MEMORIA   作:オンドゥル大使

94 / 141
第九十五話「雨傘」

 

「アーロン。お前、両親はどうした? いつものようにこの草原に来るが、誰も咎めないのか?」

 

 ルカリオとの組み手を終えたアーロンにかけられた言葉はそれであった。師父は、波導使いの終焉を話してからというもの言葉少なで、ルカリオとの戦いも「よし」か無言かのどちらかである。

 

 ピチューの電撃での戦闘が板についてきたお陰か、ルカリオとの戦いでもそれほどまでに苦戦する事はなくなったが、時折挿入されるメガシンカに関してはまだ実戦不足であった。

 

 だから、アーロンは毎日戦いの事ばかりで――過ぎ去ってしまったそのような日常を回顧する暇もなかった。

 

「……師父が、気にする事じゃないでしょう」

 

 すると師父は文庫本を畳み、声にする。

 

「気にするさ。お前を波導使いに仕立て上げようとしている。ともすれば、両親の保護からわたしは勝手にお前を解こうとしているんだ。下世話な輩だと思われても仕方ない」

 

 意外であった。師父はそのような事などまるで考えない人だと思っていたのだ。

 

「でも、師父のせいじゃない」

 

「これはな、アーロン。ケジメという奴だ。お前という存在をわたしが保証する、そういうケジメでもある。言いたくないのだろうが、話せ。でなければ、これ以上、波導を教える事はない」

 

 波導の習得に関わるとなれば、話すほかないのだろう。アーロンは顔を伏せて手短に言った。

 

「もう、いません」

 

「いない、というのはどういう事だ? 死んだのか?」

 

「分からないんです。その辺りの記憶が曖昧で……。ぼくの、胸の傷の事は話しましたっけ」

 

「ああ、その傷の手術が原因で波導が見えるようになったんだったな」

 

 アーロンは胸元を押さえる。服の下には亀裂のような傷痕があった。心臓を射抜くように、鋭い傷痕が残っているのだ。何かが突き刺さった、と医者は説明した。恐らく金属片か何かであろうと。それを取り除いたが、一生その傷は残るのだと言われた。

 

 アーロンからしてみれば、傷痕よりも波導を見る眼のほうをどうにかして欲しかったが、師父がいる今、もう眼の心配はしなくともよさそうだった。

 

「自動車事故か、あるいはもっと大きな事故だったのかもしれません。でも、ぼくにとってはどうでもいい。両親はもういないのだと、遠縁の親戚に言われました。目が覚めた時には、もういない、とだけ告げられて」

 

 突然の事であったが、アーロンは特に驚きもしなかったのだ。死んでいても、ああそうか、と納得してしまう。どこか余所余所しい空気があった。

 

「波導が澱んだぞ。アーロン。何か隠しているな」

 

 参った事に師父の前で隠し事は意味がない。アーロンは木の根に座り込んだ。

 

「その……あまりいい思い出がなくって」

 

「どういう事だ?」

 

「虐待、って言うのかな。よく父親には殴られましたし、母親には知らん振りされて。そういう、よく分からない場所で育ったせいか、学校とかも馴染めなくって。他人の気持ちが、分からないんです。友達は、相棒のピチューだけで」

 

 ピチューが自分の気持ちを悟ったのか、肩に乗っかってくる。師父は黙ってそれを聞いていた。

 

「恨んでいるのか」

 

「分かりません。よく、分からないんです」

 

 ピチューの耳をさすってやりながら、アーロンはそうこぼす。本当に、分からないのだ。

 

 暴力的な父親に、無関心な母親。

 

 どちらにも恨む気持ちもなければ、怒りも憎悪も、何一つ湧いてこない。

 

 ただただ、そういう人間もそういえばいたのだな、という、無慈悲な感慨だけ。

 

 死んでしまっても、どうせ他人だ。

 

 その死が歪められていても、どうせ、自分ではない。

 

 何となく達観していたのはそれであった。

 

 死の価値観が自分は麻痺している。

 

 自身の死は多少なりとも怖いが、他人の死はどうでもいい。

 

 ルカリオと戦ううちに戦闘の恐怖も失せてきた。

 

 この手は波導を切るためだけに存在し、波導を破壊する事だけに、特化した存在だと割り切れば、気持ちが和らいでいった。

 

 何も考えなくっていい。

 

 壊す事だけでいい。

 

 だから師父が今まで壊す事だけ考えろ、と言ってくれたのは嬉しかったのだ。

 

 自分は気持ちの面で無理をした事はない。波導を切る事に最初こそ、躊躇と畏怖があったものの、今は何ともない。

 

 それが自身に与えられた、ただの力ならば。

 

「よく分からない、か。波導使いは多少なりとも感覚が常人とずれているものだが、お前は、まるで最初から波導使いになるべくしてなるように、仕組まれたような人間だな」

 

 そう評されても悪い気はしない。師父ならば自分の悪い面も含めて、受け入れてくれるような気がしていた。

 

「でも、波導使いになるのなら、これでも充分でしょう?」

 

 アーロンの言葉に師父は俯いて声にする。

 

「そうか。お前は、そういう人間であったか」

 

 いつもと違う。師父の声音にはどこか、落胆があった。

 

 何か間違えただろうか。自分は、ただ自分の感情に従っただけなのに。

 

 立ち上がった師父はこちらへと歩み寄ると、頬を叩いた。

 

 乾いた音が、草原に木霊する。

 

 痛みよりも、草いきれのにおいがどうしてだか、今さらに鼻をついた。

 

 重苦しい、湿気の渦が雨の到来を予感させる。

 

 自分が叩かれた事に、暫時、気がつかなかった。

 

 ただ、雨が降りそうだ、という他人事の感傷が胸を掠めただけだ。

 

「アーロン。お前に、その名を襲名させるのは少しばかり早かったようだ」

 

 何を言っているのだ。アーロンは師父の顔を見やる。

 

 その時になって、師父が怒っているのがようやく分かった。

 

 いつになく厳しい眼差しが自分を見据えている。どうすればいいのか分からず、アーロンは顔を伏せた。

 

 今さらに痛み始めた頬をそっとさする。

 

「ぼく、は……」

 

「行くぞ」

 

 師父が踵を返す。

 

 ――捨てられるのか、と咄嗟に判断した。

 

 アーロンは師父の足にすがりつく。

 

「待って! 師父! すいませんでした! もう、こんな事は言いません。だから、だから、ぼくに波導を教えてください! 波導の事ならば、何でも学びます! 何だってやります、だから……」

 

 そこから先に口をついて出た言葉は、自分でも意外なほどに罅割れていた。

 

「ぼくを、独りにしないで……」

 

 師父が目の前から消えてしまえば、自分は本当に独りぼっちだ。独りぼっちで、この青い闇と対峙しなければならない。それは耐えられなかった。

 

 振り返った師父は自分に声をかける。

 

「勘違いをするな。行く、と言ったのは、お前を弟子として捨てるという意味ではない。お前が、今まで捨ててきたものを、もう一度見つめ返しに行く」

 

 意味が分からなかった。アーロンは頭を振る。

 

「ぼくは、捨ててなんか」

 

「お前の両親の墓を教えろ。共に行く」

 

 師父の意外な言葉にアーロンは手から力を抜いていた。

 

 雨が、ぽつり、ぽつりと降り出していた。

 

 自分の両親の墓、と言ってもそれは今まで関知の外の話で、改めて問い質した事などなかった。

 

「……病院の裏手の身元不明の共同墓地に」

 

 ようやく、アーロンは言葉に出来た。

 

「あるはずです。ぼくの、親のお墓が」

 

「遠くはないのだろう? 行くぞ」

 

 だがどうしてだか足が重かった。師父は自分を無理やり立たせて墓場へと向かっていった。

 

 雨が強く降りしきる。

 

 灰色の景色の中を、青い衣の師父は悠然と歩いている。自分は、といえば師父に引っ張られて力なく歩くみなしごだ。

 

 病院はいつもアーロンが抜け出して草原まで来られる距離にあった。大人の足ならば十分も経たなかっただろう。

 

 共同墓地にある一つの墓石の前でアーロンは足を止める。

 

「両親の、お墓です」

 

 今まで恥じ入る事など何一つなかった。だというのに、それを口にする時は、とてつもなく恥ずかしかった。

 

 わけも分からず、羞恥の念が胸を埋め尽くし、目をきつく瞑った。

 

「そう、か」

 

 師父はそっと屈み込んで、瞑目した。

 

 その行動の意味が分からなかった。

 

 師父ほどの人がどうして、両親の墓に頭を垂れる必要があるのか。

 

 両親など、何もしていない。自分は自分の意思で師父に教えを請うているはずであった。

 

「頭を上げてください、師父。ぼくの両親は、師父ほど偉大な人じゃない」

 

「アーロン。軽んじてはならないものがこの世には一つだけある。分かるか?」

 

 アーロンは首を振る。分かるわけがない。

 

「血だ。この世界において、何が氾濫し、何が正義か悪か分からなくなろうとも、血だけは、血の因縁だけは消せないんだ。わたしはこの両親に敬意を払うほかない。何故ならば、血の巡り合わせが、わたしとお前を引き合わせたのだ。血がなければ、わたしもお前も、ただの、波導を見るだけの人でなしだ」

 

 師父がそこまでこだわる理由が分からなかった。師父がどれだけの研鑽の日々に自身を置いてきたのか、それは予想出来る。これほどまでの波導の極地、痛みを伴った事も聞いた。だが、師父が語っていなかったのは自身の血の話だけであった。

 

 師父は自分の血の話だけはしていない。

 

「師父には、ご両親は……」

 

「お前と同じだ。いつの間にか死んでしまっていた。顧みる事もなかった。死んだ命に価値などないのだと、わたしも思っていたからな」

 

 だが師父は墓石を軽んじるような目線だけは向けない。こんなもの、ただの石だ。波導も物質の波導だけである。

 

 壊そうと思えばいつでも壊せた。

 

 だというのに、師父はまるでこの世の最も尊いものを見るような眼で、ただの墓石を眺めている。

 

「じゃあ、師父もぼくと同じだったんですか」

 

「ああ。死者を軽んじ、血を軽んじ、自分の今以外の全てを軽く見ていた。だが、間違いであった。それは彼女を殺した後、波導使いの継承者になってから分かった事だった。わたしは遅過ぎた。それを理解した、その時にはもう、わたしはたった独りであった。孤独であった事さえも気づけないほどの、真の孤独にあった。今と先を見つめ続ける事は簡単だ。だが、人間には、後ろを振り返る機会がある。そんな時にもし、自分の後ろに何の道もなかったら、人はどうなる? 今歩んでいる道さえも疑ってしまう。先の道があっても、それは全てを消し去った末の虚栄だ。そんなもの、人の道ではない。わたしは死者が偉いと言っているのではない。死者の価値を、血の価値を軽んじれば、それは魂の価値さえも消し去ってしまう。お前の魂の在り処はどこだ? アーロン。どこにあると思う?」

 

 難しい質問であった。波導を学びたてであったし、魂など想像する余裕もない。

 

「……分かりません」

 

「だろうな。今のお前には、分からないだろう。わたしは、魂の在り処を消し去ってしまった、愚か者だ。どこにも、自分の痕跡はない。だからこそ強くあれたのかもしれないが、それは紙一重だ。紙一重の危うさをわたしは強さだと錯覚して生きてきた」

 

 師父のような人が後悔してしまえば、自分はどこへ行けばいいのか分からなかった。この人はいつだって道を示してくれた。だというのに、自分自身には道などないのだという。アーロンからしてみれば、そんな事はないと言いたかった。

 

「師父ほど強い人はいません。師父ほど、迷いのない人も。師父ほど……ぼくの尊敬する人も」

 

 だがどうしてだろう。

 

 涙が溢れていた。

 

 痛いわけでも悲しいわけでもない。

 

 しかし涙が止め処ない。

 

 師父がそっと、頭を撫でてくれた。

 

「今のうちに泣いておけ。この場所に帰れるのはきっと、お前が死ぬ時だけだ。涙を枯れ果てさせろ。波導使いは涙しない。波導使いが死ぬ時にはこの世に留まっていた証明も、何もかもを消し去って死ぬのだ。だが、心の在り処、魂の還る場所だけは、そっと胸に仕舞っておけ。それはわたしでさえもどうする事も出来ない、お前だけに価値のある場所だ。波導も、それを超える何かがあったとしても、お前の魂の在り処はそこにある。波導の流れでも、脈動でも、あるいは脳の電気信号でもない。真の魂の価値が宿るのは、還る場所を持っている人間だけだ」

 

 強い雨が降ってきた。

 

 今だけは、雨に感謝していた。

 

 涙を消してくれる。

 

 自分の胸に湧いた、一抹の後悔と、この胸に突き立った罪悪感。

 

 ――自分が歩んできた道だけは消すな。

 

 後にも先にも師父が自分を慰めてくれたのは、この時だけだった。

 

 同時に師父が、他人のために怒ったのも、この時だけだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 聞き終えたシャクエンは黙りこくっていた。

 

 アーロンも車のテールランプを追いながら話しているうちに、いつの間にか時間が深夜になった事に気がついた。

 

「すまないな。昔話に付き合わせるつもりはなかった」

 

 シャクエンは首を横に振る。

 

「聞けてよかった。波導使いは、まだ人の心を捨てていなかった事が分かったから」

 

「俺は人でなしだ。殺し殺されの世界でしか生きられないし、もう退路も分からなくなってしまった」

 

「でも、その師父の言葉だけは、覚えているんでしょう?」

 

 アーロンは青い鍔つき帽子を取って視線を落とす。

 

「この格好が波導使いの正装であるから、だけの理由ではない。いつか、師父が見つけ出してくれるように、という思いも込めてある。同時に、あの人もこの姿をしているに違いない。だからお互いに殺し合う時に、迷わないようにこの格好をしている。鏡に映った自分の姿を消し去るのに、人は迷わない」

 

 ビルの屋上を強風が煽った。青いコートがはためき、シャクエンの黒衣が揺れる。

 

「少しだけ、安心した」

 

「安心? 何がだ?」

 

「いい師に恵まれた事を。あなたは、大切な事を教えてもらった。教えてもらってから、独り立ちさせられた」

 

 そうなのだろうか。アーロンは時折、この道でいいのか考えてしまう。師父が望んでいたのは、もっと人のためになる強さだったのかもしれない。誰も傷つけないで済む生き方だったのかもしれない。

 

 だが、自分にはこれしかなかった。波導使いアーロンとして生きるのに、人殺しの道しか考えられなかった。

 

「今の俺を見たら、師父は幻滅するかもしれない」

 

「きっと、分かってくれると思う」

 

 アーロンは頭を振る。師父は、自分の道を選べ、と常々言っていた。そのために波導を教えるのだと。波導は生きるために必要になるだろうと。

 

 だが、この波導が結局人殺しを行い、アーロンはそれにすがって生きていくしかなくなっている。

 

「殺し殺されの手が、血に塗れた手が、今さら戻る事を許してくれるのかは分からない。もしかすると、師父は、それさえも分かっていて、俺に両親の事を思い出させたのかもしれない。忘れるな、と言ったのは、帰れる場所として、魂の在り処としてだけだ。俺がどこへ行くのかまでは、師父でも……」

 

 教えてはくれなかった。師父は波導の使い方と、波導使いの宿命を教えてくれただけだ。

 

 生き方の教本までは、教えてくれなかった。

 

「でも、人殺しをしてしまった私達は、もう、戻れないところまで来ている」

 

「暗殺者の皮肉だな。生きていくにはこれしかないのに、死ぬにしても他人の都合に振り回される」

 

 アンズはまだそこまでの領域にはなっていないと感じていたがどうだろうか。

 

 彼女は父親に――キョウに命じられれば何でもやるだろう。

 

 その点では瞬撃は最も恐ろしい暗殺者でもある。

 

 歯止めが利かないのだ。

 

 自分達のような理性の歯止めと抗い合って殺しを続けているわけではない。特別なマインドセットがあるわけでもなく、ただ「親に教えられたから」だけの理由。

 

 それは強力な暗示よりもなお濃く、彼女の血に刻みつけられているのだろう。

 

「俺達は親ではない。だから、道の強制は出来ないし、あいつに、こうあれと命じる事も出来ない」

 

「瞬撃のアンズ……。彼女は私達とは根本的に違う」

 

 恵まれているわけではないだろう。

 

 暗殺者の一門だ。

 

 しかし自分達と違うのは、親がいる事であった。その親に教えられて、殺しを遂行するアンズにはいささかの躊躇いもないのだろうか。

 

 暗殺する事に、殺しに何の疑問も挟まないのだろうか。

 

「子供にとって親はある種の絶対者だ。その親が、殺しをする事に、倫理観も、何も抵抗を示さないのだとすれば」

 

 それは悲しいのか。

 

 所詮、殺し屋である自分には推し量るしかなかった。

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。