『二年春正月甲子朔、賀正の礼畢る。則ち改新の詔を宣べて日く。其の一に日く、昔在の天皇等の立てたまへる子代の民,処々の屯倉、及び別には臣・連・伴造・国造・村首の所有てる部曲の民、処々の田庄を罷めよ、仍りて食封を大夫以上に賜ふこと各差あらむ。隆りては布帛を以て官人、百姓に賜こと差有らむ。
其の二に日く、初めて京師を修め、畿内国司・郡司・関塞・斥候・防人・駅馬・伝馬を置き、及び鈴契を造り、山河を定めよ。 』
乙巳の変により蘇我本宗家を排除し、中大兄皇子・中臣鎌足(藤原鎌足)らは天皇を中心とした政治を目指し大化の改新を断行。
私は皇族や宮廷貴族の一部が国難の際に必ずお伺いを立てる天皇家の影の守護者としての地位を確固たるものとした。
それから時が経ち壬申の乱が起こる。
以前の私は皇族の血を絶やす様な騒乱でない皇族同士の争いには口出しも手出しもしなかった。しかしこの時の私は豊聡耳神子と語った仏教の有用性から大海人皇子(後の天武天皇)に味方した。天皇の権威を確固たるものにする一心で・・・。
壬申の乱のとき、挙兵して伊勢に入った大海人皇子は、迹太川のほとりで天照大御神を望拝した。天照大御神様は神々の中でも別格なのだろう、高天原にいてこの葦原中国に分霊体とは言え顕在できると言うことは・・・。
そう言ったことがあったからか。天武天皇は神道を日本古来の神の祭りを重視し、地方的な祭祀の一部を国家の祭祀に引き上げた。これは私やこの人の世で果てる覚悟を決めた一部の神々への畏敬の思いから来たものでもあった。
即位前には出家して吉野に退いた経歴を持つからか、私の仏教保護の提案は受け入れられ手厚いものがあった。
そして時はさらに流れる。天武天皇の次の次の天皇は都城を藤原京から平城京へと移す。
この時代、隋の600年頃から続く朝貢の使者は遣唐使に変わり894年の計画を最後に、遣唐大使の菅原道真の建議により休止され、907年に唐が滅び、そのまま消滅する形となった。その間に桓武天皇の勅命で平城京から藤原京へ、さらに藤原京から平安京へと都が移っている。その際に、蘇我馬子が飛鳥に建立した日本最古の本格的な仏教寺院である法興寺が元興寺と名を変え平城京内へと転移した。これは、蘇我氏への弾圧以上に仏教の保護を優先した結果と言えた。
また、遣唐使の真の目的は先の妖精の大移動によって隋もしくは唐まで到達した妖精たちの受け入れが目的とされていた。その為、遣唐使の規模は大きかった。
「女王様、我ら妖精同胞一同。東の遠国にて理想郷を起こしたと聞き、女王様の慈悲に縋りたく・・・。」
都の分社にて同胞達が頭を垂れ忠誠を誓う。
「同胞達よ。よくぞここまで来てくれました。私は貴女方を歓迎しますよ。」
「「「「女王様ぁ!!」」」」
妖精達が私に忠誠を誓ったのであった。
SIDE とある不作の村
「おーい!大樹大社の巫女様が来てくださったぞ!!」
村の青年の声に村人たちが一斉に顔を上げる。
村人たちの歓迎を受けて、童女程の見た目の巫女が村の祠で祝詞をあげてから田んぼや畑の土に手を入れる。
「終わりましたよ。」
巫女様が儀式を終えると村長が礼を言う。
「巫女様・・・、ありがとうございます。これで村は安泰ですじゃ。巫女様はこんなにお小さくいらっしゃるのに立派ですな。」
「えへへ、ありがとう!・・・ございます。」
年相応にかわいらしい姿は農村の民の心を癒していた。
もちろん、地力の回復もできている。
妖精の存在は日本の人々に受け入れられつつあった。
SIDEOUT
この国を緑豊かにするためには、この世界に残り覚悟を決めた秋比売神姉妹だけではこの国全土を包みきれない。
妖精たちはそれを補完する役割をこの国では持ち、大樹本社や分社で巫女として働き、不作地の地力回復に勤しんでおり民たちにとっても好ましい存在として扱われていた。
※『』北野天満宮蔵 日本書紀写本 第二十五巻より