太平洋の翼   作:島田イスケ

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「キノ、行くぞ。測ってきたあそこのヴァリューがISO(イソ)100として3だ。で、1600に上げる」

 

「せんろっぴゃく、と。そんなフィルム持ってるの?」

 

「ない。カラーでは、使ったことない」

 

「この辺で手に入るのかしら」

 

「知らん。とにかく、二段プッシュ」

 

「それを先に言え」

 

「いくつだ、5800くらい?」

 

「6400。掛け算できないの?」

 

「うるさい」

 

「こんなんじゃ、まともな写真にならないよ」

 

「わかってるよ。絞りはf5.6(ゴロク)

 

おれは広角で撮ることを考えていた。まずは、寄る。で、仰ぐ。高さが出る。深度的にキツくなる。だから絞る。それくらいは要る。

 

キノが露出計のダイヤルをクリクリ回して言った。「出たよ。15分の1」

 

「それに、まだ補正をかける。あのままじゃあ、いくらなんでも青が出る。出てもいいけど、少しフィルターで落とす。その倍数を1として」

 

「なら、8分の1秒だ」

 

「……」

 

おれとキノが黙り込むのを見計らって、彼女がオズオズと聞いてきた。「あの、何かおわかりになりましたか」

 

「うん、あの洞窟が暗いってことが」

 

君が夜に町を歩けば、家々の窓に明かりが灯っているのが見える。同じ道を昼間歩くと、同じ窓が真っ黒に見える。だがよく注意してみると、そんな窓にも中には結構電灯が光っているのがわかるだろう。太陽光に比べたら照明なんて弱いので、同じ光が昼は外から明るいようには見えないのだ。

 

ここんところは読み飛ばしてくれてもいいが、たとえば、よくある蛍光灯。30ワットの丸い輪っかが二個一組になってるやつ――あれの紐を一回引いて、輪が一個しか光らないようにしてみるとする。人間にはちょっと暗くなったようにしか感じない。だが部屋の光量は、そのときキッカリ半分に減ってる。

 

カメラというのは機械だから、それで同じに写真を撮るなら、倍の露出をかけてやらなきゃ写らなくなる。つまり輪っかがふたつのときの二倍だけ、シャッターを開ける時間を増やすのだ。

 

仮に光をさらに半分にしたとしても、人間はまたちょっとだけ暗くなったようにしか感じないだろう。だがシャッタースピードは、倍々で長く必要になる。4、8、16、32、64、128、256、512……そうやって、暗い屋内で写真を撮るには、陽光下の1024、2048、さらには4096倍か、さらにその倍かそのまた倍の露出をかけなきゃならないわけだ。

 

あの洞窟――ISO感度が100で露出指数が3と言うなら、六畳間に蛍光灯の輪っか半分といったところの明るさだろうか。〈高感度現像〉なんて威張ったところで、常用感度の頑張っても十数倍。とても追いつくわけがない。ISO7800なんていう、写真でメシを食ってるおれでも見たことのない超高感度でも、やっと8分の1秒のシャッターしか切れないのだ。それでは、遅い。遅過ぎる。まばたきだってそれより速い。

 

キノが言う。「でも、僚ちゃん。これは悪くないセンだよ」

 

「なんでだ。8800だぞ」

 

「そっちじゃなくて、シャッターだよ。8分の1か、4分の1――ちょうどこれくらいでいいよ」

 

「いいもんか。遅い。どうやって止めんだよ」

 

「止めるんじゃないよ。波の光だよ。ほら、揺れてる感じが出るよ。光の動きをブラしてやれば、模様がにじんで刷毛(はけ)で掃いたように写る」

 

「うーん」ちょっと考えて言った。「言ってることはわかるよ」

 

ディナが言う。「わたしにはわかりません」

 

説明は難しい。

 

「でも、そんなこと言ったって、まさか9800なんかで撮れないぞ」

 

「6400よ! なんで、数が増えてくのよ。でも、まあ、そこはねえ……」

 

「8分の1秒か。まいったな。シャッター稼いじゃいけないのか」

 

と言った。けれどもおれの頭に、キノがいま言った通りの()のイメージが浮かび上がった。縦位置の画面。見上げる構図。岩壁に塗り込めたようなレリーフ像。揺らめく。速いシャッターでは、止まり過ぎる。長いシャッターでは、かすれて消える。8分の1秒。8分の1秒。確かに、揺れる光の動きが写せるだろう。しかし、こいつは微妙に過ぎる。地上でだって手持ちで撮れるか撮れないかだ。

 

おれにできるか。止められるか。それも、あの水の中で。

 

考えるのに疲れて、おれは浜辺に敷いたシートに寝転んだ。背中が熱い。日傘が欲しい。

 

「ちょっとひっかかるんですけど」と、おれはディナに言った。「ああいう化石なんかがあれば、無理にでも掘り出そうとするんじゃないんですか。普通、学者なんてものは……」

 

「それは偏見ですよ。でも、確かにそういう意見はあります。博物館の先生方にも、発掘を主張する人がいます。官公庁や政治団体からの横槍もあります。その他、大学や民間企業や財団や自然保護団体や市民グループやマスコミや、国内だけでなく外国の「わ、わかりました。それくらいでいいです。大変ですね」

 

「それでは、『あれをそのままにしておくべきだ』と主張する側をひっくるめて、〈発掘反対派〉としましょうか」

 

なんか、眠くなってきた。

 

「やはり、押され気味です。推進派の方に強硬な姿勢を示す人が多いですし、ヘタに過激な環境保護団体などに出しゃばられても、まずい結果を生むだけですから。けれどもそうかと言ったところで、ただの優等生ばかりどれだけいても〈力〉にならない。反対派のほとんどはどうも頼りにならない人で……」

 

本当に眠い。心地いい。

 

「ですから」と彼女は言う。「こちらにとって唯一武器と言えるのは、この国が、そっくりひとつの観光地だということですね」

 

キノが言う。「どういうことですか?」

 

「ですから、楽園としての夢です。この国の海に浮かぶ島々の中には、こんなに凄いものが隠されているんだぞ、と言うね。掘り出して博物館に置いてしまえば、そこ以外のどこにもないことになる。それじゃ、夢がない。欲しいものが手に入ると急につまらなくなるのと同じ。ここはリゾートアイランズです。観光事業が他のすべてに優先される。結局、この島の住民の気持ちなんかお構いなし」

 

楽園の夢か。唯一の武器。それはおそらく、ずいぶんと危うい、諸刃(もろは)の剣だ。

 

彼女は言った。「だから写真が欲しい」

 

おれはまぶたを開けた。『写真』と言うと、目が冴える。

 

「夢だから、〈見る〉ことができなければなりません。どうせ、あれくらい立派な化石というのは、たとえ掘り出しても岩のレリーフとして飾るだけなんですね。ただのコレクションです。型を取って骨格を再現するとか、学術的な研究に使うわけではないんです。だったら写真でいい。充分です。それが博物館の、反対派の先生方の主張です。それにあれは、ああいう状態であそこにある」

 

「つまり」おれは体を起こした。「その代わり、完璧じゃなきゃいけないってことだ。現物を切り出してさらすのより立派なくらいの、自然にあそこにある通りの、貝殻と波の光だけを使って撮った、線の乱れも、露出の不手際も一切ない、完璧な一枚だ。それでなければ、推進派の力を抑えることはできない」

 

「そういうことです」

 

そいつは神だ、と思った。おれに神を撮ることができるか。

 

「わかった。もう一度、最初からだ」おれはお茶をカップに注いでひと口飲んだ。「キノ、さっきのセンでいこう。f5.6、8分の1だ。EVいくつだ、8? でカメラは、こいつかな」

 

オレンジ色の〈ニコノス〉を取り出す。このカメラには、本来、スローシャッターはない。レンタル機材店のオヤジの改造品だ。壊れていたのを直していたらそうなった、と言っていた。どういう直し方をすればそういうことが起こるのか、わけのわからないカメラだが、おもしろがってそれを借りるおれもおれか。こいつには光るところもないから、あそこのしきたりにも反しない。ダイヤルには数字も刻み入れてあり、ちゃんとスローのシャッターが出る。

 

おれは〈8分の1秒〉に合わせて、カラでレリーズさせてみた。遅い。長さが感じ取れる。

 

カメラの裏蓋を開け、アパチュアゲートを走るフォーカルプレーンの幕を見ながらもう一度やってみた。やらなきゃよかった。これで止められるのか。

 

考えていても仕方がない。

 

バッグをかき分け、感度400のカラーポジフィルムを取り出す。スライドとしては感度の高い方だ。

 

「こいつを1000で浴びさせる。フィルターの分、一段引いて――すると、設定はいくつだ。640かな」

 

「500だよ」とキノ。

 

「500? それって一体、なんだ? そんな数字聞いたことないぞ」

 

「だって、千の半分だから五百でしょう。どんな計算してんのよ」

 

ディナが、また異次元の会話が始まった、という顔をした。

 

だがおれだって、

 

「うう、わけわかんない。キノ、それ頼むから800にしてくれ」

 

「800? なら、二段増感。千六百の割る二で八百」

 

「そうか」おれは頷いた。実はよくわかっていない。「で、そのときのEV値は」

 

キノが露出計をいじくって言う。「5」

 

また、おれ達は黙りこくった。

 

ディナがまたオズオズと、「今度はどんな結果が出たんでしょうか」

 

キノが言う。「8引く5は3だから、つまり、2の3乗だね」

 

で、おれも言う。「今の八倍の光が要るってことさ」

 

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