ネロ帝が女のわけないだろ!いい加減にしてくださいお願いしますから!!   作:オールドファッション

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設定にあった過去話があります。なお、一部設定を改変しております。


キングメイカーが急に話をするわけないだろ!シリアスかと思えばいちご味!!

 ずぶ濡れのまま寒空の下に放り出されたネロはこれが己への罰であるかのように思えた。信じた臣下をまるで獣のように襲おうとしたバチが当たったのだ。ネロは姉妹からの提案を初めは跳ね除けていた。そういうことに興味がなかったといえば嘘になるが、というか、むしろ興味津々で毎日枕を洗濯している思春期真っ盛りのおピンクエンペラーであるが、彼女は基本的に皇帝としていつも分別ある行動を心がけようとしている。

 

 

 

『そんなぼやぼやしてたら、いつか他の人にルシウスさんとられちゃうよ?』

 

 

 

(取られる?誰に?)

 

 

 

 ネロとルシウスの絆はとても強い。それを引き裂けるような者などこの世にいるのだろうか。いや、思いつく限りでは一人だけいるのだ。彼が唯一愛した女性。それについてネロは深くは知らない。彼の自伝においても言及されていることは少なく、出会いや別れについては意図してぼかした表現をしている。昔、母が気になってその女の素性や行方を調べたこともあったらしいが、今日まで知り得たものは何もない。あの二番弟子なら何か知っているかもしれないが、その話に関しては意外にも口が固いらしい。だが結局は昔の話だ。それでも不安が拭えなかったのはルシウスの抱えたものに原因がある。

 

 初めて会った時の印象は気に入らない奴であり、そしていつもどこか遠くを見つめているような眼差しだった。枯れることのない泉のようなアイデアはまるで、彼が見つめている景色そのものを反映しているようだった。結果的にはそれらはローマを繁栄に導いた。あの遠い眼差しも、今はこの国の景色を映している。彼はきっとローマを愛しているだろう。――だが、それは自分の作ったローマだけなんじゃないか?

 

 ネロは時々、ルシウスが錨を上げてしまった船のように思える。ふらふらとして捉えどころがない。誰かが乗っていないとどこまでも遠くに行ってしまうようだった。自分は彼の錨に足り得ているだろうか。考えだすと無尽蔵に不安だけが心を苛んだ。子供を理由に彼を縛り付けるなど、皇帝としても、人としても最低な考えだったと思う。だが、それだけの価値はあったはずだ。その考えは今も変わってはいない。ネロは皇帝である前に、一人の恋する女であったのだ。

 

 ずっと一緒に居られるなら卑しい女にもなろう。無様に頭を地に擦り付けよう。地位も名誉も捨てよう。

 

 だからどうか、――私のために傷つかないで欲しい。

 

「ルシウス!」

 

 傷だらけになって転がるその姿を、ただ静観できるはずがなかった。主人を守るために立ちはだかるその臣下は、悲鳴も上げずに弾丸と凶刃を受け続ける。常人ならば即死の攻撃を幾度受けようと、彼は石のように動きはしなかった。その姿には敵であるアサシンすらも敬意を表する。ぶっちゃけ筋肉痛で動けないことをいいことにサンドバッグにされているだけなので敬意をブーメランで戻してどうぞ。

 

「ま、まさか……あのSUMOUの時に余たちを突き飛ばしたのも、この者の追撃に巻き込まないためだったのか?」

 

「すまなかった…ネロよ」

 

 酒とラッコ鍋の勢いに任せ無礼を働いただけである。ルシウスはルシウスでこの現状が自分のせいだと思って謝罪したが、ネロが益々泣き出すので困った。それにしても体は極度の筋肉痛と無数の傷で痛いのに、自分の体からは血は一滴も出ないのはなぜだろうとぼんやり考えるルシウス。そういえば最近ほうれん草とかレバー肉食べてないな。リゾットにしたら鉄分補給できそう。

 

 彼の怒りも恐れもない表情にネロは益々ルシウスという人間がわからなくなった。これだけの仕打ちを受けて尚、そんな穏やかな表情を浮かべる男にとって、自分はどんな存在なのか。

 

 アサシンはゆっくりとした足取りでルシウスの前に立った。ルシウスの立ち位置は偶然か、折れた煉獄を杖に膝立ちでネロを庇うようにしている。動こうにも脚は疲労と痛みで悲鳴を上げていた。不思議と恐怖はない。理解できない状況に直面して正常な反応ができ無かったのだろう。

 

 硝煙を上げるキャレコM950を放り捨てると、アサシンは腰に携えたトンプソン・コンテンダーを構え、弾丸を取り出す。彼とて相手に恨みはあれど敵を甚振る趣味はないのだから、できることなら早々にルシウスを殺すのが彼にとって敬意を表する行為であった。自分の目玉ほどある銃口の穴から発射される弾丸の威力は察するに容易。呑気にもルシウスは自分の体の風通しが良くなりそうだとふざけた思考に耽る。

 

 アサシンは未だ思考の読み取れない表情のルシウスに警戒を解いてはいない。またあの馬鹿げた強さの護衛が来たとしてもすぐに殺せるほど、両者の距離は迫って居た。目の前の男から醸し出される剣呑な空気に、呑気だったルシウスもいまこの瞬間が危うい状況であることを悟る。だが、その相手を打倒できるほどの力は、元よりない。彼に残された選択はひとつだった。

 

 ルシウスはゆっくりを膝を曲げた。その初動に思わず銃弾を放ちかけたアサシンだったが、あまりの驚愕に引き金から指を離す。

 

「や、やめろ!やめてくれルシウス!!」

 

 ネロも彼がしようとしていることに気が付き叫んだ。しかしルシウスは止まることなく手を地に付け、そして頭を下げ始める。今や硬貨に国の象徴として描かれた顔を地面に擦りつけた彼は言った。

 

「私はどんな目(殺される以外)にあっても構わない……だからどうか(私とネロの)命だけは…」

 

 見事な土下座と清々しいまでの命乞いだったが、インド産の英雄並みに言葉足らずな台詞は曲解される。ルシウスという英雄像から彼が自分の命欲しさに命乞いをするなど考えられない。また、ネロに至ってはルシウスが本気を出せば目の前の男など相手にならないとさえ思っている。二人はルシウスの行動理由を迷走し、そしてその推察は別方向に不時着した。

 

「そんな……余を庇うために…」

 

 あの時の怪我もまだ完全には回復していなかったのだろう。そんな状態ではいくらルシウスでもネロを庇いながら戦うのは不可能。一人でなら逃げられもしたが、彼はネロを決して見捨てなかった。誇りも命も投げ打って、こうして無様に這いつくばらせているのは他でもない。その責は自分にあることをネロは理解した。

 

 愛しき人に守られることの悔しさや悲しみ。その中には女としての喜びもあった。

 

 だが何より、怒りがあった。

 

「何なのだ!本当に何なのだお前は!!」

 

 出会った頃から皇帝に対する礼儀はなかった。小娘と軽んじられ、不敬にも乱暴に頭を撫でられることもあった。実の父にすら撫でられたこともなかったが、存外に悪いものではなかったのは自分の心のうちに秘めておこう。

 自信満々で告げた黄金宮殿の図案を駄作だと破かれた時は、親の仇とでも思われてるのではないかと絶望した。かと思えば、慈愛に満ちた顔を向ける忠臣でもあった。性欲のない聖人かと思えば、俗物じみた側面もある。女を抱く根性もない癖に、その女たちを守るためなら全てを破壊する閃光の中に身を投じる勇気があった。ルシウスという男は本当に分からないことだらけだ。だからこそ隣にいると面白い。だからこそその背はいつも遠くにあった。胸の内にあった感情が尊敬だけなら、ネロは背を追うだけで満足できただろう。だが恋する少女はそれだけでは満足できない。たとえ今までの関係が崩れるとしても彼女は聞かなければならなかった。

 

「余にとってお前は……何なのだ…?」

 

 そこには真実から耳を塞いでいた少女はもういなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 物心ついた頃から一人だった。親に捨てられたか、親が死んだのかはわからない。そんな理由を考える暇は、あの頃はなかった。

 

 ローマの路地裏の夜はまるで真冬のように寒い。貧しくも暖かな家庭しか知らない少年にとって、その場所は地獄に等しかった。そこで初めて知った事は、まつ毛が凍るほどの温度と寒さは眠気に勝る事だけ。次の日に知ったことは盗みは割に合わない事と孤児は人と見られない事。日が経つに連れて嫌な知識と傷だけが増えていく。傷だらけの体を抱きしめて過ごす夜には慣れてしまった。

 

 多くの理不尽と暴力に苛まれ、それでも心は死んでも体が生きようとしていた。生きるには自分を持たなければならない。だが彼にはそれがなかった。

 

 少し昔話をしよう。どこにでも良くある貧乏な母子家庭の兄の話だ。

 

 兄は物心つく前から妹のために生きていた。誕生日もクリスマスもプレゼントは貰わず、代わりに妹に与えて来た。妹の勉強道具を買うためだけに横丁で手伝いをし、その駄賃で文房具屋へ向かった。

 妹にはそれだけの価値があったからだ。幼い頃から何でもできる子で、家には妹の賞状が壁いっぱいに飾られていた。それに比べて兄は凡夫。何でもそつなくこなせるが、特に得意なものはないタイプ。兄妹は嫌でも周囲からは比べられる。いつも彼は憐憫と軽侮の視線の中にあった。

 

 ある時、兄はこう考えた。

 

『素晴らしい人にはなれないかもしれない。なら、素晴らしい兄になればいい』

 

 特異な環境下で育った彼の心は荒み、より自分を軽視する傾向があった。自分個人は取るに足らない存在かもしれない。でも良い兄を演じることはできるだろうと思ったのだ。幸い妹はいつも褒められて育ったせいか横柄な面があったので、誠実で妹思いの兄という役は受けが良かった。予想通り周囲は良い兄を褒め讃える。だがいつだってその賞賛の中には彼個人の存在はいない。いつしか周囲の認識は妹の兄というものに定着し、より一層彼を孤独にした。

 

 このままではいけない。早く独り立ちして、妹と離れなければと思い、寮のある高校に入学した。特別勉強ができるわけではなかったが、頑張れば吸収できる質だった兄は勉学に励んだ。成績も伸びつつあった頃、仕事の無理が祟り母が亡くなった。唯一個人として見てくれた優しい人が、棺桶の中で安らかに眠っている。隣で煩いくらいに妹が泣いていたが、兄は泣くことを許されなかった。周囲は「大丈夫、これからはお兄さんを頼ればいい」と妹に言う癖に、兄には「これからお前がもっとしっかりしないといけないよ」と言い聞かせる。頼れる親戚もいなかった彼は妹を養うこと余儀なくされたのだ。

 

 学校を中退した彼がまともな職につけるはずも無く、低賃金で馬車馬の如く働かされた。行きたかった学校にも行けず、当たり前の青春を送ることなく、ただ毎日上司に頭を下げる毎日。そんな兄の苦労も知らずに妹は学校生活を楽しげに語っていた。彼は笑顔の仮面をかぶっていたが、それを恨まずにいられるわけがない。

 

 きっと将来、妹は何だってなれるだろう。それこそ歴史に名を残す偉業だって起こすかもしれない。だが兄は何にもなれない。彼の生涯は妹の価値ある人生に捧げてしまったのだ。

 こいつさえいなければ。そんな言葉を何度喉奥に引っ込めた分からないほど、悪感情は胸の内で溢れている。ありえない未来を思い描く度、より一層惨めな思いになった。

 

 妹が居なくなったのは唐突だった。彼女は結婚したのだ。

 

 成人してから酒を逃避の手段としていた頃、居酒屋で中学時代に同級生だった男と再会したのがきっかけであった。兄はその男のことをよくは知らなかったが、兄は色々と有名だったので向こうはすぐに分かったという。聞けば昔から妹に思いを寄せていたらしく、良ければ仲介役になってくれないかと相談された。まあ、妹が好きそうなイケメンだったので適当に返事をして家に戻り、妹にそのこと話したら彼女は二つ返事で了承する。

 

「お兄ちゃんが勧めた人なら大丈夫だよ」

 

 純粋な信頼の言葉。少しの後悔はあったが、兄は二人の交際を応援した。一年ほどして二人は結婚し、アパートに移り住んだらしい。妹が出て行ってから住み慣れた狭い家が、妙に広く感じた。

 

 やっと手に入れた自由は、どこまでも空虚だ。

 

 書店に並ぶ求人雑誌。どれも手に取る気になれない。唯一妹に勝てた料理。作る気力が湧かない。小学校で書いた将来の夢の作文。内容も思い出せず探そうとも思えなかった。

 

 狭いはずなのに広い部屋。嫌な静けさの中、一人ただ立ち竦んだ。

 

「あれ、俺……何になりたかったんだっけ?」

 

 何も思い出せない。まるで空っぽ。脳髄が肥大し、頭に巣ができそうだ。寄生虫が中に巣食っているのではないかと、むず痒さで額を掻きむしった。たとえ爪が額をそぎ落とし、頭蓋骨に穴を開けたとしても伽藍堂な中には誰もいない。あるのは未だに兄の仮面を捨てることのできない自分。兄はああ、そうかと指を止めた。彼はようやく気付いたのだ。いつしかあの仮面が自分にとって変わっていたことに。

 

 彼は兄であり、結局は、兄でしかなかったのだ。

 

 妹はもういない。彼が追い出してしまった。兄であることを自らやめてしまったのは他でもない自分自身。何者でもない彼はもう、何者にもなれない。

 

「――――!!!」

 

 誰もいない部屋で彼は絶叫した。

 

 叫んで、叫び続け、やがて枯れ果てるまで叫んで、死んだように眠った。

 

 それからのことはよく覚えていない。仕事にも行かず、部屋の中で読み終わった本の山を築いていた。趣味があったことは救いだ。

 

 ある時、携帯が鳴る音で目が覚めた。最近は職場からの電話もなくなった。連絡をくれるような友人もいない。その携帯の画面に妹の名前が浮かばなければ手に取りもしなかっただろう。

 妹のメールだった。文面はとても短い。だからその言葉がとても強いメッセージに思えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

『助けて、お兄ちゃん』

 

 

 

 

 

 

 

 

 気づけば妹のアパートにいた。ドアの鍵は開いていて、開くと女に馬乗りになる男の姿があった。女は体にはいくつか痣があり、状況から彼女が被害者であることは明らかである。

 始め、彼はその女が妹には見えなかった。彼にとって妹は天真爛漫で、我儘で、無神経で、唯一無二の天才だったからだ。それが今では見る影もない惨めな有様。何故だかはすぐ分かった。

 

『お兄ちゃんが勧めた人なら大丈夫だよ』

 

 痣は今日昨日のものではない。我儘で、思い通りにならないとすぐ泣き出したあの子が、暴力に耐え忍んできたのだ。痛かっただろう。怖かっただろう。それでも自分を突き放そうとした兄を妹は信じたのだ。彼女として、妻として男を支えようと今日まで耐えたのだ。

 

 体は自然と動き出していた。喧嘩なんてしたことはないし、運動ができるわけでもない。だが体を巡る感情だけが力となって、その卑劣漢の顔を壁まで殴り飛ばした。

 

 きっと自分は何者でもなく、何者にもなれないかもしれない。だがそれでも、妹のために怒れる兄ではあれたことが誇りであった。瞬間から、兄には残りの生涯を妹に捧げる覚悟が生まれる。それが存在意義であり、それが活力。結局、彼が最も嫌悪した生き方でしか生きられないらしい。

 

 その後、男は逮捕されたが、それで妹の心の傷が癒えるわけでもない。実家の家と土地を売り払い、兄妹は遠い田舎へと移り住んだ。始めは男の悪夢にうなされていた妹も、清涼な空気と暖かな人の営みに癒され、少しずつ回復していった。以前にも増して兄に依存しているようにも感じたが、やがていい人にも巡り会えて彼女は再婚する。何にもなれる妹は、ただの一般人主婦になった。

 式場で幸せそうに寄り添う妹夫婦を見て、兄の心配は消えた。同時に、妙な達成感に満たされ浮き足立つ。虚無感とは違った清々しさというか、安堵のようなものに近い。結婚式の帰り道、すっかり気が抜けてしまった兄は背後から忍び寄る気配に気づくことができなかった。頭に走る鈍い衝撃で地面に倒れ込み、薄れ行く意識の中で目が捉えたのは、出所したあの男の姿だった。

 

『お前のせいだ!お前さえいなければっ!!』

 

 再び目覚めたのは自宅の浴槽の中。怨嗟の言葉を吐き連ねる男が兄の肩を掴んで水へと沈める。抵抗はしなかった。ここで自分が死ねばこの男に重い罰が下されると言う思惑がなかったわけでもない。だが、妹のことを思うならば抗うべきだ。でもそれ以上に、

 

(もう、いいよね……)

 

 彼はもうやり終えてしまった。本当に、疲れてしまったのだ。

 

(最後まで馬鹿な兄でごめんな…)

 

 こうして兄の人生は幕を閉じた。

 

 ――そして、また生き返ってしまった。

 

 兄ではない、別の人間としての生。何者でもないまま、彼は知らない世界に放り込まれた。

 

 何度か目の路地裏の夜。小さな孤児たちを抱きしめながら彼は夜を過ごす。子供の扱いには慣れていたし、孤児たちは彼を慕っていた。市内を行き交う人々の言葉や市場の文字を自分なりに理解し、それを彼が孤児たちに教えたのが理由だったのかもしれない。彼にしてみればそれは善意ではなく、自分の思いのままに操れる肉布団が欲しかっただけであるが。

 

 彼は多くの孤児から好かれていたが、彼は全てが嫌いだった。ローマその物を嫌っていたと言ってもいい。電子機器もなければ、公共施設は原始的。彼基準で見ればあまりにも文明レベルが低すぎる。市民は彼の常識を外れた変人ばかり。好きになれる要素など欠片もない……とも言えない。ローマには浴場施設があった。彼は孤児であったため施設は利用できなかったが、その場所があるだけで安堵を感じられる。

 

『風呂入りてえなぁ…』

 

 日本語で何度その言葉を言っただろうか。

 

(ああ、そういえば……)

 

 ふと、今と似たようなシチュエーションの漫画を思い出した。どちらかと言えば状況は真逆ではあったが、キーワードは揃っている。

 とある浴場技師が、現代日本へとタイムスリップする話。本当にそんなことができるなら、それはとても羨ましい話。彼は空虚ではあったが、故郷への愛情は心の奥底にあったのだろう。同時に、彼は生きるために空っぽな自分の中にあったただ一つに縋る他なかった。

 

 

 

(――そうか。ならルシウスになればいい)

 

 

 なんて馬鹿げた考え。そして、そんな馬鹿げたことを今までやり通した男がいた。ただ日本に帰れるという希望を胸に、彼はルシウスという人物を演じ続ける。どこかでそんな都合のいい世界などないとわかってはいた。それでも空虚な今までよりはマシな生き方だったのかもしれない。

 

 そして、30年という月日を経て、彼は馬鹿げた理想へと近づいていた。物語通りルシウスが成し遂げた偉業もあれば、まったく関係のない偉業を積み重ねてもいた。誰もがルシウスを褒め称える。その光景はどこか、彼が兄として持て囃されていた頃を彷彿とさせた。ルシウスを愛する彼らは、きっと空虚な自分を愛さないだろう。だが、そんな空虚な男を愛してくれた女が一人いたのだ。

 

 美しくも、危険な毒の花の名を持った少女。自分と同じで役割に縛られた空虚な人だった。

 

「私たちは空虚で面白みのない人間かもしれないけれど、そんな私達が互いに自分を育んでいく……それって、とても素敵なことではないでしょうか」

 

 毒の花の色を深くした紫の瞳。涙で濡らして微笑んだ顔を今でも覚えている。

 その約束が彼の個性を育ててくれた。まあ、育ちすぎてかなり破天荒な性格になってしまった気もする。だが、それはきっかけであり、結果を導いた人物は他にいる。互いを育もうと言った少女はいつしか隣にはいなかった。

 

 彼は初めて生まれた自我と、道しるべにしてきた理想の間で揺れ動いた。どちらも彼にとっては救いであり、自分では捨てることのできないもの。

 

 笑顔の裏で悩み、苦しみ、それでも足掻く。そんな彼の前に現れた少女は、

 

 

『かの名高いルシウス技師であるな?余は次期インペラートルカエサル!ネロ・クラウディウスである!さあさあ、面を上げてくれ!』

 

 

 どこか妹に似ていた。とても美しく、どこまでも純粋で、どこまでも我儘で、たくさんの才能に溢れていた。

 

 彼はネロを毛嫌いした。過去の亡霊への恐れ。才能への嫉妬。自分にはない純粋さがただ恨めしい。ネロの前では彼は在りし日の兄の心であった。遠ざけるためにぞんざいな扱いをしても、彼女は彼の背を追ってくる。その姿がより妹に見えて辛かった。

 

 

 

『ルシウスよ!余は、余は必ず良き国を作るぞ!』

 

 

 

 初めてネロをあの路地裏に連れて行った時、彼女は自分とは真逆なんだと思った。彼が嫌い、逃げ出そうとしてきた世界を、ネロは心の底から愛している。そんな彼女が作る世界なら、見てみたいような気がした。そんな願いを込めて彼はあの言葉を紡いだ。それはきっと、彼が初めて抱いた憧憬からの言葉だったのかもしれない。

 

 彼は自称皇帝少女を肯定した。それは皇帝ではないありのままのネロへの憧憬。

 

 ネロはルシウスを肯定した。それは彼が被る仮面も、悪辣な性格も、取るに足らぬと卑下した彼を含めての恋。

 

 お互いにきっかけは最低な悪感情で、とんでもない勘違いの上での関係だったけれど、それでもそれは偽りの関係ではない。

 

 

 

『さあ、余の隣へ立て!ルシウス!』

 

 

 

 壇上に立った皇帝に手を引かれる彼。ハドリアヌス帝ではない、ネロ帝の治政が始まる。あの日の理想は砕けたが、それでも確固たる自己が彼にはあったのだ。そこには被っていた仮面と悪辣で愚鈍で破天荒な性格が合わさった自分がそこにいる。物語の道筋を逸れた話を彼はネロと綴り続けた。例え贋作の積み重ねだろうと、ローマ市民たちは彼の作る道具、物語、発明を愛した。それはルシウスではない彼だけの作品。休むことなく、時には死ぬほど疲れもしたが、その日々は楽しかった。たしかに自分の人生を生きていた。ローマ市民であったことは、今では誇りだ。そう思わせたのはネロである。

 

「余にとってお前は……何なのだ…?」

 

 ああ、決まっているさ。インペリウムの誉れよ。

 私はその濡れた頬を拭う。

 

 私にとって……。いや、俺にとって貴女はどうしようもなく手の掛かる子供で。

 

 休暇をくれないブラックな職場の上司で。

 

 歌って踊れるアイドルで。

 

 いつも側にいてくれた友人で。

 

 居場所を与えてくれた恩人で。

 

 誰よりも世界を愛しているインペラートルカエサル。

 

 俺の心はすでに妻に明け渡してしまった。だからこんな言葉は不敬かもしれない。何事にも一番になりたがる貴女は嫌うかもしれない。でも、それでもそれを許してくれるなら言おう。

 

 

 

 

「この世でただ二人……私が愛したお人よ」

 

 

 

 

 好きじゃなきゃこんなブラック企業即辞めてますわ。




次回こそエミヤ一同が地獄を見る(真顔)

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