太平洋の翼   作:島田イスケ

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彼女とは、その夜、ホテルのリゾートバーで再び会った。

 

ライトアップされたプール。熱帯の木々に囲まれたテラス。草葺(くさぶ)き屋根の四角いカフェ。流れる民俗音楽は、もちろん楽団の生演奏。

 

無論おれ達がこんなホテルに宿泊できるわけがない。ふだん寝泊りしているのは、この国の観光局が用意した市内のボロい安ホテルだ。この楽園にそんなものが存在するなど誰も信じないかもしれんが、ある。

 

キノが目を輝かせて言う。「いいねえ。次は、仕事じゃなくて、やっぱ恋人と来たいよねえ。ああ、それも、プールスイート! 新婚旅行! なんでカメラなんか担いで――」

 

「何を言ってる。こんな仕事しないでだな、前の会社でいい男つかまえて、結婚しちまやよかったじゃないか」

 

「ホントにねえ! なんの因果で僚ちゃんなんかと組むことになったのかしらねえ」

 

彼女――ディナ・バリスがおもしろくもなさそうに、手の中でトロピカル・カクテルのグラスを転がしている。ディナ・バリス。そうだ、そういう名前だった。

 

おれは言った。「それで、博物館の先生でいらっしゃるんですか」

 

「いいえ、わたしはただの職員です。日本語のできる人間がわたしひとりしかいないもので」

 

「〈博物館〉って、あの白くて、砦みたいな感じの建物ですよね?」キノが言った。「ここへ来た初日に撮影に行きましたよ。外側だけで、中は見ませんでしたけど」

 

「そうですか」

 

「光がとても良かったから、きっと良く写ってますよ」

 

「それはありがとうございます」どうも乗ってこないようだ。

 

「ほら、ここは、なにせ陽射しが強いでしょう? それだけ影も強く出る。ちょっと難しいですけどね。でも、そこをうまく使って――」

 

「わたしには、写真のことはわかりません」

 

「あ――そうですか」

 

キノ退場。「それでもおれ達に、写真を撮ってほしいものがあるんでしょう? なんでも、一度もカメラに撮られたことがないものがあるって聞いたけど。海の中に怪獣でもいるんですか?」

 

どうもおれは、酒に弱い。すぐフラフラになってしまう。自分でもつまらないことを言ったと思った。しかし、

 

「そうですね。そのようなものと言っていいかもしれません」

 

「は?」なんだそりゃ。「ええと、それはどういう――」

 

ことか、と聞く間もくれずに彼女は続ける。

 

「ご存知の通り、この国は、海外からおいでになる人々から得られる観光収入で成り立っています。わたしの職場も、〈国立博物館〉なんて言っていますけど、観光スポットのひとつというのが実際のところです。あちこちの島の風土品を集めて展示している、動かないガイドブックという感じ。国の者は、誰も観光客向けの展示を見に来ようとなんてしません」

 

キノが酒がまずくなった顔で、グラスの中身をストローで吸った。

 

おれも黙って、グラスの縁のフルーツをつまんだ。

 

「けれど、それはいいんです。博物館なんてどこでもそんなものだと思いますし、誰であれ多くの人に見てもらうことに価値のあるものがあるはずです。この国のことを少しでも外国の方に知ってもらえるのであれば、観光スポットとしての博物館も決して意味のないものではないはずですから」

 

「そうですよねえ、うん」キノが、ドンとカクテルグラスを置いた。「そうだそうだ」

 

おれは、そうは思わなかった。そんなのは、テレビの知的バラエティ番組と同じだ。見ている間はおもしろいし、ためになったような気がするが、次の日思い出そうとしても全然頭に入ってないのがわかる。そのときだけ、表面だけわかったような気になるだけじゃないのか。

 

そうは思ったが、しかし彼女の言うように、博物館なんてもともとそんなものに違いない。それでいて、決して意味のないものでもないのだろう。

 

彼女は言う。「そこで依頼の件なのですが、ここから船で二時間ほど行きましたところに、小さな島があるんです。住民が百人くらい、漁などして暮らしているのですが」

 

「無人島ですか?」

 

「僚ちゃん、バカ? 『百人住んでる』って言ってんじゃない」

 

「とにかく、何もない島ですので、観光事業のようなものはありません。船もほとんど通いません。そこに、古い神を(まつ)った神殿(しんでん)があります。撮影していただきたいのはそれなんですが」

 

なんだそりゃあ。「古い神殿?」

 

「はい」

 

「それだけですか」

 

「ええ、そうです」

 

「ふーん……」おれはカクテルを一口(ひとくち)飲んで、それからぷっと笑ってしまった。いかん、酔いがまわってる。彼女のマジメな顔がおかしい。

 

だからまたカクテルを飲んで、考える。今の仕事は三日後に終わる。その後で、二日やそこら滞在を伸ばしたって構わない。と言うより、悪くない。なんだかよくわからんが、そこはおもしろそうな気がする。

 

――と、おれが言うより先に、キノが、

 

「乗った」

 

「おい」

 

「いーじゃない! なんか、ちょっと、おもしろそうだよ。そこはいいなあ。見たいなあ。観光コースばっかじゃつまんないもんね、やっぱ、撮るんだってさ。マジに絶海の孤島でしょ? 住民が椰子の実ぶつけ合ったりしてんだ。で、呪われた死の神殿があるって?(誰もそんなこと言ってない)それはいいよ、絶対に!」

 

キノも相当酔っ払ってる。

 

「まあなあ」おれもまた、クックックと笑いながら、「確かに、悪くはないなあ」

 

そしてひとしきり、おれ達は、彼女を無視してやいのやいのと言い合った。どんな弁解もできない。おれ達は、強行軍で疲れてた。照りつける陽に(あぶ)られて歩かされ、夜ともなればクーラーも効かないようなボロホテル。食い物は三食全部ハンバーガー……子供の頃から嫌いだった。なんとキノもそうだと言う。だからおれ達は少しでも、リゾート気分が欲しかったのだ。

 

そんなこと、言い訳にならないのはわかってる。後でたっぷり後悔することになる。なんと言っても、今この場所を指定したのはおれなのだ。

 

だがそのときは、気分が良かった。本当に最高の気分だった。おれ達は南国の夜空の下で、リゾートバーの人工的な光に包み込まれながら、妙な音楽に浮かされて、日本では恥ずかしくて飲めないようなカクテルに頭をやられてゲラゲラ笑い合っていた。

 

「だいたいな、仕事で来てるもんの(ひが)みかもしれないけどな」おれは言った。「ビーチリゾートって言ってもさあ。南国の空間でノンビリなんて言うけれど、無理して休んでるみたいで。(ホン)()でなんにもないところでたまにはノンビリしてみたいよなあ」

 

「そうだッ、僚ちゃんが正しい!」

 

「ディナ・ナントーカさんでしたっけ? 絶海の孤島の中の大蛇に護られた悪魔の神殿かなんか知らないが、まかしときなさい。おれ達に撮れないものは何もない」

 

「キャーッ、カッコイイ!」とキノが言って、それから、「あ、お兄さん、ちょっと待ってえ。これ、お代わり」

 

「あ、おれも――ええと、ディナさんもどうですか?」

 

「もう結構です」

 

「じゃあ、ふたつ」

 

「そういうことではなくて」

 

言って、彼女は立ち上がる。このときのそのようすときたら、とにかく、芯からトサカにきていた。芸のない決まり文句と言われようとも、これ以上の表現はない。人を本気で怒らせてみればわかる。

 

「申し訳ありません。わたくし、他の人に頼むことに致しました」

 

怒りで日本語の発音に余計に苦労しているようだ。つっかえつっかえ、喉の奥から絞り出すような調子でそれだけ言い切る。それでも言い足りないらしく、彼女は続けて、

 

「黒川さん」

 

「はい」

 

「『撮れないものは何もない』、とおっしゃいましたわね」

 

なんてことを。「それが何か?」

 

「そうですよね」(あざけ)るように言った。「日蝕(にっしょく)を撮った人ですものね」

 

一気に酔いが醒めた。

 

「わたくし、あなたの御写真をいくつか拝見させていただきました。とても素晴らしいお仕事をしてらっしゃると思います。素人目(しろうとめ)にも――ええと、なんと言うんですか、光がどうとか……」

 

こうとか言ってるが、ぜんぜん褒めてる口調じゃない。

 

「それに、あの日蝕の写真も……。『日没寸前のフリーウェイの彼方におけるわずか三秒間の皆既(かいき)』」

 

なんて長ったらしい名前だろう。「あれは……」

 

「凄い迫力の写真ですよね」

 

違うんだ! おれの中で絶叫が起こる。〈あれ〉はそんなものではなかった。あれは、おれが、ファインダーの中で作り上げた虚像に過ぎない。本当は別のものを撮るはずだった。だが実際に、あの場所で、あの光景を目にすると、それは世界の終わりに思えた。だから、おれはそう撮った。写真が出来たときには震えた。意図したものが、意図した通りに、それ以上の鮮やかさでフィルムに写り込んでいた。だからおれ達は浮かれに浮かれ、おれ達に撮れないものは何もない、などと得意になったりした。しかし、違う、何かが違う。何かどころか、全然違う。振り返れば、あの光景は、別に世界の終わりとかでもなんでもなくて、ただの皆既日食だった。それ以上でも、以下でもない。それゆえに、あれは途方もなく偉大で、美しかった。おれの写真とは全然違う。いや、あれは、あれでいい。写真としては完成している。だが、違うのだ。あの写真は、あれの本当の姿ではない。おれが見たものは、まったく違う。

 

「あの写真は、そんなたいしたものではなくて……」

 

と言った。おれは愚かにも、〈あれ〉を彼女に説明しようとしていた。できるはずないし、必要もない。おれの思いは、妙な具合に変換されて口から出てくる。

 

「偶然の産物なんですよ。変に評判になったけど、実はその理由にしたって「ええ、それも聞いています」

 

と彼女は、おれの言葉を遮って言った。

 

「現地で暴走行為を起こして、警察の世話になったからでしょ? 道の真ん中に三脚立てて。ほんとに、そのまんま写ってるじゃないの」

 

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