大樹の妖精、神となり   作:公家麻呂

69 / 224
69 大樹信長記 第二次木津川口の戦い・石山本願寺決戦

天正6年(1578年)6月、九鬼嘉隆ら水軍衆は河城氏族の河童衆技術集団の協力を経て鉄鋼船が完成した。

奈良興福寺の塔頭多聞院の僧である俊英が書き記した『多聞院日記』によるとその大きさは縦22メートル・横12メートルあったとされ、船体を厚さ3mm程度の鉄板で覆い、村上水軍が得意とした焙烙火矢に対する装甲とした。河童の技術力を結集した戦国最強の軍船と言えた。

 

九鬼嘉隆ら水軍衆はこの鉄鋼船6隻と安宅船や関船と言った軍船を率いて大阪湾へと向かう。その隙間を縫うようにお化け蛤の軍船や人魚や半魚人と言った水棲妖怪が続く。

 

「こりゃすげぇ・・・。」

 

途中、淡輪もしくは雑賀の海上で雑賀衆など多数の小船が攻撃をかけてきたが、九鬼は敵を引きつけて大砲で一斉砲撃するという戦術を使い、これを撃退した。

半魚人のひとりの言葉はこの後の毛利村上水軍との戦いにも当てはまるのであった。

 

 

 

 

「よぅし!狙えぃ!撃てぇええ!」

 

嘉隆の怒号を押しつぶすほどの轟音が鉄鋼船に積まれた大砲から煙を上げながら放たれる。

無数の鉄球が毛利村上水軍の軍船を貫いていく。

 

ドカーンと言う音が織田水軍から発せられ、バキンだとかガシャーンだとかの軍船が破壊される音が毛利村上水軍から聞こえた。

その音は幻影ではなく現実、毛利水軍が一方的に織田水軍に打ち倒されていく。織田水軍の砲撃と織田水軍に味方する水棲妖怪達の妨害で毛利水軍は本格的に物資を届ける事は無かった。

 

毛利村上水軍は焙烙や鉄砲を射掛て抗戦するが鉄張りの大船はものともしない。従来の兵力ならば前回の織田水軍のように敗れ去ったことだろう。しかし、新生織田水軍は毛利村上水軍を圧倒、その砲撃で毛利村上水軍の軍船を破壊し、鉄の軍船の圧倒的な巨体は敵の安宅船を押しつぶしていく。

 

鉄鋼船団が、毛利村上水軍の中央を引き裂いていく。6隻の鉄鋼船に続いて織田水軍の安宅船や水棲妖怪達が続いていき毛利村上水軍を中から食い破っていく。

 

「なんだぁあの軍船は!?」

「て、鉄・・・鉄の軍船だ!!反撃しろ!!」

「だ、ダメだ!焙烙も鉄砲も効かない!?」

 

「「「ぐわぁああああ!?」」」

 

炎に包まれた軍船や沈んでいく軍船と言った敵の姿を鉄鋼船の櫓から眺めている嘉隆は辺りを一望した。

 

「この鉄鋼船があれば、日ノ本の海を織田水軍が制する日は近い。船大工に河童たちも加わってもらうべきだな。」

 

本願寺への物資の運び込みを防ぎ、毛利村上水軍を撃滅した一連の戦いは木津川口の戦いと呼ばれた。ちなみに以前敗戦した方を第一次、今回の戦いを第二次と呼称された。

 

有岡城の荒木村重を下し、三木城も天正8年(1580年)に下している。

天正7年(1579年)6月、明智光秀による八上城包囲の結果、ついに波多野秀治が捕らえられ、処刑される。光秀は同年中に丹波・丹後の平定を達成した。

 

 

「石山本願寺は倒さねばならぬ。」

 

本願寺攻めの決行が目前に迫っていた。

 

「これは石山本願寺との戦いと言うだけではありません。その背後の足利将軍家・・・そして、それを操るぬらりひょんとの戦いです。」

 

天正7年(1579年)9月、信長と大樹に激しく抵抗する仏教勢力本願寺との決戦は本願寺の総本山たる石山本願寺包囲戦となった。木津川の戦い他の勝利によって本願寺を援助できる勢力は最早無かった。しかし、本願寺側も持てる戦力を総動員し徹底抗戦の構えを見せた。本願寺側の戦力は雑賀衆の抗戦派や畿内の反織田勢力の残党の寄せ集めを含め3万。対する織田軍は信長を総大将とした諸将の軍勢に大阪周辺の織田方の付城の(明智光秀、丹羽長秀、佐久間信盛、池田恒興、森利成、堀秀政、稲葉一鉄、細川藤孝、他)10万に加え浅井家と筒井家からの援軍1万5000。さらに、大樹大社の妖精巫女衆5000、畿内のぐわごぜ率いる大樹恩顧の狐狸を中心とする妖怪衆3000。河童山童らは織田軍の各部隊に一定数随伴している。

 

「おのれ!信長!無間地獄に堕ちるが良い!」

 

石山本願寺は、門前町が栄える本山・本願寺ではなく、本山・本願寺を中心に濠や土居で囲まれた寺内町を有する一種の環濠城郭都市であった。しかし、大砲や石火矢を多く有する織田軍にとっては絶対的な城郭都市ではなかった。また石山本願寺は51城に及ぶ支城を配し防御面を強化していたが、織田方に大樹恩顧の妖怪衆が参戦し、その多くが陥落していた。

 

後衛の大砲部隊は兼ねてより包囲軍の指揮を執っていた佐久間信盛の指揮の下、鉛玉をたらふく叩き込んでいる。

石山本願寺を囲う塀や土居は次第に崩されていく。大砲や石火矢の様な重火器は織田軍が圧倒していたが火縄銃の様な軽火器は雑賀衆や堺の商人ともつながりのあった石山本願寺もかなりの数を有しており激しい銃撃戦が繰り広げられていた。

 

 

 

「長秀様、準備が出来ました。ご命令を・・・」

 

山童の一人が陣で指揮を執っていた丹羽長秀に指示を求める。

投石器に焼夷徳利が装填されていた。

 

「うむ、投擲を開始せい。」

「はい、仰せのままに!」

 

投擲が開始され寺町に焼夷徳利がばら撒かれ、各所に火の手が上る。

 

「か、火事だぁああ!!」

「に、逃げろぉお!」

 

本願寺門徒の一揆衆が逃げ惑う。

武装集団とは言え所詮は農民や町民の集まりであり、織田軍やその援軍の本職の武士のような常備軍とは比べるもなく本願寺方の一揆衆の陣は壊乱状態になり、鴨射ちも同然の状態となった。

 

「蹴散らせ!槍隊前へ!」

 

足軽大将の音頭に合わせ太鼓が打ち鳴らされる。

 

長槍を装備した足軽が前進、それに徒士武者や槍を持たない刀足軽が続く。

逃げ惑う一揆衆を取り囲む様に進んでいく。

 

一部の一揆衆が意を決して飛び込むが槍足軽の長槍が叩き下ろされ一揆衆の頭蓋をかち割る。

 

長秀の陣以外でも同様の後継が広がり本願寺の一揆衆は壊滅した。

石山御坊には砲撃に加え、天狗たちの空襲が行われ精鋭の僧兵たちも疲弊していた。

 

「法主様、もはや抗戦かないませぬ。」

側近の下間頼蓮の言葉に本願寺の法主顕如は重い口を開く。

 

「織田の降伏勧告に従う。」

 

天正年8(1580年)2月、年を跨ぎ半年以上籠城をした石山本願寺は織田の大火力を前に遂に下った。

翌月、信貴山命蓮寺が周囲の真言宗寺院衆を率いて織田方に参戦。織田家包囲網に加わっていた松永久秀の居城を筒井家の軍勢と共に包囲し落城させた。さらにその翌月には紀州攻めの織田信忠の下に雑賀衆鈴木氏が織田家に服属し、紀州の戦いは雑賀衆内の親織田派と反織田派の内戦にそのまま信忠の軍勢が介入する形で織田方が勝利を収めた。

 

 




そろそろ・・・あの変が・・・

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。