ネロ帝が女のわけないだろ!いい加減にしてくださいお願いしますから!!   作:オールドファッション

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夏休み最終日に宿題が終わるわけないだろ!絵日記は金曜ロードショーで観たジブリかルパンでほぼ埋められる!!

「もう夕暮れか」

 

 仕事が一息ついた時、男はふと思い返す。

 

 今は立場も地位もある。金もある。愛する女と仲間たち、そして仕える主がいる。ないものと言えば休日くらいか。

 

「ははっ」

 

 泥だらけの手を夕日の空にかざす。無数の傷、潰れたタコ。シワも年相応に増えてきた。見よう見まねで始めたが、ずいぶんと職人らしい武骨な手になったものだ。

 

 いつか帰りたい。そう夢見るにはあまりにも時が経ち、自分も老いてしまった。この地に骨をうずめる覚悟はとうに出来ている。

 

 だが、それでも――。

 

 記憶の中で今も鮮明に残る前世の光景。夕焼けを眺めながら、牧歌的な風景に二つの影を残す兄妹。妹の歌う赤とんぼの歌がひどく懐かしく、哀愁を漂わせた。

 

 あの場所に戻れたなら、自分はどうなっていたのだろうか。

 

 男はありもしない、もしもの未来を時折夢想してしまう。ただのふとした思い付きだ。深く考え込むわけでもなく、家路につく頃には忘れてしまうような一瞬の考えだった。だが、珍しくその日は何度もその考えを反芻していた。

 

 母の温かな眼差し。歩き疲れた妹を負ぶった時の感触。炊き立ての米と湯気の立つ味噌汁の香り。田舎の清涼な空気。

 

 そんな昔の記憶が何度も思い浮かぶ。まるで今ある記憶に上書きされるような感覚。急激な記憶の齟齬に脳が混乱した。酷い二日酔いのような気持ち悪さに足取りすらも覚束なくなる。早くベッドで横になりたいという欲求に駆られたが、一人では真っ直ぐに歩けない有様だった。

 

 

『こっちだよ』

  

 突然、誰かに手を引かれた。その声と手の大きさから察するに相手は小さな少年のようだ。誰だか知らないが、男はその親切な少年に感謝しながら、導かれるままに歩いていく。

 

『――!』

 

 すると今度は後ろから声が聞こえる。何やら複数の大声が聞こえた。男はその声に耳を傾けてみたが、

 

『侵食固有結界『水晶渓谷』発動!ルシウスを返せええええええ!!』

 

『落ち着けアルティメットワン!空想具現化(マーブルファンタズム)!!』

 

『皆の者!今こそローマがルシウスのために立ち上がるときである!このネロ・クラウディウスに続けぇ!!』

 

『早く戻るぜよ!あん世界へ!!』

 

 ……。

 

 男は全力で聞かなかったことにした。

 

 やがて後ろから声が聞こえないところまで歩くとベッドに寝かされた。少年の手が男の頬をなでる。不思議なことに、その手の感触が段々と女性的な柔らかなものへと変化していった。男は驚きよりも、なぜか懐かしさが込み上げてきた。

 

「っ!?」

 

 男は思わずその手を掴んだ。覚えのある手だった。小さいころから何度もこの手を引いて歩いた記憶がある。

 手を通じて、相手の動揺や感情が伝わってくる。その感情は紛れもなく喜びや愛情というものだ。

 

 

「お…に…ちゃん」

 

 その震える声に男は目を見開いた。

 

 真っ先に目に映ったものは見知らぬ天井。だがそれは本来ありえない。ローマ全ての建造物を手掛けてきた男に見知らぬ天井などあるはずがない。あるとすればそれは別の誰かが作ったものか、あるいはあの時代では作りようもなかった遠い未来の技術でつくられたもの。

 

「――お兄ちゃん!」

 

「ぐはっ!?」

 

 不意に誰かが男に圧し掛かった。いや、本当は分かっていた。あの手の感触、そして自分をお兄ちゃんと呼ぶ人物は一人しかいない。

 

「私は…いや、"俺"は……ってイタタタタ!?あばらが、あばらが折れるぅ!?」

 

 ナースコールに驚いて病室に入ってきた白衣の人物たちが彼女を。いや――妹を制止するまで俺は病み上がりの体を締め付けられた。

 

 それはまるで、長い夢から叩き起こされたような感覚だった。

 

 

 

 

 

 

 どうやら俺は5年間昏睡状態だったらしい。幸い脳に後遺症はなく、寝たきりだったので身体機能がだいぶ落ちていたが、他に問題もないので簡単な検査を済ませて退院する運びとなった。

 

 以前住んでいたアパートは例の事件もあってか潰れてしまい、俺は妹の自宅に当分居候することになった。

 

「え、解雇になってないんですか?」

 

『有用な人材を簡単に手放すかよ。まあ、あと1年寝たきりだったら怪しかったけどな』

 

 職場の先輩に連絡してみたら、どうやらまだ休職扱いなっているらしい。建築関係の小さな企業だったが、義理と人情に厚い人ばかりだったことを思い出した。

 

「わかりました!明日から"また"年中無休で働きますね!」

 

『……うちはいつからそんなブラック企業になったんだ?』

 

 上司から様子をみてもう1か月休めと釘を刺された。たしかに、人を年中無休で働かせるブラックな職場がどこにあるというのか。

 

 

 ――よ、よしこの仕事が終われば明日から休みが……。

 

 ――○○○○よ!追加のテルマエ建設と劇の打ち合わせとライブ会場の下見と新作料理の発明と……まあ色々あるから頼んだぞ!

 

 ――労働基準法を設けるべきか。

 

 

 さっきも大河ドラマで信長が映った際に『信長って女じゃなかったか?』と妹に聞いたら、何を言っているんだこいつは?的な憐れみの視線を向けられた。

 

 

 ――余だよ!

 

 ――わしじゃ!

 

 ――お虎ちゃんです!

 

 

 昏睡中に見ていた夢の影響か、記憶の齟齬がときおり激しく現れる。だが、肝心な夢の内容はよく思い出せない。なにか大切なものが無くなって、ぽっかりと穴が開いたような感覚だ。

 

「伯父さんあそんでー」

 

「だっこしてー」

 

 仕事もなく、特にすることもなかった俺は子守を任されている。妹は二児の母となっていた。妹の夫はなにやら海外出張中らしく、父性に飢えた子どもたちはやたらと俺に懐いてくる。

 

「……いまや俺が伯父さんか」

 

 時間の流れとは残酷だ。まさか寝ている間に平成が終わり、新しい年号に変わっていたとは。だが同時に、こうして妹の子供を抱いていると感慨深くもある。

 

「ほらご飯できたわよー。今日はお兄ちゃんの大好物の八宝菜!」

 

「ヒエッ」

 

 妹も母親になって成長したようだ。昔から料理だけは苦手で、妹が作る八宝菜はもはや破崩砕(ハッポウサイ)という劇物だったが……。

 

「う、うまい…!」

 

「も~!何言ってるの!お兄ちゃんいつも私の料理美味しそうに食べてくれてたじゃない!」

 

 妹よ、俺は一度も美味しいなんて言ったことはなかったぞ。

 

 

 ――オソマ汁できたわよ。

 

 ――ヒンナヒンナ!

 

 

「……どうしたの?」

 

「ん?……いや、なんでもない」

 

 味噌汁を一口飲んで一瞬固まっていた俺を、妹は心配そうに見つめていた。一瞬だが、妹の顔がひどく無表情だった気がした。気まずい沈黙を破るように、妹は手を鳴らす。

 

「そうだ!昨日金曜ロードショーでルパンの映画やってたから録画しておいたよ!」

 

「ああ、ありがとう……ふ、複製人間じゃないかこれは!」

 

 小さい頃はこの映画を録画しておいても妹に『マモーの顔が気持ち悪いからトトロ上から録画しちゃった♡』ということがよくあった。PTAの苦情並に理不尽な理由である。特に不二子ちゃんのえっちなシーンとかが重点的に消されていたような気がしたが『不二子ちゃんのえっちなシーンあったもん!』と言っても『お兄ちゃんのバカ!もう知らない!』としらを切られるばかり。まあ、今の時代にあの映画を地上波で放送したらそのシーンは大幅カットになっているだろうことは平成生まれの俺には知りようがない。

 

 

 ――やはり男は体の色気でその気にさせるのが手っ取り早いだろう。

 

 ――それでは非効率でしょう。このベラドンナから精製した媚薬を使うのが一番です。別に私が体に自信がないとかそういうわけではなく……。

 

 

「そういえば俺の漫画こっちに持ってきたんだな」

 

 よく見ればこの部屋の本棚には、実家に置いてきたはずの漫画や小説などが敷き詰められている。妹ラブコメ物がやたらとピックアップされていたような気がするが、俺は本棚にぽっかりと空いた隙間が気になっていた。

 

「ここの間に漫画なかったっけ?」

 

「んー、どうだろ?お兄ちゃんの漫画は全部持ってきたと思うけどなぁ」

 

「そっか…」

 

 確かに、ここにあったような気がした。俺にとって、何か…大事な物だった気がする。

 

 料理上手な妹とやさしい家族。仕事に追われることもなく、ただ優しい時間だけが過ぎていく。俺が望んでいた未来。そのはずなのに…。

 

 

 ――○○○○殿!どうかイエス様の教えを!

 

 ――おのれ○○○○!

 

 

 ……お前らは別に大事な記憶でもないなぁ。

 

「お兄ちゃーん。お客さんだよ」

 

「俺に?」

 

 インターフォンが鳴り、妹が応対に出ると何やらにやにやとした表情で俺を呼ぶ。田舎に移り住んでからというもの、妹の世話と仕事に追われてそれほど友人関係は広くないはずだ。同僚かと思ったが、そうではないらしい。

 

 俺は妹に背を押されながら玄関を開ける。開けた瞬間、俺は来訪者に抱き付かれた。

 

「良かった…意識が戻ったんですね」

 

 目に映ったものは――まさに女神の如き女性だった。

 

 夜空に架かった天の川のように輝く美しい髪。

 

 柔らかで健康的な肌色。

 

 控えめだが、女性らしい肉体。

 

 慈愛に満ちたその微笑み。

 

 まるでローマ神話に登場する月の女神ディアナそのもの。そんな女性が、まるで俺に対し好意を隠す事無く抱きしめて、俺の無事を想い涙を流している。

 

 おかしい。彼女とは面識はないはずだ。あったとしても、俺はそのことを覚えていない。しかし、それでもおれは彼女の名前を知っている。俺がずっと待ち望んでいた存在であったからだ。

 

「小達…さつき?」

 

 名前を呼ばれたさつきは困ったように笑った。

 

「もう、なんでフルネームで呼ぶんですか。いつもみたいにさつきって呼んでくださいよ」

 

「は?……え、どういうことだ?」

 

「もー、お兄ちゃんさつきさんのこと忘れちゃったの?」

 

 困惑する俺に妹が耳打ちをした。

 

 どうやらさつきさんは前に住んでいたアパートの隣人だったらしい。田舎に引っ越してきたばっかりの頃、俺たちは彼女にだいぶ世話になっていたようだ。そして、俺とさつきさんは自然と深い仲になり……。

 

「こ、婚約者!?」

 

「何驚いてるの?そりゃ男として責任を取らなきゃダメでしょう」

 

「ま、待て!責任って何のことだ!」

 

 もう一人の俺よ、お前は何をしたというんだ?さてはえっち事をしたんだろう?怒らないから俺に言ってみな。Aか?Bか?……ま、まさかCまで行ってないよな?ふざけんなよ!記憶もないのに美味しいところだけ持って行って、責任だけ押し付けんなよ!!いい年しても心は少年ジャンプ掲載中なんだよ!!!

 

 しかし俺の混乱などつゆ知らず、妹はワンピの連載打ち切り以上の新事実を打ち明けた。

 

「だって、お兄ちゃんが昏睡状態になってすぐにさつきさんは……」

 

「さつきに何があったの!教えてよ(メイ)ぉお!!」

 

 すると妹はさつきさんのお腹を指差し、さつきさんは何やら恥ずかしそうに赤面する。

 

 

 

 

 

 

 

 

「じ、実は私……妊娠していたの」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 CどころかK点から大気圏までウルトラジャンプしてたあああああああああああ!!!

 

 

 ――”俺”は、お前がいれば一生童貞でもいいや。

 

 

 妹から驚愕の新事実を打ち明けられても、俺はなぜか自分が童貞であることを疑わなかった。確固たる自信を持って俺は童貞であると断言できる。めっちゃ童貞だったはずだよ!俺は!!

 

 やはりこの世界は何かがおかしい……と、地面に伏しながら思った。

 

 発狂した俺は思わず外に飛び出て走り出したが、病み上がりの体に真夏の太陽は堪えたらしい。都会に比べればそこまで熱くはないが、田舎で涼が得られる場所は少ない。

 

 幸い近くに公民館があったのでしばらく休ませてもらった。公民館とは集会所兼、教育施設みたいなものだ。祭りの寄合や小学校の行事でよく利用されている。そういえば、小さいが体育館や図書室も併設されていたな。

 

「やはり無いか…」

 

 図書室で漫画を漁ってみたが、探していた物は見つからなかった。そもそもの蔵書数が少ないうえ、古い漫画が中心だ。しかも漫画の大半が横山光輝と手塚治虫が占めている。さきほども小学生とすれ違ったが「いやぁ乱世乱世!」「アブトル・ダムラル・オムニス・ノムニス・ベル・エス・ホリマク!」と会話内容が昭和時代まで退行していた。

 

「アレクサンドロス大王…アーサー王…?」

 

 手慰みに横山三国志を読破していたら、いつの間にか西洋の歴史書に行き着いたようだ。別に興味はなかったが、タイトルを一瞥して何となく気になった本を手に取ってみる。

 

「ローマ皇帝…ネロ・クラウディウス」

 

 ローマ史に暴君としてその悪名を轟かせた皇帝。有名な人物だが、彼について詳しく知っていることはなにもない。本は辞書のような厚みだったが、珍しく俺は覚悟を決めてその本に没頭した。

 

 毒婦アグリッピナの傀儡だった幼少期。

 

 義理の妹オクタヴィアとの婚姻。

 

 義父の死後、皇帝へと即位。

 

 家庭教師のセネカとの出会いと五年の良き時代。

 

 義弟ブリタニクスの毒殺。

 

 アグリッピナの殺害。

 

 女王ブーディカ率いるイケニ族の蜂起と制圧。

 

 オクタヴィアの自殺。

 

 ローマ大火。

 

 芸術と放蕩の日々。

 

 キリスト教徒迫害と使徒の磔刑。

 

 そして……。

 

 

 

 

「お兄ちゃん…何しているの?」

 

 

 

 

 背後から本を取りあげられた。妹はひどく感情のない瞳で俺を見下ろしている。気付けば窓から茜色の夕日が差し込んでいた。

 

「どこか痛いの?」

 

「え?」

 

 頬が濡れている。持っていたハンカチで拭っても、それでも涙が溢れて出た。

 

「分からない…ただ」

 

 俺はただ、この人達の最後があまりにも悲しいと思ったんだ。

 

 

 ――早く戻るぜよ!あん世界へ!

 

 

 俺はどうしたらいいのか分からなくなった。自分の知らない間にできた子供に会う覚悟なんてあるはずもなく、俺は記憶喪失を言い訳に妹宅に留まり続けている。ひたすら都合のいい、甘い現実がずっと続いていくだけの日々。それをずっと望んでいたような気もするから、余計混乱した。

 

「あー、ひまだぁ」

 

 最近は公園のベンチに腰を掛けて一日が過ぎるのを待っている。そんなことをしている間に一か月が過ぎていた。

 

 そろそろ仕事に復帰しなければならない。いい加減、自分の子供に会って、さつきさんのご両親にも挨拶しなければならないだろう。まるで宿題を終えずに夏休みが一瞬で終わってしまったような感覚だ。

 現実と向き合う時がきただけの話だが……ここが現実なのかいまだに実感が持てない。ただの現実逃避なのか、あるいは……。

 

「ちょっと隣いいですか?」

 

「え、ああ…どうぞ」

 

 急に通りすがりの男がおれの隣に腰かけた。気のせいか、俳優の田中○次に似ているような気がする。男は俺が俳優の木村拓○に似ているとか言ってきたが、まったくそのようなことはない。

 

 しかしこの炎天下の中、ベンチにむさ苦しい男二人が同席するのは絵面だけむさ苦しい。近くにキンキンに冷えたジュースでもあればいいのだが、悲しい事に近くに自販機はない。

 

「あるよ」

 

 俺の表情から喉の渇きを察したのか、男はどこからかキンキン冷えたジュース取り出し差し出してきた。なぜ持っているのだろう。

 

「実は悩みがありまして、聞いてもらえますか?」

 

「は、はぁ…?」

 

 男はなぜか唐突に悩みを打ち明けだした。自分の経営している居酒屋に酒を全く注文しないで、普通は置いていないような物を頼むひねくれた客がいて困っているそうだ。おかげで酒以外の物が充実していると評判の居酒屋になっているらしい。店主としては嬉しいやら悲しいやらで複雑な心境のようだ。

 

 俺はなんてひねくれた客だと驚いたが、どこか身に覚えがあるような気がして逆に申し訳ない気持ちになった。

 

「ふっ」

 

 そんな俺の様子を見て、男はどこか満足そうな表情をして立ち去って行った。

 

「たまには酒も飲みに来てくださいよ――○○○○さん」

 

「え、ちょ……ちょ、待てよ!」

 

 最後の言葉だけがなぜか聞き取れなかったが、その言葉がひどく俺を動揺させる。俺は男を追いかけようとしたが、男の姿はどこにもなかった。

 暑さのあまり幻覚を見たのかと思ったが、キンキンに冷えたジュースが男の存在を裏付けている。

 

「隣いいですかな?」

 

 すると今度は老齢の男性が隣に腰かけた。流暢な日本語だが、老人の顔つきと目の色から外人であることは容易に察せられた。

 老人はなぜか俺がジョジョ五部のアバッキオに似ていると言い出したが、そんなことはない。典型的なアジア人顔である。

 

「実は悩みがありまして、聞いてもらえますか?」

 

「…またですか」

 

「はい?」

 

「い、いえ…なんでもないです」

 

 老人の悩みというのは、別れた奥さんの話であった。自慢の奥さんであったが、別れてすぐに別の男にゾッコンになって胡散臭いアイドル活動と女子バスケに夢中になっているらしい。いい歳してフリフリの衣装に身を包み、謎の言語を話す設定のパッション系アイドルというのだから手におえない。

 

 そんな無駄に重い話をされても困ると言いたいところだが、不思議とこれまた身に覚えのあるような気がしてすごく申し訳ない気持ちになった。

 

「それでもワシは彼に感謝している。あんな風に笑う妻をワシは見たことが無かった……あの日見た黄金の意志は、やはり間違いではなかったんだ」

 

 話し終えた老人はどこか満足げな表情をしている。不思議と、俺はその顔に見覚えがあるような気がした。日本ではない……どこか外国の土地で魚面の教団と対峙した際に俺はこの老人と会ったような記憶がある。海外旅行など一度もしたことがないはずの俺がだ。

 

「彼は立派にやったんだ。ワシが誇りに思うくらい、立派にね」

 

「爺さん……あんたは」

 

 その先の言葉を遮るように、公園の近くに停車したバスがクラクションを鳴らす。炎天下だった真夏の空が、陰鬱なもののように感じた。まるで今にも落ちてきそうな空だ。

 

「ワシはまた、終点に戻らなくてはならない。だから、君の疑問は次に来る男に託すといい。あの男ならきっと君の望む答えに導いてくれるはずだ」

 

 俺が止める間もなく老人はバスに吸い込まれていく。なぜかもう二度と、老人とは会えない気がした。

 

「そしてもし、ワシに負い目を感じているなら気にしなくていい。だからどうか、ワシの分まで彼女を愛して欲しい」

 

 老人が去り際に放った言葉に対し、俺がとっていたのは「敬礼」の姿であった。涙は流さなかったが、無言の男の詩があった。

 

 少しして、老人の言った通り男が現れた。恰幅の良い中年のおじさんで、正面から見ると全体的に丸いシルエットをしているのに、横から見るとやたらと角ばった顔つきをしている。もはや同じ人間なのかと疑いたくなるくらい画風の違う姿。そしてジョジョ並にうるさい擬音も纏っていた。

 

「ちょっと隣いいかな?」

 

「…どうぞ」

 

 おじさんは当たり前のように俺の隣に腰かける。向かい側にもベンチはあるというのになぜこのベンチに人が集まるのだろう。

 

「あれ、お兄さん……俳優のあの人に似てるとか言われない?ほら、阿○寛さんとか」

 

「ないですね」

 

 さっきから人相バラバラじゃねえか。いったい周りからどんな風に見えているんだ。

 

「あの……おじさん」

 

「ん?」

 

 本当にこのおじさんに悩みを打ち明けて良いのだろうか。一見、柔和な雰囲気をしているが、人生経験からこのおじさんに蛭に似た厄介な悪意を感じる気がする。だが……。

 

「ちょっとした人生相談なんですけど、聞いてもらってもいいですか?」

 

「うーん……まあ、いいよ。まだ時間はあるし、おじさんもこう見えて結構人生経験豊富だからね」

 

 俺は先ほどの老人の言葉を信じて自分の中で燻っているものを吐き出す決心をした。

 

 ずっと、ある場所に戻る為に長年働いてきたこと。

 

 酷い職場環境で上司は無理難題ばかり言うブラックな会社であったこと。

 

 辛いこともあったが、いいこともあったこと。

 

 大切な仲間との出会いと責任ある立場になったこと。

 

 戻りたいと願った場所がすぐ近くにあること。

 

 どの道を選べばいいか分からなくなったこと。

 

 俺は誰にも話せずに抱え込んでいた葛藤を全て吐き出した。

 

「そうか……君も大変な苦労をしていたんだなぁ。おじさんも似たような経験しているから分かるよ」

 

 おじさんは俺が話し終えるまで黙って聞いてくれていた。おじさんも何やら似たような境遇らしく、借金返済の為にとある地下施設で過酷な労働をしているらしい。

 

「どの道に進めば良いかなんて、他人であるワシから言えん。そもそも人生の選択肢に完全な正解などない……未来は未知。未知故にどの選択にも後悔や失敗というのは可能性として必ずある……!」

 

「……」

 

「――だが、たとえ失敗してどん底に落ちたとしても人間には這い上がる力がある……!目標を失っても、多額の借金をしても、そこから這い上がっていく力が必ずある……!ワシと同じ君になら、きっと出来るはずだ……!」

 

「おじさん……!」

 

 おじさんの言葉には今までの取り繕ったような優しさや嘘は感じられなかった。真剣な言葉と熱量。その言葉にはおじさんの経験と人生によって裏付けられた確信と哲学が感じられる。

 

「それでもくじけそうになったら、その時はワシがキンキンに冷えたビールでも差し入れにいくさ……135mlだけどね……!」

 

「おじさん……」

 

 優しいのかケチなのか分からん親切心だ。

 

『ピピー!ピピー!』

 

「おっと、そろそろ時間だ。ワシはそろそろお暇させてもらうよ」

 

 時計のアラームがなると同時に黒ずくめの男たちが現れ、まるでおじさんを連行するよう指示を出す。おじさんは慣れた様子で男たちについて行った。

 

「ま、まって!おじさんの名前は……!」

 

「ワシかい?ワシの名前は――」

 

 彼の名前は大槻太郎。またの名を班長大槻。

 本作4話のエピソード投票において1800票越えを記録した平たくて丸い顔の男である。




 まさかの3年ぶりの誰得な複線回収。本編はあと2、3話で完結予定です。

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