被害者は生きている。
だが、誰かが確かに「殺そうとした」。
偶然その場に居合わせた綾音は、
現場に残された些細な違和感に気づく。
本作は一話完結のミステリー短編であり、
前作『創造紀エヴァンゲリオン』を
読んでいなくても楽しめる構成となっています。
※性転換要素は設定上の背景であり、
物語の主軸はミステリーです。
薄い朝靄が、大学の正門を覆っていた。
初夏の湿った空気が肺に入り、舗装材の知らない匂いが鼻を刺す。
遠くで鳥が鳴き、通学する学生たちの足音が、まだ疎らに響いていた。
イズモ「……ここは、どこだ?」
自分の声が、ひどく遠くに聞こえた。
最後の記憶は、使徒との戦闘だった。
覚醒。
世界そのものが引き剥がされる、あの感覚。
だが目の前にあるのは、ネルフの施設でも、戦場の残骸でもない。
ごくありふれた、日本の大学の正門だった。
カエデ「現在の暦を照合しました。西暦二〇三五年のようです」
耳元で囁く柔らかな声に、イズモは小さく肩を揺らす。
振り返っても、そこに姿はない。
だが“いる”という感覚だけが、確かにあった。
イズモ「……カエデ。どうして一緒に?」
カエデ「転移の瞬間、バックアップ処理を優先しました。結果的に、同調しています」
現実を確かめるように、イズモは自分の手を見下ろした。
細く、白い指。
以前の骨張ったものとは、まるで違う。
胸元に違和感を覚え、息を呑む。
イズモ「……女、か」
ポケットから学生証を引き抜く。
そこに記されていた名前は、茨波綾音。
年齢も学部も、生年月日も、自分の記憶とは一致しない。
だが、不思議と拒絶感はなかった。
綾音「……そういう役割なんだろうな」
生き延びるには、まずこの世界の人間になるしかない。
綾音は学生証をしまい、歩き出した。
法学部棟は、朝日に照らされてやけに眩しかった。
中に入ると、人の声と気配が一気に押し寄せる。
平和な日常。
かつて守れなかったもの。
綾音「法学部は初めてだな」
カエデ「外見上は問題ありません。私は眼鏡フレームとして待機します」
綾音「助かる」
そのとき、背後から軽い声がかかった。
友達「綾音ー。授業でしょ」
綾音「ええ」
自然に笑顔が出た。
この身体は、驚くほどよく馴染んでいる。
講義が終わり、廊下に出た瞬間だった。
「誰か! 助けて! 田中教授が倒れた!」
悲鳴に近い声。
空気が一変する。
綾音は、迷わなかった。
人だかりの中心に、白衣姿の男性が倒れている。
顔色は悪く、胸の動きがない。
綾音(……この匂い)
血の匂いではない。
爆発でもない。
だが、死にかけたとき特有の、冷たい空気。
綾音「AEDを」
手が自然に動く。
戦場で、何度も触れてきた感覚だった。
処置が終わり、教授は運ばれていった。
助かった。
――だが、完全ではない。
病院で告げられたのは、
致死量寸前の毒物反応。
事故ではない。
綾音は、現場を思い返していた。
倒れる直前の空気。
微かに残っていた、刺激臭。
そして――。
視界の端で、異様に動揺していた女子学生。
愛夏と名乗った彼女は、
“その場にいる理由”を、説明できていなかった。
論理ではない。
証拠でもない。
ただ、戦場で何度も見てきた目。
綾音「……あの子だ」
人気のないキャンパスの片隅で、
綾音は愛夏と向き合った。
綾音「助かってしまったから、怖い?」
愛夏の肩が、びくりと跳ねる。
愛夏「……違う……」
綾音「違わない。あなたは“死ぬと思っていた”」
沈黙。
愛夏「……教授は……私の研究を、全部奪った……」
それ以上、綾音は聞かなかった。
警察に連絡し、二人で歩き出す。
夕暮れ。
大学は、何事もなかったように静かだった。
綾音「……とんだ一日だったな」
友達「ほんとだね」
別れ、自宅へ戻る。
虫の声が、夜を満たす。
綾音「今日はもう限界だ。おやすみ」
カエデ「おやすみなさい」
異世界で迎える二度目の夜。
この世界では、彼女は“綾音”だ。
だが、
命の瀬戸際を嗅ぎ分ける感覚だけは、
確かに、あの戦場のままだった。
静けさの奥で、
新たな物語が、確かに動き始めていた。
次は涼宮ハルヒの憂鬱の世界でキョンになります