後に第一次世界大戦と呼ばれた凄惨な殺戮劇は幕を閉じた。世界はようやく平和を取り戻したのである。
しかし、終戦を迎えたことにより米英仏と日本の対立は人ならざる者たちを許容するものとその存在を認めぬものたちの対立へと形を変えつつあった。
皇国は先の講和条約によって一定の権利を認めさせ、大幅な譲歩を連合国に強いさせることに成功した。しかし、人間至上主義で染められた連合国にそれは受け入れられるものではなかった。連合国は静かに戦力の回復を待ち。反撃の機会を伺っているのは疑いようのない事実であった。国力の要所を削られた皇国にとって連合の戦力回復は破滅を意味するものであった。
しかし、戦いを望む各国上層部と言えど平和を望む世論には抗えず。
第一次世界大戦後にアメリカ合衆国大統領ウォレン・ハーディングの提唱でワシントンD.C.で軍備制限と太平洋極東問題を協議するワシントン会議を開催した。
米・英・仏・伊(海軍軍縮条約のみ)・日による、太平洋における各国領土の権益を保障し、太平洋諸島の非要塞化などを取り決めた米英日仏の四カ国条約が締結され、ワシントン海軍軍縮条約が締結された。海軍軍縮については後にジュネーブやロンドンでも開催された。
また、中華民国の領土保全、門戸開放、新たな勢力範囲設定を禁止する九カ国条約が締結され、大日本皇国は山東還付条約で山東省、山東鉄道を中華民国に還付することで解決し、山東半島や漢口の駐屯兵も撤兵し、年々大日本皇国を弱体化させようとしていた。
第一次世界大戦後が終わった時、日本国内は混乱の極みにあった。
ロンドン講和会議を終えて、天命を使い果たしたのか第一三代征夷大将軍織田慶信は老衰で亡くなった。
終戦直後の征夷大将軍不在は国内の混乱をさらに深刻化させるのだった。
この事態に征夷大将軍臨時代理として国務奉行の織田三樹介が対応している。
その後、征夷大将軍選挙が開催され、新たな将軍として原敬が選出された。
平民大君、原敬の元で、日本は新たな船出となったが、その先行きは険しいものだった。
戦後の日本は不況続きで失業率は高い水準が維持している。
これに対して大樹大社やその他寺社が抱え込んでいた蓄え米を放出し餓死者だけは出ずにいた。
そこに追い打ちをかけたのが、1923年9月1日に発生した関東大震災である。
大樹大社を中心に復興支援を行っているが、もはや対症療法なのは明白である。
1925年11月8日に、征夷大将軍原敬は東京駅で暗殺される。
更に1929年の世界恐慌の影響で国内に大きな打撃を受けていたタイミングで、日本では井上蔵相の下、1930年に金本位制への復帰を宣言してしまう。世界恐慌という事象を甘くみすぎていた事が仇となり、金本位復帰後すぐに国内から正貨が大量に流出した。また、輸出で賄っていた企業は、主要輸出先であるアメリカ等が不況であった為に大打撃を受け、物が売れず、戦前でも最悪のデフレ状態となってしまう。農村では生糸の輸出が主な稼ぎだった家庭も多く、そういった家庭では娘の身売りなどが起き、政府に対する不満は高まっていった。 そんな中、1932年に金本位制をうったえていた井上前蔵相等が右翼団であった血盟団によって襲撃、殺害される血盟団事件が発生。 同年には当時の征夷大将軍であった犬養毅の自宅や警視庁、変電所、日本銀行等を海軍青年将校が計画的に襲撃、同時に犬養将軍(当時)らを殺害する五・一五事件が発生。しかしこれらの事件の実行犯は嘆願書等の事由により、軽い刑罰で済んだ。この事が後に軍部の発言力を増す要因になる。
しかし、これは次の大戦を意識した大樹にとっては好都合と言えた。皇国軍の掌握を急ぐ大樹は陸軍内の二つの派閥の調整に動く。現在陸軍は統制派が主流になりつつあるが、自身や天皇への忠誠が篤い皇道派と言う派閥は実に都合の良い存在であった。
故に大樹は皇道派将校を自分の手元に置こうとしていたのだ。
1934年(昭和10年)12月12日、士官学校事件の磯部浅一、村中孝次ら皇道派青年将校を大樹による特赦によって釈放した。さらに、1935年7月の皇道派の教育総監真崎甚三郎大将の更迭に対して、立案者の陸軍大臣林銑十郎大将に対して、岡田啓介将軍(当時)を介して強い懸念を示した。また、荒木貞夫大将と真崎甚三郎大将を大樹大社御料兵団に招致して御料兵の近代化と皇軍教育を導入した。彼らは陸軍内において別枠組織である神祇軍事参議官に就任し一定の地位を維持した。
また、1935年3月25日には関東大樹大社にて永田鉄山、東条英機、荒木貞夫、真崎甚三郎ら双方の重鎮を集めて以下のような妥協をすることになった。
陸軍そのものは統制派の永田鉄山や東条英機に任せ、皇道派は大樹預かりとして一部の識者層を御料兵団顧問官や西国鎮台顧問官として取り込み、それ以外の者たちも陸軍内では主流からは外れたものの皇道中枢へ接近することが叶い彼らの自尊心を満足させて暴発を防ぐものとする。
以後も度々陸海軍の重鎮達を集めて不定期に大樹御前会議が開催されている。
妖怪軍においてはロンドン講和会議の後で関東大樹大社にて大樹五鎮台奉行を招集し、各鎮台の戦力強化を命じた。
各鎮台の奉行が行った戦力強化策はそれぞれ独自のものであった。
北国鎮台の雪女郎はロシア帝国のレティ・ホワイトロックと共同し氷の魔力及び妖力結晶を蓄えた。
東国鎮台のたんたん坊は自身の預かる妖怪城の大改造を断行する。妖怪城そのものを天守とし、火・水・風・土の塔を建築し、さらにその強化策として人柱を設けることで城主が無敵になる機能を追加した。その過程で妖怪城は僅かだが自我にも目覚めたのであった。
関東鎮台のぐわごぜは政治家・官僚よりの妖怪であった。関東鎮台はこれと言った動きは無かったが、ぐわごぜ自体は天満宮や将門塚、浅間大社や出雲大社付きの妖精巫女たちを大樹御料兵への再編手続きや南洋妖怪との連絡などを行っている。
そして、中央鎮台の白蔵主は妖狐衆を束ねる大人物である。妖狐は安倍晴明の母、葛の葉狐や八雲紫の式である八雲藍と言い陰陽術や符術に長けた者が多く、彼らはそう言った方向で戦力強化を図った。そのため、他の術師集団から警戒されることにもなった。
西国鎮台、妖狸衆を纏め上げる隠神刑部狸の鎮台である。各鎮台の中でも近代国家との戦闘経験が豊富な鎮台である。隠神刑部狸は大樹に対する忠誠篤く、その忠誠心は他の奉行を凌駕するほどである。刑部狸は大樹の軍拡命令を最も的確に受けとったのである。刑部狸は以前より配下の軍隊化を進めており、すでに明治陸軍軍装で軍隊狸として機能していたが、軍拡命令を機に銃火器による武装化を断行し、兵器開発に乗り出した。
戦国時代より銃火器の製造を続けていた河童衆に兵器開発を打診、水虎河童や河城翁と言った河童たちは妖力や魔力を絡めた改造型の三十八式歩兵銃など武器を開発した。5鎮台の中で近代化に成功した西国鎮台は大樹の計らいで陸軍皇道派との連携を進めることになった。西国鎮台、陸軍皇道派、大樹御料兵団は尊王尊神思想において共感するところが多く大樹の手足となってよく働いた。また、関東鎮台や航空銃翼兵も御料兵団と近しい立場にあり近代化に舵を切っていた。なお、鎮台軍、陸軍皇道派、大樹御料兵団、航空銃翼兵と言った大樹恩顧の派閥を纏めて天津神々の一柱(天照や月夜見などの最高神の信任が厚い大樹は名誉天津神でると言うこじ付け)である大樹野槌水御神に導かれた天導派とする書物も存在する。
なお、鎮台軍や御料兵団の武装の生産は幻想郷の妖怪の山の河童達が担っていた。河童たちの多くは幻想郷に移住している(派閥としては幻想郷大樹派と言える)。
1936年2月26日、ある事件が勃発する。幻想郷史における重大事件とされる大樹野槌水御神による幻想郷進駐である。