安土城は築城と同時に城下町建設をはじめ、天主へ向かう大手道や、その両側にある家臣団の屋敷が整備され、楽市・楽座を設け、町人の課役免除の他、商人の通行を義務づけたり、国中の馬の売買を同町で行うなど、城下町の発展を図った。安土城のあたりは琵琶湖の水運を利用して京まで出るのに便利で、中山道や北陸道にも通じて一帯は陸運水運双方の交通の要衝として繁栄した。
安土城は従来の「戦うための城」ではなく、「見せるための城」の要素が非常に強かった。
五重七層の天主を持ち、総石垣でぐるりと囲まれた巨大な城。麓に計画的に城下町が規則正しく配された都市計画の先駆けと言える城でもあります。
城の外観は、階層ごとに壁が塗り分けられているのが特徴です。黒い漆塗りの窓が配された白壁の層や、赤く塗られた層、青く塗られた層がある他、最上階は金色になっています。
この城の内部は、1階から3階までの各階に、6畳から12畳の部屋が複数あったと言われています。壁には花鳥や中国の故事を題材にした絵が描かれていたとされています。
ただし、4階には絵が描かれていなかったのだとか。
5階は八角形の形をしていて、外側の柱は赤色、内側の柱は金色でした。壁には釈迦が説法をしている絵が描かれている他、部屋の周囲を囲む縁側には、鬼や餓鬼の姿もあったそうです。
そして6階は、3.3㎡の広さでした。部屋の壁は金色で、外側に手すりがあった他、扉には鉄を張り、漆が塗られていたそうです。壁には狩野永徳が描いた中国神話の帝王や孔子、七人の賢人などの絵が描かれいました。
内部には当時信長が狩野永徳を中心に描かせた「金碧障壁画」、金箔10万枚を使用した外壁、金の鯱をのせた大屋根など絢燗豪華な安土城、山上の常御殿は大名の政務の場としての比重が高いだけでなく、重臣たちも日常的に訪れた場所でした。
瓦は青く見え、前列の瓦には丸い頭がついています。
安土山のすぐ東側には、かつての守護・六角氏が築いた観音寺城があり、信長が築城する前の安土山には観音寺城の支城があり安土の戦うための機能は損なわれておりません。
私は安土城の敷地内にある御幸の御間と言う箇所が割り当てられました。
詰る所、安土城がいかに金を掛けた豪華絢爛な城であり、信長がいかに派手好きかと言うこと・・・。そこから推測するにしてもこれは想像できませんでした。
日が沈み始め薄暗い空の中、安土城や城下町を提灯にてライトアップし、唐人や南蛮人から教えられたのであろう花火が打ち上げられて派手な歓待を受けたのでした。
城下町では本当に何を祝っているのかも怪しいくらいに酔っ払った庶民たちが可能な限り華やかな衣装で着飾り、または仮装を身につけて、鉦や太鼓、笛などで囃し、歌い、踊り踊っている。酒は恐らく安土から振る舞われたのだろう。
「大樹!よく戻ってきたな!今日は目出度い!まことに目出度い!お前ら!存分に飲め!歌え!踊れ!存分に楽しんでくれ!」
私との会話中にいきなり周りに喚き出しましたよこの人は・・・。下戸のくせにどんだけ飲んだんですか?
堀久太郎と森蘭丸は困ったように首を横に振っていた。
帰蝶様や他の奥様方は悪酔いした信長から距離を取っているのかな。もしくは何かしら理由を付けて奥へ引っ込んだんだろうな。
翌日も賑わいは変わらず能楽者や踊り子、商人に力士が訪れ安土城下は賑わいを見せていた。
内においては、妊娠している私の身を案じた信長が外の騒ぎを終わらすようにお触れを出し、漢方医や中条医(産科)、出産経験のある信長の妻や諸将の妻たちが集められ、その時に備えた。その翌日には三妖精を中心とした妖精巫女たちが安土城に入城。
日が経つと徳川家や浅井家、北条家などの近しい諸大名から懐妊祝いとして滋養強壮の食べ物や薬が届けられた。
2か月後、大樹野椎水御神が二児を出産。たくましい男の子と可愛らしい女の子であった。
男児は神精丸(じんじょうまる)、娘は祀(まつり)と名付けられた。