ルクセンブルクおよびベルギーの抵抗を粉砕しつつ、ドイツ軍は進撃を続けていた。8月後半になるとドイツ軍部隊はフランス北部に到達し、その地域で待ち受けていたジョゼフ・ジョフルの率いるフランス軍およびジョン・フレンチ率いるイギリス海外派遣軍との間でフロンティアの戦いが発生した。夥しい数のゾンビ軍団に英仏両軍は飲み込まれるように敗北しシャルルロワの戦いおよびモンスの戦いなどに大敗北した連合国は後退を余儀なくされた。
さらにル・カトーの戦い、モブージュ包囲戦、ギーズの戦いなどの戦闘においても英仏両軍に多量の死傷者が発生した。ドイツ軍はパリまで70キロの地点にまで到達したが、9月6日から12日までの第一次マルヌ会戦において進撃が停止した。莫大な損害を顧みず反撃に転じたフランス軍によって、ドイツ軍はエーヌ川のラインにまで後退し、塹壕を構築し始めた。緒戦においてドイツ軍(西洋妖怪軍団)の圧倒的強さを見せつけられたフランスとイギリスは持久戦の構えを見せた。
1914年10月15日のことだった。
ついに、欧州の全体を戦場としたこの戦いは世界規模のものに変わる。
大日本合藩連合帝国、中央同盟国陣営として参戦。
北米大陸ではカナダ自治領と北米諸藩の間で北米戦線が開かれることになる。
とは言え、厳冬期に近く両軍ともに陣地構築に終始した。
アメリカ合衆国が即座に宣戦布告してくることはなかったが、アメリカも徴兵制を敷いて大軍を編成しつつあり、いつ参戦してくるか分かったものではなかった。
イギリスがアメリカ合衆国の参戦を督促していることは日本も掴んでおり、アメリカが参戦してくることはすでに想定されたことであった。
既に総動員態勢に入っていたフランス。北アメリカ大陸ではカナダ軍と連合帝国の北米諸藩が睨み合い。アフリカ植民地は泥沼と化し、頼みの綱であったインドの大陸軍は太平洋から進出しようとする連合帝国軍への抑えとして大きく動かせずにいた。それにニュージーランドは封鎖されてしまった。
状況はさらに深刻化して行く。
環太平洋に広大な領土を持ち、イギリスに比肩する海軍力をもつ日本が参戦すれば、イギリスは海軍を極東へ回航せざるをえなくなる。極東には中国の植民地疎開やマレー半島、ニュージーランドと言った有用な植民地もある。環太平洋の植民地は失うには痛い。
青島のドイツ東洋艦隊如きはイギリス極東艦隊で捻りつぶすことも可能であった。
しかし、日本の艦隊は別格だ。そのことはイギリスも重々承知であり、日本は極東で通商破壊を行うドイツ東洋艦隊にスマトラ島や北ボルネオの日本領で補給活動が行われていることを把握していた。そう言った経緯もあってイギリスは極東に海軍艦艇と回航させるに至った。
対する大日本合藩連合帝国もシンガポールと目の鼻の先にあるスマトラ島のパレンバンや北ホルネオの油田地帯が、イギリス戦艦の艦砲射撃を受けるなど悪夢以外何者でもなかった。また、イギリス海軍の大規模な極東回航の情報も掴んでおり、連合帝国の先制攻撃は当然と言えた。
中国沿岸にあるイギリス、フランスの拠点は短期間のうちに一掃され、1915年1月には仏印の3個所に海軍に護衛された上陸部隊が殺到し、3個師団を投じて仏印を制圧した。
第二次仏日戦争の傷が癒えていない弱体化した兵力しかおいていなかったフランス軍は南下してくる阮朝軍と海上から上陸してくる連合帝国の上陸部隊、さらに足元には吸血鬼ピーなどの妖怪反乱軍に包囲されて一方的な敗北を喫し降伏するしかなかった。
コーチシナはこの時に一度解放されている。
仏印のフランス軍が降伏するとアジアの戦いはマレー半島を残してほぼ片付ついた。
なお、僅かばかりの領土を持つ蘭印領及びタイ王国の(日本寄り)中立は尊重された。
その時、ドイツ海軍が大挙して出撃すれば、大西洋の制海権が確保できると考えられた。
南太平洋に位置する数少ない欧州の植民地ニュージランドやニューカレドニアも南天艦隊による攻略作戦により、現地のイギリス、フランス軍を圧倒できるだけの数的優位を確保して攻め寄せ、これを陥落させている。ついでと言わんばかりに南天に僅かに残っていたイギリス入植地も現地諸藩によって陥落させている。
イギリス海軍は日本勢力圏から近すぎるこれらの根拠地の防衛を早々に諦め、日本本国から遠くはなれたインド洋で、雌雄を決する戦略だった。
マレー半島への上陸は、1915年2月のことであり、ラオス・ルアンパバーン王朝及びチャンパーサック王朝、カンボジア王国の中央同盟国として参戦後2ヶ月程度の戦闘でシンガポールは陥落する。
日英海軍の一大消耗戦となるインド洋の戦いが始まろうとしていた。