大樹の妖精、神となり   作:公家麻呂

39 / 227
39 鎌倉幕府の終焉 正中の変・元弘の変

 

静葉の不安はあたり、大樹野椎水御神と言う国家の支柱が倒れたことで世は乱れに乱れた。

大樹野椎水御神の加護が途絶えた関東の地は今まで抑えていた厄が一気に押し寄せた結果・・・。

鎌倉大地震が発生、2万人以上の民が死に絶えた。さらに翌月からは旱魃が発生し年々規模は拡大していった。全国各地で飢餓が発生するのであった。

 

全国的な不作に伴い民百姓含め、皆が貧困に苦しむ中で時の執権北条貞時は徳政令を発布。

それに端を発した定時邸焼き討ちで世はさらに乱れた。生活に困窮した御家人の不満を幕府は力で抑えたため表面上は幕政は安定したものの、霜月騒動や平禅門の乱など専制を強める得宗家と御家人の確執は深まり、安藤氏の乱において御内人が当事者の双方から賄賂を取り立てるなどといった事があり、幕政の腐敗、次第に幕府から人心が離れていくようになった。

朝廷の衰退は皇位継承を巡る自己解決能力をも失わせ、結果的に幕府を否応無しに巻き込む事になった。幕府は両統迭立原則によって大覚寺統・持明院統両皇統間における話し合いによる皇位継承を勧めて深入りを避ける方針を採ったが、結果的に紛糾の長期化による朝廷から幕府に対する新たな介入要請を招き、その幕府の介入結果に不満を抱く反対派による更なる介入要請が出されるという結果的に幕府の方針と相反した悪循環に陥った。

大樹大社の大樹野椎水御神も、政に介入するだけの体力を失っており事態を収められる存在はいなかった。他の神々も政治に明るいものはいなかったのだ。

 

その結果、大覚寺統傍流出身の後醍醐天皇直系への皇位継承を認めないという結論に達したとき、これに反発した後醍醐天皇が、これを支持する公家と幕府に対して不満を抱く武士達の連携の動きが現れるのを見て、叛乱を起こす討幕運動へと発展する事になった。

そして、その倒幕運動に妖怪達には大樹大社より不介入を言い渡されていたが妖怪達の野心を抑えきれず介入を許してしまうのであった。

 

 

後醍醐天皇は、自分の立場が中継ぎの天皇にすぎないことを知ると、邦良親王や持明院統はもとより、幕府に対しても激しく反発した。そこで後醍醐天皇は、六波羅探題南方・大仏維貞が鎌倉へ赴いている隙に討幕を行うことを企て、これをうけて側近の日野資朝や日野俊基らは諸国を巡って各地の武士や有力者に討幕を呼びかけた。

しかし、畿内を任されていた白蔵主がこれを察知し、六波羅に知らせた。

密かに上洛していた土岐氏の当主の土岐頼貞と頼兼父子と一族の多治見国長、足助氏の当主の足助貞親にもとへ白蔵主は手勢を差し向け、四条付近で激しい戦闘が行われた末に両将を自害に追い込んだ。

 

報告を受けた六波羅の追及は朝廷にも及んだが、資朝・俊基らは自ら罪をかぶって鎌倉へ連行された。資朝は佐渡島へ流刑となり、俊基は赦免されて帰京したが以後は蟄居謹慎の日々を送った。一方、後醍醐天皇は側近の万里小路宣房に釈明書を持たせて鎌倉へ下向させ、その甲斐あってか今次の変とは無関係ということで咎めはなかった。

 

だが後醍醐は、処分を免れた側近の日野俊基や真言密教の僧文観らと再び倒幕計画を進めた。

 

 

 

そして、二度目の討幕計画が企てられた時。

後醍醐天皇は側近とともに京を脱出した。幕府軍の追跡をかわすために天皇に変装した花山院師賢は比叡山へ向かう。天皇は四条隆資らとともに奈良東大寺を経て鷲峰山金胎寺に移りその後、笠置山に至った。

そして、妖怪達も動き出す。京のある畿内を任せられていた白蔵主は笠置山を包囲し幕府軍を待った。幕府軍の陶山義高らが山に放火したことによって天皇側は総崩れとなり、笠置山はついに陥落。数日で後醍醐天皇や側近らは幕府軍に捕えられた。

 

後醍醐天皇の皇太子とされていた持明院統の量仁親王(後の光厳天皇)を三種の神器のないまま即位した。

一方でぬらりひょんは後醍醐天皇に付き、自らの手勢で畿内へ乱入。三種の神器を手中に収め光厳天皇へ渡した。

翌年、楠木正成は河内国金剛山の千早城で挙兵し、ぬらりひょんと合流、同月、護良親王も吉野で挙兵して倒幕の令旨を発した。さらに翌年には六波羅、畿内勢を摂津国天王寺などで撃破し、幕府方に味方した白蔵主を伏見稲荷大社に謹慎させた。

鬼、天狗、河童と言った者たちは、中立の立場を取り静観を決め込んだ。

 

幕府軍は正成の悪党仲間の平野将監入道・正成の弟楠木正季らが守る上赤坂城へ向かった。上赤坂城の守りは堅く幕府軍も苦戦するが、城の水源を絶ち、平野将監らを降伏させた。同じ頃、吉野では護良親王が敗れ、幕府方に付き境港に上陸しようとした刑部狸をぬらりひょんが交戦し、瀬戸内の海で橋頭保となる淡路島を奪い合った。

 

正成がわずかな軍勢で篭城する千早城を残すのみとなったが、楠木軍は鎧を着せた藁人形を囮として矢を射掛けるなどといった策により、再び幕府軍を翻弄した。幕府軍は水源を絶とうとしたが、千早城では城中に水源を確保していたため効果はなかった。楠木軍は一部が打って出て包囲方を奇襲し、軍旗を奪って城壁に掲げ嘲笑してみせるなど、90日間にわたって幕府の大軍を相手に戦い抜いた。

 

幕府軍が千早城に大軍を貼り付けにしながら落とせずにいる、との報は全国に伝わり、各地の倒幕の機運を触発することとなったのだ。

 

 

播磨国では赤松則村が挙兵し、その他の各地でも反乱が起きた。中でも赤松則村は周辺の後醍醐方を糾合し京都へ進撃する勢いであった。このような状況を見て、後醍醐天皇は隠岐島を脱出し、伯耆国の船上山に入って倒幕の綸旨を天下へ発した。

 

ここに来て刑部狸は瀬戸内海より手を引き、四国に籠った。

 

幕府は船上山を討つため足利高氏、名越高家らの援兵を送り込んだ。しかし、名越高家が赤松則村に討たれ、足利高氏は所領のあった丹波国篠村八幡宮で幕府へ反旗を翻す。足利高氏は佐々木道誉や赤松則村らと呼応して六波羅探題を攻め落とし、京都を制圧した。北条仲時、北条時益ら六波羅探題の一族郎党は東国へ逃れようとするが近江国の番場蓮華寺で自刃し、光厳天皇、後伏見上皇、花園上皇は捕らえられた。

 

この時、奈良の秋大社が秋比売姉妹の連名で天皇拘束の事を抗議したが聞き入れられなかった。

 

その後、新田義貞が上野国生品明神で挙兵した。新田軍は一族や周辺御家人を集めて兵を増やしつつ、利根川を越えて南進した。新田氏の声望は当時さほど高くはなかったが、鎌倉時代を通して源氏の名門と認識されていた足利氏の高氏(尊氏)の嫡子千寿王(後の足利義詮)が合流したことにより、義貞の軍勢は勢いを増し、新田軍は数万規模に膨れ上がった。幕府は北条泰家らの軍勢を迎撃のために向かわせるが、御家人らの離反も相次ぎ、小手指ヶ原の戦いや分倍河原の戦いで敗退し、幕府勢は鎌倉へ追い詰められた。

 

この戦いは諏訪大社も大樹大社も不介入であった。

大樹野椎水御神が静養中であったこともあるが、天皇家の養母を自任する大樹野椎水御神が二つの天皇家が存在し、双方に天皇家の息がかかっているもしくは直接動いている以上、天皇家内の内紛でありどちらにも味方しないと言う選択が、大樹野椎水御神の代行である大妖精の判断であった。

 

新田軍は極楽寺坂、巨福呂坂、そして義貞と弟脇屋義助は化粧坂の三方から鎌倉を攻撃した。しかし天然の要塞となっていた鎌倉の切通しの守りは固く、極楽寺坂では新田方の大館宗氏も戦死した。戦いは一旦は膠着し、新田軍は切通しからの攻略を諦めたが、新田義貞が海岸線(稲村ヶ崎)から鎌倉へ突入した。幕府要人が数多戦死した市街戦ののち、生き残った北条高時ら幕府の中枢の諸人総計800余人は、北条氏の菩提寺であった東勝寺において自害した。

 

この一連の戦いで後醍醐天皇の討幕運動は遂に成功を見た。後醍醐は京都へ帰還し、元弘の元号を復活させ、念願であった天皇親政である建武の新政を開始する。だが元弘の乱の論功行賞において、後醍醐の側近が優遇されたのに対して、赤松則村をはじめとする多くの武士層が冷遇された。こうしたことが新政への支持を失わせ、足利尊氏の離反と室町幕府の成立へと結びついていく。

こうして日ノ本の国はさらに混迷を突き進むのであった。

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。