Honesty   作:松村順

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それから

Ⅶ それから

 

 ボクが佐為と出会って10年が過ぎた。ボクは37歳。ヒカルさんも,もう29歳。20代最後の年。この年,ボクたちにとって記念すべきことが起きた。ついに,ヒカルさんが佐為に勝った。12月初め頃のこと。1目半差で勝った時のヒカルさんのはしゃぎよう。まるで,佐為に出会った頃の,12~13歳頃の子供に戻ったみたい。何より,高永夏よりも先に佐為に勝利したことがうれしいようだ。そんなヒカルさんを佐為は微笑ましげに見ていたけど,

「ついに佐為を越えたぞ」

というヒカルさんの言葉には,

《何を言いますか。たった1度勝っただけで「わたしを越えた」などと言う資格はありません》

と本気で怒り出し,

《さあ,もう1度》

と,ヒカルさんに再戦を促した。こういうところは,佐為も子供っぽい。もう長い間,ボクの仕事や勉強の邪魔にならないよう,ヒカルさんと佐為の対局は1日1回という暗黙のルールができていたけど,この日だけは,佐為の迫力に押されて,2度目の対局を行なった。

 佐為が負けたから,先番を取る。

《ヒカルに対して黒を持つのは初めてですね。わたしは昔から,黒を持っては負けなしですからね》

それは,コミのルールのなかった秀策の時代のことだけど,黒に6目半のハンディが課せられる現代のルールでも,佐為は黒を持って先番を取る方が好みだと語っていた。その言葉どおり,再戦では佐為が3目半差で勝った。佐為の満足げな顔と,ヒカルさんの悔しそうな顔。

 その後,年が暮れるまでヒカルさんはさらに2回勝ったけど,いずれも先番を取った時のこと。白を持って佐為に勝つことはまだできない。

 大晦日,佐為はしんみり語る。

《この1ヶ月でヒカルはわたしに3度勝ちました。1度だけならまぐれとも言えますが,3度なら実力です。まだ,わたしが黒を持てば負けませんが,わたしにほんの1歩のところまで迫っていますね。やがて,わたしに並び,いつの日かわたしを越えるかもしれません。もちろん,弟子に越えられるのは師の本望です》

佐為は,うれしさをにじませながらも淡々とした口調で語る。

《いつでしたか・・・・ああ,北斗杯のイベントでヨンハと対局した時のことですね,ヨンハが「あなたを確実に倒せると確信できるまで,あなたと対局はしない。だからそれまで,地上に留まっていてくれ」とわたしに語った。それを聞いてヒカルも,「オレも同じこと考えてる。オレが佐為に勝つまでは消えないでほしいと思ってる」と語りました。ついに,ヒカルはわたしに勝った。ということは,わたしが消えてもいいということでしょうか・・・・》

ボクはびっくりして佐為に問いかける。

「消えそうな予感がするの?」

佐為は,自分の心の中を探るように思案してから,

《いえ,まだそんな気配は感じませんが》

と答えた。

 

 年が明けて,ヒカルさんの佐為に対する勝率が少しずつ上がっている。初めのうちは1勝4~5敗だったけど,1月,2月を過ぎて3月になると1勝2~3敗くらいになった。そしてついに,白を持って佐為に勝った。この時もヒカルさんはとてもはしゃいだ。ただ,前回で懲りたのか「佐為を超えた」とは言わず,「佐為に並んだ」と言ってる。そんなヒカルさんを佐為は優しく見守る。それから,真顔に戻って,

《まだ勝率が五分とは言えませんが,それでも,ヒカルはわたしに並びましたね。いよいよ,わたしは消えてよいということでしょうか・・・・まだ,そんな気配は感じませんが》

《それ,ヒカルさんに話しておく方がいいんじゃない?》

《えっ?・・・・いえ,それはヒカルにとって残酷でしょう。長年の努力の果てにやっとわたしと並んだ,そのためにわたしが消え去るというのは・・・・》

《でも,話しておかないと,前回のように,突然消えてヒカルさんを悲しませることになるかも》

佐為はため息をつく。

《ロミー,あなたは時として正しすぎます》

その言葉を聞いて,ボクは唇をかみしめてうつむいた。幸い,ヒカルさんには気づかれずに済んだ。

 

 ボクたちの小さな世界でこのビッグイベントがあった数日後,世界の囲碁界全体の注目を集めるだけでなく,社会全体の注目さえ惹いたビッグイベントが出来した。アルファ碁というAI(人工知能)の囲碁ソフトが,世界最強と目される人間の棋士に勝利した。世界中の囲碁ファン,囲碁関係者の注目を集めたこの対局はアルファ碁の4勝1敗で終わった。人間はAIに5局で1局勝てただけ。対局の棋譜は,途中経過も含めて,ネット上に公開された。佐為もヒカルさんも熱心に見ている。

「佐為,勝てるか?」

佐為は盤面を見つめて考え込んでいる。

《打ってみないと分かりませんが・・・・》

いつもの佐為らしくない,自信のない口調。

「打ってみないと分からない,と言ってるけど・・・・」

「けど?」

ボクは,佐為の自信なげな様子を説明すべきかどうか,迷う。

「ヒカルさんは,どう?」

「オレも,打ってみないと分かんないけど・・・・」

ヒカルさんも自信がなさそう。しばしの沈黙の後,佐為がボクに語りかける。

《ロミーは以前,神の一手は人間には極められないのではないかと言いましたね。そうかもしれません。でも仮に人間に極められるとして,それを極めるのはわたしではなくこのアルファ碁かもしれません》

ボクは驚いて佐為を見つめる。

《ロミー,この言葉,ヒカルに伝えてください》

《えっ?》

《伝えてください》

佐為はきっぱりとした命令口調でそう言い切った。ボクは内容をはしょって伝えた。

「ヒカルさん,佐為が『神の一手を極めるのは佐為ではなくてこのアルファ碁かもしない』と言ってる」

それを聞いて,ヒカルさんの顔色が変わった。

「そんな・・・・佐為,それじゃあオマエは何のために・・・・佐為,オマエ,消えるのか?」

この言葉を聞いて,ボクはなぜ佐為が自分の言葉をヒカルさんに伝えさせたか,その理由が分かった。

《ヒカル,そんなにあわてないで。今すぐ消える気配はありません》

ボクはそのまま伝えた。ヒカルさんはちょっと安心したみたい。でも,

「『今すぐ』ってことは,いつかは消えるのか?」

《それはもちろん,幽霊は永遠にこの世に留まれるものではありません》

この言葉も,ボクはそのまま伝えた。

「そりゃあ,そうだけど・・・・」

寂しそうにつぶやくヒカルさんに佐為は敢えて明るい声で語りかけた。

《それにしても,このアルファ碁と対局してみたいですね》

 

 アルファ碁は,グーグルという巨大企業のプロジェクトとして進められているものだから,誰でもおいそれと対局できるわけではない。実際,佐為もヒカルさんも対局の機会は得られなかった。そして,一時の波乱はそれとして,またこれまでどおりの日常が繰り返されることになる。少なくとも,表面上は。変わったことと言えば,時おりヒカルさんが佐為に「まだ消えそうにないか?」と尋ね,佐為が《まだのようです》と答えるくらい。

 こうして春が過ぎ,夏も過ぎ,秋も過ぎてその年も暮れようとしていた頃・・・・中国と韓国のネット碁サイトにMagisterと名乗る謎の棋士が現われ,並みいる中国,韓国のプロ棋士たちを不眠不休で毎日8~10人ずつなぎ倒すという事件が起きた。1人あたりの対局時間は2~3時間。

 年が明けた元日早々,ヒカルさんが駆け込むようにやって来た。

「どうしたの?」

「すぐ,パソコンを立ち上げてくれ」

ヒカルさんはボクの質問に答えず,焦っている。ボクはとりあえずパソコンを立ち上げた。ヒカルさんは,メモを見ながらどこかのサイトにアクセスしている。ネット碁のサイトらしい。

「佐為,この棋譜をみてくれ」

と言って,ヒカルさんは何枚かの棋譜を佐為に見せている。

《これは・・・・》

「間違いなく,アルファ碁だぜ。去年の暮れからこのサイトで中国や韓国の棋士たちをなぎ倒しているらしい。申し込めばだれでも対局できる」

《それなら!》

すぐに,ヒカルさんと佐為はそのMagisterに対局を申し込んだけど,ウェイティングリストに10人くらい並んでいる。

「これじゃあ,オレたちの対局は明日だな」

そう言ってヒカルさんは佐為と一緒にMagisterの棋譜を検討し始めた。こうなると,二人はボクの存在を忘れてしまう。

「圧倒的な強さだな」

《そうですね》

という声が聞こえてくる。

「・・・・このeternal summerって,ヨンハのアカウントだよな・・・・アイツも一刀両断されてるじゃないか」

やがて,一通り検討を終え,ヒカルさんは帰って行った。

 翌日の朝,ボクはパソコンを立ち上げてヒカルさんを待っていた。待つ間もなくやって来て,すぐにサイトを確認する。ヒカルさんの前の対局者の対局が始まってしばらく経った頃だった。

「あと1時間半くらいかな」

そう言いながら,ヒカルさんはその対局を観戦している。1時間ほどして,その対局もMagisterの中押し勝ちで終わった。いよいよ,ヒカルさんの対局。ふだんボクが座る椅子に座って,真剣な眼差しでディスプレイを眺め,マウスをクリックしている。佐為も同じように真剣な眼差しでヒカルさんの対局を見つめている。二人の表情は最初から厳しいまま。そして,2時間ほどしてヒカルさんが投了した。

「フーッ,こんな力の差を見せつけられたのは久しぶりだぜ。佐為に出会った頃,毎日鍛えられてた頃みたいだ」

ヒカルさんはそれまでの緊張から解き放たれたように背中を背もたれにつけ,伸びをするように深呼吸した。意外に悔しそうではない。悔しがる気を起こさせないほどの完敗ということかな。

 次は佐為の対局。ヒカルさんはボクと席を交替した。自分の対局が始まってからも,佐為の表情は相変わらず厳しい。序盤から中盤にさしかかる頃,ボクの後ろに立っているヒカルさんが突然,

「藤原さん,席を替わってくれ」

と言い出した。

「えっ?」

「さっきから,佐為の顔がおぼろげに見えているんだ。気のせいか,幻覚かと思ってたんだけど,だんだん顔がはっきりしてきて,袖が見え始め,手が見え,扇が見えるようになった。石を置く位置が分かるんだ。今指してるのは5の十三だよな」

《そうです》

ボクが答える前に佐為が答えた。ボクはヒカルさんを見つめる。佐為もヒカルさんを見つめている。

「対局中だ。ぐずぐずしてると持ち時間が減る。さあ,替わってくれ」

というヒカルさんの声に促されて,ボクは席を立ち,ヒカルさんに譲った。ヒカルさんはすぐにマウスを握りしめ,佐為の扇が指す位置をクリックし始めた。かつて,佐為がヒカルさんに宿っていた頃,二人はこんなふうにネット碁をしてたんだな・・・・。でも,どうして急にヒカルさんに佐為が見えるようになったのだろう? 〔ひょっとして?・・・・〕ボクは1つの可能性に思い至った。

 こんなことを考えているうちにも対局は進み,そして,佐為が投了した。一緒にいるようになって11年。初めてだった,佐為が投了するのを見るのは。佐為は呆然とディスプレイを見ている。ヒカルさんも。しばらく,何の言葉も出ない。それからヒカルさんが

「初めてだぜ。佐為がこんなに・・・・まさに一刀両断された・・・・」

佐為は両の掌を開いてじっと見つめ,それからゆっくりと掌を握りしめた。

《間違いなく,神の一手を目指すのはわたしではなく,わたし以外の人でもなく,このアルファ碁という異類のものなのですね。アルファ碁は去年の3月と比べても格段に強くなっている。これからも強くなるでしょう。もはや人の手の届かない境地を拓いていくでしょう》

ヒカルさんとボクはじっと佐為を見ている。

《ヒカルを育てるという任務は果たし終えました。わたしの名を残すという仕事もやり遂げました。神の一手を極めるという目標は消え失せました。・・・・つまり,もうわたしがここに留まる理由はなくなったのですね》

佐為を見つめているヒカルさんが,

「藤原さん,佐為は何て言ってるんだ?」

「えっ? 聞こえてないの?」

「見えるんだけど,聞こえない。唇が動いているのは分かるけど,声は聞こえない」

「そうなんだ・・・・」

ボクはためらった。佐為の言葉を伝えるのは辛い。伝えられる方も辛いだろう。でも,伝えないわけにはいかない。ボクは佐為の言葉を要約して伝えた。それを聞いてヒカルさんは佐為に向かって

「つまり,消えるのか?」

と問う。佐為は答えない。ただじっとヒカルさんを見ている。ヒカルさんに自分の声が聞こえないと知って,言葉を発するのをやめたように,ただじっと見つめている。ヒカルさんは佐為の肩をつかんで揺する。

「消えるのか? 消えるのか?」

佐為は答えず,ただじっとヒカルさんを見つめている。その眼差しが潤んでいる。ヒカルさんの目にも涙がにじんでいる。二人は見つめ合っている。そんな二人をボクは見ている。

 ・・・・ボクの視界の中で佐為の姿が少しずつ薄れていく。ヒカルさんにも分かるのだろう。ヒカルさんは佐為の体を激しく揺さぶる。

「佐為,消えるな!消えるな!」

佐為は慈しみと,幾分かの悲しみの混じった眼差しでヒカルさんを見つめている。そうしている間も,佐為の姿は少しずつ薄れていく。

 ボクの中の理性がボクの心に語りかける。〔これでいいんだよ。今この時,別れには良い時だよ。だって,これ以上ずっと一緒にいたら,老いさらばえていくボクを見せることになるじゃないの。今はまだ,ボクは佐為の兄弟と言える。今この時,別れるには良い時だよ〕だけど,ボクの唇は理性に逆らう言葉をつぶやいた。

「佐為,行かないで」

ボクの小さな声は佐為にもヒカルさんにも届かない。二人とも,別れを惜しむのに夢中だから。それでいいんだ。この時,別れの最後の時は,ヒカルさんのためのもの。だからこそ,ヒカルさんは今この時になって佐為が見えるようになった。

やがて佐為の姿が消えていく。その消失のプロセスが終る頃,消える間際に,佐為はボクに視線を向けた。

 

終わり FIN

 


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