大日本合藩連合帝国の勢力は以下の通りである。
本国、古代大和朝廷時代の律令制の時代から日本の支配地と認識されてきた弓状の火山帯からなる列島である。九州、四国、本州、蝦夷地及び付属の群島等の事を指す。18世紀半ばに始まる亨保の改革(移民政策)の結果、津軽海峡の向うにある蝦夷が開拓され、更に樺太までが日本の本国として拡張されることになる。
19世紀後半においてもこの枠組に変更はなく、日本人が本国と呼ぶ場所は、概ね本州、四国、九州、蝦夷と付属の群島等までである。公武合体後、財政赤字だったり御家騒動など様々な理由で国内藩の多くが藩政奉還を行い概ね国内は天領と呼ばれる幕府直轄となっているが、尾張藩(織田信雄家)や小田原藩(北条家)に薩摩藩(島津家)のような国内藩も残っている。
蝦夷の大部分は亨保以後に拓かれた海外藩扱いであり、行政機構的には別立てとなっているが、松前福山城で行われた幕府とアイヌ民族の代表たちの間で行われた松前合議以後、アイヌ民族が日本に取り込まれていった最初の異民族であり、大和民族以外で初の日本人認定を受けたこともあり蝦夷を本土として扱う考えが主流である。
松前合議は当時1669年当時、アイヌ民族の代表シャクシャインを中心とした勢力が反幕府(松前藩)の下に団結し決起目前を控えた頃、平和を願う蝦夷大樹神社の巫女の姉妹ナコとリムがシャクシャインと松前藩主の前に出て戦争を止めたクンヌイ(現長万部町国縫)の奇跡によって成し遂げられた近代日本神話の一つである。
合議の内容はアイヌの神(カムイ)の一柱として大樹野椎水御神を信奉の対象に加え、共通の神様を信奉する仲間(ウタリ)だから仲良くやっていこうと言う強制力はない紳士同盟であったがこの盟約は現在に至るまで破られることは無かった。
近代日本神話における大和愛努の盟約では
『アイヌ妖精の勇気ある行ひに感銘を受けし 大樹野椎水御神はてづから蝦夷の地まで行かれ アイヌ妖精交へて癪輝きらアイヌの民とやられし幕臣や松前藩主らの仲取り持ちき』
と記された書物が残されており、近代日本神話においてはナコとリムはアイヌ妖精(コロポックル)である。
大日本合藩連合帝国の勢力区分の解説に戻るとする。
琉球王国・台湾王国・ブルネイ王国・アチェ王国・マギンダナオ王国、スールー王国、阮朝(北部ベトナム)。これらの国は大日本合藩連合帝国の連合に加盟する国家である、属国と評する資料もあるが、公式上れっきとした独立国である。琉球王国や台湾王国は安土大阪時代の初期から交流があり、琉球王国は19世紀後期まで清の朝貢国と掛け持ちをしておりアヘン戦争以後日本に急接近し、義和団事件を機に連合帝国1本に絞った。台湾王国は建国の経緯的にも清と敵対する上で日本との同盟は絶対であり、安土大阪時代初期から続く友好及び同盟関係の延長で自然と連合帝国に加盟する形となった。ブルネイ王国・アチェ王国・マギンダナオ王国、スールー王国は安土大阪時代中期より欧州各国による植民地化に対抗する上で日本にすり寄ってきたと言う経緯と日本人傭兵の定着による日本化の産物と言える。かの国の独立が維持できたのは日本の融和的な姿勢と無理な併合はしないと言う幕府の方針によるものである。
阮朝は近世になって急接近し加盟した国であり詳細は次回後述するものとする。
これらの国々に対して幕府は宗主国の義務を果たし、彼らが対処しきれない倭寇海賊や私掠船団、欧州の侵略軍から彼らを守り、かの国らの近代化にも手を貸している。その為、かの国々は日本に非常に好意的で協力的である。
呂宋(フィリピン)。江戸時代初期に拓かれた海外藩といえば、呂宋藩と田南朋(ダナオ)藩である。呂宋藩は江戸幕府開幕後に豊臣姓に変えた羽柴秀吉と息子秀頼によってつくられた。立藩当初はの摂津藩の支藩扱いであったが、豊臣家3代秀邦は豊臣家の本領を呂宋に定め参勤交代の枠組みから外れることで摂津藩は幕府に返上されている。これが最初の前例となり海外藩は原則参勤交代の対象外となる。
また、立藩したを完遂したのは秀頼の代であり秀吉・秀頼親子は藩祖としてマニラにある呂宋神社に神として祀られ、現在も厚く信仰されている。
なお、呂宋大樹神社は呂宋繁栄の象徴として、秀吉から続く豊臣家が信長の西洋被れの影響を受けつつ、秀吉の成金的な趣味を引き継いだ結果。度々建て替えが行われ、改築の都度に建築様式が変わる寺院建築である。また、豊臣以前に呂宋を支配していたスペインのカトリック教会建築やフィリピン南部のイスラムや豊臣代々当主達がその時々の流行の建築要素を取り込んでおり、千言万語を費やしても足りない変化に富んだ威容を誇る。
21世紀現在、呂宋神社はユネスコの世界遺産に指定されている。呂宋藩の支配領域は、呂宋島のみならずフィリピン群島の全域に及んでおり、閨閥関係から取り込んだ田南朋藩のような支藩を有する。
田南朋藩も江戸初期に立藩した海外藩の一つで、フィリピン南部征伐で名を挙げた由比正雪が藩主が藩祖である。なお、フィリピン南部とはミンダナオ島北部でありマギンダナオ王国とミンダナオ島を分割統治している。
北米大陸諸藩。亨保年間の移民政策で拓かれた地域で、面積は北米大陸の4分の1に達しており、カナダ自治領、アメリカ合衆国と合わせて北米三国と呼ばれる。
ただし、高緯度の領土が多く、北限はツンドラや永久凍土になっている。南部の有砂のような礫砂漠もあり、あまり暮らしやすい環境とは言えない土地が多い。
スペインからのカルフォルニア(加州)買収を皮切りに、100年かけて東へ進んで富士山脈(英ロッキー山脈)の東峰まで開拓が進んだ。
毛利家や尼子家が切り開いた加州(カルフォルニア)を筆頭に、有砂藩(アリゾナ)、尼吐汰藩(ネバタ)、湯田藩(ユタ)、間保藩(アイダホ)、折金藩(オレゴン)がある。
また、北部を切り開いた伊達家を筆頭とする奥羽越の大名はは新越後藩(ニューエチゴ)、新仙台藩(ニューセンダイ)、新会津藩(ニューアイズ)、新庄内藩(シンショーナイ)阿羅斯加藩(アラスカ)がある。なお、新会津藩は織田信長3男信孝の家系である。
北部は東北の大名が開拓に動員されたためか、出身地の地名をつけることが多い。これは寒冷な北部が人口希薄地帯で、スペイン人などの先入者がいなかったためである。インディアンの言葉をそのまま当て字にするのは難しいという事情もあった。
南部の開拓地には先着のスペイン人がつけた地名あったので、それを当て字して使うのが一般的で、南部には多くのスペイン文化遺産が残っている。
新墨藩(ニューメキシコ)、頃蘭土藩(コロラド)、文棚藩(モンタナ)でそれぞれアメリカ合衆国と国境を接している。カナダとは新仙台藩が国境を接しており、北部には大陸横断鉄道が走っている。アメリカ合衆国と接している3藩の藩主は前田利家次男利常と三男利治、豊臣秀吉の甥である秀次の家系で、北米の最大勢力は、加州藩で、次いで新仙台藩である。
加州では19世紀末に大規模な油田発見があり継続的な発展が見込まれている。
人口は本国に比肩する5000万人を擁し、さらに増加中である。
この地域における近代日本神話は北米伊達家の所管する北米開拓記における大雷鷲(サンダーバード)の章がこれにあたる。
『大樹大社の巫女が 植民の成功を願ふ神事執り行きし際に 雷を司る巨大なる鷲の精霊うちいで 彼らを歓迎せる これを見し先住民どもは ワキンヤンの祝福を受けし民として 彼らを歓迎せり』
南天大陸・南洋諸島。南太平洋に浮かぶ南天大陸は亨保年間から移民が始まったが、同時期にイギリス人もこの地をオーストラリアと呼んで、流刑地に使っていた。
両民雑居状態だったが、日本人とアボリジニの友好関係が深まるにつれイギリス人居留地は幕府軍やアボリジニの攻撃に晒され、大半の居留地が焼き払われているため、日本人の支配が暫定的に確立していた。
イギリス人は流刑地を変更し、南天の隣にあるニュージーランドを使い始めたので、英領としてニュージランドが残った。
オーストラリア・南天の帰属問題は、19世紀後半の現在も続いている。
イギリスもオーストラリアに興味がないわけではなかったが、実力行使に動かなかったのはイギリスが南洋方面に余力が出来た頃には中国の植民地化がしており、そちらに力点を置いたイギリスが譲歩した形である。また、現地の白人人口が全体10%程度で、人口比からイギリスの支配を正当化するのは困難な状況だったということもある
南天大陸を開拓したのは、真田信繁の家系であり新上田周辺で砂金を発見して南天最大の大名家に発展した。本土信州藩の藩主は兄信之の家系であるが、公武合体後の藩政奉還後、新信州藩(シンシンシュー)の支藩新上田藩(シンウエダ)として立藩している。また、土地面積が最大のウルル藩は建国を望まなかったアボリジニのためのアボリジニ自治区であり藩主はアボリジニである。もうひとつのアボリジニ自治藩はバリングラ藩であり二つとも巨大な1枚岩がシンボルである。
その他
勘察加(カムチャッカ)、ツングース藩(沿海地方およびハバロフスク地方南部)。
勘察加(カムチャッカ)は北米に進出した東北諸藩の経由地。主な土地資源が無く無価値な土地として扱われ幕府が形ばかりに天領とした土地。ツングース藩は蝦夷及び樺太開拓の延長として開拓したものの持て余し現地の先住民族の自治藩とした。
以上が大日本合藩連合帝国の内訳である。