畿内を完全に掌握した信長は西国の毛利、甲斐武田、伊賀衆と言った
大馬揃えには織田に実質的に臣忠した浅井、徳川、北条、長曾我部、筒井、姉小路と言った大名家からの兵も行列に加わり織田の威光を天下に見せつけるものであった。さらにこの大馬揃えには大樹野椎水御神の側近として有力な妖怪達とその手勢も加わっており、織田家とその背後の大樹大社の威光が人間以外にも及んでいることを示していた。
織田政権が盤石な物となり始めたこの時期、妖怪達の中でも織田政権の介して世俗化する妖怪達の姿が見られた。
刑部狸(四国探題奉行職)、白蔵主(畿内探題奉行職)、たんたん坊(東北探題奉行職)、ぐわごぜ(関東探題奉行職《新設》)と言った恩顧の妖怪達は大樹大社より与えられた役職を有り難がり、独自の社会や思想を持つ天狗や鬼社会と距離ができ始めていた。また、天狗社会においては大樹に迎合する世俗派や天狗独自の社会を維持しようとする独立派、ぬらりひょんの妖怪中心社会に迎合する過激派と割れに割れていた。河童や山童たちも旧来の天狗に従属する派閥と大樹及び織田政権に従属する派閥で割れ始めていた。また、風見幽香や八雲紫と言った独自色の強い妖怪達も大樹に協力する者もいれば独自路線を突っ走る者達に敵対路線を取る者と多様で人間社会同様に渾沌として来たのであった。
天正8年(1580年)6月、織田信忠を総大将した5万の軍勢が甲州武田の討伐に向かった。信忠の軍勢には大樹に請われ参陣を了承した信貴山命蓮寺の手勢が聖白蓮自ら率いられて帯同した。
この戦いには別動隊として織田信孝の軍勢3万と浅井家・姉小路家の援軍6000、大樹恩顧の妖怪衆3000、織田領大樹大社妖精巫女衆及び秋比売神姉妹の手勢3000が美濃木曾口より侵入する手筈であった。
信忠本隊は徳川家の2万5000とその援軍の北条家2000、織田領及び徳川領大樹大社妖精巫女衆5000が合流し設楽原に布陣。
また、北条家も甲州征伐に本腰を入れ4万の兵を動員しこれに関東の大樹大社の妖精巫女衆5000が加わった。この背景には甲州武田氏とその背後の鬼道衆に囚われている洩矢諏訪神諏訪子と八坂刀売神神奈子の救出を目的としており大樹野椎水御神肝いりの戦いであった。
北条軍と大樹大社の軍勢は三増峠を武田領内へと侵攻する。
「織田・徳川、そして我ら北条の3方向から大軍を持って甲斐を落す。武田の命運もこれまでよ。」
「氏政様、敵は鬼道衆を擁しております。努々、油断為されませんよう。」
「はい、解っております。大緑光の巫女様・・・。」
北条軍の総大将北条氏政に大妖精は忠告し、氏政は丁寧に応じた。
どの侵入口でも侵攻側の織田徳川北条の連合軍が優位に進めていた。
織田軍の侵攻の始まった月に浅間山が噴火した。浅間山の噴火は東国で異変が起こる前兆だと考えられ、さらに噴火の時期が朝敵指名および織田軍侵攻、さらには織田軍に浅間大社が同調すると言った事が重なってしまったために、武田軍は大いに動揺してしまった。
天正8年(1580年)9月、織田信雄を総大将に5万の兵で伊賀国に侵攻した。
伊賀攻めに赴いた織田軍には滝川一益率いる甲賀衆の忍びや元伊賀衆の服部正成を徳川家より借り受け伊賀衆から内通者を募った。忍者衆を率いた5万の大軍勢は織田軍は各地で進撃し同月11日間でほぼ伊賀国を制圧した。
伊賀陥落後、百地三太夫は足利義昭の側近一色藤長に伊賀の敗戦を伝える。
「藤長様、我ら完膚なきまでに叩かれてしまい、参陣は叶わなくなりました。」
「・・・しかたあるまい。その方は時が来るのを待つが良い。」
その頃、信忠の本隊は長篠城・鳶ヶ巣山での戦いを経て設楽原での決戦に至った。
戦いは昼過ぎまで続いた(約8時間)が、妖怪妖精軍を擁する織田・徳川軍に対し武田軍は2万以上の犠牲出し織田・徳川・北条軍の勝利で合戦は終結した。
織田・徳川・北条軍他には主だった武将に戦死者が見られないのに対し、『信長公記』に記載される武田軍の戦死者は、譜代家老の内藤、山県、馬場を始めとして、原昌胤、原盛胤、真田信綱、真田昌輝、土屋昌続、土屋直規、安中景繁、望月信永、米倉丹後守など重臣や指揮官にも及び、被害は甚大であった。
勝頼はわずか数百人の旗本に守られながら、一時は菅沼定忠に助けられ武節城に篭ったが、信濃の高遠城に後退した。
長篠における勝利、そして越前一向一揆平定による石山本願寺との和睦で反信長勢力を屈服させることに成功した信長は、「天下人」として台頭した。また、徳川家康は三河の実権を完全に握り、遠江を攻略していき領土を拡大した。また、武田家は天目山の戦いで当主武田勝頼が自刃したことで滅亡し、以降は残党狩りとなる。
そして、この残党狩りには大樹大社と鬼道衆が雌雄を決した諏訪盆地の戦いがある。
天目山の戦いで武田勝頼を自害に追い込んで武田家と言う表の支配者を下したのであるならば、諏訪大社の戦いで裏の支配者鬼道衆を下したのと言える。
織田信孝を総大将とした人妖混在の総勢4万越えの軍勢は信濃の木曾義昌に先導させ信濃国諸城を攻め落としていった。南側から攻め入った信忠の軍勢も同様に多くの城を落している。
安土にて信長と共に諸々への檄や指示を飛ばしていた大樹は諏訪大社の神官長の家系守矢氏を通じて当時の上社大祝の諏訪氏以外の氏族に内応を約束させた。守矢氏はこの功績で以後諏訪大社の大祝として振る舞うこととなる。
諏訪氏は武田勝頼の母が居り、武田氏との深い関係から切り捨てられた形となった。
諏訪湖を挟み上社に鬼道衆及び武田残党、下社に織田軍が陣を敷き睨み合っていた。
この戦いは人間の意志以上に神々の意志が介在した特殊性の高い戦いであった。
織田軍の陣幕内には側近蜂屋頼隆や津田信澄の他に秋比売神静葉穣子、新たに引き立てられた厄神の鍵山雛が軍議の席にいた。
諏訪盆地の戦いは、終始織田軍優位に進んでいる。
信忠軍・信孝軍、北条軍の進軍に合わせて武田諸将は戦わずして下る者も少なくなく(無論武田家に殉じた者もいる)。さらに武田家に擁されていた鬼道衆によって抑え込まれていた妖怪達の多くが決起し合流した。その為、侵攻軍は最終的に数だけなら倍近くまで膨れ上がった。
諏訪盆地の戦いにおいても信孝軍は出征時は4万2000程であったが諏訪盆地に至るまでに6万近くまで膨れ上がっていた。
対する防衛側は1万に満たず、敗北は必須であった。
対陣中も武田方からは脱走者が相次いだ。守屋山、御射山などの八ヶ岳の諸々を巡る前哨戦で鬼道衆以外の多くが逃げ出し、諏訪大社上社を巡る戦いでは千に満たない鬼道衆を6万の大軍勢攻める凡そ戦いとは呼べるものではなかった。
「追い詰めなさい!」
静葉の号令で妖精や妖怪達が上社の鬼道衆と戦い始める。
秋比売姉妹の率いる妖精・妖怪達3000でも十分に数的優位を維持して鬼道衆をすり潰していく。上社を捨てて逃げようにも信孝の軍勢が蟻の子1匹逃がさない布陣であり、ここに鬼道衆は事実上壊滅。以後は小規模な隠れ里を維持する飛沫勢力として細々と命脈を保つ存在になり下がった。完全に滅ぼされなかったのは武田に擁された頃の鬼道衆は派閥が存在する程度に大規模勢力であり、その少数勢力に早々に降伏した穏健勢力があったからである。
守屋山に籠る武田残党を、鍵山雛率いる軍勢5000が包囲した。
武田残党の一部が本宮の御神体である守屋山に火を掛けようとしたために雛は守屋山に立て籠もる武田残党を全て厄殺した。
厄殺された武田残党の将兵らは守屋山を源流とする沢川に流された。この事は沢川周辺の地域に流し雛の風習が残るのはこの為である。
天正9年(1581年)10月、鬼道衆に封じられていた諏訪大社は解放され八坂刀売神と洩矢諏訪神は救出された。以後、武田に協力した諏訪氏は没落し、守矢氏が台頭し現在まで続くこととなる。信忠、信孝は甲州征伐を終えて帰還している。