日本合藩連合帝国とその同盟国全体の人口は20世紀初頭の時点で、約1億5千万人となり、世界第3位となっていた。1位の中国や2位のインドは人口は多いがどちらも列強の植民地である。
列強国としては文句なしの1位のであり、2位のアメリカ合衆国の2倍の人口を有し、日露戦争では妖怪と言う強力な兵を動員し、ヨーロッパ最大の人口大国であるロシア帝国を相手に圧倒する戦いを見せた。
大英帝国とほぼ同等の経済力を持ち、神秘学においても最先端を走る日本が大人口を有することは、他の列強国にとって脅威であった。
その北米諸藩や南天大陸には今だに発展途上であり、連合帝国と同盟国の経済力はさらに伸びしろがあると考えられていた。
いずれはアメリカ合衆国、大英帝国を抑えて日本合藩連合帝国が20世紀中に世界最大の経済国として浮上することは確定的だった。
強大な国力を持ち妖怪と言う化け物どもを束ねる連合帝国は、強力で膨大な軍を編成することは造作もないことである。
実際、ロシアと戦いながらも、アメリカ・カナダの国境線に相応の守備兵力をおいておく余裕があり、アメリカ合衆国がロシア寄りでなければ、さらなる兵力投入とて可能だっただろう。
しかし、それができれば苦労はないわけで、日本にとっての軍事的な悪夢とは、日本が他の場所で戦っているときに、アメリカ合衆国が西海岸へ攻めてくることだった。
ロシアとアメリカ合衆国のような大国と国境を接しているため、常に2正面作戦を考えなくてはならない点が日本の戦略環境の不利だった。さらに言えば北米諸藩や他諸藩や連合加盟国は日本本国や天領ほど精強な兵力を抱えてはいない。
イギリスもそれを理解しているので、ロシアと日本とアメリカ合衆国の対立を煽る方向で常に行動している。
対抗策として大日本合藩連合帝国はドイツ帝国の勢力との連携を人妖共に強化していた。
日本の対ヨーロッパ外交の基本は、ヨーロッパにおいてイギリス、フランスと敵対する誰かとの協力であり、イギリス、フランスと対立を深めるドイツ帝国は裏の関係を差し引いても正に適役だった。
ドイツにとってもロシアを背後から脅かす日本は好都合であり、ドイツと日本は安土大阪時代から始まり三国干渉を契機にさらに急接近したのである。
また、アメリカ合衆国と大日本合藩連合帝国の関係は悪化の一途をたどる。
1620年代に西海岸とアラスカより日本の開拓民が、東海岸に奥州の白人入植者たちがそれぞれ入植してきた。一方は類似した神を信奉し精霊の名のもとに融和協調を深めゆっくり生活圏を広げ、もう一方は安くて豊かな土地を求め暴力を持ってそれを急速に奪って行った。
白人勢力とインディアン(先住民)の戦争はこの時すでに始まっていた。その戦いに北米の日本人たちが加わるのは時間の問題であった。
日本は神道の八百万の神と言う精霊に類似したそれを信奉している。インディアンたちも精霊を信奉している。さらに言えば北米諸藩の大樹系神社の神事は妖精が取り仕切るものであった。北米諸藩の大樹神社の神事にはインディアンの『聖なるパイプ』の儀式が取り入れられている。
妖精は自然の具現化である。可視化した精霊と言ってもいいだろう。彼らインディアンにとって日本人と白人、どちらが天の使いで、どちらが悪魔なのかは一目瞭然だっただろう。
インディアンを野蛮と断じた白人とは異なり、彼らの宗教観や文化に寛容に接する日本人はインディアンの現状に心を痛め義憤に燃えるものが現れるのは自然な流れであった。
1768年のテカムセの戦争には北米諸藩がインディアン側に武器を輸出していた。
そもそもの白人とインディアンとの戦争は、クリストファー・コロンブスの上陸に始まるものである。コロンブスは中米のインディアン諸部族を艦隊を率いて数年にわたり虐殺し、その人口を激減させた。インディアンたちを黄金採集のために奴隷化し、生活権を奪ったためにインディアンたちは飢餓に陥り、疫病が蔓延し、その数をさらに減らした。白人のもたらした疫病がインディアンを減らしたのではない。コロンブスによる大量虐殺が、疫病によるインディアンの激減を招いたのである。
北米諸藩の日本人たちは約300年に渡るインディアン戦争の目撃者であったし、時には介入もした。心情的にはインディアンに味方したかったが本国の慎重な方針に従いアメリカ合衆国と決定的な対立に至る事だけは避けていたのであった。
1879年にはサンドクリークの虐殺と呼ばれる悪名高いインディアン虐殺が起こった。
1891年、ダコタ・ゴールドラッシュがブラックヒルズに巻き起こった時に、最後の重大なスー族戦争が起こった。ブラックヒルズ一帯は「ララミー砦の条約」では、スー族の不可侵領土だったが、金が出たあとはまったく無視され、白人の荒らし放題だった。合衆国軍はついに条約を自ら破り、スー族の掃討作戦に出たのだった。
20世紀に入ってインディアン条約が合衆国側から破棄され、北米諸藩はアメリカ合衆国へ外交特使を派遣し『先住民寛典処分嘆願書』と『先住民条約破棄に対する抗議文』を提出しアメリカ合衆国を強く非難した。
北米諸藩とアメリカ合衆国の亀裂が深まる一方で、織田慶信がロシア征伐の終了と高齢を理由に隠居を宣言した。
こうした逆風の中、1908年の征夷大将軍選挙に出馬した織田信達は清州織田(信雄)家の出身で、宗家継承者ではなかった。慶信は在職中から征夷大将軍は世襲しないと公言してきたので、慶信の実子が継いだ徳川宗家から出馬できる人材がいなかったのである。実のところ織田家の本命は関東織田家(大樹長男家)の織田大長を出馬させる予定であったが病弱を理由に辞退してしまっている。
対抗馬は、平民出身の原敬であった。
選挙結果は、織田信達の勝利であったが、世襲批判や不況の逆風で政権発足当初から多難な前途が予想された。
また、平民出身者の原敬が選挙で、織田一門衆と互角に戦って、あと一歩まで追い詰めたことは多くの人々に時代の変化を予感させる。
だが、そうした変化が具体化する前に、サラエボで轟音が鳴り響き、未曾有の大戦争が勃発してしまう。
第一次世界大戦である。またの名を第一次世界樹大戦と言う。