菅原道真の件、昌泰の変が終わり30年程経つと関東にて平将門による大反乱が発生した。
事の発端は関東一円を支配する平氏の一族内での争いに原因があった。この背後には源護がいた。
最初に仕掛けたのは源護と平国香、将門を待ち伏せして襲撃しました。
しかし、襲撃は失敗。逆に将門が源護と平国香を追い詰めます。将門は、逆襲で国香の館まで侵入し、叔父の国香を討ち取ったのでした。
国香は、平家一門の最年長者であり、平家一族の族長でした。その人物を将門は逆襲によって滅ぼしてしまったのです。関東平氏の一族は大きく混乱するのです。
その後、郡司と受領の間で揉め事が発生し朝廷でも関東の不穏な空気を察して懸念されていた。
土着の郡司と受領の間での揉め事は、一度沈静化した関東平氏の争いも再燃したのです。
将門はこれに乗じて関東一円の敵対者を一掃、関東全土の掌握に乗り出します。
敵対者を殲滅した将門の次の標的は関東の騒乱に対し静観を決め込んでいた中立勢力である寺社衆でした。
一つは下野有数の僧兵を抱える日光山輪王寺、そしてもう一つが皇室との繋がりが深い武蔵最大の権威・・・大樹大社。
将門の恫喝に大樹大社は大きく反発、939年大樹大社は周囲の寺社に檄を飛ばしたうえに決起。
大樹大社より戦巫女衆を中心とした600の兵が挙兵。これに三峯神社、根津神社、秩父神社など多くの神社が呼応。これに刺激を受けたのか輪王寺も僧兵を集結させ始めたのでした。
大樹大社が動いたことで周辺神社から戦禰宜や戦巫女らが集結し、その兵力は1000にまで増大した。
将門からは度重なる解体命令が出されたが大樹大社を中心とした神社連合はこれを悉く無視、そして輪王寺が挙兵し日光周辺を抑え始めた。その為、当初民衆から支持を得ていた将門であったが寺社からの否定を食らって支持を失い始めたのであった。
関東では朝廷が動く前に大樹大社を中心とした寺社連合が将門軍と小競り合いを各地で繰り広げ始めていた。
朝廷はようやく将門の行動を重く受け止め、将門追討令を出した。また、大樹大社と関わりの深い諏訪大社や浅間大社は大樹大社支持を表明しており、朝廷は破格の恩賞をチラつかせ、三上山の百足を討伐した藤原秀郷や平貞盛といった有力武将たちを将門討伐へ向かわせました。
大里にて大樹大社が、今市にて輪王寺がそれぞれの兵を率いて将門の軍と対峙する。
『「将門は 卑しくも 天皇位を 望み 天照大御神様 より続く 天津神々の 血を引く 天皇家を 害そうとしたる 天津神々を 祀る 我々は これを認めなき 将門は 恐れ多くも 帝に弓ひき 世を乱そうとする 神々は これを望まなき 神々より世の安寧を 託されしもの達の末裔たる 我らは天に代はりて 将門を討つのにはべり」
大妖精は 戦列の前に立ち兵たちを鼓舞しき。 』
※『』大樹大社蔵書 大樹記承平天慶の乱編より