己を唯一神と信じて疑わぬ狂神がいた。その名も『神聖八榮』。
彼女の放ったメギドアークによって、幻想郷は滅亡の憂き目を見る。
ただ一人生き残った霊夢は、幻想郷復活を懸け、狂った神と対峙する。
しかし、狂神といえど神は神。一筋縄でどうこうできる相手ではなかった。
時が経つほどに悪化してゆく状況の中で、果たして霊夢は幻想郷を救うことができるのだろうか――。
頼りは己の身ただひとつ。
目指すは幻想郷の完全復活。
博麗の巫女による中興の幻想郷縁起が、今ここに開幕する。

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涅槃寂静確率上のロータスランド

○ プロローグ Break the Sabbath

 

 

 

 

 

 

「良くないな……。あれは凶星だ」

 

 夏晴れの空。その一点をじっと見上げていた魔理沙が、ポツリと呟いた。

 神社の縁側で大根の桂剥きをしていた霊夢は、手を止めて魔理沙の顔を見る。

 魔理沙の横顔に冗談めいた色はない。それを目ざとく見て取った霊夢は、視線を追って空を見上げる。

 

 真昼間だというのに、中天に赤い星が見えた。

 それは透明な肌に生じた面皰(にきび)のように、くっきりと悪目立ちしている。

 魔理沙はそれを指して、凶星と呼んだのだ。

 

 なるほど、してみると今日は霊夢にとって厄日かもしれない。

 というのも、今日の宴会で酒や肴を用意してくれるはずだった紅魔館の連中が、当日になって不参加を申し出てきたからだ。

 おかげで、霊夢は朝から忙しく立ち回らざるを得なくなり、空など見上げている暇もなくなった。

 それで、気づくのが遅れた。

 

 いつからあんな星があったのかしら。

 霊夢が独り言のようにつぶやくと、魔理沙は「今朝起きたときには、もうあったぜ」と答えた。

 

「紅いわね。紅魔館の連中、今日来ないみたいだけど、彼奴等また何か企んでるんじゃないの」

「お前、今日は勘が冴えてる日か?」

「うーん。どうかしらね。調子はあまり良くない」

「じゃあ違うな。そもそもレミリアなら、こういう時真っ先にやって来て、手品の種明かしてきそうなもんだろ。『あれは私がやった』とかなんとかさ」

 

 と、鳥居の向こうの空から声が響いた。

 見上げた先の空から、緑色の巫女が飛来する。

 

「霊夢さん! 言われてたお土産持ってきましたよー」

「早苗! でかしたわ!」

 

 東風谷早苗は一度神社上空を旋回すると、ふわりと境内に降り立った。

 出迎える霊夢に、早苗はにっこりと微笑む。その腕には竹籠が下がっており、彼女はその中身を得意げに披露してみせた。

 籠の中には、瑞々しい草葉が山と盛られていた。

 

「山菜です。山は夏でもわらびやうどが採れるんですよ」

「ありがとう。ホント助かる」

 

 二人が仲良く話しているのを、本殿に一人離れて座る魔理沙は少しつまらなさそうに見ていた。

 彼女は、ふいにニヤリと笑うと、意地悪く言った。

 

「下戸なのに宴会の手伝いとか、よくやるよな。敵に塩を送るってやつか?」

「私は皆さんと一緒に居るのが好きなんです」

 

 心外そうに早苗は頬を膨らます。

 彼女はふっと顔を上げ、空に穿たれた赤い点に意識をやった。

 

「あの赤い星、不気味ですよね」

「あー。ちょうどその話をしてたとこ。なにかの異変の前触れかもしれないわね。またぞろ紅魔の連中が――」

「……? 霊夢さん? 何か、身体が光ってませんか? 紅く――」

 

 早苗の言葉通り、境内に立つ霊夢の身体が、にわかに光を帯び始めた。

 紅白の巫女が今や紅一色に染まり、めでたさよりも禍々しさがいや増してゆく。

 

「霊夢! 避けろ!」

 

 切迫した叫び声が、霊夢の心臓を跳ね上げる。

 霊夢が振り返ると、魔理沙の必死の表情が、びっくりするほど近くに見えた。

 次の瞬間、霊夢の身体は、猛烈な勢いで吹き飛ばされていた。至近距離から、ブレイジングスターの当身を食らったのだ。

 

 ――直後、まばゆい真紅の閃光が弾けた。耳をつんざく爆音がそれに追随する。

 ほぼ同時に、衝撃波が巫女の身体を横殴りにひっぱたき、鳥居の外まで吹き飛ばす。

 

 かろうじて空中で身を留めた霊夢は、すぐさま眼下の境内に視線を投げる。

 爆発の影響で、境内全体に、もうもうと土煙が舞っていた。

 淡黄色にぼやける視界の先に、誰の姿も見えはしない。

 霊夢は苛立たしげに叫んだ。

 

「魔理沙! 早苗! 生きてる?」

「霊夢さん! ゲホッ、ゲホ。大丈夫ですか!?」

 

 早苗は無事だ。煙の向こうから声が聞こえた。

 しかし、魔理沙は――?

 

 霊夢は歯ぎしりしながら、土煙の収まるのを待っていた。

 天狗の一匹でもいれば、ここでひと風起こして土煙を吹き飛ばせるのであろう。が、奴等はそう都合よく付近に転がってるような妖怪でもない。待つほか手がなかった。

 

 やがて土煙も落ち着きを見せ始める。

 参道脇に目を滑らせると、五体満足でへたり込む早苗の姿が見て取れた。

 

 しかし、魔理沙の姿は、境内から消えていた。

 

 あとに残されているのは、めくれ上がった境内の石畳と、椀状のクレーターだけだった。

 

 霊夢の顔から、さあっと血の気が引く。

 今更になって働き始めた勘が、霊夢に危急を告げ始めていた。

 

 勘に従って、今一度空を仰ぐ。

 ――先程までたった一つだった凶星が、いまや無数に増えて、空全体にひしめいていた。

 

「早苗! 逃げて!」

 

 境内の隅で呆然としている早苗に向かって、霊夢が叫ぶ。

 しかし、早苗は「魔理沙さんが……魔理沙さんが……」とうわ言のように繰り返すばかりで、霊夢の声が届いていない。

 霊夢は喉を鳴らして唸ると、彼女のもとに飛んで行こうとした。

 

 だが、その腕を、誰かの手が後ろから掴んだ。

 勢いでのけぞる霊夢を、その手は強引に引っ張る。

 そしてそのまま、霊夢の身体は異空間に引きずり込まれた。

 見覚えのあるその空間は、隙間――。

 

「紫!」

 

 隙間の外に垣間見えたのは、賢者・八雲紫の姿だった。

 いついかなるときも胡散臭く微笑んでいた妖怪賢者が、険しい表情で霊夢を真っ向から見据えている。

 

「霊夢、せめて、貴女だけでも――」

「ま、また光が――! きゃあああああああッ」

 

 紫がわずかも話さぬうちに、隙間の向こうで悲痛な叫び声が上がった。

 再び、爆音と閃光が空気をつんざく。隙間の中にいる霊夢の顔面にも、その衝撃が飛来し弾けた。

 次いで、砂埃が隙間の口から吹き込んでくる。

 

「早苗!? 紫! 早苗が!」

 

 うろたえる霊夢を手で制し、紫が叫んだ。

 

「霊夢、よく聞きなさい!

 その隙間の中なら、貴女は身体を失わずに済むわ!

 いい? 霊夢、必ずこの異変を解決しなさい!」

「紫!? どういうことよ! 話が飲み込め――」

 

 霊夢が言い終わらぬうちに、隙間がぴしゃりと閉じた。

 隙間の閉じる直前、霊夢の眼は見た。紅い光に包まれる紫の姿を。

 滅びの光の中で悲しげに微笑む紫の顔が、霊夢の瞼に焼き付いて消えなかった。

 

 

 

 

 

 

【涅槃寂静確率上のロータスランド】

 

 

 

 

 

 

○ 第一章 幻想の住人

 

 

 

 

 

 

 いかほどの時間が過ぎたか。

 隙間の中の空気は暖かく凪いでおり、霊夢の身体はその中で、胎内の赤子のように揺蕩(たゆた)っていた。

 

 約束された安寧に包まれた世界。隙間はそのような場所だった。

 

 しかし、環境の穏やかさと裏腹に、霊夢の胸中には嵐が吹き荒れていた。

 詮無いことだった。霊夢がその目で見た限りでも、三名の知り合いが安否不明なのだから。

 焦燥に駆られ、霊夢は何度も空間をこじ開けようと試みた。だが、それらの行為は無駄骨に終わった。

 霊夢の意思に反し、隙間はなかなかその口を開こうとしなかった。

 

 隙間の一部が弛緩し、だらりと口を開いたのは、実時間にして一刻程度経った頃だろうか。

 霊夢は隙間が開くのを見るや、獲物に飛びかかる狐のごとき勢いで出口に飛び込んだ。

 

 隙間からまろび出た霊夢が最初に見たのは、完全破壊された博麗神社の姿だった。

 石畳は八方に飛び散り、灯篭はすべて倒れ、参道に面した桜の木々は根こそぎ倒れていた。

 神社の建屋も、本殿はおろか、離れや手水舎、庵や祠に至るまで狙いすましたかのように徹底的に打ち崩されている。

 

 しかし、今、霊夢の関心は別のところにあった。

 ――生きている者はいないのか。

 彼女はその瞳をせわしなく動かし、耳をすませ、五感を研ぎ澄ませて生命の気配を探した。喉をふるわせ、知る限りの名を呼んだ。

 

 だが、神社の周辺に、動く気配、生きる気配は皆無だった。

 

 いたたまれなくなって、霊夢は空に昇る。

 そして、はるかの高みから幻想郷のぐるりを見回す。

 

 美しかった幻想郷が、今やおぞましいあばた面と化していた。

 例の忌まわしき紅い光の衝突により、大地を覆っていたはずの草木は剥ぎ取られ、その下の土壌が暴露している。

 

 生命の気配は、空から見ても一切感じとることができなかった。

 

 そこで彼女は、しらみ潰しに幻想郷を巡ることにした。人里に向かい、命蓮寺に向かい、魔法の森を訪れ、紅魔館にも寄った。山を登り、商売敵の社を訪れ、川を下り、河童の姿を探し、無縁塚を伺い、竹林にも顔を出した。あらゆる場所を、それこそ草を分けるように探した。

 

 しかし、人っ子一人――誰ひとり、生きる者の姿を見つけることはできなかった。

 生きる者どころか、霊の一つも目にすることができないのは、奇妙ですらあった。

 

 そうこうするうち、気づけば夜の帳が落ちていた。

 霊夢の頭の上で、満月だけが変わらぬ青い光を地に落とす。

 

 夜の闇の中から、ことこと、かたかた、さやさや、ふうふう、葉擦れの音が、耳朶を震わす。

 

 しかし、風にそよぐ草の音は、風にそよぐ草の音以外たりえない。

 それは、今の霊夢にとって絶望的なトートロジーだった。

 

 夜に吹く風の音が、もしも妖怪の息の音であったなら、どんなにか幸せだっただろう。

 闇の草陰に怪異の一つでも潜んでいれば、まだ救われたであろう。

 しかし、この幻想郷に、もはや幻想を期待することはできなかった。

 

 己以外に見る者のいない月を、霊夢は振り仰ぎ見る。

 

 何かが、胸の奥からせり上がってくる。

 彼女は喉を鳴らして、それを飲み込んだ。

 

 大幣(おおぬさ)を握りしめ――霊夢は、吠えた。

 幻想郷の真ん中で。

 ただ一人、生き残った世界で。

 

 

 

 

 

 

○ 第二章 Arcadian Dream

 

 

 

 

 

 

 ――さくら、さくら、やよいのそらは、みわたすかぎり。

 

 絶望の一夜を越えた朝のこと。

 神社裏の木陰で睡眠をとっていた霊夢は、ゆめうつつの中で、誰かが歌うのを聞いた。

 渇望していた他者の声である。だが、それは聞き慣れぬ声であり、霊夢の勘はその異質さに警戒を示した。

 

 霊夢が恐る恐る境内に顔を出すと、倒れた石灯籠の上に、一人の少女の姿が見えた。

 一見した印象は、巫女に似ていた。彼女が身にまとう衣は、使われる生地こそ色彩豊かなものだったが、仕立ては神道の巫女装束のそれに近い。様々な宝石のちりばめられた装いは、なんとも輝かしく、神々しかった。

 少女は目を閉じ、祈るような様子で、一心に童歌をうたっている。

 霊夢は、意を決してその少女に声をかけた。

 

「あんた誰?」

 

 霊夢の声に反応して、少女の瞼がさっと開く。

 彼女は、霊夢の姿を認めるや、その眼を大きく見開いて驚いた。

 

「あれっ? 消し残し? おかしいな、ネズミ一匹漏らさず処理したはずなのに」

 

 少女の声音は存外フランクなものだったが、話す内容は穏やかでなかった。

 

「あんたは、誰?」

 

 霊夢は辛抱強く繰り返す。

 すると少女は石灯籠から飛び降り、魅力的な笑顔でこれに応えた。

 

「私は、名を神聖八榮(しんせいやはゑ)と申します。

 西の海の向こうで、ヘブライ人達に唯一神と崇め奉られた神とは私のことです。二千年の時を越え、シオンの末裔が住むこの島において、私は救済と福音をもたらしに参りました」

 

 少女はあくまでにこやかに、かつ饒舌にそう語った。霊夢は半ば気圧されつつも、努めて平静を装う。

 

「ご丁寧に自己紹介ありがとう。私はこのぶち壊れた神社の巫女、博麗霊夢よ。つかぬことを聞くけど、幻想郷を蜂の巣みたいにしたのは、あんたの仕業?」

「ええ、そうですが、何か?」

 

 八榮と名乗る少女は、平然とそう言ってのけた。

 途端に、霊夢のこめかみに青筋が浮き上がる。

 

「なら、即刻、元に戻して」

 

 怒りを押し殺した声で、霊夢は短く命じる。

 すると、八榮の表情がにわかに曇った。

 

「はい? なぜです? ここは、私の土地ですよ? 私の好きなように造成しても一向にかまわないはずですが」

「はあ!? 突然現れて何言ってるのよ! 幻想郷は誰の土地でもないわ!」

「いや、いやいやいや! 待ってくださいよ。ここはアルザレト・カナン……真の約束の地ですよ? 二千五百年前の契約で、そう決まっているじゃないですか」

「知らんわ! 決まっていることなら、立て札でも立てて縄でも張っときなさいよ!」

「それを今やろうとしてるところなんですって!」

「二千五百年前にやっとけっつってるのよ!」

「ああもう! 猿相手に会話できると思った私が莫迦だった!」

 

 八榮は叫んで、大げさに腕を振り回す。その掌が、霊夢に向いてピタリと止まった。

 掌の向こうで、八榮の瞳が紅い光を(たた)え、怪しげに揺れる。

 

「や、闘るっての?」

 

 すわ戦闘開始かと、霊夢は慌てて身構える。

 八榮はそんな霊夢の様子を見て、せせら笑った。

 

「好戦的な……これだから邪教は。私は、そんな野蛮なことは一言も言っておりませんよ。ええ、そうですとも。いっそ私は、貴女と友達になれそうな気さえするのです」

 

 言葉に反して、八榮は霊夢に向ける手を下ろそうとしない。

 霊夢の額に、玉の汗が吹き出る。

 

「要点を言いなさいよ」

「この土地は、私がちゃんと作り直しますので安心してください、と言いたかったのです。そして、私はぜひとも、作り直した後の理想郷に貴女を招待したい」

 

 言い終えるが早いか、八榮の掌から閃光が迸った。

 幻想郷を襲った、赤き光条――。

 頭めがけて一直線に放たれたそれを、紙一重で霊夢は(かわ)す。

 直後、背後から爆音が響き、遅れて、立ち木の倒れる乾いた音が聞こえてきた。

 思わず、霊夢は怒声を上げた。

 

「何をするのよ!」

「困りますね。貴女にはこの技を受けて眠っていただかないと。次に目を覚ましたとき、貴女は神の恩寵の下で幸福に微笑むことになるでしょう」

 

 八榮はそう言って不敵に笑った。

 

 ふと違和感を覚え、霊夢は自らの耳元に手をやった。

 ぬるりとした感触が指に触れる。

 離した掌を一瞥すると、べったりと血で塗れていた。

 先程の光が掠めたのか、霊夢の耳の端が切れ、血が装束の肩に垂れ落ちていた。

 

 ――けっして、この技を受けてはならない。

 受ければ、何もかもが終わる。

 

 霊夢の内奥で微睡んでいた勘は今やはっきりと目醒め、彼女の心臓の奥でけたたましい警報を鳴り響かせ始めていた。

 

 

 

 

 

 

○ 第三章 装飾戦

 

 

 

 

 

 

 半刻前に火蓋を切られた闘いは、早くも膠着状態に陥っていた。

 初めこそ八榮が一方的に押す展開であったが、それは単に手数で圧していたというだけで、帰趨を決める決定打にはなっていなかった。

 

「なぜ当たらない……!」

 

 不服そうに、八榮が唸る。

 彼女が休みなく放つ紅の閃光を、霊夢はすんでのところで、ことごとく躱していた。

 霊夢はかなり早い段階で既に、彼女の技を見切っていたのだ。

 空中で呼吸を整えつつ、霊夢は大幣の先を八榮に向ける。

 

「当たらないのは、あんたが技に想いを込めているからよ」

「何……?」

「想いは重い。あんたが、何がしかの想いを載せてその技を放つ限り、私は必ず躱し、すり抜けてみせる」

 

 この挑発が心に効いたのか、八榮は悔しげに顔をしかめた。

 しかし、かような見得を切ってはみたものの、霊夢の状況も実のところ八榮と大差はなかった。

 針にしろ符にしろ、放ったところで八榮の体にかすりもしない。

 霊夢もまた、感情や使命感その他によって、知らずのうちに自らの攻撃に重しを載せてしまっていたのだ。

 

 ――こんなことなら、白蓮に瞑想の仕方くらい教わっときゃよかった。

 

 そんな想いが胸をかすめるも、今となっては後の祭りである。

 一方の八榮は攻撃の手を休め、思案げに顎をさする。

 

「……邪教の司祭と見くびっていました。これ以上この技を繰り出しても無駄のようですね」

「そういうこと。ようやくわかった?」

 

 霊夢は得意げに胸を張ってみせる。

 見え透いた挑発である。これで相手の苛立ちを誘引できればしめたものだったが、八榮は動じなかった。彼女は素直に「ええ」と呟いて、理知的な眼を霊夢に向ける。

 

「ならば、策を変えましょう。貴女には時間を飛びこえ、私が作り直した理想郷を見てもらう。それを見れば、貴女の心も変わるかもしれない」

「何言ってるの。そんなものを見るつもりは――」

「いいえ、見てもらう」

 

 霊夢の言葉を遮り、八榮は断固として言った。

 

「貴女は見ざるを得ない。

 なぜなら、次の技を、貴女は決して躱すことができないから。

 いかなる物質も、光の速さを超えることはできないのだから」

 

 自ら手品の種を明かすとは、大した自信である。

 八榮の言を真に受けるならば、次の技は光に近い速さで繰り出されるということになる――。

 

 幻想郷には、光の速さを超えることのできるメイドがいる。否、いた。

 霊夢は、今この場に十六夜咲夜が居ないことに歯噛みする。

 あるいは、文なら、その神速で対応できるかもしれない。

 あるいは、神子なら、その威光でもって敵の技を打ち消すかもしれない。

 

 かつて闘った強敵達の顔が脳裡に浮かぶ。彼女達なら、この状況をどう切り抜けるだろう――。

 

 霊夢は頭を乱暴に振って、雑念を払った。考えても詮無いことなのだ。

 皆、いなくなってしまった。目の前にいる、この狂った神の手によって。

 他の誰かがなんとかしてくれる――。そんな甘えた逃げ道など、最初からどこにもありはしない。

 頼りになるのは己の身一つしかないのである。

 

 さて、次に放つ技を予告するからには、八榮には絶対の自信があるのだろう。

 一方の霊夢には、全力で避ける以外に策がない。

 霊夢の攻撃もまた、八榮に全て見切られているのだ。夢想封印を使う余力も、霊夢には残されていなかった。

 次の攻撃で全てが終わる可能性は、多分にあった。

 

 巫女は封魔針を取り出す。それが最後の一本だった。

 たとえ勝ちの目が薄くとも、決して退いてはならない闘いがある。

 それが今なのだと、霊夢にははっきりと判っていた。

 

 霊夢は、努めて穏やかな声でもって、八榮に告げる。

 

「やりたいように、やってみなさい。私は最後まで抵抗する」

 

 八榮は神妙な表情でそれに応えた。

 

「よくぞ言ったわ……」

 

 八榮は己の眼前で握り拳を作る。

 すると、握った指の隙間から、白い光がちらちらと漏れ始めた。

 神を名乗る少女の顔に、ここに来て初めて苦悶の表情が浮かんだ。

 その拳の中の光を創り出すために、相当な量の霊力を消耗しているらしかった。

 おそらくは、彼女にとっても、この一手は賭けなのだ。

 

 もはや、一刻の猶予もなかった。

 霊夢は電光石火の勢いで腕を振るう。その手から離れた針が、八榮に向かって吸い込まれるようにかっ飛んでゆく。

 

 その時、八榮が、やにわに叫んだ。

 

「想いを捨て、天理をなぞる――。

 受けてみよ! 我が創世の神秘を!」

 

 霊夢の放った針が八榮の胸をまさに貫こうとした瞬間、神の拳がまばゆく白く光った。

 その光が霊夢の瞳孔を刺した刹那、彼女の意識は暗転した。

 

 

 

 

 

 

○ 第四章 Dream Land

 

 

 

 

 

 

 雀のさんざめく声に誘われ、霊夢は目を覚ました。

 

 仰向けの瞳が見上げる先には、見慣れた天井の木目が見えた。

 干したての、ふかふかの敷布団の上に、霊夢の身体は横たえられていた。

 すんと鼻で空気を吸えば、嗅ぎ慣れた畳の匂いが鼻腔を通り抜けてゆく。

 視線を横に向けると、よく知る場所に箪笥と姿見が据わっている。

 

 辺りは暗いが、間違いない。

 ここは、博麗神社の離れにある霊夢の寝屋だった。

 

 布団を跳ね上げ、雨戸をこじ開ける。燦々たる朝の光に差しこまれ、霊夢はまぶしそうに目を眇めた。

 

 霊夢は視界に広がる風景を見て、息を飲んだ。

 破壊前と変わりない、博麗神社の姿がそこにはあった。

 

 粉々に砕け散ったはずの本殿は、梁の一本に至るまで寸分の狂いなく復元していた。

 バラバラにとっちらかっていた石畳は整然と敷き直され、また、仲良く横倒しになっていた石燈籠も今はしゃんと自立している。

 なぎ倒された桜の木々も、完全に元通りになっている。

 

 否。元通りというより、元からこうだった、という風情なのである。

 本殿の土台の石にこびり付いた苔ひとつとっても、元からそうだったかのような古寂びっぷりなのだ。

 あの大破壊など、初めから起きていなかった。そうと考えた方が辻褄が合うようにすら霊夢には思えた。

 

 こんな不思議があるものだろうか。

 もしやこれは何かの化生に化かされたか。

 まさか今の今まで、白昼夢でも見せられていたのか。

 

 霊夢の脳内で、諸々の可能性がぐるぐると巡る。しかし、こういったことは頭で考えたところで埒が明くものでもなかった。

 

 霊夢が善後策を思案していると、頭上から聞き慣れた声が聞こえてきた。

 

「おっ! 霊夢、やっと復活したか!」

 

 空には、真っ白な入道雲。

 その眩しい白を背負い、箒にまたがった白黒の魔法使いが、今しも神社の境内に降りようとしていた。

 

「魔理沙! 生きてたの!?」

 

 霊夢は目をこれでもかと見開き、素っ頓狂な声を上げる。

 八榮の閃光を受けて消し飛んだはずの魔理沙が、生きて動いて笑っているのだ。

 霊夢が驚くのも無理はなかった。

 

 そんな霊夢の姿を見られたことが余程嬉しかったのか、魔理沙は満面の笑みを浮かべ、霊夢の前でくるりと回って見せた。

 

「なんだよ、大げさだな。この通りピンピンしてるぜ。なんなら今から一緒に朝の体操でもしようか?」

 

 その様子があんまりにいつもどおりの魔理沙だったものだから、霊夢は拍子抜けしてしまった。

 彼女は大きなため息をついて、本殿の縁側にぺたりと尻をついた。

 

「心配して損したわ」

「なっ、なんだよ! あんときゃ、本気で必死だったんだからな!」

「冗談よ。ありがとね、守ってくれて」

 

 言って、霊夢は微笑む。

 言葉こそ短かったが、その笑顔には、真実の感謝が包み隠さず溢れていた。

 まさか霊夢からそんなまっすぐな感情を向けられるなど予想だにできず、心の準備のなかった魔理沙はどぎまぎしてしまった。

 彼女はバツが悪そうにそっぽを向いて、

 

「こっちこそ……その、悪かったな、心配かけて」

 

 などと、口の中でもごもご呟いていた。

 霊夢はわずかに苦笑してから、改まって尋ねた。

 

「それで、教えて欲しいんだけど。何がどうなってるの? あんた、赤い光に打たれて粉砕されてなかった?」

「そうだな、最初はワケがわからんだろう。かくいう私もそうだった。それじゃあ、親切なこの魔理沙様が、一からやさしく説明してやるとしよう。ええとだな――」

「霊夢! なによアンタ、戻っていたなら挨拶に来るなりしなさい!」

 

 聞き覚えのある小生意気な声が、魔理沙の話を遮った。

 声のした方を見た瞬間、思わず霊夢は声を張り上げた。

 

「レミリア! 咲夜も!」

 

 視線の先で、紅魔館の主従が、今まさに境内に舞い降りようとしていた。紅き吸血鬼、レミリア・スカーレットと、その従者、十六夜咲夜である。

 喜色を浮かべる霊夢。その一方で、魔理沙は不服そうに眉根を寄せていた。

 彼女は箒の柄の先で小さな吸血鬼を指し示して、曰く。

 

「おい、そこの吸血鬼。人が話をしているところに割り込むんじゃあない」

「莫迦ね。貴女だけに霊夢を独り占めさせるわけないでしょ、白黒魔法使い」

 

 出会い頭に火花を散らす二人。いきなり弾幕戦でも始まりそうな雰囲気だった。

 呆れ顔で二人の様子を見ていた霊夢の前に、咲夜が笑顔で近づいてきた。

 

「霊夢が今日戻ってくると伺っていたので、宴会の準備をしてきました。お邪魔でしたか?」

「い、いや……」

 

 咲夜の背後では妖精メイド達が、料理を乗せたワゴン・カート引っ張り、忙しそうに立ち回っている。

 すると、食べ物の匂いにつられたのか、神社には様々な客の姿が現れ始めた。

 星の三妖精や、氷の妖精、山の仙人、花の妖怪、山彦や夜雀、人形遣い……。

 人外密度の高さは気になるものの、いつもどおりの宴会メンバーが揃いつつある。

 

「みんな、生きてたのね」

「安心したか?」

 

 霊夢の肩に腕を乗せ、魔理沙が楽しげに尋ねる。

 

「そりゃ、ね」

 

 何もかもが、いつもどおりだった。

 空の青さも、葉のざわめきも、その向こうの妖精や妖怪の気配も、酔っぱらいどもの杯を交わす音も、莫迦笑いも。

 こみ上げてくるものをこらえるために、霊夢は空を仰いだ。

 そんな霊夢を見て、魔理沙としても思うところがあったのだろう。

 彼女はにっと白い歯を見せて、霊夢の肩を乱暴に揺さぶった。

 

「さ、一緒に飲もうぜ。話の続きをしよう」

「ん」

 

 霊夢が宴会の輪に入ろうとした時、境内の中にざわめきが波打った。

 その場にいる全ての人妖の視線が、たった今境内に入ってきた客に向いている。その顔を見た瞬間、霊夢の瞳から光が消えた。

 

「うそでしょ……!」

 

 忘れもしない、その顔の主は。

 ――神聖八榮。

 彼女は参道の真ん中を我が物顔で練り歩き、霊夢の方へ近づいてきた。

 と、霊夢の横で、突然魔理沙が叫んだ。

 

「おお、麗しき我が主よ!」

「んん!?」

 

 つい今しがたまで、いつもどおりの魔理沙だったのだ。

 それが、唐突に芝居がかった声を上げて――霊夢の見ている前で、あろうことか――土下座をしていた。

 あまりの展開に、霊夢は口を団子のように丸く開いて絶句するしかなかった。

 そんな霊夢を、魔理沙が横目で見咎める。

 

「おい、霊夢! 莫迦ッ、不遜だぞ! 額づけ! 平伏しろ!」

「はあ!? なんでこいつに土下座しなきゃならんのよ!」

 

 こいつ呼ばわりされた神は、しかし怒りもせず鷹揚に笑った。

 

「ああ、良いよ魔理沙。この子はまだ洗礼を受けていないのですから」

「嗚呼〜、なんと寛大なことか……」

 

 魔理沙は慄きながら、潰れた蛙のように地面にへばりつく。

 周りを見れば、神社に集っていた人妖の全てが地面に身を投げ出し、平身低頭していた。

 異様な光景だった。

 今や、この場で起立しているのは霊夢と八榮のみ。

 賑やかだった宴会は、一転、水を打ったように静まり返っている。

 

 晴天の博麗神社に不穏な影が差しつつあることを、霊夢は敏感に感じ取っていた。

 

 

 

 

 

 

○ 第五章 Bad Apple

 

 

 

 

 

 

 皿に盛られた辛子蓮根を箸で口に運ぼうとして、八榮はふと思いついたように手を止めた。彼女は、傍らに立つ咲夜に向かって問いかける。

 

「咲夜、食事に牛や豚は混ざってはいませんか? せっかくのお祝いだというのに、主賓の食事がないのは可哀想ですから」

「はい、抜かりありませんわ」

「いや、待って。うちは肉類食べても問題ないわよ? むしろ肉は好物なんだけど」

「あら、そうでしたか? なにぶん、邪教の教義には疎くて」

「あんた、結構大雑把ね……」

 

 八榮の到来で一時中断していた宴会は、八榮自身の号令により再開された。

 境内に敷かれた茣蓙(ござ)の上で、皆思い思いに盃を酌み交わしている。

 が、その中にあって八榮と霊夢だけは、境内の中央に据えられた食卓に座り、咲夜が特別に誂えた食事をとっていた。あのレミリアですら、地べたに尻をついているのに、である。

 一種気まずい想いを抱えつつ、霊夢は八榮に向かって問うた。

 

「それで、もちろん説明はあるんでしょうね?」

「ええ、もちろん。なんでも質問してください。それに私は答えましょう」

 

 八榮は軽々(けいけい)とうなずき、盃の酒を啜る。

 

「まず、ここはなんなの? 私、あんたの技を食らったのよね?」

「はい、間違いなく、私の幻想光化法は貴女に作用しましたとも。

 ――ここは、あれから3日後の世界です」

「3日後……。その間、私はずっと眠っていたってこと?」

「いえ、貴女は、今日の夜明け前に、この世界に現れました。白い流れ星としてね。

 不用意に技を放ったので不安でしたが、狙い通りの時間と場所に落ちてきてくれて安心しましたよ。

 まあ貴女から見れば、どちらでも同じことでしょうけれど。貴女は気絶していましたし……」

 

 確かに、八榮の言う通りである。3日程度なら、その間寝ていようが、時間跳躍の技を食らっていようが、霊夢にとって違いはない。

 だが、逆に言えば、この空白期間がどのようなものだったか、八榮の胸先三寸でどうとでも捏造できるということだ。

 信頼できる第三者がいないのだから、証言にも期待はできない。

 

 周囲はにぎやかな宴会の様相を呈していたが、その実、皆が霊夢と八榮の会話に聞き耳を立てていることは明らかだった。

 状況は未だ掴みきれていない。何が本当で、何が偽りか。誰が敵で、誰が味方なのか。

 魔理沙すら、先程の一件で、霊夢の中の要警戒リストの筆頭に追加されてしまった。

 もしも、この場にいる全員と闘うハメになれば、霊夢に到底勝ち目はない。

 霊夢は慎重に言葉を選んで、質問を続ける。

 

「にしても、あれからたった3日目? 信じがたいわね。神社だけとっても、復旧に数ヶ月は掛かりそうに見えたけど」

「余裕ですよ。なにせ、私はかつて、6日で世界の全てを創ったんですよ? この程度、朝飯前です」

 

 焼き鳥を頬張りながら、八榮はこともなげに言う。

 霊夢の胸中の疑念は、いや増すばかりだった。

 例えばあの破壊の日から八榮と戦うまでの記憶が、全て幻術による偽りの記憶だとしても、今の状況は説明がつきそうな気がした。周囲の連中は、みなまとめてこの八榮の仕掛けたペテンに惑わされている可能性だって捨てきれない。あるいは、今この瞬間も幻術のさなかにあり――。

 

 霊夢は深呼吸を一つすると、八榮の食い散らかした焼き鳥の串を一本手に取った。

 出し抜けに、霊夢は己の手の甲にその串を突き立てた。激痛に声を上げそうになるのを、霊夢は歯を食いしばってこらえる。

 

「あんたの言うことが本当なら――」

 

 霊夢が言い終わらないうちに、串は砂のようにさらさらと崩れ、手の甲の傷は蒸発するように瞬時に消えてなくなった。

 呆気にとられる霊夢を見て、八榮が苦笑する。

 

「ほら、簡単でしょう? 次は心臓でも突き刺してみますか? 目玉をえぐり出したって構いませんよ。納得していただけるまで、いくらでも治しますから」

 

 八榮は泰然として両腕を広げてみせる。試されることに、いかにも慣れている風情だった。

 と、不意に彼女は机に身を乗り出し、期待のこもった熱い眼差しでもって霊夢に問いかけてきた。

 

「――それより霊夢、私の理想郷は如何(いかが)ですか?」

「如何、とは?」

「気に入っていただけましたか?」

 

 言われて、霊夢は改めて周囲を見回す。

 

「……悪くはない、かな」

 

 ――あんたの存在を除けば。

 そう付け加えようとするも、八榮の満面の笑みによって遮られた。

 

「それは良かった! 理想郷を作るにあたり、できうる限り、元来の形質を復元したいと考えていました。ほら、言うじゃありませんか。郷に入っては郷に従えと。アルザレト・カナンといえど、大陸と島嶼では気候も風土も違いますからね」

「アルザレト……なんか前もその単語聞いたわね。それって、なんなの?」

「一言で言えば、『別天地』という意味です。かつて私を祀っていたヘブライの民は、常に迫害され、住む場所を追われ続けた民族でした。私を祀る民には十二の氏族がありましたが、憎き偽りのバビロニア王、ネブカドネザル二世の罠によって十の氏族の長が捕らえられ、私の民は信仰とともに離散してしまいました。その離散した氏族の一つが、この土地に移り住み、子を設け、信仰を密かに伝えてきたのです。

 私を祀る教義は、この土地では神道として形を変えて生き続けてきたというわけです」

「ふうん……。じゃあ、私達の祖先が、元々はあんたを祀ってたって言いたいの? だから、元々の所有権は自分にあると?」

「血の巡りの良い人間ですね。まさしく、その通りです」

「胡散くさい話ねえ」

 

 あ、と、霊夢の喉から声が漏れる。一番大事なことを忘れていた。

 

「胡散くさいといえば、紫や早苗は無事なの?」

 

 崩壊前の世界で、霊夢が最後に見た三名。

 うち二名の安否が、いまだ不明だった。

 周りを見渡しても、二人の姿を認めることはできなかった。

 

 問われた八榮は、キョトンとして問い返す。

 

「早苗? とは?」

「緑色した巫女よ!」

 

 眉間に指をあてがって八榮は唸る。どうやら本当に、早苗の存在を忘れているらしかった。やがて彼女は何か思い出したらしく目を見開いて、ポン、と拳で掌を叩いた。

 

「ああ。あの幸薄そうな人間ですか。消しましたよ。神性が宿りかけていたので」

 

 一瞬の、間。

 霊夢はまず、己の耳を疑った。

 

「け……え? 今、なんて?」

「消しました。正確には、素粒子単位にまで分解して土に返しました」

 

 絶句する霊夢を意にも介さず、八榮は得意げに話し続けた。

 

「私の目的は簡潔にして、明確です。

 この幻想郷を足がかりとして、唯一神としての自己を決定的にしたいのです。ゆくゆくは世界中の信仰を、私への信仰に集約したいと考えています。

 その目的の実現のためには、神性を持つ存在は徹底的に排除していかなければならない。

 今の私の力をもってすれば、人間一人除去することなど呼吸するより容易い。

 ……一人どころじゃないですね。いやもう、他にもたくさん消しましたよ。

 まず、不死者。あれはいけない。私の永遠性を脅かすので全消去しました。

 ただし、蓬莱の薬はいただきました。あれは素晴らしいですね。私はおかげで、永遠の存在になることができました。

 神性を持つものは喩え野良神だろうと妖精だろうと、消去しました。枝を払うようにね。

 私の裁定に異を唱える者もいましたが、しかし、そうした手合いは消さずに置きました。

 愚にもつかない俗物ばかりだったのでね、組成再構成の際に神経細胞の連絡を少し改造したらみんな大人しくなりましたよ。

 ああ、くれぐれもロボトミーなんかと一緒にしないでくださいよ。知っての通り、私の技は完璧ですから」

 

 霊夢が二の句を継げずにいると、何を勘違いしたのか、八榮は頓珍漢な補足を入れた。

 

「あっ! ご心配なく。貴女は大丈夫ですよ、赤き司祭よ。

 貴女はどちらかといえば、悪魔やその類に近い。

 この土地では妖怪? というんですかね?

 いずれにせよ、貴女は私の力で改造可能です。大丈夫です」

 

 何が大丈夫なのか分からなかったし、何を言っているのかも、霊夢にはわからなかった。

 

 デザートとして用意されたリンゴを手に取った八榮が、軽く眉をひそめた。

 

「ん、腐っているな」

 

 赤い皮の表面に大きな黒いシミが見えた。しかし、その黒ずみは、次の瞬間には手品のように消えていた。得々として八榮は赤い果実にかぶりつく。

 

 かすれた声で、霊夢は最後の希望の名を口にした。

 

「紫は……」

「彼女も大丈夫ですよ。呼んであげましょう」

 

 八榮はパンパンと掌を二度打った。すると、彼女の背後の空間に一本切れ目が入り、瞼のようにそれは開いた。

 隙間の間から、少女がぬるりと姿を現わす。

「ゆか……」声をかけようとする霊夢に見向きもせず、隙間の妖怪、八雲紫は八榮の前に平伏した。

 

「主よ、お呼びですか?」

「紫、私の手にキスできる?」

 

 八榮はそう言って、紫に手の甲を差し出した。

 対する紫は低姿勢をさらに低くして、恐縮していた。

 震える声で、紫は囁く。

 

「そのような光栄を賜るなど、身に余ることですわ」

「良いのよ、ほら」

 

 紫は恍惚の表情を浮かべながら、差し出された手に今しも口づけをしようとしていた。

 霊夢の表情が、みるみるうちに青ざめてゆく。

 

「紫! やめて!」

 

 悲鳴に近い声が、神社に響いた。

 その声で、紫は霊夢の存在にようやく気づいたらしい。だが、その表情の中に、霊夢を歓迎するような色は見当たらなかった。むしろ、ともすると迷惑げにすら見えた。

 

「あら、霊夢、いたの? もう……邪魔しないでよ。せっかく主よりお慈悲をいただけるところだというのに」

「ふふふ、ほら、この通り。妖怪は精神攻撃に弱いですから、赤子の手を捻るより簡単でした」

 

 得意の絶頂といった風情で、八榮が笑う。

 その手の甲に、今、紫が唇を触れた。

 

 ぶつり。

 

 霊夢の頭の後ろの方で、なにかがちぎれる音がした。

 彼女はやおら立ち上がり、大幣を手に掴む。

 その先端が紙垂(しで)をなびかせつつ横にすべり、八榮の鼻先でぴたりと止まった。

 

「幻想郷を元に戻せ……!

 魔理沙を、早苗を、紫を、皆を、元に戻せ!

 さもなくば、私はあんたを……!」

 

 押し殺した声の霊夢はあくまで真剣だったが、八榮は冗談でも聞いているかのようにせせら笑った。

 

「神を殺そうというのですか? 莫迦な!

 私は正しいことを成しているのですよ。周りを見てみなさい。

 みんな幸せそうにしているじゃありませんか。

 ここには苦しみも悲しみもない。

 飢えも欲望も競争もない。

 みんな、私という絶対的存在の前に、己の卑小さを自覚し……」

 

 もはや、霊夢の耳に神の声は届いていなかった。彼女は八榮の言葉を遮り、

 

「幻想郷を、元に、もどせ」

 

 一言、ひとこと、押し込めるようにそう呟いた。

 対する八榮は肩をすくめ、やれやれといった風情で立ち上がる。

 

「……よくないな、青いリンゴも、赤いリンゴも。

 人類は知恵の実を食べるべきではなかった。

 私の理想郷に腐ったリンゴは不要だ!」

 

 

 

 

 

 

○ 第六章 霊戦

 

 

 

 

 

 

 ――まさか、これを使う時が来るとは。

 

 霊夢は懐からガラスの小瓶を取り出して栓を抜くと、中の銀色の液体を大幣の先に垂らす。

 月の賢者・八意永琳の精製した特殊な薬剤である。人体に無害と聞かされてはいたものの、できれば肌に触れたくない代物だった。

 それが今、大幣の柄を伝い、霊夢の指先をぬるりと濡らしている。

 

 霊夢は銀色に濡れた大幣を再び八榮に振り向け、声高に宣言した。

 

「これ以上好きにはさせない……! 力ずくでも、言うことをきかせるわよ」

 

 跳ぶように二、三歩後退して、八榮は霊夢との間に距離をとった。

 八榮は眉をひそめて霊夢を見やる。狂人でも見るような目だった。

 

「私の話を聞いていなかったの!? 蓬莱の薬を飲んだ私を、もはや貴女が殺すことなどできはしない!」

 

 あの忌々しい長口上のさなか、八榮は確かに言っていた。

 蓬莱人になり、永遠を手に入れたと。

 霊夢は、自失の寸前になりながらも、その言葉だけははっきりと記憶していた。

 

 蓬莱の薬を飲めば、無敵――。

 八榮はそのように考えているに違いなかった。

 だが、そんな楽観的観測は、実のところ、とうに神通力を失っていたのだ。

 不敵に笑いながら、霊夢は三歩、四歩と八榮に詰め寄る。

 

「知らなかったの? 蓬莱人を殺す方法は、とっくの昔に永琳が編み出していたのよ!」

 

 一切の躊躇もなかった。

 霊夢は大きく踏み込んで相手の間合いに入り、頭蓋目掛けて一撃を放った。

 八榮は当然のごとくその打撃を見切っており、半身で躱そうと身を捩る。

 

 必殺を期した乾坤一擲の初撃。しかし、それは偽装(フェイク)だった。

 霊夢は八榮の瞳に視線を据えたまま、大幣で真の狙いを衝く。

 

 ――左のかいな。それが本命だった。

 二の腕をしたたかに打たれ、八榮はたまらず後ずさった。

 八榮の喉から、鈍いうめき声が漏れる。想定外の痛みを感じたのであろう。

 彼女が左腕を一瞥した瞬間、その(まなこ)が大きく見開かれた。

 

 叩かれたところから、滲むように鈍色が広がってゆく。

 滲みは呪いのように皮膚を伝播し、ついに腕周りを一周した。その刹那。

 ぼとり、と、かいなが丸ごと地に落ちたのだ。

 落ちた腕は、見る間に銀の煙となって蒸散した。

 

 八榮は必死に肩を揺すり、自らの身体の組成を戻そうとしていた。

 しかし、彼女の腕が戻ることはなかった。

 

 神の悲鳴が、幻想郷の空の下に響き渡る。

 

「……う、うわああああっ、莫迦な!? こんな……こんなことが、あるものかッ!」

「蓬莱人になったのは失敗だったわね。おかげで、あんたは致命的な弱点を作ってしまった」

 

 あるいは、こうなることを見越して、永琳は八榮に蓬莱の薬を敢えて飲ませたのかもしれない。月の頭脳は、常に怜悧に万歩先まで読み通す。

 霊夢は永琳への感謝を胸に押し抱きつつ、二の矢を穿つべく振りかぶった。

 

「右腕も、もらうわよ! そうすりゃ、もうあんたは、あのふっとばし技を使えない!」

 

 八榮の顔が、くしゃくしゃに歪む。おそらく、彼女は、神としての生における初めての感情を味わっている。――恐怖という感情を。

 

 大幣が八榮の右のかいなに牙を剥いたその瞬間、予想外の方向からの衝撃を受けて、霊夢は跳ね飛ばされた。

 霊夢の身体は境内の石畳の上に二、三度打ち付けられ、鳥居近くでようやく止まった。

 素早く身を起こし、衝撃の出どころを目で探る。

 

 参道の向う端に、その姿はあった。

 神社の本殿を背にして真っ向から霊夢に立ち向かうは、人間の魔法使い、霧雨魔理沙だった。

 彼女の瞳は怒りに激しく燃え、金色の髪は鬼女のように逆巻き、まさに怒髪天を衝いている。

 魔理沙は、かつて誰一人として聴いたこともないような恐ろしい怒号を、霊夢に向かって放った。

 

「霊夢ウゥゥゥゥァァァァア! 貴ッ様、よくもオォォォォ!」

「魔理沙! 邪魔しないで!」

 

 言うなり霊夢は、魔理沙に向かって手加減なしの夢想封印を放った。

 剛速の誘導弾を生身の肉体で躱しきれるはずもなく、魔理沙の身体は本殿の扉にしたたかに打ち付けられた。

 だが、魔理沙はそれで倒れなどしなかった。

 彼女は、口から血反吐を吐き、目から血涙を流してなお、叫んだ。

 

「殺す! 霊夢! 主に仇なすお前を、必ずや殺す!」

「あんたはもう、魔理沙じゃない! 八榮もろとも片付けてやる!」

 

 威勢良く見栄を切ったが、状況は霊夢にとって最悪だった。

 魔理沙の怒号を契機に、神社にいた全ての人妖が敵意の眼差しを霊夢に向け始めている。

 レミリアも、咲夜も、紫でさえも。

 禍々しい殺気を身に纏い、各々の武器をちらつかせながら霊夢を見据えていた。

 

「もういい! やめろ! わかった!」

 

 境内に声が響いた。八榮の声だ。

 彼女はよろめきながら魔理沙と霊夢の間に割り込むと、身を翻して霊夢に対峙する。

 

 八榮の顔を見た瞬間、霊夢は息を呑んだ。

 その目からは、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちていた。

 

「人間同士が争う姿など、私はもう、見たくない! たくさんだ!」

「はあ!? いったい誰のせいでこうなったと思ってるのよ!」

「うるさい!」

 

 泣きじゃくりながら、八榮は吠えた。

 理不尽極まれり。神の思考など、元来人智を超えたものである。

 だが霊夢には、八榮の言葉とその涙が、心に引っかかって仕方がなかった。

 

 なぜ、彼女は悲しそうに泣くのだろう。

 平和を求めているのなら、なぜこんなひどい仕打ちができるのだろう。

 

 もっと話をすれば、理解できるかもしれない。霊夢は、ふとそう思った。

 だが、すでに悠長に話をしている時間など残されていないようだった。

 

 八榮が、残された右手を霊夢に向けて掲げる。

 握られた指の隙間からは、既に白い光が漏れ始めていた。

 

「度し難き司祭よ……!

 そんなに世界を救いたいなら、56億7千万年先に飛ばしてやろう!

 邪教の司祭にとって、この上ない栄誉のはずだ!」

「宗教が違うっての! あんた、私のこと仏教徒と勘違いしてるでしょ!」

 

 八榮の耳には、もう霊夢の言葉など届いていなかった。

 

「永劫の先で会おう! さらばだ! まつろわぬ者よ!」

 

 なぜ、こんなことになってしまったのか。

 霊夢の意識は、後悔のうちにふたたび暗転した。

 

 

 

 

 

 

○ 第七章 亡失のエモーション

 

 

 

 

 

 

 仏教的世界観では56億7千万年後、地上に弥勒菩薩が顕現し衆生を救うとされる。

 一方、天にまします我らが太陽の年齢は現在46億歳であり、その寿命は約100億年と言われている。

 すなわち、弥勒菩薩が現れる時期というのは、太陽系の終焉と同時期ということになる。

 

 霊夢が目を覚ましたとき、最初に見えたのは、視界いっぱいの星空だった。

 色濃い闇の中に瞬く星々は、一種異様なほど美しく瞬いて、霊夢のちっぽけな姿を見下ろしている。

 

 身を起こして周囲の状況に目をやる。

 地獄すら極楽に見えるほどの不毛の大地が、霊夢の眼前に広がっていた。

 乾いた色をしたガラス質の大地には草の一本も生えておらず、土は老いさらばえ、枯れ果てていた。

 当然ながら、そんな土地に生きて動いている姿など見当たるわけもなく。

 

 ――こんなところで、いったいぜんたい、誰を救えってのよ。

 

 霊夢が仏教の嘘っぱちを呪っていると、彼女の耳に、遠くから呼ぶ声が聞こえてきた。

 霊夢はすかさず飛び上がり、声のする方へ向かう。

 

 声は、大地に開いた巨大クレーターの方から聞こえていた。

 その声はか細かったが、はっきりと霊夢の名前を呼び続けている。

 しかし、空からでは視界の悪さもあり声の主を発見することができなかった。

 霊夢はやむなくクレーターの縁に降り、徒歩で探索することにした。

 歩いている間にも、声の主は律儀に霊夢の名を呼び続けている。おかげで、徐々にではあるが声の元に近づくことができていた。

 

「れいむ、霊夢、こっちよ……」

 

 ついに声の主の居所がわかった。

 クレーターの縁からやや外側に外れたところにくぼみがあり、そのくぼみの中から、声は聞こえていた。

 

 霊夢はくぼみに近づき、中を覗き込む。

 声の主は、くぼみの壁面に背を預け、手足を投げ出して座っていた。

 その身体はミイラのごとく骨と皮ばかりで、立ち上がることすらできそうになかった。

 かような状態であっても、彼女は霊夢の姿を認めると、笑顔らしきものをその顔面にこしらえた。

 

「ああ……霊夢……。夢じゃないのね。

 待ってたわ……この日を、57億年の間、ずっと……ずっと……」

 

 言葉を聞いて、霊夢は確信した。

 目の前に座るこれは紛れもなく、神聖八榮の成れの果てであると。

 その証拠に、彼女は隻腕であり、失われた腕の傷口には蓬莱人殺しの薬が固着したままになっていた。

 

「あんた、生きてたの」

「死ねなかったわ……」

 

 蓬莱の薬は恐ろしいものね……、と、八榮は自嘲気味に笑った。

 

 そして、彼女は静かに語り始めた。霊夢がいなくなってからの、57億年の歴史を。

 まず、八榮の世界宗教統一の野望については、ついに達成されなかった。

 人類は八榮が思っていた以上に凄まじい存在であった。彼らには、最初から神の救いの手など必要なかったのだ。

 解決すべき問題を、人類はその手で次々に解決していった。食糧問題、健康、戦争、領土、寿命……。

 あらゆる問題を解決し、精神の空隙すらも自らの手で埋めてしまった人類は、ついにはその種全体が神として進化してしまった。

 その時点で、唯一神など無用の長物と化してしまったのだ。それが、霊夢が去ってから千年もしない間の出来事である。

 八榮は負の遺産として捕らえられ、長いこと冷凍封印された挙げ句、ようやく目覚めた頃には、人類は外宇宙に資源を求め、とっくの昔に地球から姿を消していた。

 

「私はね、世界中のすべての宗教を滅し、世界中の神を殺せば、平和になると本気で信じてたのよ。

 私の生まれた国ではね、ずっとずっと、宗教をめぐって人が争ってばかりいたの……。

 私の名前を大義名分にして、たくさんの人が殺された。

 この世に宗派なんてものがあるから――神がたくさんいるからいけないんだって、私、そう思って……。

 でも、お笑い草だよね。私なんかいなくても、人間は自分自身で全ての問題を解決し、勝手に自分自身を救済してた」

 

 以降、彼女は何度も亜人類の育成を試みたが、何度やっても原初人類と同じ道をたどってしまった。

 そうこうしているうちに、太陽系の寿命が近づき、生命は死に絶え、信仰を失った八榮は身動きも取れないまま、蓬莱の薬の力のみで生き永らえる皮袋と化したのだった。

 

「莫迦ねえ。不死者の一人でも残しておけば、話相手くらいにはなったでしょうに」

 

 霊夢が呆れたようにそう言うと、八榮は「そうかもね……」と素直に(うべな)い苦笑した。

 驚くべき変わりようだった。

 あれほど傲岸不遜だった神が、今は殊勝を極めている。

 57億年という時間、そして、その間に起きた無数の変化や挫折が、彼女の心をずたずたにしてしまったのだろう。

 

 霊夢はなんともいたたまれなくなり、そっと八榮から視線をそらした。

 空を見上げると、ひどく小さな月がぽつねんと浮かんでいるのが見えた。

 

「流石に57億年も経つと、月も小さくなるのね」

「……あれは月じゃないわ。燃え尽きて白色矮星になった太陽よ……」

「え。じゃあ、月は?」

「太陽風に吹き飛ばされて、とっくの昔に彼方に消えたわ……。今頃、どこか別の惑星の衛星になっているかもね……」

 

 月の魔力は失われ、太陽は老衰死間近。

 夢も現も、いよいよ仲良く年貢の納め時といったところだろうか。

 

「最後の生命がこの星から消えて、爾来(じらい)20億年。私はね、貴女の存在だけを心待ちに生きてきたの」

 

 八榮はそう言って言葉を切った。

 彼女は唇を湿し、56億7千万年の間、何度も復唱したであろう言葉を口にした。

 

「さあ、霊夢。私を殺して」

 

 霊夢は、嫌悪感も顕に顔をしかめる。

 

「物騒なことを言うわね。別れる前のあんたとはえらい違いじゃない」

「そりゃ、57億年も経てば、神だって変わるわ。……もういいのよ。疲れたの」

「あんたを殺せば、私は皆の仇をとれるし、あんたは念願の死を手に入れる。ウィン・ウィンってわけね」

「その通りよ。愛してるわ、霊夢。さあ、はやく私を――」

 

 愛おしそうに瞼を細めて、八榮が懇願する。

 そんな八榮を、霊夢は無慈悲に突き放した。

 

「だが断る。あんたを死なすわけにはいかない――。

 ここで会ったが56億7千万年目よ。幻想郷をもとに戻して」

 

 八榮の瞳から、みるみるうちに光が失われてゆく。

 彼女はがっくりと肩を落とし、悲しげに呟いた。

 

「それは……無理よ……この星のエネルギーの大部分は熱に変わって宇宙に逃げてしまった。この世界に残されている可能性は、もうない。再生は不可能……」

「でも、何か策があるんじゃないの? 20億年も私を待つ時間があったんだから」

 

 霊夢のこめかみに汗が伝う。

 ここで、「ない」と言われれば、それで終いだった。二人仲良く干からびるしかない。

 

 しかし、策は、あった。

 八榮は、ひどく逡巡しつつも、彼女の中に頼りなく浮かぶ一つの考えを示した。

 

「……終末の向こう側に行く、しかないと思う……。

 時間を飛ばしに飛ばして、熱的死のその先の、更に先の、途方も無い先にある、二度目の世界に行くの。

 でも、もう私にはそんな力はない。私を信じる人間は、もういない。

 この通り、腕を動かす力も残っていないの」

 

 黙って話を聞いていた霊夢は、地に膝を付き、八榮の瞳を真正面から見据えた。

 

「信じる者はいる」

 

 彼女は、はっきりとそう言った。

 八榮は、上ずった声で問う。

 

「どこに」

「ここに、一人」

 

 そう言って、霊夢は親指で自らの胸を突く。

 

 一瞬、八榮の顔が泣き出しそうに歪んだ。

 それをごまかすように、彼女は乾いた声で笑いだした。

 

「あは、は……貴女は、私を信じないと思ってた」

「二回も時間ごとすっ飛ばされて、それでもあんたの力を信じなかったら、流石に馬鹿よね」

「でも、私、貴女やみんなにひどいことしてしまったし……」

「それは、謝れば、許してあげる」

「でも、でも、私を信じるってことは、一神教を信じる気?」

「は? あんた57億年経っても、まだそんな了見でいるわけ? あんたの独裁的なやりかたじゃ、何度やってもうまくいかなかったんじゃないの?」

 

 言い返すこともできず、八榮は押し黙った。

 

「勘違いしないでよ。私はお願いしているんじゃないの。落とし前つけろって言ってんの。あんたが心を入れ替えて、もう二度と他者様(ひとさま)から大切なものを奪わないって約束するなら、私はあんたを神として認め、信じる」

 

 霊夢の要求は、言い換えれば、唯一神としての理想を諦めろ、ということになる。

 だが、八榮の決断は早かった。まるで、最初からそう考えていたかのように。

 

「約束する。もう二度と、誰かの大事なものを奪わないし、脅かしもしない」

 

 よし、と霊夢は大きく頷く。

 と、それまで真面目くさった顔をしていた霊夢が、不意に破顔した。

 

「――でも、まあ、今だけは、あんたが唯一神ってことでいいわ。

 なにせ、神様一柱しかいないんだもんね。

 あんたも、世界中の人間の信仰を集められたし、目的は達成できたんじゃない」

「そうね。世界に一人しか人類がいないんだものね」

 

 終末限定の冗談でひとしきり笑ってから、霊夢はやおら立ち上がった。

 

「で、私はどうすればいい?」

「私のために、祈って。お願い」

「神式で良い?」

「何でも構わないわ」

 

 かくして、地球最後の祈祷が始まった。

 終わる世界で、神と人、一対一の祝詞が交わされる。

 霊夢が大幣を一振りするたびに、八榮の身体は少しずつ生気を取り戻していった。

 

 やがて完全に元の姿に戻った八榮は――霊夢の身体にすがりつき、泣いた。

 何度も何度も感謝と謝罪の言葉を繰り返して、彼女は泣きじゃくった。

 

 

 

 

 

 

○ 第八章 千年幻想郷

 

 

 

 

 

 

 八榮は何度かその手を握り開きした後、強い確信を込めて頷いた。

 その様子を見ていた霊夢が、不安げに尋ねる。

 

「どう、あんたの策、いけそう?」

「うん、いけそう。でも、二巡目の世界を作ったとしても、その世界が貴女の望む通りとは限らないわ。そもそも、地球だって生まれないかも……」

 

 八榮の懸念を、霊夢はこともなげに一蹴する。

 

「なら、三巡目の世界を創ればいい」

 

 唖然とする八榮をよそに、霊夢は己の心づもりをまくし立てた。

 

「三巡目がダメなら四巡目。千巡目がダメなら一万巡目。何度だって繰り返すわ。

 私の友達の細胞一つ。幻想郷の草の根一本。神も人も妖怪も。全部が全部、完全に復元できるまで、やり直すのよ」

「無理よ、そんなの! 実現の確率はフェムト単位より低くなるわ……無理よ……」

「無理じゃない。私は博麗の巫女よ。私に解決できない異変はない」

「神を縛る糸の目すら、貴女はすり抜けられるというの?」

「ええ、そうよ。すり抜けには慣れてるもん」

 

 八榮は霊夢の正気を疑って、その目を凝視する。しかし、出鱈目な理想と狂気の違いを見分ける術を、八榮は持ち合わせていなかった。

 霊夢は拳を握りしめ、果然と宣言した。

 

「私は必ずやり遂げるわ。56億7千万年を、56億7千万回繰り返してでもね」

 

 八榮の顔色が、みるみるうちに青ざめてゆく。56億7千万という数字の途方もなさを知るなら、決して口に出せない言葉であった。

 そんな八榮の心中などお構いなしに、霊夢は彼女の腕を掴んだ。

 

「さあ、始めるわよ」

「……私、本当にやらなきゃダメ?」

 

 この期に及んで、八榮は腰を引く。

 だが、霊夢は決して八榮を逃がしはしなかった。

 

「当たり前でしょ。あんたの力がなきゃ始まらないのよ。

 あんたは創世のマネごとがしたくて幻想郷を破壊した。

 なら、お望み通り、やってやろうじゃないの。

 心ゆくまで堪能しなさい。博麗式創世術の始まりよ!」

 

 

 

 

 

 

○ 最終章 久遠の楽園

 

 

 

 

 

 

 夏晴れの空に、真昼の月が浮かんでいる。

 霊夢は淡く美しいその姿を、じっと見上げていた。

 何の変哲もなく幻想的な月の姿を見て、霊夢は安堵したように微笑む。やがて、彼女はその視線を地上に向けた。

 

 境内は既に出来上がった者達の嬌声で、蝉の鳴くよりやかましい。

 博麗神社恒例の宴会は、昼間から既に佳境に入っていた。

 汗の絶えない灼熱の空気の下で、酔狂達が踊り唄っている。

 たとえ照りつける陽射しに炙り焼きされても、呑む。それが呑んべぇの生き様だった。

 

 泥酔地獄の中から魔理沙がほうほうの体で抜け出し、霊夢の横に座った。

 

「やれやれ、まったく、ここは地獄より地獄めいているな」

「そんな地獄に好き好んでやってくるあんたも、たいがいだけどね」

「違いないな」

 

 魔理沙はそう言って、ニヤリと笑う。

 

 魔理沙の興味は、境内脇に出来ていた人だかりに移った。

 人だかりの中央には、見慣れない少女の姿があった。

 異国風の装いをしたその少女は、早苗やら妖精やらにいじられて、困惑しきりといった様子であった。

 魔理沙は人だかりを顎で示して、霊夢に尋ねた。

 

「なあ、ありゃなんだ。なんだか見ない顔がいるようだが」

「あー。この間知り合った野良神様よ」

「ほう、神か。それで? あれを拝んだらどんな神徳があるんだ? 芋でも、もらえるのか?」

「くれないわね」

「じゃあ病気でも治してくれるのか」

「そんな分かりやすい力はないわ」

「じゃあ、なにができるんだ」

「現世利益はなにもないわね。よしんば何かできたとしても、余程のことがなけりゃ、何もしないわよ。

 ただそこにいて、何もせず、笑ってるだけの神様」

「なんだ。つまらんな」

「あ、でも、話しかけたら喜んでくれるわよ」

「なんだそりゃ。犬畜生じゃあるまいし」

「一柱くらいいてもいいでしょ、そんな神様も」

 

 そう言って、霊夢は猪口の酒を一口に煽った。

 魔理沙はもう一度、件の野良神の姿を見やる。酔っ払った早苗にヘッドロックを掛けられても無抵抗なところを見るに、たしかに霊夢の言う通り人畜無害な神様なのだろう。

 早苗の横暴に苦笑しつつ、魔理沙は肩をすくめる。

 

「まぁ、何柱いたって構やしないだろう。なんたって八百万の神がいるんだからな」

「そうね。神はあまねくましまし、世はこともなし、よ」

 

 疫病神、貧乏神、付喪神、紅葉の神、豊穣の神、秘神、常夜の神、山の神、鶏の神、死神、厄神、土着神、現人神……。

 かつて唯一神を自称した傲岸な神は、あまたの神々に囲まれながら、ただ静かに笑っていた。



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