ジーニーの祈り   作:XP-79

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ご主人様、ほら願いをどうぞ
私はあなたの子分
そう、最高のお友達

(映画「アラジン」よりFriend Like Me)








1. しあわせの隠れ場所

 

 

 

 目の前には緑の農地が広がっていた。地平線の果てまで緑の絨毯が侵食している。雲は厚く、昼日中だというのに薄暗い。

 そう言えばこの地域は雨量が凄かった。雲はいつも黒く空を覆っていた。年がら年中薄暗い気候はここらの住民の性格も陰気で閉鎖的にしているようだった。湿気を纏う風は懐かしさと同じくらいの苛立たしさを沸き上がらせる。

 

 ふと隣を見ると小さな少女がこちらを見上げていた。癖のあるブリュネットの髪と猫のような形の瞳を持つ整った顔立ちの子供だった。肌の色はバターのように黄色味がかっているがアジア人にしては顔の彫りが深い。ハーフだろうか。

 少女はこちらを見上げて子猫のように小さく笑んで口を開いた。

「ねえおじちゃん」

「おじちゃんじゃねえよ。俺ちゃんそんな歳行ってねえから。多分」

「多分ってどういうこと?」

「いや、映画とコミックスとアニメで俺ちゃんの年齢違うっぽいから……っつーかあの上手く纏めて死にやがった老眼(ローガン)野郎のせいで俺ちゃん老化しなくなっちゃったから色々と複雑なんだよね。いや、ウェポンIのキャップは老化するっぽい……MCUだと老化したから……でも俺ちゃんウェポンXだし……」

「つまりどういうことなの?」

 

 どういうことなのと言われても、そのままの意味だとしか返しようがない。

 俺ちゃんの年齢は30代後半くらいに設定されている事が多いが、それぞれのアース(もといメディア媒体)によって「デッドプール」の年齢はバラバラだ。

 そもそも原作が時系列を大して気にしないMARVELで、映画配給は時系列という概念をコズミックパワーで粉々にされた20世紀FOXなのだからもうキャラクターの年齢なんて些末な事を気にしてる奴なんて製作者どころか視聴者にも存在しないんじゃないだろうか。

 生みの親に聞くにしても、知り合いのJ(最近はジーニーになっちまったけど!)曰くスタン・リーは故郷の星に帰っちまったらしいから真相を問いただす事もできねえし。本当に自由な爺さんだよ、あいつは。

 20世紀FOXに至ってはコズミックパワーならぬマネーパワーに惨敗してディズニーに買収されて時系列ごと時空の彼方に消滅した。

 そんでそのディズニー、もといMCUは人気キャラ数人を殺した挙句にフェーズ4に突入しちまってこれからどうなることやら。「X-MEN VS アベンジャーズ」とかないよな?その場合は俺ちゃんどっちに味方したら良い訳?映画版デップー(X-MEN) VS アメコミ版デップー(アベンジャーズ)?「もうキャップおじいちゃんったら、またCWなんて起こして!」ってツッコむ準備しといた方が良い?

 

 まあ日本で一番ポピュラーなデッドプールである映画版デップーの俺ちゃんは30そこそこだろうけど。でもそれは別にどうだっていい事だ。君たちも俺ちゃんの年齢なんて気にしなくてOK。少なくともこのファンフィクションのストーリーに俺ちゃんの年齢が関わってくる事は無い。

 あ、このファンフィクションの地文は俺ちゃんの三人称時折一人称モノローグで構成されておりまーす。

 読みにくい?知るか!!直してほしけりゃ「アベンジャーズ:エンドゲーム」で俺ちゃんがトニーを颯爽と助けるCGを挿入するんだな!!

 そうすりゃデッドプールの人気は爆上がり!!俺ちゃん超人気者!!キャーデッドプール素敵ー!抱いてー!でもこの文章書いてるの俺ちゃんじゃないから書き直しなんてできないんだけどね!!

 

「ま、長くなったけどつまりおじちゃんの年齢はスパイディより上、キャップより下をうろうろする正弦波上の一点だっていうこと。ったくいい歳した俺ちゃんは映画だコミックスだアニメだカプコンだとめちゃんこ忙しいのにお前らはオリ主が異世界で無双するファンフィクションを読んで暇つぶししてるって世の中不公平過ぎるんじゃねえの?そんなに異世界行きたきゃ車道に飛び出して『I can FLY!』って叫んで来いよ。突っ込んで来た車がデロリアンかフォード・アングリアだったらマジで異世界行けるぜ。死後の世界も異世界としてカウントOKなら100%だ」

「……おじちゃん、どこを見てるの?」

「見てんじゃねえよ。文字を書いてんの。HEeeeeeeeY!一円も払わないで暇が潰せるファンフィクションサイトに頭のてっぺんまで漬かり切ってるJapanのナード達~!お前らこんなクソみたいなファンフィクション読んでて楽しい?それよりもうちょっと自分の存在価値について考えた方がいいんじゃない?いつまでもパソコンの前に座ってると尻が野良犬の小便臭いカリフラワーみたいになっちまうぜ!」

 ディスプレイの前に向かって中指を突きつけるデッドプールに、少女は訳が分からないと首を捻った。嫌に大人びた仕草だった。

「おじちゃんが誰に向かって喋ってるのか分からないけど、自分自身の存在価値についておじちゃんにだけは言われたくないと思うよ」

「意外と辛辣だねお嬢ちゃん。でも気の強いレディは好きだぜ。死んでるみたいに大人しいよりよっぽど良い。ところでパパとママはどこにいるのかな。こんな所にお嬢ちゃん一人ってことは無いだろう。迷子かい?」

「……ここはどこ?」

 

 きょろきょろと辺りを見回す子供は本当に迷子だったらしい。迷子にしてはあまりに態度が堂々としているような気もするが、女の子の方が成長が早いと聞く。大人びた子なのだろう。デッドプールは肩を竦めた。

 

「ここはオハイオ州のド田舎村だよ。農業地帯で、あんまり治安は良くない街さ。ガキがふらふら一人で出歩いてるとあっという間に攫われてレイプされちまうような所だ。だだっ広い農地と安い酒場以外にはなーんも無い場所だよ」

「お兄ちゃんはここで育ったの?」

「あそこに家があるだろ」

 

 どこまでも続く農地のど真ん中にぽつんと立っている家を指さす。

 その家はいつ倒壊してもおかしくない粗末な造りをしていた。腐りかけた木を適当に寄せ集めて釘を打ち付けてペンキをぶちまけた粗大ごみのようにも見える。あちこちに穴が空いており、申し訳程度に張り付けられている薄っぺらい木板が逆に寒々しかった。

 少女はその家屋を見て微かに眉根を顰めた。少女の基準ではそれは家と呼べる代物ではない事が表情から容易に読み取れた。

 ウェイドも今こうして改めて見るとあまりに粗末な家だと思う。トニー・スタークであれば悪意なく犬小屋とでも形容しそうな建物だ。とてもあそこに3人の人間が暮らしているとは思えない。

 しかし幼少期のウェイドはそこに居た。

 

「あの家がお兄ちゃんの生まれ育った家?」

「家っつーより家畜小屋の方が近いけど、まあそうだ。あれが俺の家だった。いっつもベッドからは馬糞みたいな臭いがしてたし、隙間風が酷くて冬は毎年死ぬかと思うくらいに寒かった。折檻で水をぶっかけられて一晩中外の木に縛り付けられてた時なんて、このまま夏への扉を開いちまうかと思ったさ。ほら家の前にあるあの木だよ。近所の犬が毎日あの木の根元で小便するから一晩中ずっと臭くて鼻が曲がりそうだった。そういやあれからまだ30年も経ってねえんだなぁ」

「そんなに酷い事をされたのに家を出なかったの?」

「出て行ったよ。14歳の時だ。これ以上この家に居たら死ぬまでこき使われるって逃げ出したんだ。でもそれまでは我慢してあの家に居た」

「よく我慢してたね」

「そりゃあ金が無かったからな。逃げてもどうにもならねえって分かってた。俺だけじゃなくここら辺に住んでる子供が皆そうだった。俺はこの村に溢れ返っている酒浸りの父親と、夫のDVに怯える臆病な母親の間に生まれた行く先も何の展望も無い沢山の子供の内の一人だった。別に珍しくもなんともない出自で、むしろこの村に居る子供の大半は俺と同じような生まれ育ちだったよ」

 

 鼻を鳴らして笑おうとした。しかしシャツの襟をひっつかまれて喉が詰まり言葉が出なかった。そのままウェイド・ウィルソンの手足は宙に浮いた。

 

 11歳のウェイドは平均身長よりも小さい体躯を持つ子供だった。加えて輝くようなプラチナブロンドに淡く発光しているような白い肌、それと細長い手足のせいで少年よりも少女のように見える優れた容姿をしていた。しかしその身体から生傷や火傷の痕が絶えた事は無く、今も身体には青紫色をした痣が幾つか貼りついていた。

 猫の子のように襟を掴まれてぶらぶらと手足を宙に揺らしているウェイドへ、その襟を片手で摘まみ上げた男は唾を散らしながら怒鳴った。

「ウエェェェイド!!!仕事をさぼって何やってやがる、このただ飯ぐらいの役立たずが!!」

「…………」

 ウェイドはじっと黙って間近にある父親の顔を見返した。

 父は赤ら顔で鼻は丸く、髪はトウモロコシのような濃い黄色をしている。薄汚れたズボンは元の色さえ分からないくらいに土塗れだった。厚い瞼に半分隠れている濁った青い瞳を見返すと父は苛立たし気な顔をしてウェイドを地面に叩きつけた。

 咄嗟に体を丸めて頭を庇う。背中にコンクリートがぶち当たって皮膚が破れる感触がした。栄養が足りていないせいでウェイドの皮膚は正常な子供よりずっと薄かった。怪我をしやすく身長も中々伸びない。

 弱弱しい少女のように地べたに這いつくばるウェイドを見下ろして父親は情けないと首を軽く振るった。

 

 父はさも農家らしい見上げるような大男だった。腕は丸太のようで丸めた拳は野球ボールのように大きい。酔った時には若い時分にベトナム戦争に行った事を何度も自慢して、その時ばかりはご機嫌だった。

 

 痛む身体を叱咤して立ち上がり、上官の命令を待つ兵士のように黙って両手を身体の後ろで組む。こうしていると父親は振り上げた拳を一度収めて、威厳ある将校を真似ているのか張り上げた暴言を叩きつけた。

 酒で焼けた喉のせいで威厳とは程遠いかすれた声に、それでもウェイドは怒鳴られるたびに恐怖で肩を跳ね上げた。

「何とか言ったらどうだウェイド!女みたいなツラをしているんだからもっとお喋りになったらどうだ!水撒きは終わったのか!」

「………はい、終わりました父さん」

「じゃあさっさと雑草を取れ!このうすのろ!!頭に詰まってるのがクソじゃなけりゃあ言われる前にちゃあんと次の仕事をするんだ!!何をすればいいのか一々聞かなきゃ動けないのかこの愚図!!」

 尻を蹴り飛ばされて地面にまた這いつくばる。臀部に走った痛みが両足に響き足が石になったように震えた。しかしぼんやりとしていたらまた蹴り飛ばされる事を知っていたためにウェイドは歯を食いしばって立ち上がった。

 だが覚束ない足元のせいで直ぐに転げて、土で体を汚す。

 生まれたての小鹿よりも弱弱しい姿に苛立った父は今度は腹を目掛けて足を振り上げた。ウェイドの柔らかい腹は低い鈍音を立てて宙に上がり、放り捨てられる空き缶のように地面に落ちた。

 

 過剰な折檻のせいでウェイドの身体はどこもかしこも傷に塗れていた。意識がある時はいつも痛みに歯を食いしばっていた。その状態でも日々大量に降りかかってくる仕事をこなすためにはだだっ広い農場で農耕馬のように体を引きずりまわさなくてはならなかった。

 全身を苛む痛みと疲労感、そして極度の栄養不足のせいで頭はいつも靄が掛かっているようにはっきりとしない。限界を迎えて倒れると容赦の無い蹴りが飛んできて、地べたに頭を擦り付けられる。

 土の味を知っているだろうか。ミミズに小便をかけて青汁をミックスしたような味だ。出来れば一生知りたくないような味をウェイドは味蕾の底まで浸透する程に知っていた。

 

 もう嫌だ、疲れた、無理だと身体の限界を感じた幼いウェイドは何度も涙を浮かべながら母親に縋った。

 母は弱音を吐くウェイドを父のように殴りはせず、荒れた指で細い金髪を梳いた。その仕草は優しかったが、母が地面に倒れたウェイドを助け起こす事は終ぞなかった。

 すすり泣くウェイドに「神様は越えられない試練は与えないわ」と掠れた声で、その言葉しか知らないように母は何度も言い聞かせた。

 

 

 母はクリスチャンだった。胸元にはいつも錆びたロザリオがぶら下がっていて、父に殴られると目を瞑ってロザリオを握り締めるのが母の癖だった。

 忙しい日々の中で母は隙を見ては聖書を開き、中身をぶつぶつと呟いては一人満足そうな顔をしていた。神だけが母の人生の拠り所であるようだった。母の人生において無条件で愛を与えてくれる存在なんて神しか居なかったのかもしれない。

 母の人生についてウェイドは詳細に聞いた事はないが、自分と同じか、それ以上に悲惨なものだった事は間違いないように思う。

 だがどれだけ母が人生の柱に聖書を刻み込んでいたとしても、彼女が聖句の意味を理解していたかどうかは分からない。

 母はあまり頭の良い人ではなかった。母にとって聖書とは大乗仏教の魔法の言葉である南無阿弥陀仏と一緒だった。意味はよく分からなくても、その言葉を呟けば必ず神様が自分を助けてくれる合図のようなものとしか考えていなかった可能性すらある。

 もしちゃんと聖書の中身を理解していれば彼女は自身が怠慢の罪にあたる事を知り、行動していただろう。つまりは夫が子供に暴力を奮っている事を黙認した罪について。

 警察に通報するか、包丁を研いで夫の体に突き刺すか、もっと穏当なところで行けば教会の懺悔室に向かうか。手段は多くあった筈だ。そうしなかったのは母は愚かであり、臆病な卑怯者であり、怠惰であり、そして本当に自分の子供を愛していなかったからだ。

 

 

 

 

 生まれてから14歳になるまで大体こんな感じの人生だった。

 そうして知ったのは農業というのは脳筋がやってはいけない仕事だということ。馬鹿みたいに畑を耕して育てて売るだけでは労力に比べて実入りがあまりに少ない。

 大事なのはいかに効率の良い苗を手に入れるかということとマーケティングだ。同級生で農家をやっている家の幾つかは賢く事業を展開してそれなりに余裕のある暮らしを確保していた。

 しかし父や母はそういう事に全く頭が回らないようで、10年近く前の農業の在り方からやり方を改めなかった。ほとんど毎日水撒きをして、雑草を取って、肥料の準備をする。休日なんて無い。

 いくら働いても裕福にはなれない。それどころか日に日に貧しくなっていく。食事は自分で育てた野菜と薄いスープだけの日々。服はほつれた箇所を何度も繕っており、雑巾にしか使う手段が無さそうな布切れになり果てていた。

 父は愚かで時代にそぐわない頑迷な男だった。70年前のパターナリズムが横行していた時代であればあの男にもまだそれなりに救いは合ったのかもしれないが、現代はあまりに個人の権利が肥大しており、またウェイドはあまりに父よりも聡明だった。

 暴力の嵐に晒される毎に暴力にしか頼る事の出来ない父の姿は間違っていると確信し、ただ傍観するばかりの母の愛を疑い、同時にこんなに苛烈な折檻を受けなければならない自分はとても悪い子供なのではないかという疑念を抱き、精神は2つに分かれて天秤の左右に乗っていた。

 自分の正しさに対する傲慢なまでの確信と自分の存在価値に対する臆病な猜疑心が子供のウェイドの中に深く刻み込まれ、それはウェイドの性格の根底に横たわった。

 自身が思う正義、自分の思考への猜疑心、ウェイドをただ否定するばかりの周囲の環境という不一致は暴力から来るもの以上のストレスを彼の中に貯め込んでいた。

 

 

 しかしそれでも良い事が全くない日々ではなかった。

 少なくとも田舎の綺麗な空気がたっぷりと吸えたのはウェイドの40年近くに及ぶ人生の中で子供時代だけだった。澄んだ空気を通して眺める星空は途轍もなく綺麗で、地平線の果てに落ちる夕陽は燃えるように美しかった。

 それに雨が降って仕事が無い日だったり、学校に行った帰りだったり、真夜中だったり、学校や仕事や宿題に駆り立てられていない時間の隙もあった。

 ウェイドはそういった時間の隙を見つけては友達とキャッチボールをしたり、童貞食いが趣味の売春婦と初体験を済ませたり、図書館に通って本を読んだりした。金は無かったけれどそれは友人皆がそうだった。同じエレメンタリースクールに通っているのだ。役所の職員の子供や大農場の経営主の子供も居たけれど、殆どは貧困層出身の奴らばかり。

 

 皆で拾った野球ボールをぶん投げて近所の家の窓ガラスを割って逃げまわったり、街頭ラジオから流れるSmooth Criminalを飽きるまで歌ったり、川に飛び込んで爪の色が青くなるまで泳いだりした。

 今思うと現代の子供よりもずっと子供同士でつるんでいる時間が長くて、外で遊ぶ事も多かった。

 それはテレビゲームが無いからだとかスマートフォンが無かったからだとかいう理由だけではないような気がする。当時は冷戦が終わったばっかりの時代だったために社会が色々と不安定で、子供もそれを敏感に感じ取っていた。

 子供は複雑に入り組んだ世情を理解は出来ずとも、世情で顔を暗くする大人の心理には驚くほどに敏感だ。

 ソ連がどうとかブッシュがどうとかパナマがどうとかいう理由でピリピリしている大人の傍で不安に心を苛まれるよりも家の外で馬鹿みたいにはしゃぐ方がずっと楽で、何も考えないで済んだ。

 

 だがいくら友人達と遊ぶ時間が楽しくてもウェイドは図書館に行く時間だけは必ず確保していた。

 読む本は同年代の子供と同じくもっぱらヒーローが登場するフィクションとノンフィクションが混在するファンタジックな小説ばかり。

 ヒーローに関する小説はコミックと比較すると少ないものの、ウェイドが子供の頃から既に相当数が出版されていた。もちろんヒーローが派手に暴れるシーンの多いコミックスも好きだったが図書館には小説しかなかったために自然とウェイドが読むのは小説ばかりになった。

 図書館に備えられていたヒーローが登場する小説の中でウェイドが最も好んだ小説は、偉大にして最古のヒーロー、星条旗のアベンジャー、キャプテン・アメリカの活躍劇を纏めた小説だった。

 ウェイドが子供の頃はまだアベンジャーズは結成されていなかったがバットマンを代表とするヒーローが世間に知られ始めており、ヒーローの認知度が急激に高まり始めている時代だった。ヒーローを模した人形、彼らの活躍を描いた絵画や写真やアニメーション、果てはヒーローからインスパイアされたデザインの食料品までもが販売され、ヒーローという存在が一つのビジネスになり始めていた。

 その中で一番多くの国民の尊敬を集め、長い間アメリカという国のマスコットとして経済を回してきたヒーローがウェイドは一番好きだった。キャプテン・アメリカ。人体実験により人間として極限の身体能力を得た、正義のヒーロー。

 

 彼はスーパーマンのようにぶっとんだ能力を持っている訳では無く、バットマンのように豊富な玩具を持っている訳ではない。単なる凄く強い人の域を出ないというのに、キャプテン・アメリカは盾を構えて多くの人の前に立ち、星条旗を抱いて戦場の最前線をひた走る。悪だくみをする卑怯な連中をばったばったとなぎ倒して、味方を護るために自分を盾とする高潔な姿を小説で読むたびに心が高鳴った。

 大柄な男性だけれど、弱者に対して暴力を奮う事を何より嫌い、父のようにローティーンの子供を木に吊るしてサンドバックにするなんて事は絶対にしない正義の味方は、ウェイドの目に理想的な人間の有様として映った。

 

 こんなヒーローになりたいと思った。

 

 

 ウェイドはその小説のシリーズを何度も読み返した。授業中も小さな膝に乗せて読み、借りて家に持って帰っては月明かりに翳して読んだ。何度も読み返したせいで全てのページにウェイドの指の痕が残った。

 一言一句を空で暗記できる程に読み込んだ頃、唐突にウェイドは、どうしてもその本が欲しくなった。

 いつも自分の手元にその小説を置いておきたくなったのだ。自分の好きな時にキャプテン・アメリカがヴィランを相手に大立ち回りをする挿絵を眺められるようにしたかった。

 モノクロの挿絵の中でもキャプテン・アメリカはキラキラと光っているようだった。絵の中のキャプテン・アメリカが真っすぐに前を見る瞳は凛々しくて、身体は全ての男の理想のように逞しく、その絵を見るだけで心が湧き立った。

 そんな彼が自分のベッドの下に居たら、どれだけ心強いか。マイヒーロー。そう囁くだけでヒーローは自分を助けてくれる。その瞬間だけは何でも耐えられそうな気さえした。

 

 勿論、挿絵の中から彼が飛び出てくるなんてことはあり得ない。そんな意味でウェイドは彼を手に入れたい訳では無かった。そして偉大なヒーローである彼がこんなに小さく、些細な不幸に振り回されている自分を見つけてくれるだろうという夢想ができる程に、ウェイドは夢見がちでもなかった。

 むしろ幼い頃からウェイドはプラグマティスト(実用主義者)の片鱗を見せ始めており、自分と同じような境遇にありながら「いつか素敵な足長おじさんが助けに来てくれる」と妄言を吐く同級生達に対して、冷めた視線を向けていた。

 現実は厳しい。自分と同じような境遇の子供はいくらでもいるし、自分よりも酷い目に遭っている子供も沢山いるだろう。アフリカにはカカオ栽培のために人身売買される子供が多くいると聞く。アメリカでも薬物中毒の親から生まれたせいで、先天的な障害を持って生まれてくる子供が沢山いる。

 それに比べれば、五体満足で学校に行けている自分は遙かにマシだ。

 辛い目に遭っている子供達の中で、自分を目掛けてヒーローが助けに来てくれるだなんてことはありえない。それは現実に全く還元されることの無い、意味の無い妄想でしかない。

 

 ヒーローが自分を助けてくれるのは、もっと精神的な意味での事だ。ヒーローはその圧倒的な力と高潔な精神、それと果断な行動力を示す事で、子供たちに小さな勇気と忍耐を与えてくれる。

 この広い世界には、あんなに偉大なヒーローもいるのだ。そして自分があんなに偉大なヒーローになれる可能性だってあるのだ。

 そういった希望は、悲惨な状況にある子供達を絶望からほんの少しだけ遠ざける力を持つ。

 

 合計8回読み返し、この本が欲しいという欲求を強めたウェイドはその欲求のままに立ち上がった。

 読み返し過ぎてボロボロになったペーパーバックの小説の束を小さな腕で抱え、学校で一番優しい教師の教室に向かった。らしくなく胸が弾んでいた。生まれてから一番に勇気のいる行動だったかもしれない。廊下を弾く足裏が焼けたように熱かった。

 震える手で扉をノックすると、暫くの後に「入っていいわよ」と声がかかる。失礼しますとウェイドは扉を開けた。

 大きな赤ぶち眼鏡をした中年女性の教師は小さなウェイドが扉の向こうから入って来るのを見て、また喧嘩かと眉を顰めた。

 ウェイドは生育環境のせいか大人に積極的に話しかける事の無い子供だったが、自分や友達が馬鹿にされたら直ぐに手が出る喧嘩っ早い子供でもあった。

「ウェイド、どうしたの?また喧嘩かしら」

「違います」

「じゃあどうしたの?何か嫌な事でもあったのかしら」

「……先生」

「なあに?」

 ん、とウェイドは無言で抱えている小説の束を見せた。その仕草で教師はウェイドが何を自分に言いたいのかを完璧に把握した。ウェイド・ウィルソンがキャプテン・アメリカの熱烈なファンである事は校内でも有名だった。

 

 小説を抱えているウェイドの腕は少なくとも1週間は洗濯されていないだろう薄汚いシャツに覆われていた。手首や首元には青あざがある。ウェイドが過酷な環境の中に居る事は明らかであり、そして彼の心の支えが偉大なるキャプテン・アメリカだと察するのは簡単だった。

 じっと自分を見上げる青い瞳に教師は暫く悩んだ顔を見せた。

(今思い返すと、優しいという割に明らかに虐待されているウェイドについて警察に何にも言わなかったのはどうしてなのかと思ったりもする。しかしあの地域でそんな些細な事で一々警察に連絡していたら小学校から子供は居なくなっていただろう。日本の皆には想像も出来無いだろうが、アメリカにはそんな小学校は山ほどある)

 ようやく開いた口からは、授業の時に五月蠅い生徒を注意する時よりも少しだけ柔らかい声が零れた。

「それは学校の備品よウェイド。あなたのものじゃないわ」

「………はい」

「図書館からその本を持ち出すには貸出カードに名前を書かなきゃいけないの。そして7日以内に返さなきゃいけないわ。でもあなたはそれが嫌なのね?」

 窘めるというより確認するような口調の教師にウェイドは俯いた。厳しい口調ではなかったが何故か責められているような気がした。

 この頃のウェイドは周囲は全て自分の敵で、自分の味方なんて世界中のどこにも居ないのだという軽い妄想性障害を患っていた。

 既にこの場から立ち去りたかったが、腕の中の小説の表紙に描かれているキャプテン・アメリカの自分と同じ薄い青色の瞳を見てぐっと歯を食いしばる。

 

「………僕以外に、この本を借りている人はこの2か月居ません」

「2か月前には居たんでしょう?」

「卒業した先輩です。もう僕以外にこの小説を読む人はこの学校にいない。そもそも小説を読むような趣味のある子供はこの学校に居ません」

「でももしかしたらその本を借りたい人が明日現れるかもしれないわ。それに次に入学してくる1年生の中に小説を読むのが好きな子もいるかもしれない。ウェイド、それはあなたの物じゃなくて皆の物なの。皆の為にその本を買った人がボランティアで学校に譲ってくれたのよ。だから私達は皆でその本を譲り合わないといけないの」

 ウェイドは何も言い返せなかった。教師の言う事は正論だと知っていた。赤ぶち眼鏡を殴って砕きたくなるほどに隙の無い正論だ。

 しかしその正論を押してまで欲しかったからここまで来たのだ。ウェイドは顔を持ち上げて教師を見上げた。何も手に入れていないのに帰りたくない。

 自分を見上げて来るウェイドに教師は微笑んだ。ウェイドは大人に向ける口数は少ないが澄んだ瞳は雄弁だ。

 大人にとってはウェイドが欲しているのは単なる薄汚れた小説でしかない。中古本として売っても全部合わせて5ドルもしないだろう。

 しかしウェイドにとっては宝物で、これから先の人生を大きく揺るがすものかもしれなかった。簡単に「規則から外れるから駄目」だと跳ねのけて良いものではない。

「でも頑張る子供にはご褒美があるものよ。部活とか、テストとかね。そう、次の標準テストで学年5番以内に入ったらなんとかしてあげるわ。この学校で沢山本を読む頭の良い子供なんてあなたぐらいだしね」

 ウェイドは数秒の時間をかけて教師の言葉を噛み締め、すぐに顔を輝かせて何度も頷いた。

 

 

 標準テストとはアメリカ全土の小学校で行われる年に1回のお祭りみたいな試験だ。小学校の試験なのだから別にそう難しいものではない。少し頑張れば点数はすぐに跳ね上がる。

 ウェイドは必死になって勉強をした。その日からポケットには歴史の年号や化学式を書いた紙をいつも忍び込ませるようにした。数式を頭に叩き込んで、適当に思い浮かんだ数字を組み合わせて問題を作って自分で解いたりもした。

 元からウェイドは頭が良い少年だった。勉強に適した環境に生まれなかったせいでそうとは周囲から思われていなかったが、頭の回転は非常に早く理論的な思考回路を有していた。特に言語面においては小説をよく読んでいたためかエレメンタリーの生徒にしては語彙が豊富で、難解な言い回しもよく理解した。

 結果的にウェイドは全教科トップクラスの成績を取り学年1位になった。

 

 その日は嬉しかった。成績表を受け取ったまま図書館に行き小説の束を抱えて女教師の所にスキップで向かった。

 扉を勢いよく開けて成績表を掲げたウェイドに彼女は一瞬驚いた後で満面の笑みを浮かべて、よく頑張ったわねとペンだこのできた指を撫でた。

 しかし小学校の備品である小説を一人の生徒にプレゼントするというのはウェイドのために行える彼女の権限を越えていたらしい。自分のものになるのだとはしゃいで抱えていた小説を彼女はあっさりと取り上た。

 茫然とするウェイドに彼女は笑みを浮かべて自分のバッグから新品のペーパーバックの山を取り出した。

「はい、これは私から貴方へのプレゼントよウェイド。あなたは頭の良い子ね。きっと偉大な人になるわ」

 

 

 思えばあれが生まれて初めてウェイドが欲しいと思い、手に入れた物だったような気がする。

 小説を抱きしめてウェイドは何度もお礼を言って頭を下げた。いつも言葉少なで表情を出す事も滅多にないウェイドだったが、その時ばかりは泣き出さんばかりに喜んだ。

 帰り道の足は軽かった。固く小説を抱きしめて家に帰り、家に入ってからは親に見とがめられないよう早足で自室に戻った。

 ベッドの下にきっちりと綺麗に並んだキャプテン・アメリカの小説シリーズを置いた時にはぽろぽろと涙が零れた。ウェイドの部屋は薄暗く、湿気が酷くて足元の床が直ぐに崩れ落ちそうな悲惨なものだったが、キャプテン・アメリカがやってきた瞬間からベッドの下だけはぴかぴかと輝いているようにさえ思えた。

 

 何もかもが自分に敵対するような空間の中で、初めて自分の味方が現れたような気がしたのだ。何よりそれが自分の努力の結果手に入れたもので、誰かから施されたものでない事が心に大きな光を灯した。

 

 その日からも虐待は続いたが、ウェイドの心境は大きく変わった。自分の正しさをもう少しだけ強く信じる事にしたのだ。

 祖国を護るために戦ったキャプテン・アメリカのように、とまでは言わずとも、彼の後に生まれて彼の功績を知っている人間として恥ずかしくない程度には自己に誇りを持ちたかった。

 ウェイドは悲惨な現状を諦め、死体のように生きる事を止めた。

 現実に立ち向かう事にしたのだ。

 

 小学校の高学年にもなると父親は学校に行かずに仕事をしろと頻繁にウェイドを殴った。それでも黙って学校に行くと馬鹿なお前が学校に行っても何の意味も無いと罵倒され、木に縛り付けられた。

 それでもウェイドは、ともすれば「自分は悪い子だからこんな折檻を受けてもしょうがない」という楽な思考回路へ陥ってしまいそうな自分を叱咤し、間違っているのは自分ではなく親の方だと強く心に言い聞かせた。

 自分は親の所有物ではなく、意思のある一人の人間である事。自分はこんな虐待を受けなければならないような事は何もしていない事。学ぶ事は自分を強くする事だから、絶対に学びを止めてはいけない事。自分には自分の人生を生きる権利がある事。

 10年とちょっとの人生で得たそれらの真理を、たとえ誰も肯定してくれなくても、ウェイドはそれらが全て真実だと何度も自分に言い聞かせた。

 

 それでも雨の降りしきる中、殴られた頬の痛みを耐えながら木に縛り付けられていると心が弱る時もある。

 そう言った時は歯を食いしばり、ウェイドは自室のベッドの方向を向いて囁いた。

「キャプテン・アメリカ、僕を助けて。マイヒーロー、僕に勇気を」

 

 その願いは程なくして聞き届けられた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ウェイドはエレメンタリーを卒業してミドルスクールに入学した。

 人当たりのよいウェイドはクラスに問題なく馴染み、勉強も常にトップの成績を取り続けていた。痛めつけられ続けた体の成長は遅かったが、それでも少しずつ体力は増え、力を増した。

 

 そして2年生に上がってから暫くして、ウェイドは殆ど着の身着のままといった体で家出をした。

 

 切っ掛けは些細なことだった。エレメンタリーの頃から大事にしていたキャプテン・アメリカの小説シリーズをベッドの下から見つけた母親が、ウェイドが学校に行っている隙に古本屋に売り払ってしまったのだ。

 何度も読み返したせいで手垢まみれになっている古本は母の目には単なるゴミにしか見えなかったらしい。しかしそれでも夕食の足しにはなると思われたらしく、母は小説の代わりに3ドルを得て近所で卵を1パック買った。

 

 今思うとそれ程大したトラブルでもない。少なくとも人生を変えるようなイベントになるにはインパクトが足りない。

 テロ組織に誘拐された先で友人となった天才物理学者が理不尽に殺されたり、第二次世界大戦の最中で行われた超人計画に参加した事でアメリカの英雄に祭り上げられたり、超人計画を再現しようとγ線を浴びたら怒りで理性があったり無かったりする緑色の巨人(グリーン!)になってしまったり、路地裏で両親が無意味に殺されたり……少なくとも、それだけで映画が1本作られそうな派手なオリジンでは無かった事は確かだ。

 ちなみにAmaz●n primeに入れば全部無料で視聴できるぜ。未視聴の奴らは、取り合えず“アイアンマン”と“キャプテン・アメリカ/ザ・ファーストアベンジャー”と“ウィンターソルジャー”と“バットマン/ダークナイト”だけは見ろよ!!マジで!!

 まあ俺ちゃん……おっとっと、一人称がブレブレだ、ファンフィクションとは言え一応体裁は整えねえとな‥…ウェイドはスーパーヒーローじゃないし、この時点ではスーパーでさえ無かった。ただの萎びた栄養不足のガキ。そのガキの唯一の支えがそのペーパーバックだった。

 

 

 プレミアがついている訳でも無い古びたペーパーバックの山なんて、他人から見れば資源ごみに出し忘れた紙束程度にしか見えないだろう。売られたり捨てられたりしてもしょうがないもので、金を溜めて新品を買い直せばそれで済んだ話だ。

 しかし当時のウェイドにとってそれは世界が一変する程に重大過ぎる出来事だった。自分の心の安全地帯が、現実と立ち向かうための心の支えが、母親の手によって奪われたのだから。

 

 ミドルスクールから帰ってきたウェイドはベッドの下を除いた。

 流石にもう一言一句完璧に覚えてしまっていたためエレメンタリーの頃のように毎日小説を読むということは無かったが、それでも3日に一回は小説を開いてキャプテン・アメリカの挿絵を眺める事が習慣となっていた。

 しかしその日小説はベッドの下に無かった。頭が真っ白になった。

 

 母親は父親の虐待を黙認していたが、自分から積極的にウェイドを虐げる事は無かった。小柄なウェイドよりもさらに小柄で、いつも腰を曲げて神に許しを乞いながら仕事と家事をこなしている姿は哀れでさえあった。だからウェイドも母の愛を疑いこそすれ、憎悪は抱いていなかった。

 だからまさか母親が自分の一番大事なものを奪ってしまうとは思っても居なかった。

 いつだって自分から何かを奪うのは父親で、母親は自分と同じ被害者だと思っていたのだ。

 それは間違いじゃない。しかし同じ被害者だから支え合えるなんていうのは幼いウェイドの都合の良い幻想だった。

 

 慌てて階下に降りる。母親はリビングで雑巾のような布を繕ってなんとか服に仕立てようとしていた。薄汚れた布は元の色が分からないくらいに褪せている。

 母は薄いブロンドに碧眼といういかにもアメリカ美女らしい色彩をしていたが、顔は老婆のようだった。皺は深く木石のように表情が無い。ブロンドには白いものが混じっている。

 足音荒く下りて来たウェイドを母は緩慢に薄眼で見やった。焦りで震える声を何とか落ち着かせながら口を開く。

「母さん、僕の、僕の小説を知らない?」

「……小説?」

「ベッドの下の!」

 少し考えるように宙を見据えて、母親はああ、と小さく頷いた。

「あの、小説。見覚えが無いから、その………いらないものかなって」

「あれは僕のだよ!?どこにやったんだ!!」

「その、ええと………し、知らないわ、知らないの」

 

 ウェイドは普段からあまり声を荒げない子供だった。父親にいくら虐待されても静かに涙を零すばかりで怒鳴るどころか反抗すらしない。そのように調教されていた。

 そのためにウェイドが声を荒げる姿を母親はこれまで見た事が無く、怒鳴る子供を前にして肩を小さく狭めて震え始めた。まだ子供の年齢だったがウェイドは既に母親の身長を追い越し、段々と男性らしい骨格に移り変わろうとしていた。

 怒鳴り声を向けられ、実の夫にそうされた時と同じように母は体を小さく丸める。頭は怒気で熱を持っているというのに、ダンゴムシの様だとウェイドは頭の冷ややかな部分で思った。こちらがその気になれば簡単に潰されてしまう事を知りながら自分を護ろうと必死になっている弱弱しい何か。

 

「いらないものかなってさっき言っただろう!どこにやった!!」

「知らないの、ごめんなさい、私はただ、違うの、ごめんなさい」

「謝らなくていいからどこにやったのか言えよ!」

「ウェイド、何をしているんだ」

 

 騒ぎ声が聞こえたらしく農作業から帰ってきた父がリビングに顔を出した。自分以外の男の怒鳴り声が家に響いている事が不快なのか、泥の付いている眉を震わせて不機嫌な顔を作っている。

 いつもならば父の表情に体を竦ませていただろうが、しかし今のウェイドにとっては父の機嫌なんて些細な問題だった。父よりも母よりもずっと強くウェイドを護ってくれていた存在が居なくなった事の方がずっと重要だった。

「母さんが僕の小説をどっかにやっちゃったんだ、あれは僕のものなのにっ、」

「お前の小説?はっ、文字も碌に読めるかどうか怪しいお前が持っていてもしょうが無いだろう。それより、」

「どこにやったんだよ!答えろ、おいっ」

「ウェイド、そんなどうでもいいことで騒ぐんじゃない!それより、」

「どうでも良くなんかない!」

 

 叫びながら椅子を蹴り飛ばす。

 椅子は食器棚に当たってガラスを割った。父の赤い顔がさらに赤くなって巨大なトマトのようになった。弾けるように父は唾を散らしながら叫んだ。

 

「何をしているウェイド!!折檻だ!!ふざけた事をしやがって!!」

「ふざけた事をしたのはこのババアだ糞ったれめ!!僕の小説をどこにやったんだ!!震えてないでさっさと応えろよこの愚図!!」

「違うの、私のせいじゃないわ、私はただ、お金が足りなくて、ウェイドの晩御飯に使うために、」

「僕の意見も聞かず、僕の所有物を勝手に売って、それが僕のためだって!?弁明するならもっとマシな事を言え!!」

「お前の意見、お前の意見だと!?1ドルもまともに稼げないお前に意見なんて言う価値がある訳が無いだろうが!!お前達は俺に従っていればいいんだ!!黙って、静かにしてろ!!ぶん殴られたいのか!!」

 

 拳を振り上げる父に一瞬肩が竦んだ。あの大きな拳で殴られた時の痛さは身体に刻み込まれている。

 しかしそれでも今回は、いや、これまでも父より自分の方が正しかった。それだというのにこれまで自分は我慢していたのだ。だから自分で手に入れた物を奪われるような羽目に陥った。

 我慢ばかりしているからこうなる。 

 

 ウェイドは母をその場に突き飛ばして弾かれたように自分の部屋に向けて駆け上がった。通学にも使っているバッグに衣服と、隠れて溜めていたドル紙幣を詰め込む。他にも小さなナイフや拾った缶詰など、使えそうなものは何でも詰め込んだ。

 バッグを背負って玄関まで走る。リビングから出てきた父に向かってウェイドは唾を吐きつけた。吐いた唾が泥だらけのズボンに当たりざまあみろと鼻を鳴らした。

 

「僕には僕の意見がある!麻薬と酒で頭の中身を腐らせるのもいい加減にしろこのクズ!!お前だけじゃない、そこで蹲ってるババア、お前もそいつと同じクズだ!!自分が世界で一番可哀想っていうツラをしてるお前が一番気持ち悪い!!お前らみんな死んじまえ!!」

「……う、ウェイド、違うの、ママは、」

 

 ママは、と呟いて父の後ろから腰の曲がった小さな女が顔を出した。

 年齢を考えるとあまりに老けた顔だった。頭は全て白髪で覆われており皺は深い。母というより祖母と言った方が良い風体だった。

 「ああ、神様」そう呟いて顔を歪めてめそめそと泣きだした母に向けて玄関に置いてあった錆びた鉄製の傘立てを投げる。

 母は全身を強かに打ち付けられて床に倒れた。打ちどころが悪かったのか、痛みに呻く母にも唾を吐きかけた。

 

 これまで父はウェイドに何度も罵声を吐きかけて暴力を奮ってきたのに、母はおろおろと戸惑うばかりだった。一度として母がウェイドに手を差し伸べた事は無かった。いつだって母は哀れっぽく涙目であり、世界で一番自分が不幸だという顔をしてただ神に祈っていた。

 これまでは母には力が無いからそうやって何も出来ないのもしょうがないと思った。しかし子供のウェイドでさえこうして家を出ていく事ができる。

 ならばどうして母は神に祈っていたのだろうか。神に祈るよりずっと先に出来ることが幾らでもあった筈だ。いくら祈っても何もしてくれない神を母はもっと早く見限るべきだった。そうして自分の手足と頭を動かすべきだったのだ。

「ああ、神様。お助け下さい、あなたの哀れな羊を」

 痛みに呻きながらもまた母はそう言った。この期に及んでまだ母の視界にウェイドは映っていなかった。母は胸元から垂れ下がっているロザリオを掴んで額に押し当てて目を閉じていた。

 

「ママは何だって?ママ、はぁ!?ママらしい事を一回でもしたことがあるかよお前が!!いっつもめそめそめそめそ泣くばっかりで一度も何もしなかった癖に!僕を助けることも見捨てて逃げる事もしないで気持ちの悪い!!」

「神様、どうかお許しください。どうかお許しください。神様、」

「黙れクズ!!」

 

 最期に母親へ吐き捨てるように言葉を投げつけて、扉を開け放ったウェイドは家を出た。そのまま力尽きるまで走った。

 後ろから父が追いかけて来るような音が聞こえたけれど、タバコと酒とドラッグに体を侵食されている肥満気味の中年男が若く健康なウェイドに追いつける訳も無かった。

 

 農場を掻き分けるように走る。農場から出たら、街に向かって走った。もう二度とあの家には帰らないと心に決めた。

 小さな勇気がウェイドの胸に灯っていた。今にも崩れそうな田舎の家にこれから老いていくだろう頭の悪い父と、背骨の曲がった母親を置き去りにする事が勇気ならば、それは間違いなく勇気ある行動だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 それからの4年の年月はあまりに短く感じた。

 幸いにも一度も逮捕される事無く、大きな病気をすることも無く、ウェイドは18歳になった。

 

 ぐんぐんと身長が伸び、髭も生えるようになって手入れが欠かせなくなった。身体からは丸みが削ぎ落されて骨と筋が肌に浮き立ち、中性的に愛らしかった容姿は男性的で鋭利な容姿へと移り変わった。

 最初は路上にゴミ漁りから始まった生活だが、次第に年齢を偽って働く方法を見つけた。14歳と16歳なんてほんのわずかな違いで口数多く押し通せばなんとかなる。

 ちゃんとした収入を得られるようになると生活は一変した。

 まずは小さいながらも部屋を借りた。格安のアパートは家と同じ位にボロかったが、ゴミ捨て場から拾ってきた木材を加工して隙間風は通らないようにした。こまめに掃除をして、比較的綺麗な状態で捨てられていたラグを敷くとそれなりに見られる部屋になった。

 そして身形をきちんとするようにした。髭は毎日剃り、髪も整え、安物ながらも清潔な衣服を着るようになると周囲がウェイドを見る視線は一変した。粗野な父と陰気な母からよくも良いパーツばかりを選別したものだと、自分でも遺伝子の神秘に驚く程にウェイドの顔は整っていた。

 ウェイドが通っていた学校と住んでいる場所はそう遠くは無かったが、金髪碧眼を持ついかにもなアメリカ的美青年に、雑巾のような服を着た汚らしい子供の面影を見る者は居なかった。

 割と寡黙だったウェイドの性格は仕事をするようになってからすぐに変わり、喋り過ぎだと笑い混じりに窘められる程に喋るようになった。語彙は豊富で、頭の回転が早いウェイドは初対面の人間が相手でも上手く会話を回し、よく人に好かれた。接客業をすれば多めにチップを貰うこともあり、食事を奢ってもらうこともあった。

 仕事は新聞配りや飲食店のウェイターから、喧嘩の代行や変態相手の売春まで、何でもやった。

 本当に何でも。

 

 とにかくは生きていく事が大事だ。他は二の次。そして生きていくためには金がかかる。

 金持ち連中は「金より愛が大事」だと言うけれど、まずは金が無ければ愛を持つ余裕は生まれない。どれだけジーザス・クライストが民衆に愛の重要性を訴えたとしても、無限にパンを作るふざけた能力を持っていなければ死からの復活に3日もかける怠惰なロン毛野郎などに誰もついて行きはしなかっただろう。

 全ての物事には優先順位があり、一番大事な物を護るためには他は切り捨てて行くくらいの気持ちでなければならない。社会の隅で生きるうちにウェイドはそう思った。

 

 そうと思わせたのは4年の間に出会った多くの大人達だ。その中にはウェイドの身の上に同情する者も居れば、世間知らずのガキが無謀にも家出なんてと苦言を呈する奴も居た。虐待の事を警察に通報すれば良かったのにと哀れなものを見る目つきで言う奴も、父親を殴り殺してやれば良かったんだと笑う奴も居た。

 彼らは総じて間違ってはいない。ただ優先順位が違うだけだ。自分が一番大事か、それとも家族が大事か、はたまた世間体か。または目の前で傷ついている他人を一番大事だと思うか。

 どれが答えでも間違ってはいない。ただその答えがその人の人間性を決定する。ウェイドにとって一番大事なのは自分自身だった。それが自分の人間性で、ヒーローとはかけ離れているものだった。

 

 そしてそう言った人間性の自分は、同じような人間性を持つ女を引き寄せた。

 名前はフローラと言った。歌手を志望して田舎から出てきた女で、ウェイドがウェイターを務めていたバーで頻繁に歌っては花束を貰っていた。

 閉店後に一緒にまかないを食べてぽつぽつとお互いの身の上話をする内に、いつの間にか交際が始まっていた。それが自然の成り行きであるかのように何の切っ掛けも無く、ただウェイドとフローラは時間が許す限り一緒に居て、夜にはセックスした。

 恋をしたというにはあまりに熱の無い関係だった。ウェイドとフローラはお互いの境遇に自分を見出して、お互いを慈しむことで傷を舐め合っていた。

 フローラと一緒に居る間は幸福とは言えないながらも心は穏やかだった。きっとフローラもそうだっただろう。いつも泣きそうな顔をした彼女は、ウェイドと一緒に居る時にはたまに笑顔を見せた。

 美人では無かったが愛嬌のある女だった。猫のような形をしている瞳は可愛らしく、不満がある時にはじっとウェイドを見上げた。その目で見られるとウェイドは小さな子供を虐めているような気分になって口を閉じ、最後にはフローラに言い負けてしまうのだった。

 

 付き合い始めてから半年でウェイドはフローラと一緒に暮らすようになった。

 心が弾むような恋ではなかったが、一緒に暮らしていると自分自身が2人に増えたような感覚がして、生活の中に不快なものは少しも無かった。妄想性障害による被害妄想はまだ尾を引いていたが、あまりにフローラがウェイドに似ていたために彼女が生活の中に居てもウェイドは不安も恐怖も感じなかった。その位にフローラはウェイドによく似ていた。

 金髪碧眼で巨乳という典型的なアメリカ女で、お喋り好き。でも大事な所は口にせず秘密は自分の中にしまい込む。プライドが高いくせに自己卑下が激しく、そのギャップを誤魔化すために常に皮肉を口にする。

 ベッドの上でも彼女はウェイドによく似ていた。快楽は大好きだが、警戒心は絶頂の瞬間でも緩まない。むしろより強固になり相手を徹底的に拒絶する。他人との距離が狭い事が本能レベルで怖いのだ。その気持ちがウェイドにはよく分かった。

 きっと彼女も理不尽な暴力を奮われた事があるのだろう。その経験をウェイドは知っている。むしろ女性である彼女の方が自分より酷い目に遭っていたかもしれない。

 だから運搬業やら喧嘩代行やらで鍛えられ、さらに遅めの成長期のせいで同年代の中でも大柄に分類される体格を持つ事になったウェイドが恐ろしくても当然だ。

 彼女の警戒心は彼女がウェイドに抱いている好意や信頼とは全く別個の問題だった。

 だから別れる最後の瞬間まで彼女の警戒心が一度もほぐれなくても、ウェイドは笑って許した。

 

 

 付き合い始めて2年もした頃、フローラは他の男性と付き合う事になったと告げてウェイドと別れた。

 一切合切の荷物を纏めた彼女は、これから付き合う男性はちゃんとした収入と社会的ステータスを持っていると泣きそうな顔で笑った。

 ウェイドは心から彼女を祝福した。フローラもそうだが、ウェイドも恋をしていた訳では無かった。ただ寂しかったのだ。

 ただウェイドは自分と同じような境遇をした彼女が少しでも自分の居場所が見つかれば良いなと思った。出来れば、自分も。

 

 フローラが家を出て行くより先にウェイドの方が家から出て行った。彼女の分の小さな荷物が玄関には積み上がっていて、その隣には同じように小さなウェイドの荷物が積み上がっていた。

 自分の分の荷物を背負って靴を履く。玄関の前に立つウェイドをフローラは眩し気に眺めた。ウェイドは既に身長が180cmを超えており、子供の頃に見せた可愛らしさは全て削ぎ落されていた。

 自分とよく似た色をしている長い金髪を指で梳くとフローラは笑窪を作って微笑んだ。

「……幸せにね、ウェイド」

「君もなフローラ。君に会えて僕は幸福だった。短い間だったけど、夢を見ているようだったよ。これからも君を愛している。一番の親友として」

「私も愛しているわウェイド。同じ境遇の同士としてね。こんな目に遭わせた神様を見返してやらなきゃ死んでも死にきれないわ」

 あなたもそうでしょ、とお茶目に笑うフローラの唇に小さなキスをして、ウェイドは家を出て行った。

 ウェイドの手には志願兵通知書が握られていた。ウェイドはこれから、BCT(基本戦闘訓練)を受けるためにサウスカロライナ州に向かう。

 玄関から長い道を歩いている間ウェイドは一度も振り返らなかった。

 フローラは暫くの間小さくなっていくウェイドの後姿を見ていたが、その姿が見えなくなると自身も荷物を担ぎ、ゆっくりと小さな家から出て行った。

 

 

 

 

 

 


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