大樹の妖精、神となり   作:公家麻呂

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93 近世 日露戦争 旅順要塞攻略戦第三次総攻撃・日本海海戦

 

第三次総攻撃が実施された。

 

日本軍は重要拠点である虎頭山や堡塁への攻撃を開始し、午後になって占領した。

 

 

 

さらに203高地攻防などでは、山童砲兵が徹底的に砲撃し陥落させた。

 

海岸線より半魚人や河童の陸戦隊が編成され上陸を開始した。

 

主要保塁が落ちたことで旅順要塞司令官ステッセリは遂に抗戦を断念し、1月1日16時半に日本軍へ降伏を申し入れた。

 

 

 

こうして旅順攻囲戦は終了した。日本軍の投入兵力は延べ10万名、死傷者は約8万名に達した。

 

 

 

 

 

2月21日には奉天にて双方あわせて60万に及ぶ将兵が18日間に亘って満州の荒野で激闘を繰り広げ、世界史上でも希に見る大規模な会戦となった。

 

3月9日、ロシア軍の司令官クロパトキン大将は撤退を指示。日本軍は3月10日に奉天を占領したが、またもロシア軍の撃破には失敗し、日露戦争全体の決着にはつながらず、それには5月の日本海海戦の結果を待つことになる。

 

 

 

 

 

日本海軍の連合艦隊は、すでに明治37年(1904年)8月10日の黄海海戦でロシア太平洋艦隊主力の旅順艦隊に勝利し、8月14日の蔚山沖海戦でマガダン艦隊にも勝利したことで極東海域の制海権を確保していた。また旅順要塞の陥落および旅順艦隊の壊滅の後、艦艇を一旦ドック入りさせるとともに、入念に訓練を行い、バルチック艦隊の迎撃殲滅に自信を付けて行った。

 

 

 

津軽海峡は日本側の機雷による封鎖が厳重になされていた。このようなことから連合艦隊司令長官東郷平八郎大将は、バルチック艦隊は対馬海峡を通過すると予測し主力艦隊を配置するとともに周辺海域に警戒網を敷いた。

 

 

 

5月14日、バルチック艦隊はフランスの援助を受けカムラン湾などでの補給を受けた。しかし、バンフォン湾で南洋妖怪たちの襲撃を受け、追い出されるように出港。この際、南洋妖怪にフランス軍が交戦しバルチック艦隊を援護している。

 

 

その後も南洋妖怪たちから複数回にわたり襲撃を受けた。この奇襲攻撃は昼夜問わず行われロシア水兵の心身を疲弊させた。

 

 

 

22日頃、同盟国台湾王国よりバルチック艦隊の宮古海峡通過が通報された。東シナ海に入り対馬海峡通過は確実のものとなった。

 

 

 

27日6時頃、連合艦隊は出港を始めた。戦艦「三笠」は大本営に向け『敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ聯合艦隊ハ直チニ出動、コレヲ擊滅セントス。本日天氣晴朗ナレドモ浪髙シ』と打電した。

 

 

 

「三笠」は沖ノ島付近での邀撃を目論み南下していたが、波が高く水雷艇の航行に支障をきたしていたため8時50分には水雷艇を三浦湾に退避させた。

 

 

 

「総員海戦用意!!」

 

 

 

13時39分、南南西に航行していた「三笠」は北東微北の針路に進むバルチック艦隊を正面艦首方向に視認し、三笠は戦闘旗を掲揚して戦闘開始を命令した。

 

 

 

『皇国ノ興廃、コノ一戦ニ在リ。各員一層奮励努力セヨ』

 

 

 

14時02分、さらに三笠は左に変針して針路を南西微南にとり、第1戦隊は北東微北の針路をとっていたバルチック艦隊に対して反対の針路に入り、そのまま反航戦を行うかのように装った。海戦図からの推定ではそのまま両国の艦隊が直進すれば先頭の旗艦同士がすれ違うのは14時10分頃で間隔は6,000mとなる。

 

 

 

14時04分、機雷が先端に付いた長槍の刺突機雷を装備した人魚や半魚人たちからなる特別強襲隊がバルチック艦隊を奇襲せんと連合艦隊の戦列を離れた。

 

 

 

その姿を連合艦隊司令長官東郷平八郎ら海軍士官たちは艦橋から見送った。

 

 

 

このころロジェストヴェンスキーは第1戦艦隊の殿艦である戦艦「オリョール」が第2戦艦隊の先頭艦である戦艦「オスリャービャ」の前まで出たと判断し、第1戦艦隊を第2戦艦隊の針路上に割り込ませていたが、実際には「オリョール」と「オスリャービャ」は並走している段階であった。

 

 

 

14時05分、敵を南微東に距離8,000mで臨んだ時、東郷は急転回での左回頭(=取舵一杯の命令を下した)を命じ14時07分に先頭の三笠は回頭を終え東北東へ定針した。敵の先頭を斜に圧迫し「三笠」は右横ほぼ正面に「クニャージ・スヴォーロフ」を望んでいた。

 

 

 

14時06分、「クニャージ・スヴォーロフ」が中央から爆発し真っ二つに割れる。特別強襲隊の攻撃であった。バルチック艦隊第2装甲艦隊に肉薄した特別強襲隊は第2装甲艦隊の艦艇を次々と攻撃しバルチック艦隊の足並みを崩した。

 

 

 

14時08分、「三笠」に続いて「敷島」が東北東に定針したその時、バルチック艦隊は砲撃を開始。第2装甲艦隊も傷を負いながらも砲撃を行い「三笠」に攻撃を集中した。日本側はすぐには撃ち返さず距離が縮まるのを待ち、14時10分に「三笠」が距離6,400mをもって発砲を始めた。その後、第1戦隊は回頭を完了した艦から発砲を始めた。

 

 

 

「三笠」に攻撃を集中したバルチック艦隊であったが、すぐさま有効な砲撃は行えなかった。「三笠」は「オスリャービャ」と「アリョール」の左前方約30度の位置であったため後方の砲が向けられず。

 

 

 

損耗した第2戦隊はこれ以上の被害を抑えるために右変針で敵からやや距離を取った後、14時15分から回頭を開始し第1戦隊の航跡の後ろに付き、再度発砲を始めた。

 

 

 

14時20分、第2戦隊所属の装甲巡洋艦「浅間」が被弾により舵機を損傷し戦列から離れた。しかしこれを除けば、連合艦隊は各艦の戦闘力を維持した。さらにバルチック艦隊の中央にお化け蛤の妖怪軍艦が多数浮上、蛤の口が開き砲門を覗かせ一斉に攻撃を仕掛ける。これに対してバルチック艦隊主力艦は多数の被弾により急速に戦闘力を失っていった。しかし、的中ど真ん中に浮上したお化け蛤船団はバルチック艦隊からの砲撃をもろに受け多くが沈み、沈没を免れたお化け蛤も殻が大きく割れ無残な形となった。お化け蛤の乗員であるカワウソたちはお化け蛤を捨てて海に飛び込んで行った。また、バルチック艦隊主力後方の艦は徐々に先行する「三笠」へ向けて砲撃が困難となり、前方の艦も被弾で砲撃が減り、「三笠」の被弾は峠を越えた。

 

 

 

14時35分、連合艦隊第1戦隊は東へ転針を行った。14時43分には東南東へ転針を行った。これによりウラジオストックへ向かおうとする同艦隊の北進路も遮蔽していった。この間にも連合艦隊の砲弾は舷側を撃ち抜くなど着実にバルチック艦隊各艦をとらえ、14時50分、第2装甲艦隊旗艦「オスリャービャ」は甲板上や艦内の各所で火災を起こしながら右へ大きく回頭して戦列から離脱した。「オスリャービャ」は舷側被弾口からの浸水への対処が進まず沈没した。

 

 

 

この30分間の砲戦で、バルチック艦隊は攻撃力を甚だしく失った。参謀長の秋山はこの30分間で勝敗は決したと評している。ここからは追撃戦であった。

 

28日の夜明けには残敵掃討を終え勝利宣言を出した。

 

日本海海戦の勝敗は決し大日本合藩連合帝国の大勝利に終わった。

 

 

日本海海戦のあとに外務大臣小村寿太郎らはアメリカ合衆国に仲介を依頼し、1905年6月6日に日本・ロシア両国に対し講和勧告を行い、ロシア側は12日に公式に勧告を受諾した。

 

 

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