大樹の妖精、神となり   作:公家麻呂

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40 南北割れる天皇家 混沌の始まり

鎌倉時代の後半から半世紀にわたって両統迭立という不自然なかたちの皇位継承を繰り返した皇統は、すでに持明院統と大覚寺統という二つの相容れない系統に割れた状態が恒常化するという実質的な分裂を招いていた。それが倒幕と新政の失敗を経て、この時代になると両統から二人の天皇が並立し、それに伴い京都の北朝と吉野の南朝の二つの朝廷が並存するという、王権の完全な分裂状態に陥った。南北朝はそれぞれの正統性を主張して激突し、幾たびかの大規模な戦が起こった。また日本の各地でも守護や国人たちがそれぞれの利害関係から北朝あるいは南朝に与して戦乱に明け暮れたのであった。

 

この南北朝の内乱は、先の戦いに参加した白蔵主と刑部狸を含めてその多くが介入を避けた。だが、逆に積極的に介入したものが存在したぬらりひょんである。

 

天皇親政を掲げる南朝の失敗により、天皇家など旧勢力の権威は失墜し、南朝天皇家を見限ったぬらりひょんは北朝に接近。足利尊氏と盟約を結んだ。

一方、北朝の公家も、ぬらりひょんが背後についた室町幕府将軍足利義満によって、警察権・民事裁判権・商業課税権などを次々と簒奪されていった。南北朝が合一したとき、後に残った勝者は南朝でも北朝でもなく、足利将軍家とぬらりひょんを中心とする室町幕府と守護体制による強力な武家の支配機構だった。

 

 

2代将軍足利義詮が死去し、10歳の義満が3代将軍となり、ぬらりひょんが室町幕府の副将軍として権勢を奮い始める。このころまでに反幕府方の畠山国清・大内弘世・上杉憲顕・山名時氏らが幕府に降っており、九州では後醍醐の皇子・征西将軍懐良親王が中国明朝より「日本国王」として冊封を受けてなお勢力を拡大していたものの、中央の南朝方は抵抗力をほとんど失っていた。ぬらりひょんは幼い将軍を巧みに操り辣腕を振るい南軍の将楠木正儀を寝返らせ、九州の南朝勢力排除のために今川貞世を派遣、内政においては新興の禅宗である南禅寺と旧仏教勢力の比叡山との対立問題の対応や半済の実施などを行い、幕府権力の安定化を推し進めていった。康暦の政変で管領細川頼之が失脚させ、後任にはぬらりひょんの息がかかった斯波義将が就任する。ぬらりひょんの助言で義満は奉公衆と呼ばれる将軍直轄の軍事力を整え、有力守護大名の山名氏や大内氏を挑発してそれぞれ明徳の乱、応永の乱で追討し、将軍権力を固めて、明徳の和約によって南北朝を合一し、天皇に迫る権力を確立する。

 

足利義満が急死すると、4代将軍の足利義持は斯波義将に補佐され、義満に対する太上天皇の追号を辞退し、勘合貿易での明との通商を一時停止するなど義満の政策を否定し幕政を守旧的なものに改める。これは貴族色が強まった義満晩年の政策に反感を抱く武士達の不満に応えたものであった。応永30年(1423年)に実子の足利義量に将軍職を譲るが義量が早世し、さらに義持自身も後継者を決めないまま死去する。6代将軍は籤引きで選ばれることとされ、義満の子で僧門に入っていた義円が還俗して足利義教を名乗り、将軍に就任する。

この時点で幕府は将軍をお飾りと見做し、ぬらりひょんが牛耳っていたのであった。

 

 

その後、足利義満が南北朝合一を達成し幕府権力を絶大にしたものの、義満急死後は大名合議制に戻り相対的に将軍の権力も低下した。更に民衆による土一揆の発生や後南朝による南朝再興運動など、幕府にとってはかつてない事態に遭遇するようになった。そのような中で諸大名にとっても領国統治の必要上、将軍のこれ以上の権威の低下は避けたいとの思惑もあった。比叡山座主であった足利義教がくじ引きで将軍になると、土岐氏・赤松氏・大内氏らの有力守護大名の後継争いに積極的に干渉し将軍権力の強化に努めた。更に幕府に反抗的だった鎌倉公方足利持氏を永享の乱で、その残党を結城合戦で討伐すると全国に足利将軍に表向きに刃向かう勢力は無くなり、一見社会は安定に向かうかに見えた。

 

8代将軍足利義政が就任する。幼少の将軍が続いたためぬらりひょんの独裁で幕政が運営された。義政は子供に恵まれなかったために弟の義視を養子として後継者に指名したが、正室の日野富子に息子・義尚が生まれると、将軍後継問題が発生した。

義政は義視を中継ぎとして就任させてから、その上で義尚を将軍にするつもりであったが、義尚の養育係であった政所執事伊勢貞親は義視の将軍就任に反対であった。文正元年(1466年)、貞親は斯波氏の家督争い(武衛騒動)に介入し斯波義敏に家督を与えるよう義政に求め、義政もこれに応じた。しかし有力大名の山名宗全は斯波義廉を支持し、これに反発した。貞親は義敏に加え、日明貿易の利権をめぐって細川勝元と対立していた大内政弘も抱き込み一大派閥を結成した上で、義視に謀反の疑いありと義政に讒言し義視の排除を図った。しかし義視が勝元邸に駆け込み救援を求めると、勝元と宗全は結託して義政に抗議し、これにより貞親は失脚し京を去った(文正の政変)。側近である貞親の失脚により義政は将軍親政を行うことが不可能となり、義政の権威は失墜した。

 

この時点で室町幕府はぬらりひょんの制御の外になってしまい畠山政長と畠山義就による畠山氏の家督をめぐって発生した家督争いを憂いた秋比売静葉が細川勝元を介して行った介入によってさらに悪化する。天津神である秋比売姉妹の姉の介入に焦った足利義政はこれを収めようと、山名・細川両名に畠山家への軍事介入を禁じ、義就と政長を一対一で対決させることで事態の収拾を図った。勝元は義政の命令に従ったが、宗全はこれを無視し義就と共に政長を攻撃した(御霊合戦)。政長は敗走し、勝元の屋敷へと逃げ込んだ。派閥の領袖としての面目を潰された格好となった勝元とその後援者である静葉は、宗全との全面対決を決意した。

 

やがて、両者の対立は全国の大名の兵力(享徳の乱の最中の関東を除く。この乱のために大樹大社は中央に介入できなかった。)を政治の中心地である京都に結集して遂に大規模な軍事衝突を引き起こした。これが応仁の乱である。陣を構えた場所から細川方を「東軍」、山名方を「西軍」と呼ぶ。勝元の後援者である秋静葉は妹穣子を巻き込み朝廷勢力の力を借りて義政に迫り東軍に将軍旗を与え、西軍を賊軍とさせた。これにより東軍は正当性の面で優位に立ったが、大内政弘が入京すると西軍は形勢を盛り返した。更に義政が貞親を政務に復帰させると、これに反発した義視は西軍へと奔り、西軍諸将は義視を新将軍と仰いだ。これにより足利将軍家は二つに分裂した。その後、戦局が膠着状態に陥ると両軍の間に厭戦感情が広がるが、東軍の赤松政則や西軍の畠山義就は和睦に反対であり、勝元も宗全もこうした和睦反対派を説き伏せることが出来ずにいた。勝元と宗全が多くの大名を自陣営に引き入れた結果、参戦大名が抱える問題の解決や、彼らが求める利益分配に応えることが困難となり、陣営をまとめることが出来なくなっていた。結果的に首都で延々と11年間も決着が付かない軍事衝突を断続的に行うことになった。秋大社が焼き討ちされ、両軍の総大将である勝元と宗全が相次いで病死しても、義政が息子の義尚に将軍職を譲って隠居しても、諸大名は兵を撤退させることは無かった。兵を撤退させることになったのは、余りの長い戦争に耐え切れなくなった領国で不穏な動きが相次いだからである。結果、応仁の乱は首都・京都を焦土としただけで何ら勝敗を決することなく終結したのである。だが、この乱をきっかけにした戦闘は応仁の乱終結後も地方へと拡大し、関東の享徳の乱も更に10年近く戦いが継続された。

 

「うぅ・・・お姉ちゃん。」

「ごめんね。穣子・・・私が下手に手を出したばかりに・・・。(大樹ちゃんなら、もっとうまくやれたのかしら・・・。)」

 

大社を焼き払われた秋比売姉妹は細川家の掌握に失敗し、諏訪大社へ一時身を寄せ、関東が安定すると大樹大社の庇護下に入った。

その後足利将軍家では、義政が義尚への政務の移譲を宣言し東山山荘に移り住んでからも、実際には権力を保持し続けたため室町殿(義尚)と東山殿(義政)の二重権力状態が続き、室町幕府を牛耳っていたぬらりひょん自身も持て余し始めるのだった。

 

 

また、室町幕府の末期から再び白蔵主や刑部狸と言った妖怪達が介入し、巻き込まれ日本は一世紀近く騒乱状態となった。

 

 

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