「国性爺合戦」といえば、18世紀初頭の人形浄瑠璃の傑作として名高い。
この物語は史実を一部、脚色、改変したものだが主人公は実在した人物であり、鄭成功といえば、台湾王国の開祖である。
17世紀の東アジア最大の事件といえば、明朝の滅亡(1644年)となる。
明朝は、1368年の朱元璋による建国以来、東アジアの最大最強の国家であった。
2世紀を超える明朝の歴史に紆余曲折がなかったわけではないが、その最後をまとめるなら内紛と財政破綻、そして農民一揆による首都占領と皇帝の自殺と言う救いようがないものだった。
その農民一揆も指導者の力量に欠いていたため新政権を築くことができず、皇帝の自殺によって無政府状態となった中華大陸を征服したのは、ツングース系女真族のヌルハチによって建国された後金(清)であった。
明の財政破綻の原因は、清との抗争に備える軍備拡張による自滅であったが、明朝は清朝によって滅ぼされたと言っても良い。
明の滅亡後、明朝遺臣による亡命政権(南明)の樹立と抵抗運動が始まった。
その明朝遺臣の一人が、前述の鄭成功であった。
鄭成功の名が日本に広まったのは、3代目織田秀信の時代に、明朝救援の使者として来日して、秀信と会見(1648年11月)したことがきっかけとなる。
日本の平戸で日本人女性と漢人商人の間に生まれた鄭成功は、生まれ故郷に援軍を求めたのである。
秀信は滅びた主家に忠義立てる鄭成功を褒め称えたが、援軍や参戦要求については全て断った。漢民族の明朝は中華妖怪の首魁チーが背後で操る国であり、大樹の心情を推し量った秀信としても非漢民族の後金の方が良いと考えていたところがある。
鄭成功は明朝復興の暁には領土割譲などを交渉材料と提示したとされる。
しかし、この申し出は秀信にとっては迷惑でしかなかった。鄭成功の空手形は大老織田樹長(大樹と信長の息子、神精丸の元服後の名前)は不審がらせ、他の幕閣たちに「反清復明は不要」と言い含めてさせるほどであった。
鄭成功が割譲予定の土地として提案したのは、満州等の女真族の領土であり、完全な空手形な上に、そんな土地をもらっても何の利益もなく、火中の栗を拾う様なものと影で切って捨てたのであった。
幕府の関心は、明から間接貿易で手に入れていた絹や陶磁器、漢方等の製薬原料の輸入だったのである。そのため、援軍は断ったが鄭氏を通じて絹などが輸入できるとわかると武器と絹のバーター貿易を成立させた。
援軍が得られなかったことに鄭成功は落胆したが、滅びた主家に忠義を尽くすその姿に全国から同情や喝采が集まり、多くの浪人が雇用を求めて殺到したのは予想外だった。
鄭成功の傭兵として、大陸に渡った日本人の数については正確な統計があるわけではない。しかし、一説によれば5万人に上ると考えられている。幕府としても時と場合によって不穏分子に成りかねない浪人を追い出せると言う事で大陸浪人の増加は気に留めることは無かった。そもそも、外に自主的に出て行く浪人は無能な働き者であり、要らぬ人材であった(優秀なら幕府や諸藩が引き取るはずであり、無能な怠け者は勝手に死ぬはずである)。
日本人傭兵軍と大量の鉄砲火器を得たことから、南明は南京を奪回するなど清の膨張を押し返すことに成功した。ただし、清と関係悪化をしたい訳でもないので清の使者が来た際も貿易の門戸は開いていることを告げ、密貿易を希望するようならそれに応じた。大陸に渡った浪人は棄民と切って捨てている。
大陸浪人を棄民と切って捨てたことは得策であった。日本人傭兵は自身の賃金の確保や武器の代金を支払うため南京を略奪し、占領地に重税を課したことから農民一揆が頻発したからである。
江南、江西などでは一部の藩主たちの密命を帯びた傭兵が、景徳鎮で略奪や陶工の誘拐を行っている。この時、流出した技術が日本に伝わり、伊万里や瀬戸で美しい陶磁器が焼かれることになった。こうした日本人の暴虐に関して大樹を始めとした者たちは元寇の意趣返しと考えて黙認していたようである。
南明は完全に民心を失ってしまい、清軍の反撃もあって台湾に撤退を余儀なくされた。
台湾は、当時、オランダ東インド会社の支配下にあり大陸から逃れてきた鄭成功軍とオランダ東インド会社軍が激突した。
ちなみに東インド会社軍の主力は日本人傭兵で、台湾の地で日本人同士が戦うことになった。
オランダ東インド会社は幕府に救援と鄭成功軍の日本人傭兵に戦闘中止を要求し、全く同じ要求が鄭成功から届いたため、幕府は頭を抱えることになった。
四代信朝は、停戦を斡旋し、使者として五大老の羽柴秀時を遣わした。
秀時は、初代秀吉の孫にあたり、秀吉の再来として辣腕を奮っており、外交にも明るいことからこの人選は適当なものだった。
講和斡旋に際して、東インド会社が台湾の統治権を手放す代わりに貿易特権を得るなど妥協策を提示し、講和を成立させた。
東インド会社軍がゼーランディア城を退去したのは、1661年6月のことである。
以後、台湾は鄭氏の治めるところとなり、現在の台湾王国へと続いている。
鄭成功自身は、大陸への反攻「反清復明」を果たすことなく、翌1662年6月23日に熱帯病により病没した。
以後の鄭氏は「反清復明」を掲げるものの清の圧迫が強まり、日本が再び講和を斡旋して、1683年に「反清復明」の旗を下ろして、清の冊封下に入った。ただし、ここで大樹は中国妖怪の総大将チーへの嫌がらせに、台湾妖怪(中国妖怪の反チー派)の総大将に邪仙霍青娥を擁立した。以後、中国台湾間で妖怪同士の諍いが多発することとなる。
台湾は冊封体制に組み込まれたが、日本との関係は維持した。
鄭氏には、日本から羽柴秀時の娘が嫁ぎ婚姻同盟が結ばれた。また、生き残った日本人傭兵が台湾王国の要職につき、日本から親族を招き寄せ土着化していった。
台湾王国は、冊封体制下に入ったものの内政の独立を維持し、朝貢貿易と日本の間接貿易の拠点となることで18世紀から19世紀初頭にかけて繁栄の時を迎えることになる。