大樹の妖精、神となり   作:公家麻呂

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77 安土大阪時代 拡張の始まり

 

慶長5年(1598年)。信長、信忠と幕政は安土で執り行われていたが外国との交渉などの理由で港湾に近い場所が便利であると言った理由等で石山本願寺跡に築城が行われていた大阪城がやっと完成した。羽柴家に任されていたものであるが優先順位が低く設定されていた為にこの時期の完成であった。安土城は以後織田宗家の居城もしくは将軍の隠居先として機能することとなる。この大阪城は近世に江戸城へ政府機能が移転するまでの長きに渡り幕府の政治の中心となった。

 

軍事において、オランダ船のリーフデ号漂着から始まる一連の出来事で織田海軍の和製ガレオンは完成形へと至り、海軍を整備するに至った。さらに、幕府は三代秀信の時代には外交の主体をオランダに移行した。また、リーフデ号の乗員であったウィリアム・アダムスは「三浦按針」と言う名を与えられ織田家の家臣となっている。

 

また、安土幕府がキリスト教勢力を危険視したのは北九州の戦いをして当然と言える。当時、安土幕府の政務顧問となっていた聖白蓮や金地院崇伝や天海僧正といった日本古来の仏教勢力の巻き返しという側面がある。この結果、神道に完全に傾きかけていた日本の宗教は仏教と神仏融合の曖昧さを持って仏教の形を残した。

 

また、対日貿易を独占したかったオランダがポルトガルやスペインを排除するため、両国に関係が深かったイエズス会などの宣教師が侵略の尖兵であるとした言の影響も大きい。

 

後者については九州に上陸したイスパニア軍(ルソンの総督府の独断であった)の存在もあり、危機感をもって受けいれられていたのである。

 

また、1511年のポルトガルによるマラッカ征服は幕府も承知しており、外国勢力による侵略は十分、ありえる話だった。しかし、大きなブレーキがかかった南蛮貿易は、一時的な停滞の後、大きく回復した。

 

理由は専ら単純で、貿易が黒字転換したためである。

幕府の金蔵には、御用商人から冥加金として新大陸産の輸入銀が積み上がり、国内の銀流出は完全に停止、それどころか銀がダブついてその扱いに苦慮するほどであった。

黒字転換が実現したのは、羽柴家が領する摂津での技術革新に依るところが大きい。

 

この技術革新は、多方面に渡り、その内容を網羅して紹介することは困難であるが、変革の旗手となったのは羽柴家と縁のあった河童の氏族の名前が残っており、その名前は現代まで残っている。「家電からロケットまで!」が宣伝文句の河城重工業である。

 

摂津はその立地条件から淀川水系、瀬戸内海上交通、四国航路の結節点として商業的な繁栄の時を迎えることとなる。

 

1614年の羽柴家による反射炉建設はその象徴とも言える出来事だった。

 

しばしば誤解されることであるが、1614年に建設された日本初の反射炉は銅製錬のものであって、製鉄用のものではない。摂津での大規模な製鉄は1644年の高炉及び転炉法の完成からである。この製鉄能力を以て幕府は銃や大砲の生産を行い幕府の軍事力の裏付けとなっている。

 

さらに、秀信は拡張戦略を進め。オランダと同盟を結びルソンを巡りイスパニアと争った。

また、山田長政や由井正雪を筆頭とする浪人たちを東南アジア諸国や東インド会社に傭兵として送り込んだ。マラッカやバンドンに対しても現地国家へ日本人傭兵を送り込み領土的野心をちらつかせていた。また、南方妖怪は元寇襲来の際に共闘した歴史的経緯もあり、西洋諸国を侵略者と見ていた南方妖怪は幕府から高度な自治を約束され、南方妖怪は幕府に協力する旨を大樹に伝えている。

 

そして、アジア近傍で強力な海軍力を持ち、人ならざる者たちが控える日本を絶対、敵に回してはならないと考えたオランダの東インド会社は日本と共存共栄の道を選んだのである。

 

だが、常に利害が一致するわけではなかった。

高砂(台湾)問題である。

 

 

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