんにいろいろ相談してたんだって?」
「まあね」
「なんで,アキラのことオレに話してくれなかったんだ? 別に,怒ってるわけじゃないけど・・・・」
「そういうことは,ボクが伝えるんじゃなくて,本人がきちんと相手に直接伝えるべきなんだよ。ボクは塔矢さんにそう言った。それで,昨日,塔矢さんは実行したんだね」
「そういうことか・・・・」
ここで,ボクはあることがひらめいた。
「ヒカルさん,塔矢さんがボクとそんなふうに親しく相談していたと知って,いやな気分になった?」
「別に,いやな気分なんかならないよ。・・・・てか,一番いい相談相手じゃない,藤原さんは。なんでそんなこと訊くの?」
「ヒカルさんは,ボクがほかの人と親しそうにしているといやな気分になるんでしょう。でも,その『ほかの人』が塔矢さんなら,いやな気分にならないんだね」
ボクにこう言われて,ヒカルさんは考え込んでいる。
「・・・・そりゃあ,塔矢は特別だよ」
その言葉を聞いて,ボクはうれしくなって笑みを漏らした。脇で佐為も穏やかな笑みを浮かべている。
《ヒカルがアキラの告白を拒否せずに受け止め,アキラを特別な存在と認めているのなら,今はそれで十分でないでしょうか。これ以上,わたしたちが余計なお世話をしない方がいいでしょう。急いては事をし損じます。》
ボクはうなずいた。
「ヒカルさん,碁盤を出さないの? そのために来たんでしょう」
「ああ,もちろんだ」
こうして,いつものようにヒカルさんと佐為の対局が始まった。
新しい年が明けた。この年は,3月の春蘭杯1回戦まで佐為の対局の予定はない。だからネット碁にいそしんでいる。ずっと以前から,佐為=FJWRsaiがログインすればすぐに選りすぐりの強者から対局申し込みが入るけど,春蘭杯とLG杯にシード棋士として出場することが公表されてから,特に中国と韓国のプロ棋士からの対局申し込みが増えた。そんな棋士たちを相手に,佐為は不敗の伝説を更新し続けている。
そんな1月の中旬,ボク宛にある医療法人から手紙が届いた。伯父の法人を救済合併した医療法人。封を切ると,債権者の多数から債権放棄への賛同が得られたこと,その結果に基づいて,この法人が伯父の法人を救済合併し,登記関係の手続きも完了したことが記されている。そして,各債権者には,本来の金銭賃貸借契約の期限日に元利合計の30%を支払うことが確約されている。つまり,ボクの場合,3月末に3千何百万かのお金が振込まれる。それを知って,ボクは具体的な行動を始めた。中古の小さな戸建て物件を探すこと。できれば,中州のそばの叔母の家のように,1階が小さな商店か仕事場,2階が一人で住むのにちょうどいいくらいの住居になっている小さな家がいい。あるいは,個人医院の自宅を兼ねた診療所で,院長が引退を希望し,後継者がいないので売りに出ている物件とか。
勉強のあいまにインターネットで不動産情報を検索しているボクを見て佐為は疑問に思ったようだ。
《ロミーは家を見るのが趣味だったんですか? 今までそんなことはなかったのに》
「趣味じゃないよ。実用的な目的だよ。1階を小さな診療所,2階をボクの住まいに使えそうな小さな中古の家を探しているんだ。できれば,ここからあまり遠くない所,ヒカルさんのうちや塔矢さんのうちからあまり遠くない所に。3千万円あれば,その辺で小さな中古の戸建ては買えるみたいだから」
《診療所?・・・・ひょっとして,ロミーは迷いを吹っ切って医者の仕事を始めるつもりなのですか?》
ボクはうなずく。
「迷いを吹っ切れたよ。ボクのような人間が医者の仕事をする意味があると思えるようになったんだ」
《勉強の成果ですね》
「・・・・もちろん,勉強も役に立った。でもそれ以上に,ヒカルさんや塔矢さんとの係わりが役に立ったよ」
《ヒカルやアキラとの係わりが?》
「うん。あの二人の悩みや喜びに付き合って,時には相談も受けて,ボクなりのアドバイスをすることもあった。あの二人の悩みは,広い意味で恋の悩みだね。ボクは恋に悩むことはなかったけど,それでも恋の悩みの相談には乗れたし,それなりに役立てたと思う。むしろ,悩まない人間の方が人の悩みに的確な助言を与えられるケースもありそうだと分かったんだ。人は何かに悩んでアドバイスを求める。その時,その『何か』をその人と一緒に深く丹念に検討するのもその人を助ける1つの方法だと思うけど,その『何か』について,『それはほんとうは深く悩むほどのことではないんだよ』と語りかけるのも,もう1つの方法なんだと思えるようになった。もちろん,語りかける時と状況の選択を間違ってはいけないけどね。あるいは,感情に溺れ流されている人に,感情を込めて対応する人がいてもいいけど,自分はその感情に立ち入らず,敢えて理詰めの対応をするのも,意味があると確信できるようになった」
《確かに,ロミーはあの二人にそのように対応していました》
「その対応の中で,ボクは自分が経験しない悩みの相談に応じるコツを学んだし,そういう場面でボクが役に立てるという確信も得たんだよ。臨床研修を終えて,ふつうに精神科クリニックなどで働いていては,経験できなかったことだと思う」
《そうなんですか?》
「ふつうの精神科では,あれほど深く患者に係わることはないから。そのような深い係わりは避けるように指導されるんだ。それは決して間違ってはいない。医者と患者との間には一定の距離が必要だからね。親しくなりすぎてはいけない。でも,ボクには,この1年あまりヒカルさんや塔矢さんと係わったような深い係わりが必要だったんだ・・・・佐為のおかげだよ。佐為に出会わなければ,あの二人と知り合うこともなかったから」
ボクは心からの感謝の言葉を伝えた。佐為は,はにかむような笑みを見せた。
2月に入って,おもしろい物件を見つけた。村野という皮膚科の女医さんが,高齢で引退することになり,診療所と住居を兼ねた2階建ての古い戸建て(築50年と記載されている)を売りに出している。場所は巣鴨。駅から歩いて10分くらい。本因坊家の墓のある本妙寺のそば。そこはまた,佐為とボクの出会いの場所でもある。〔これも何かの縁なのか〕と思った。
ボクはさっそく,仲介の不動産業者に伴われて物件を見に行った。外壁にツタが絡まっている。幽霊屋敷のようだと嫌う人もいるけど,ボクは好きだ。ドアホンを押すと,村野さんが出迎えてくれた。ここを引き払って,高齢者住宅に引っ越すらしい。50年あまり,この家に住み,この家で診療を続けてきた。今も,まだ転医先の決まっていない患者さんを細々と診ている。
1階の診察室を見せてもらった。
「藤原さん,でしたね。何科なのかしら?」
「精神科です」
「そう・・・・皮膚科をサブ・スペシャリティーにする気はない?」
「皮膚科ですか?」
「ダーモスコピーとか顕微鏡とか,顕微鏡用カメラ,普通のカメラ,染色試薬とか,たいしたものじゃないけどいくつか機材がある。中古医療機器を扱う業者に話しても,こんな年代物,へたしたら処分料を取られるかも・・・・使っていただけるなら置いていくけど」
皮膚科・・・・それなりにおもしろい科目ではあった。
「皮膚と神経系,どちらも外胚葉由来だから,縁があるかも」
と言って,彼女は笑った。
「まあ,それは冗談半分だけど,残り半分は本気よ。アトピー性皮膚炎がストレスで悪化するのは有名な話だけど,それに限らず,ほかの皮膚科疾患だって精神状態に影響される。逆に,皮膚科疾患は目に見えるから,それ自体が患者の心を悩ませる」
「・・・・確かに・・・・それに,うつ病とかでセルフケアをする意欲がなくなって,1週間も2週間もお風呂に入らないような状況だと,皮膚科疾患ももらいやすいですね」
ボクは本気になっていた。
「それなら,ボクの方からもお願いがあります。業者さんからお聞きと思いますが,代金を支払えるのは3月末です。正式の購入はその時になります。それまで,診療を続けておられるなら,見学に来させてください」
彼女は穏やかに笑った。
「まあ,去年の秋から患者さんはどんどん転医させてますから,開店休業みたいだけどね。患者さんが来れば,そして患者さんが許可してくれれば,見学していただいてかまいませんよ」
それから,2階を見せてもらった。一人で暮らすには十分広くて,広すぎはしない。キッチンもバスもトイレも,古いなりに丁寧に使ってきれいにしてある。所有者の人柄を感じさせる。
購入申込書に必要事項を記載し,翌日のうちに手付金を振込むことを約束して家を出た頃には,短い冬の日が暮れかけていた。
「佐為,せっかくだから本因坊家のお墓参りをしていく?」
「そうしましょう」
ボクたちは寺の中に入り,本因坊家の墓の前に並んで立った。佐為は目を閉じ顔を伏せてなにか真剣に祈っている。秀策の冥福を祈っているのだろうか。やがて,目を開けた。
「じゃあ,帰ろうか?」
と声を掛け,寺を出た。
暮れかかる冬の日。ボクたちは染井霊園を通り抜ける道を歩いている。
「2年と2ヶ月くらい前だね,出会ったのは」
「そうですね。あの時,ロミーも誰かのお墓参りだったのですか?」
「うん。親戚ではないけど,縁のある人の墓があるんだ」
「そうですか」
しばらく,ボクたちは黙って歩いた。それから,ボクはふだん気にかかっていることを佐為に話しかけた。
「佐為は,『神の一手を極めるためにこの世に留まっている』と言うけど,人間が神の一手を極めることは不可能じゃないの? 神の一手を目指して精進することはできるけど,そこに届くことはできないでしょう。神の一手を極められるのは神だけじゃないの?」
「そうかもしれませんが・・・・」
佐為はうつむいて考え込んでいる。
「でも,もしそうであるなら,わたしは何のために,そしていつまで,ここに留まるのでしょう?」
「何のために,というのは,1度目は秀策のため,2度目はヒカルさんのため,そして3度目は佐為自身のため,藤原佐為の名を碁の歴史に刻むためだと,ボクは信じているよ。いつまで,それは分からない。佐為を立ち去らせるような決定的な出来事が起きるのか,それとも寿命というのも変だけど,時が満ちるように自然に消え去るのか・・・・」
こんな話をしながら部屋に戻った時にはすっかり夜になっていた。
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(ここから第三者視点)
本因坊リーグの最終戦。塔矢アキラと森下9段の対局。アキラが勝てば挑戦者に決まる。負けると,対局相手の森下に倉田を加えた3人でプレーオフになる。森下は久々にリーグ戦入りし,「ベテラン復活」の話題を提供している。しかし,その話題はここまでだった。白の168手目,森下が投了した。この瞬間,アキラが本因坊挑戦者に決まった。
「ありがとうございました」
「ありがとうございました」
と礼を交しあって視線をあげると,ギャラリーの中にいるヒカルが目に留まった。アキラは思わず,
「ボクの方が先に約束を果たしたよ」
と語りかけた。ヒカルは唇を引き締めてじっとアキラを見ているけど,周りが騒がしくなった。
「約束って,何ですか?」
アキラは一瞬〔シマッタ〕と思ったが,秘密にしないといけないようなことでもないと思い直した。
「1回目の北斗杯が終わって間もない頃に進藤とボクが交わした約束です。まず,二人とも必ずタイトルを取る。そして,二人ともタイトルホルダーになったら,お互いに相手の挑戦者になるという約束です」
と説明し,それから視線をヒカルに向け,
「ボクの方が先に約束を果たした。キミが約束を果たすのを待ってるよ」
ヒカルはしっかりうなずいた。
「待ってろよ。オレは今のところ名人リーグで負けなしだからな」
その言葉のとおり,ヒカルは本因坊リーグと平行して行なわれている名人リーグで今のところ無敗だった。ただし,名人リーグはこれからも続き,そのスケジュールはちょうど本因坊の挑戦手合と重なる。周りからこの点を指摘する声が挙がった。
「進藤本因坊の方が不利ではないですか?」
「そんなことでくじけるようなヤワな棋士ではありません,進藤は」
というアキラの言葉を聞いて,ヒカルは
「もちろん,オレはそんなヤワじゃないよ」
と相づちを打った。
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(ここからロミー視点)
3月の半ば,村野さんの診療所に見学に行くと,
「高齢者住宅の入居準備が完了したと連絡があったから,今週末でここを閉めて,引き払うことにしたの。鍵をあげるから,来週から住んでいいわよ」
「でも,代金の支払いは今月末なんですが」
「構わないわよ。藤原さんを信用しているから。鍵をもらって代金を踏み倒すなんてこと,するわけないでしょう。あなたが」
ということの成り行きで,それから1週間もしないうちにボクは引っ越すことになった。ただ,春蘭杯の日程が迫っていたので,引っ越しは済ませても,実際にクリニックを開業するのは春蘭杯から帰ってきてからになる。
引っ越し自体は例によって簡単に終わった。亥鼻から西千葉,それから駒込,そして巣鴨,このところ毎年のように引っ越しをしてたけど,たぶん,これからしばらくはここに落ち着くのだろう。家具を片付け終わった部屋でのんびりカフェオレを飲みながら,ボクは佐為と語り合った。
「ボクの人生の大きな節目だね」
《そうですね》
「本妙寺からの帰り道,『佐為は何のためにこの世に留まっているのか』と語り合ったけど,ボクの立場から振り返れば,佐為はボクを臨床医にするため,臨床医になることへの迷いを振り切らせるために,この世に留まり,ボクと出会ったんだね」
《そう思ってくれるなら,うれしいです》
それからしばしの沈黙。そして,ボクがまた語り始めた。
「去年の今頃に語り合ったこと,覚えてる? 生身の人間は年を取るけど,幽霊はいつまでも年を取らないという話」
《覚えてますよ。ロミーが生まれて初めて嫉妬を感じたと語ってましたね。わたしに嫉妬なんか,しなくていいのに》
「うん。無駄なことだよね。時の流れは止めようがない。時の流れとともに人は年を取る。それもまたどうしようもない必然。それを嘆いても,悲しんでも,無意味なことなのにね」
ボクはキッチンの棚に並べたばかりのスプーンを右手に取り,肩の高さに持ち上げ,手を離した。スプーンは自然落下して左手に受け止められた。
「高い所で手を離せば物体は下に落ちる。重力の法則に従う必然だね。それを嘆き悲しむ人はいない。であれば,時の流れも必然なんだから,それを嘆き悲しまなくてもいいんだけど,千年の時を経ても若いままの佐為と一緒にいると,つい嘆きたくなる,嫉妬も感じる。理詰めのボクが,これは理屈で割り切れない」
佐為は,いたわるような視線をボクに向ける。
「でも,最近になって割り切れるようになった。正確に言えば,割り切れないことを割り切れるようになった。なんて,何を言ってるんだと思うだろうね。つまり,ボクの心の中に,割り切ることのできない感情の1つや2つくらいあってもいいと割り切れるようになったんだよ」
ボクは佐為に笑みを向ける。佐為も笑みを浮かべ,手を伸ばし,ボクの肩を軽く叩いた。
「佐為の存在そのものも,そうなんだよ」
《わたしの存在そのものも?》
「うん。佐為の存在は今の科学で説明できない。もちろん,今の科学で説明できない現象はいくらでもある。でもそれらのほとんどは,今の科学の方法に従って,今の科学の延長線上で,解明できると予想されている。でも,佐為という存在は,たぶん,今の科学の延長線上では解明できない。それを解明するには,根本的に新しい発想が必要だろうと思う。そんな新しい発想は当面生まれないだろう。たぶん,ボクが生きているうちには,佐為の謎は解明できない。それでいいと割り切ったんだ。佐為の謎は解明できない。佐為は今の科学が解けない謎。それでいいと割り切ったよ」
佐為は優しい笑みを浮かべる。
「いうなれば,秘密の花園だね」
《秘密の花園?》
「そう。ボクは基本的に合理主義者だよ。悲しんでも仕方のないことは悲しまない。嘆いても意味のないことは嘆かない。不可能なことは追い求めない。だれも幸せにしない嫉妬は抱かない。来る者は拒まず,去る者は追わず,人にも物にも執着しない。その方が人は幸せだから。そんなふうに割り切って生きてきた。これからも生きていく。周りからもそう思われている。でも,そんなボクの心にも,割り切ることを諦めた感情があり,合理的な説明を諦めた謎がある。それはボクの心の中に隠した秘密の花園だよ。そして,その秘密の花園の主(あるじ)は,佐為,あなただよ」
そう言ってボクが佐為を見ると,佐為は,はにかむような笑みを浮かべてうつむいた。ああ,このはにかむような笑み,ほかの誰にも見せない。ボクだけに時おり見せる。
その3日後,ボクたちは春蘭杯に参加するため空港に向かった。