大樹の妖精、神となり   作:公家麻呂

74 / 227
74 大樹信長記 天下分け目の関ケ原

天正11年(1583年)3月28日。

滝川一益、森長可、川尻秀隆、真田信繫(のち幸村であり、昌幸のより兵を預かる。)らが岐阜に到着した。彼らは諏訪大社の使者として大祝の諏訪氏の分家である東風谷氏の巫女が2柱より依り代の守り矢を授かり、それを奉じての合流であった。

 

この時、授けられた守り矢を御神体に創建されたのが守矢神社である。

 

また、徳川家からは家康自らが率いる2万が、北条家からは当主氏政の代理として嫡男氏直が5000の兵及び大樹大社と浅間大社の妖精巫女3000の合計8000を率いて岐阜へ向かっていた。

 

全国各地の諸大名が激しく動き始めていた。

 

どちらかと言えば西軍よりではあったが中立の立場をとっている上杉家。上杉家は中立を宣言し、国境の兵を撤収させた。

東北においては、この東軍西軍に分かれた東北諸大名が激しく争った。同年の3月17日、二本松城主畠山義継が伊達輝宗を拉致して両者とも死去した事件がきっかけで、東軍の最上家・伊達家・田村家・相馬家・小野寺家の連合軍と西軍の蘆名家・佐竹家・岩城家・二階堂家・二本松家・白川結城家・石川家が摺上原及び安達郡本宮の人取橋付近で激突した。

関東においても北条家・里見家・小田家の連合軍と佐竹家・宇都宮家・那須家の連合軍も沼尻岩船山で戦った。ちなみに東軍に属した南部家は九戸政実や大浦為信の独立や西軍の和賀家・稗貫家と戦った。不思議なことに九戸も大浦も東軍に付く旨を宣言している。土崎湊では東軍の安東家と西軍の戸沢家・大宝寺家が戦った。

西軍に付いた葛西家・大崎家であるが東北妖怪のたんたん坊と雪女郎の手勢に攻め立てられていた。

 

四国は長曾我部家を中心に西園寺家・十河家が東軍に付き、西軍は河野家のみであったが毛利家の軍勢が三津浜に上陸し、ぬらりひょん配下の七人同行が参戦したため戦闘は膠着した。

 

また、九州は島津家と相良家が東軍に、大友家・伊藤家・阿蘇家・有馬家が西軍に属し、龍造寺家と松浦家・宗家は中立であったが目立った争いは発生していなかった。

 

 

 

 

天正11年(1583年)9月14日。

明智光秀・蛇骨婆は石原峠を背後に南東の方角に向け山の尾根の先。西軍側から見てその右に三好三人衆。さらにその右、松尾山の麓に・明智秀満・斎藤利三。松尾山に細川藤孝と筒井順慶。足利義昭とぬらりひょんは小関山に本陣を置き、一色藤長ら先手は小池村の前に柵を立て陣を敷く。毛利輝元は栗原山。吉川元春は南宮山。明智光秀の左に宇喜多直家・山名豊国・辻神(ぬらりひょん配下妖怪)の布陣であった。

 

先陣のチルノは明智光秀の軍勢へ向かい、徳川家康・北条氏直はチルノ隊を出し抜いて山名豊国と辻神と交戦。

 

「お!?こいつ、たいして強くないぞ!?」

「ちくしょー!妖精の小娘め!氷の塊が!?危ねぇ!?」

 

「さすがは、音に聞こえる氷精巫女殿!!徳川殿!!山名の軍勢を包囲殲滅しましょうぞ!!」

「三河武士の力を照覧あれ!!」

 

 

光秀隊には大妖精・陰神刑部・丹羽長秀・蒲生氏郷・池田恒興の各隊が殺到し三好三人衆には織田有楽斎・織田信包・滝川一益・藤堂高虎隊が向かう。

 

「光秀の首を取れ!掛かれ!」

「日向守様をお守りするのだ!!」

 

「蛇骨婆め!!大樹様を裏切りおって!!この刑部が討ち取ってくれる!!」

「ふん、神頼みの軟弱者共が!!」

 

「「「「「わぁああああああああああああ!!!」」」」」

 

 

辰の時に始まった戦闘は巳午(10~12時)になっても勝敗が決しなかった。 羽柴秀吉の手引きで裏切る手筈であった細川・筒井が動かないのを不審に思った信長は様子見のため筒井の陣に向け銃撃を行うが、それでも変化は表れない。

 

「細川に筒井め!!日和おったか?猿!!火縄銃を射かけてやれ!!」

「上様?よろしいので?」

「敵か味方かはっきりさせればよい!!敵に回らば纏めて潰すまでだ!」

 

 

しかし滝川一益に内通していた宇喜多直家が利三・秀満隊に攻めかかると細川・筒井隊もこれに続く。秀満は切腹、利三は討ち死し、光秀隊は三好三人衆を突破した4隊をも相手にしてしばらく持ちこたえるが西方方面へ敗走。西軍全体の潰走がはじまる。

 

「御味方の勝利にございます!!」

「よし!猿!権六!毛利を追撃せよ!!」

「「っは!!」」

 

毛利輝元は一色藤長からの出陣要請に応えようとしたものの、毛利勢先鋒の吉川広家が信長に内通して動かなかったため戦闘に参加出来ず、勝敗が決すると足利義昭は上方へ向け戦場を離脱。西軍の戦死者は約32600名で、戦闘終了は未の刻(午後2時ごろ)。吉川元春の隊も戦わずして山を下り始め、翌16日未明には撤収完了。朽木口より浅井軍が京都二条城攻め開始した。

 

 

 

 

 

「北面武士の面目躍如ぞ!義昭を捕らえよ!!」

 

一条兼定の号令で配送してきた義昭と藤長の隊を入京していた浅井軍と挟み撃ちにする。

 

「えぇい!!ぬらりひょんめどこに逃げたのだ!!妖狐衆!!草の根かき分けて探せ!!」

 

白蔵主も西軍狩りに参加した。天下分け目の戦いの勝敗は東軍の勝利で幕が引かれたのであった。

 

東軍・織田信長方に加担した武将の論功行賞と、西軍・明智足利方へ加担した武将への処罰が行われた。織田方の多くが加増され、明智方の殆どが改易され、改易を逃れた者も減封された。また、中立諸侯も減封された大名家が殆どだった。明智光秀は九州に逃亡したが足取りは掴めていない。

 

 

京都二条城にて捕らえられた足利義昭・足利義尋(義昭嫡子)・一色藤長・明智光慶(光秀嫡子)は大坂・堺を引き回され、京都六条河原において斬首された。首は三条大橋に晒された。

彼らの処刑には大樹野椎水御神ら大樹大社の重鎮たちが見守る中で執行された。

 

「ぬらりと現れ、ひょんと消える・・・奴を取り逃がしたのは後の禍根となるかもしれませんね。」

「申し訳ございません。狐狸衆を総動員して足跡を負っていますが手掛かりは無く・・・。」

「仕方ありません。あれはそういう妖怪です。」

 

 

 

信長は天皇より新官位『治天下覇王』に任じられた。信忠は『関白』に、以降の人物は『征夷大将軍』に就任している。

治天下覇王の就任後、信長は大名間の私闘を禁じた『惣無事令』を発した。

安土幕府が開闢、安土桃山時代の到来である。

 

所謂、惣無事令である。

 

この命令は、全国に大名に朝廷(関白である信長)への臣従を誓わせ、全ての戦闘を私戦として規定し、私戦の禁止と朝廷による裁定を仰ぐべしとするものだった。

 

そして、これに違反するものを朝敵として厳しく罰するとした。

 

惣無事令は信長が出した最初の全国的な法令であり、以後、織田家による全国支配の基本原理・基本方針として踏襲されることになる。

 

戦国の覇王が発した天下の大号令としては異色としか言いようがない。

しかし、後継者のための地固めとして、信長に残された時間を考えると大きな意味もある方針転換であると言える。なお、安土幕府の成立は北九州・島原の乱や雑多な反乱勢力を一掃した1603年とされる。

 

とは言え、長らく続いた戦国の世の終焉は遂に到来したのであった。

 

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。