ジーニーの祈り   作:XP-79

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2. 西部戦線異常なし

「それで、お兄ちゃんは軍隊に入隊したんだね」

「しょーゆーこと。軍人になったら衣食住は保証されるし、退役した後も色々と恩恵がある。そんで入隊したら、やっぱり俺と同じような奴らばっかりだったよ。ドラフト(徴兵)制度が廃止されても軍の内情は何も変わらねえ。下層階級のティーンが一発逆転する最大のチャンスだってどんな馬鹿でも知ってるから、まだガキみたいな年齢の奴らが軍施設でライフル担いでマラソンしてても誰も何も言わねえし思わねえ」

「……あなたは、それが間違っていると思うの?」

「んにゃ。あいつらも俺も、兵士にならなかったら高確率で道端のゴミを拾って生きるような大人になってた。そんで最後は野垂れ死にだ。だったら戦争に出て、どっかの国の土の肥料になった方がよっぽど有意義な人生さ。梅毒で死ぬかヤクの売人になるような奴らが、少なくとも人間として生きて死ねるんだから、西部前線に異常はなし。オールオッケー。適材適所。そうして国は回っているのよん」

「軍に入隊して、それからお兄ちゃんはどうしたの?」

「別にあんまり変わった事は無かったさ。ブートキャンプ(初期入隊訓練)ではロボットみたいに規則正しい生活と、武器の掃除、それと体育の授業よりはキツイ訓練を叩きこまれてあっという間にムッキムキになったよ。最初は訓練にひいこらしてたけど、1カ月もすりゃあ大分慣れて、ブートキャンプが終わったら高卒資格を取って、退役した後は大学に行きたいなんて考える余裕も生まれた。ごみ溜めから這い上がってやるってな………ま、全部無駄になったけどね」

「大学、行けなかったの?」

「行けないっつーより、行かなかった。途中で俺ちゃん兵士が天職だって気付いたからさ、ウェストポイント(陸軍士官学校)ならともかく、広々としたキャンパスでパソコン持ってノマド気取りだなんて想像するだけで鳥肌が立っちゃうのよ」

「士官学校に行けばよかったのに」

「推薦はされたさ。俺ちゃん優秀だったから。でも後方で指揮官っつーのは俺の仕事じゃない」

 

 鼻で笑って肩をすくめた。

 適正が無かったとは思わない。でも性には合わなかっただろう。もし後方指揮官を楽しめるような性格なら、そもそも今の自分はこんな事になっていない。

 でもそれは自分だけではないとも思う。キャップだって後方指揮官として素晴らしい才能があるに違いないが、安全地でオーダーメイドのソファに座って最前線へと指示を飛ばす彼の姿なんて全く想像ができない。少なくとも前線で戦える内は、彼は指揮官に専念する道を選ぶ事はないだろう。

 まだ若いスパイディも、熟練した兵士でもあるローガンも、大金持ちのバットマンも、甘やかされて育ったボンボンのアイアンマンでさえそうだ。

 超人的な能力を持っているから、というだけでは説明のつかない最前線への固執。「大いなる力には大いなる責任が~」とかいう使い古されたセリフだけでは納得ができないその執着心には、一種の存在肯定感が潜在しているんじゃないかと思う。

 つまりは銃弾の雨に晒されている最中に感じる「こんなに危険な目に遭いながらも皆を助けようと奮闘する俺ちゃん凄い!立派!めっちゃイケメン!!」とかいう悪質なドラッグにも似た高揚感だ。ヒーローとか呼ばれている存在は多かれ少なかれこの高揚感の中毒症を患っている。

 特に酷い中毒者はアイアンマンだろう。あの男は、自覚こそ無いかもしれないが、日常的に自傷を繰り返している破滅願望者だ。

 

 情けないけれど、そうやって必死に自分で自分を肯定しないと立っていられない位にみんな寂しい生き物なんだよ。

 だから俺ちゃんも寂しがりや仲間としてアベンジャーズに入れて欲しいんだけどな。中々上手く行かないもんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

「ウェイド、ウェイド!!待て!!それ以上はやり過ぎになる!!」

 そう制止する声も聞こえたが、振り上げた拳は振り下ろさなくてはならない。それにまだ謝罪の言葉を聞いていなかった。

 周囲はやんやと囃し立てる声とウェイドを制止する声が入り混じっている、その中でウェイドは再度拳を振り下ろした。タイル床に派手な音を立てて男が倒れる。

 顔面から叩きつけられてうめき声を零す同僚の周りをウェイドはゆっくりと歩いて回った。

「ヘイMademoiselle, ちっちゃなアジア人は殴れてもでっかい白人は殴り返せないってか?自由の国にあるまじきレイシスト野郎め。ほら立ち上がれよ。それともママが居ないとたっちも出来ねえか。ほらたっちだたっち、あんよは上手!」

 自分のバトル・バディーはまだ後ろで茫然とした顔をしている。アジア系の幼い顔立ちは、ウェイドより2つ年上であることを忘れさせる弱弱しいものだった。彼の頬は酷く腫れていた。

 

 長いブートキャンプのプログラムの内、BCT(戦闘基礎訓練)が終了し、ウェイドはAIT(高等個別訓練)に進んでいた。最も一般的かつ伝統のある、言い換えれば兵士の掃きだめであるInfantry(歩兵科)に進んだウェイドは、現在歩兵学校の基地内にバトルバディーと共に住んでいる。

 

 小柄なアジア人のバトルバディー、ササキ・カオルは小動物のように小柄で可愛らしい外見から悪い意味でよく目立った。ウェイドもカオルと初めて顔を合わせた時はまだミドルスクールの学生じゃないかと本気で疑い、お嬢さんだとからかった。カオルはウェイドにからかわれても少し困ったように笑うだけで怒る事はなく、お返しとばかりに皮肉交じりにウェイドを揶揄する事も無かった。

 日本人は我慢強く謙虚だと噂には聞いていたが、ササキ・カオルはまさしく日本人らしい日本人で、真面目で誠実、かつ冗談が通じず皮肉も言えない性格に、皮肉屋で軽口の多いウェイドも口先で揶揄うことが躊躇われた。

 言い返してこない、小さな幼い(実際にはウェイドより年上だが)人間に毒を吐くと、こちらが弱い者いじめをしているような気分になる。

 ウェイドは弱い者いじめは嫌いだった。特に幼い外見をしている人物を相手にすると、自分の中に存在する父親の遺伝子を目の当たりにするようで自分自身に嫌悪が走る。

 それにカオルは良い奴だった。仕事は真面目にこなし、座学は同期の中でもトップだ。体力には難ありだが、途中で吐きながらでも走り続ける根性がある。

 だが一般社会であればカオルが持つ真面目さや謙虚さ、誠実さは彼の欠点を覆い隠すのに十分な美徳足りえるものかもしれないが、周囲が破落戸上がりの志願兵ばかりである軍社会となると話が変わる。

 祖国に帰った方が良いぜお嬢さんと揶揄されるのも、女日照りの日々の中でベッドに誘われるのもカオルにとっては日常茶飯事だった。

 そしてその度にウェイドが、バトルバディーのよしみとしてカオルの代わりに彼らとお上品なお話し合いをしていたのだった。

 

 今日もその類の連中がまたカオルに突っかかってきたのだろう。

 食堂でカオルと一緒に食事を取っている最中、ウェイドが少し席を立った隙にカオルは同僚から何がしかの不興を被って殴られたらしい。

 いい加減に飽きれば良いだろうにと思うが、ブートキャンプの最中には娯楽らしい娯楽など無い。外出は制限され、飲酒もままならない。鬱憤発散のお相手をお願いできる女性なんて女性兵士か事務員しか居ないが、その数は男性兵士に比べて非常に少ない。思い余った男性兵士が女性兵士や事務員をレイプするにしても、そもそもの数が足りない上に、彼女たちの生活圏は厳重に男性兵士と被らないように保護されている。

 そして志願兵はいくら年嵩でも26歳は超えず、ありとあらゆる欲求を精神力のみで抑えつけるのは難しいお年頃だ。

 結果、男性兵士も性暴力の被害に遭う。実際の統計として、アメリカ軍内での性暴力の被害者の過半数は男性だ。

 

 行き場のない欲求は性か暴力、もしくはその両方の形をとって、カオルのような弱者に襲い掛かる。

 その現状を上層部が知らない訳も無いが、Don’t ask, don’t tell(聞くな、言うな)が軍隊の在り方である以上、誰も声を上げられない。声を上げた結果人格障害の烙印を押されて除隊になった先輩達も珍しくはないのだ。特にカオルのような有色人種の新兵に手を差し伸べる奴なんて滅多にいない。

 

 そんな訳で騒ぎ立てる周囲を押しのけながらウェイドはカオルに駆け寄り、とにもかくにもひとまず一発ぶん殴って、今に至るのだった。

 

 地面に血交じりの唾を吐いた同僚はじろりとウェイドを睨みながら立ち上がった。

 身長はウェイドとそう変わりないが、腹は牛のように肥えている。父親に似た体形に、ウェイドの好感度はゼロを振り切ってマイナスに突入した。

 

「このゲイ野郎め、ベッドのお相手がそんなに大事かよ。そいつの具合はそんなに良いのか?」

「Language, Mademoiselle、それともFraulein?ヒトラーの崇拝者共はお口が悪くて困りますわねぇ。そうは思いませんことカオル?」

「え、あ、いやその………」

「ほらカオルも言ってるだろうが、Kiss my ass, baby. そんなにゲイ野郎の具合に興味深々なら俺のケツにキスして懇願しろよ。『僕ちゃんのポークピッツは満足に勃ちもしない役立たずだから、アナルが縦割れの立派なpussyに開発して下さい』ってな。はい復唱!!」

「死ねクズ!!」

「Language(お口が悪いですわよ)!!」

 殴りかかってきた拳を躱して腹を殴る。体勢が崩れたところで腕を取り、そのまま投げ飛ばした。

 そのまま壁に激突するかと思ったが、空中でバランスを取り戻して床に着地し、こちらを睨んでファイティングポーズを取る。

 腐っても歩兵科のAIT真っ最中の奴だ。こちらを睨む目つきに油断は無い。そのままこちらに突進してくる。

 身長は同じ位だが、脂肪の分相手の方が体重が重い。的確に腎臓目掛けて突き出してきた相手の拳を寸での所で躱すも、その勢いに負けて数歩後ずさった。

 方向転換して再度突進してきた相手に向けて、ウェイドは咄嗟に掴んだ椅子をぶん投げた。

「おらよ!」

 男は咄嗟に飛んできた椅子を避けたもののの、続けざまに投げられた2つ目の椅子はよけられなかった。

 食堂の椅子は経費の問題から全てパイプ椅子だった事がお互いにとって幸いした。相手の男は首が骨折するのを免れ、ウェイドは同僚殺しの汚名を逃れた。

 

 激突した椅子に脳を揺さぶられ、男はその場に倒れた。運悪く顎先に椅子の柄がぶち当たったらしい。白目を向いており、口の端から泡が零れている。周囲から囃し立てるばかりだった同僚が、決着がついたのを見てわっと湧いた。

「おい、こいつ生きてるだろうな?」

「生きてるさ。呼吸はしてる。脳が揺れただけだ」

「一応医務室に連れて行くか」

「よくやったぜウェイド、いい試合だった。あいついっつもうるせえから」

「パイプ椅子は卑怯だろ!プロレスかよ!」

「Languageはお前だろうが!!」

「ありがとう、ご観戦ありがとう皆!観戦代を徴収するからこちらに一列にお並び下さい!俺の応援をしてくれた奴は3ドル、あいつの応援をした奴は5ドルとなっております!無論おひねりはいくらでも、」

「—————ウェイド、ちょっと来い」

 

 それまでの騒ぎが嘘のように、しん、と食堂が静まり返る。

 教官が食堂入口に立っていた。「愛と青春の旅立ち」のフォーリー軍曹がフィルムから抜け出て来たような男は、深く被った帽子から鋭い眼光を光らせてウェイドを睨んでいた。

 囃し立てていた連中は押し黙り、うわぁ、という哀れみの混じった呆れの視線がウェイドに集中した。基地内での暴力沙汰はご法度だ。例えそれが相手から一方的に売られた喧嘩であっても、処罰は均等に分配される。

 軍隊での処罰は分配品だ。誰も彼もが漏れなく受け取る事ができるよう、この点ばかりは厳密に管理されている。ウェイドは頬を引き攣らせながら「Yes, Sir」と返した。

 

 黙って頷いた教官は踵を地面に叩きつけながら食堂から出て行った。辺りがわっと騒めく。ウェイドは重い息を吐いた。カオルは悔しそうに顔を顰めてウェイドに駆け寄る。

「ウェイド、ごめん、僕のせいで」

「………俺は大丈夫だカオル。ガルシア教官は公平な男だ。お前は医務室行ってろ。そのほっぺた、これからラグビーボールみたいに腫れるからな」

「分かった。ウェイド、ガルシア教官に何か言われたら、元々は僕が原因だって伝えておいて」

「了解、マイバディー。この礼はこれから3日間分の座学の課題で良い。ガルシアのお説教でかなりの脳細胞を使いそうだ」

「任せて」

 真面目な顔で頷くとさらに幼さが増す。カオルに親指を上げた拳を突き出して、ウェイドは軍靴を鳴らしながら食堂を出た。

 

 

 

 

 

 

■  ■  ■

 

 

 

 

 

「ジョージア州はいけない。空気が重すぎる。天気も悪い」

「ご出身はどちらだったんですか?」

「デンバーだ。もう何年も帰っていないが。お前は?」

「……オハイオです。兵士になってからは帰っておりません」

「そうか」

 ガルシア教官はウェイドよりも身長の高い、大柄な黒人だった。訓練教官らしく罵倒の語彙は素晴らしく豊富で、部下には非常に厳しいが、暴力的な制裁は一切行わない公平な人物であることからそれなりに人気があった。

 AITの練兵教官としては珍しく小隊付き軍曹ではなく、怪我のため一時的に後方任務に就いている少尉であるからなのかもしれない。外見に似合わず何処となく上品な、所謂士官的な雰囲気のある男だった。

 机に腰かけてタバコに火をつけたガルシアは、気を付けの姿勢のまま微塵も動かないウェイドに楽にしろと告げた。

「カオルが侮辱されたから暴力を振るったと聞いたが、間違いないな」

「はい」

「そうか。まあそれは良い」

「良いのですか?」

「話が終わったら廊下で腕立て伏せを200回だ。それで良い。どうせ何を言ってもお前の行動は変わらんだろう。なら言葉を重ねるだけ無駄な事だ。軍隊において、無駄は何よりも真っ先に排除するべき敵だ」

 あっさりとした言葉に拍子抜けしながら、ウェイドは肩の力を緩めた。しかしタバコを灰皿に押し付けたガルシアの、「それより、」という言葉に体を固くする。ここからが本題だ。

 だが緊張を帯びるウェイドに対し、ガルシア教官の声は平穏そのものだった。

「お前宛てにマークスマン(選抜射手)から勧誘が来た」

「勧誘、ですか?」

「滅多に無い事例だ。良かったな。教会で銃を乱射するミドルティーンよりは射撃が上手いと思われているらしいぞ」

 ほら、と突き出された書類にはDesignated Marksman of U.S.Armyの公式文書である事を示す鷲のマークが控えめに印刷されている。反射的に受け取り内容を読むと、AIT卒業後の進路について淡々と選抜射手を推薦する文字が並んでいた。本当に推薦する気があるのかという程に温度の無い、いっそ冷淡な文章だったが、単なる一新兵に対する推薦としてはこれで十分という事なのだろう。

 その文章から微かな苛立ちを感じて、ウェイドは微かに両頬を釣り上げた。人並み以上の自負心が胸奥で鼓動を強くしていた。

「射撃大会であいつらに勝ってしまったのが運の尽きだったな。たかだか二等兵に負かされるとは連中も思っていなかったんだろう。プライドを叩きのめされたツケを直々に返したいそうだ。入隊してからの功績次第では早めに上等兵に昇進させてくれるらしいが、どうする」

「光栄です」

「受けるということか?夜学には通えなくなるぞ。選抜射手の訓練はブートキャンプがお子様のキャンピングに思えるレベルのキツさだ。お前は優秀だが、訓練中は夜に息子を慰めることもできないと思っておいた方が良い」

「………通信教育も考慮しておりますので」

 

 ブートキャンプが終了した後の事は、ウェイドは未だ深くは考えていなかった。

 ただなんとなく射撃が得意だったことから狙撃手か選抜射手になるのだろうなと思ってはいた。まさか勧誘されるとは思っても居なかったが、渡りに船だ。近接戦闘も得意である事だし、狙撃手よりも血の気の多さが求められる選抜射手の方が自分には向いているとも思う。

 だが高校卒業資格は暫く取れ無いだろう。通信教育で数年かけて卒業するしかなさそうだ。

 

「ならばそのように返信しておこう。本当に良いんだな、ウィルソン」

「はい。よろしくお願いします、サー」

「退室してよろしい。あと外の廊下で腕立て伏せを200回しておけ。選抜射手になるのならその気の短さはなんとかしろ」

「Aye aye sir」

 敬礼すると、ガルシア教官は深く頷いた。

 

 

 

 

 

 

 廊下に出ると、既に先客が居た。廊下の端で一心腐乱に腕立て伏せをしている男は、かなりのスピードで体を2本の腕で上下させているが、表情には苦し気な様子は微塵も無かった。

 「よお」と陽気に話しかけると、男は腕立て伏せを止めることなく、剃ってあるのだろう、髪の生えていない黒い頭を上げた。

 

「何だ?」

「隣、良いか。混んでなければ」

「どうぞどうぞ。今日は割と空いてるんだ。何回?」

「200回。あんたは?」

「残り58回だ。トータルで250回」

「そりゃ凄い。何したんだよ」

「友人が集団暴行に遭ってたから、代わりに殴られたんだ」

 

 あはは、と男は爽やかに笑った。黒い肌から汗が弾いて散っている。昨今珍しい程に好青年といった言葉が相応しい男だった。

 年齢はウェイドよりも幾分か年上だろう。黒い肌と見るからに逞しい体はいかにも恐ろし気だが、表情は明るく和やかだった。軍人よりもカソックを着て教会で聖書片手に朗々と説教をしている方が似合いそうだ。

 

「コミュニケーションが下手な友人の代わりに御挨拶をしたってことか?」

「いや、ただ殴られ続けた。彼らが飽きるまで。無抵抗で声も上げない人間を殴っても何も楽しくないだろう?それで我慢していたら教官に見つかって、喧嘩両成敗っていう訳さ」

「Mッ気あるなあんた。もしくは単なる英雄だ。それなのに250回なんて酷い話だな」

「そうでもない。あいつは……俺の友人は彼らの私物を盗んだらしい。自業自得だ」

「それじゃあなんで庇った」

「金が無かったんだと。給金を家族に仕送りしていて、碌に髭剃りも買えなかったそうだ。だからどちらも悪くない。俺が殴られて話が終わるならその方が単純でいいだろう?俺は体が丈夫でね。殴られても腫れもしない。二度と盗みはしないとあいつは誓った。盗まれた方も一発殴って気分がすっきりした。それで終わりだ」

「………頭がイカれてんなあんた」

「よく言われる」

「名前は?」

「ジェイソンだ。ジェイソン・マクスウェル」

「悪魔のくせに聖マルコみたいな事を言う奴だ」

「良く言われる。でも俺は物理も数学も苦手だ。あんたは?」

「ウェイド・ウィルソンだ」

「君がウェイドか。話に聞いたことがあるよ。二等兵のくせに射撃大会で選抜射手と狙撃手のチームを抜いて優勝した、未来のクリス・カイルだって」

「そりゃあ俺ちゃん天才だからさ」

「喧嘩好きの問題児とも」

「そりゃあ、俺ちゃん天才だからさ。突っかかってくる奴が多いんだよ」

「本当だと信じたいね。よろしくウェイド」

 

 差し出された手を握り返し、ウェイドはジェイソンの隣で腕立て伏せを始めた。運よく人通りが少なかったため、ウェイドは200回の腕立て伏せが終わるまでジェイソンと話をした。

 

 そうして分かったのは、ジェイソンがとんでもないお人よしだという事だった。誰かの代わりに殴られて懲罰を受けるのはこれが初めてではなく、教官からかなり呆れられているらしい。

 実家が貧乏だったために軍人になったが、本当は教師を目指していて、任期が終わったら大学の教育学部に進みたいとジェイソンは笑った。筋骨隆々とした黒人の外見だが、物腰は柔らかで口調も優しく、底抜けに人が好さそうな男で、確かに良い教師になりそうだと思った。

 

「教師か。そりゃあ確かに向いてそうだ。少なくとも軍事施設で誰かの代わりに殴られるよりは向いてるだろうよ。でもいくらあんたがドM野郎でも流石に片方の頬を殴られる前に頬を差し出す必要はねえんじゃねえの。ジーザスも真っ青な自己犠牲心だ」

「殴った側の拳の痛みはいつまでも続く。例え本人が忘れても、拳は忘れない」

「は?」

「殴られるよりも殴る方が痛みが強い場合もあるっていうこと。特に無抵抗な人が相手だったら、拳の痛みは心まで伝わる」

「………そりゃあ希望的観測が過ぎるぜ悪魔さん。性善説がお好きか?」

「そうであって欲しいなっていう意味だよ。そういった痛みが無い人間が居るのも知ってる。でも、できればその痛みが分かる人間の方が多いって信じる方がずっと建設的だ。誰もが非情で、何の痛みも無く誰かを傷つけられるって諦めても、何も進歩が無いだろう?」

「そうして信じてあんたは更に殴られるのか」

「そうだよ。何回でも」

 

 腕立て伏せを終えたジェイソンは立ち上がり息を吐いた。汗をシャツで拭い、真っすぐにウェイドを見下ろす。

 黒い瞳が子供のようだと思った。混じり気なくキラキラとしていて黒曜石のようだ。

 不意にウェイドはキャプテン・アメリカの挿絵を思い出した。キャプテン・アメリカは白人だ。金髪碧眼の彫刻めいた美青年で、目の前に立っているような朴訥とした黒人とは全く違う。外見の類似点なんて20代中頃程度だろう年齢しか存在しない。

 しかしきっと、キャプテン・アメリカの目の光はこの男に似ているのだろうなと思った。誠実で高潔な光。後ろめたさや薄汚れた感情の無い純真さが溢れていた。自分にはこんな目はできない。ウェイドは苦笑して首を振った。

 

「俺の負けだよジェイソン。俺は全くお前の言葉を信じる事はできないが、お前がそう信じる事に意味がある事は信じても良い」

「君は……優しいんだね、ウェイド。噂と見た目に依らず」

「お前一言多いって言われねえ?もしくは思考と口が直結してるタイプとか」

「それは言われた事が無いな。余計な事を考え過ぎるとはよく言われるけど」

「じゃあ俺がお前の始めての人って訳だ。今晩何か予定はある?良かったら俺と楽しい所に行かねえか?」

「無いけど………僕はカトリックだ。ホモフォビアじゃないし、多様な人類の性癖に寛容であろうとは務めているけど、僕自身はヘテロだから」

 

 頬を引き攣らせるジェイソンに軽く笑い声を立てる。ウェイドとカオルの間についての噂を知っているのだろう。

 事実としてウェイドはカオルと関係を持った事は無いが、小さくて若いカオルを、実技ではトップの成績を誇るウェイドが何時も傍で護っているという光景は目立つらしい。カオルよりウェイドの方が若いのだが、外見年齢はカオルの方が遙かに下だ。

 バトルバディーとしてカオルが訓練中にゲロを吐く所も、野外訓練で糞を漏らす所も見ておいて今更興奮する訳が無いと思うのだが、そう言った心情を誰もが解してくれる訳が無い。一々訂正して回るのも面倒臭い。

 しかしそれなりに良い奴だと認識したジェイソンにだけは誤解を解くべく、ウェイドは腕立て伏せを続けながらあのな、と言葉を続けた。

 

「一応言っておくが俺はお前みたいなゴツい野郎はタイプじゃない。おっぱいがデカくて気が強いお姉様か、キュートで物慣れないカワイ子ちゃんが良い。一緒に吐瀉物をまき散らすまで訓練した奴なんて以ての外だ」

「そうか。良かった」

「あと俺とカオルは何でもねえから。あいつがよわよわで頼りなさ過ぎるから手ぇ貸してやってるだけ。あいつは完璧ヘテロの、単なる真面目な良い奴だ」

「ああ……すまない、君たちの事を知りもしないのに」

「基地内じゃあ下らない噂が供給過多状態だからしょうがねえさ。今日は週末だろう?暇なら飲みに行かねえかって言おうとしたのさ。あんたは良い奴そうだから、仲良くしたい」

「それは、勿論。是非」

「そりゃあ良かった。いい店に連れて行ってやるよ」

 

 そう答えてウェイドは腕立て伏せのスピードを上げた。

 

 

 

 

 

 

 

■  ■  ■

 

 

 

 

 

 カオルの頬の腫れは酷いもので、夜になると首元まで広がっていた。本来ならば静かにベッドに横たわっているべき外傷なのだろうが、一週間の内で唯一基地から外出できる週末の夜に友人をベッドに縛り付けておく程にウェイドは良い子では無かった。

 腫れを隠すためにマスクをして、外出届を出し、基地から一番近い町に向かう。既に空は暗く、湿気が強いせいで空気は鬱々としていた。

 

 ピンクと白が入り混じったネオンが頭上に光っている。舗装された道には煙草やら空き缶やらがまき散らされ、歩いているだけで酔っぱらいそうな匂いが立ち込めていた。路地裏は薄暗く、何が行われているのか分かったものでは無い。規模の大きな街には必ずある、退廃的な地区だ。

 しかしウェイドはこういった埃臭い雰囲気が嫌いではなかった。女性だって、お綺麗に澄ましているバージン女よりも、何もかもを飲み込む度量を持つ娼婦の方が一緒に居て楽しいし、美しいと思う。整然としたものよりも雑多なものの方がウェイドの強い好奇心や渇望を癒す力を持っていた。

 路上には軍服を着ている人間が目立つ。週末だという事で、街に繰り出す同僚が多いのだろう。カオルとウェイドはラフな私服を着ていたが、足さばきや視線の動きから軍人だとすぐにバレてしまうだろう事は自分たちでもよく分かっていた。

 この街で目立つ行動をすればすぐに教官にバレる。そのことを皆理解しているから、私服だろうが軍服だろうがこの街ではあまり目立たないように遊ぶのが暗黙のルールだった。無論、ウェイドとカオルもそのルールを知っている。

 

 目に痛い程のネオンが煌めく中で、煩い喧騒を避けるように歩く。未成年のように見えるカオルは通りすがる酔っぱらいから口笛を吹かれて幾度も眉根を顰めた。

「抑圧的な基地内でならそれなりに理解も我慢も出来るけど、どうしてそこらを娼婦が歩いているような場所でまで……男が好きなら、ここならティーンの少年だって買えるだろうに」

「軍人を屈服させたい馬鹿が多いのさ。それよりすげえなそのほっぺ。ラグビーボールみたいだ」

「腫れのピークは明日の夜だって言われたよ。暫くは咀嚼もままならなくなりそうだ。頬肉を噛んじゃうから」

「あと3発は殴っておけばよかったか?」

「次は僕が殴り返すから大丈夫」

 

 カオルは唇を噛んだ。小動物めいた外見をしているが、存外にプライドは高い男だ。日本人らしいというのか、寡黙で表情も少ないが、内に秘めている熱情は計り知れない。眉を顰めている表情は少し不機嫌な程度のようだが実はかなり苛立っているのだろう。

 

「くそっ、もう少しで僕が勝てたのに」

「無茶すんなよカオル。こういうのは得手不得手があんのさ」

「でも僕は負けたくなかった。自分の手で勝ちたかったんだ」

「それじゃあ拳で殴り掛かるのは愚策だな。体格的に近接戦闘じゃあどう考えても勝てねえ。距離を取って狙撃するか、口先で丸め込む方が成功率は高い」

「………僕の射撃の成績知っててそれ言う?」

 

 カオルの射撃の成績は中の中だった。悪くも無いが、良くも無い。少なくとも彼の体力と筋力の無さをカバーするには足りない成績だった。

 カオルの射撃訓練にウェイドは何度も付き合ったが、的に向かって標準を引き絞って引き金を構える姿には、残念ながら何か光るような才能は認められなかった。集中力もあるし、我慢強くもあるのだが、いかんせん銃身を構える筋力が乏しく、また視力が致命的なまでに悪い。

 

「お前、筋は悪くないんだけどな……」

「練習したからね。でも練習してそれだ。僕の体は元々戦うのに向いてない」

 

 肩を竦めてカオルは自嘲の笑みを零した。

 カオルは馬鹿ではない。むしろ血気盛んな20代にしては聡明で冷静な方だ。自分が兵士に向いていない事など分かっているに違いなかった。

 しかしそれならばなぜ兵士になったのか。いや、貧乏に耐えかねて兵士になるにしても、どうして歩兵科を選んだのか。需品科や通信科なら彼の聡明な頭脳を使って出世することも叶っただろうに。

 それはウェイドが彼とバトルバディーを組んでからずっと疑問に思っていた事だが、その質問を口にする事は憚られた。彼は何時も歯を食いしばって、周りについて行こうと訓練をしていたからだ。真面目でひたむきな彼の努力を無視するような発言はしたくなかった。

 しかしそれでも人には向き不向きがある。生まれ持っての才能というものは時として残酷なまでに人生に影響を及ぼす。こればかりは天から降ってくる事は無い。そして人が持ち合わせている才能というのは、総計すれば誰しもそう大して変わらないとも思う。

 カオルにはカオルの秀でた才能がある。彼は自身でその才能を積極的に埋もれさせようとしているように見えてならなかった。お節介だと分かりつつ、ウェイドは微かに口を開いた。

 

「お前さ……」

「黙ってウェイド。僕は歩兵科に入った事を後悔していない」

「まだ何も言ってねえよ」

「目が言ってる。表情が分かりやすいんだよウェイドは」

「表情豊かなイケメンって最高だと思わねえ?」

「はいはい。君はイケメンだよ。僕のタイプじゃないけど」

「そりゃ残念」

 

 険のある瞳で睨まれてウェイドは口を噤んだ。カオルは聡明だ。そして既に覚悟は決まっているらしい。ならばその決断に自分が口を突っ込む権利は無い。

 肩を竦めて大通りに面しているバーの扉をくぐる。

 アルコール臭は強いが、店の中は清潔だった。長年染みついたヤニの臭いが鼻孔を擽りはするものの空調を利かせているためにそう気にもならない。

 兵士の間ではこの店はこの辺りで一番お上品な店だと評されており、ウェイドもその評判に異議は無かった。

 先輩に連れられて初めてこの店に来てからまだ片手で数えられる回数しか来た事は無いが、この地区では一番のお気に入りの店だ。この辺りは酒に混ぜ物をしているような店も珍しくないが、この店にはマッカランの18年も置いてある。それなりの質の酒をそこそこの値段で提供してくれる店はこの街では貴重なものだ。

 

 バーカウンターが入口の反対側にあり、右手に広がる店内にはシックな色をした円形のテーブルと椅子が並べられていた。その奥には床よりも一段高いステージがある。今は黒人の太った男性が、芋虫のように太い指を驚くほど軽快に鍵盤の上で躍らせながらアップテンポの曲を歌っていた。繊細で巧みな技巧に、今日は当たりだと片頬を上げた。

 デビューして間もない芸人や歌手、若い音楽家、ポルノ女優の雛、未熟なポールダンサー、そういった種類の人間が集まって毎晩ショーを開くのがこの店の売りだ。

 事前にその日の登壇者を知る事はできないため、天から降ってきたような素晴らしい歌声に出会う事もあれば、下手くそなピアノを何時間も聞かされる羽目になることもよくある。しっとりとしたバラードに耳を癒された次の瞬間に、派手な音楽で登場した豊満な美女のストリップを目にすることも、よくある。

 店内を見回すと、それなりに込んでいる店内には軍の将校や街の名士の姿も見られた。この地区では強い人気を誇るこの店には幅広い客層が集い、客がショーマンに接触する事は禁止されていなかった。

 富裕層に属する客から人気を得たアーティストは即座にスポンサーが付いて、この店から羽ばたいて行き、より広い世界に飛んでいく。逆に人気が無ければ早々にこの店からも追い出されていく。

 そのせめぎ合い、人生の一つの切っ掛け、才能ある人間が花を咲かせる寸前の煌めきから、これからただひたすらに落ちていくだけの人間の絶叫までがこの店では楽しめる。

 

「上手いねあの人」

「ああ。すぐにでもスポンサーがついてこの店から出ていくんだろうな。何飲む?」

「ビールで。あとシーフードピザとポテト」

 

 その言葉を受けたウェイドはカオルと自分の分のアルコールと適当な料理をいくつか注文して、店内を見回した。ステージにほど近い所でジェイソンが手を振っていた。カオルを連れて同じ席に座る。

 曲はアップテンポなバラードからしっとりとしたジャズに変わり、ジェイソンは楽し気に目を細めていた。ウェイドも知っているスタンダード・ナンバーだ。黒人アーティストの太く低い声としっとりとしたピアノの旋律が耳に心地良い。

 

「悪いな、待たせたか?」

「いや、俺も今来たところだ。良い店だな。もっと早く教えて欲しかったよ」

「……カップルなの君たち」

 

 へえ、と怪訝な顔をしたカオルの肩を叩く。表情は真剣に。とはいえ、ただのおふざけだという事は分かっている。

 

「カオル、確かにデートの約束をしたカップルが良く言うセリフのトップ10に入る台詞を迂闊にも言っちまったってことは認めるが、俺はこのでかい黒人のブツに興味はねえぞ。もちろんケツにも興味はない」

「俺も興味はないな。初めまして、ジェイソン・マクスウェルだ」

「佐々木薫です。初めましてジェイソン。座学でトップのあなたの名前はいつも気にしていますよ」

「いつ君に抜かれるかと俺はいつも気が気じゃない。手加減してくれ」

「実技の赤点をカバーしないといけないので、お断りです」

 カオルは差し出された大きな掌へ握手を返し、ジェイソンの顔を見上げてそのキラキラした瞳に目を細めた。

 カオルとジェイソンは同い年くらいだろうが、ジェイソンの方が10歳は老けて見える。だが少年のような色をしている黒い瞳は眩しい。カオルもウェイドと同じくジェイソンの瞳にやられたのか、思わずと言った表情で頬を緩めた。

「……あなたは良い人そうですね」

「初対面なのに?」

「目が、なんとなく。それに噂は聞いていますよ。『殴られたがりの悪魔』って」

「その二つ名は俺も初耳だ。カッコいい」

「ウェイドもあるよ。『饒舌な兵士』って」

「二つ名っていうかそのまんまじゃねえか。もっとカッコいいやつがいい。『Star Load』とか」

「Star road?君が踏まれたがりだなんて知らなかったよ」

「美女に踏まれるならそういうプレイだと思って楽しめるけど、野郎は御免だ。踏むのも踏まれるのも楽しくない」

「今日君が食堂で同僚を足蹴にしたって聞いたけど」

「あれは椅子でぶん殴っただけだ。至って紳士的に、スマートに気絶させてやろうという俺ちゃんの親切心さ」

 

 ぱちぱちぱち、と拍手が鳴る。ステージを見ると、客席から手渡された花束を抱えた男性がにこやかにお辞儀をして舞台袖へと下がって行っていた。次の登壇者が舞台袖から現れる。

 ジェイソンと同じ席に座り、そのまま3人でコメディアンの巧みな話芸に腹を抱えて笑ったり、ショーツ1枚で踊るポルノ女優の卵に向けて口笛を吹いたりした。

 合間に同僚の愚痴やら故郷の話をしていると、妙にジェイソンとカオルは馬が合うようだった。会話の端から推測するに、ジェイソンはあまり家族に恵まれていないらしい。少なくとも軍以外に帰る家は無い様子だった。

 ウェイドもそうであるし、あまり深く聞いたことは無いがカオルもそうなのだろう。カオルと出会ってからこれまでの会話で、家族の話題が2人の間に上った事は一度として無かった。

 

 腹が捩る程に笑わせてくれたコメディアンに向けて手を振り、口笛を吹く。コメディアンは投げキスをしながらステージから下りた。拍手がまばらになり、静かになる。

 店内の会話も一瞬途切れ、奇妙な沈黙が降りた。その雰囲気に飲まれたカオルとジェイソン、そしてウェイドも口を閉ざした。「彼女が来る」と、隣のテーブルの客が呟いた。

 何なんだ、と疑問に思うのと同時に、一人の女性がステージの端から姿を現した。

 

 枯れ木のような体の両側に、鉄さび色の腕が揺れている。爪はボロボロで、何枚か剥げてしまっていた。年齢不相応に背中が曲がっているせいで老婆のように見える。長い金髪は、ちゃんと手入れすれば黄金色に輝くだろうに、酷くくすんだ色をしていた。碧眼を半分瞼で隠して、ステージの中央に立った女は身の置き所に迷っているようにおずおずと躊躇いがちにお辞儀をした。

 その女には見覚えがあった。フローラだ。しかしウェイドが知っているフローラとはあまりに面持ちが違った。フローラと別れてからまだ1年程しか経っていないのに、彼女の容姿はあれから20年は経ったかのように変貌していた。

 

「………フローラ」

「ウェイド、知り合いか?」

「去年まで付き合ってた。歌手を目指してるって言ってたけど、」

 

 社会的地位のある男と付き合う事になったと言っていたのに、こんな所で歌っているなんて、と続けようとしたが、フローラがピアノの前に座ったために口を噤んだ。体の動きはぎこちなく、片足を庇うような仕草をしていたことから、足の骨が折れているのだろうと思われた。よく見ると片足は腫れていて、それ以外にも長袖のブラウスに覆われていない首筋や手首には火傷の痕や切り傷が見えた。

 

 鍵盤を見下ろすフローラは、どこか虚ろで、小さい女の子のようだった。遊び飽きて放り出された人形のような有様の彼女に、しかし店内からはこれまでのアーティスト達に向けられていたものとは違う、重苦しい視線が向けられていた。何かを期待している視線だった。

 ウェイドが知る限り、フローラは確かに歌が上手いが、残念ながら小さなバーで短いショーを行う以上の実力は無かった。バーの雰囲気を少々明るくするような声ではあったが、こうまで質量のある視線を向けられるに値する歌は歌えなかった筈だ。

 ピアノを半目で見降ろしたフローラは、一拍の後に細い指を鍵盤に置いた。白黒のキーの上で10本の指がぎこちなく踊り、ピアノの小さな音が店内に広がる。伴奏の時点で、音楽に造詣が深いとは言えないウェイドにも分かるようなミスが数回あったものの、不思議と誰もミスタッチを気にしていないようだった。

 

 何が始まるんだ、と3人でフローラを見上げる。伴奏が終わり、フローラは口を開いた。歌い始めは細々としていて、よく歌詞も聞き取れなかった。音程は合っているのか合っていないのか、声が小さすぎてよく分からない。

 しかし段々と声が、岸辺に近づく程に大きくなる波のように勢いを増していく。漣のような声は波になり、胸へとせり寄ってくる。そこでようやくウェイドは歌詞を聞き取ることが出来た。

 歌詞は、フローラが書いたのだろう、彼女の人生そのものだった。薄暗い人生と、短い幸せ。小さな光。それはつまりウェイドの人生によく似ていた。フローラはウェイドによく似ている。別れてから既に1年近く経っていたが、それでもまだフローラはウェイドによく似ていた。

 段々と沈積していく情熱。周囲からは槍のような視線が向けられ、次第に歌声には吐き出すような嗚咽が混じっていく。ピアノは激しさを増し、かき鳴らすように歌声を責めていく。

 高まっていく情感。悲憤と、微かすぎる希望。彼女の腹を少しずつ裂いて内臓を引きずり出しているような歌だと思った。血をまき散らすように声を出してただ只管に訴える。

 そうしてとうとう身体の中の全てが引きずり出されて残骸のようになったフローラは、ある一点で爆発した。

 

 凄まじい声だった。絶叫だ。いや、そんなに大きな声では無い。訓練中に兵士を叱咤する教官の方がよっぽど大きな声だ。しかし喉の奥から絞り出されている声は心臓を貫くような絶叫だった。

 アルコールのせいで焼けた喉から、歯並びの悪い口を通して出てくる声に鳥肌が立つ。

 

 人生の苦難は喜びよりも明らかに激しく、津波のように押し寄せてくる。

 実父にレイプされて、淫売だと母に殴られた。助けを求めに逃げた伯父の家でもレイプされ、殴られ、存在価値を否定された。その頃から自分は何も変わっていない。

 ようやく愛し愛される男と出会えたと言うのに、自分の方から手を離した。一時の欲望のために手放した小さな幸せ。救いようがない馬鹿な女。金と安全のために付き合い始めた男は結局せせら笑って自分を捨てた。

 あの男を愛していた。自分を愛するように。そのまま生きていればささやかな幸せが手に入っただろうに、自分は間違えた。なんて馬鹿な女。そもそも生まれてきた事が間違いだったのだろうか。神様は何を考えて自分をこの世に遣わせたのか。

 もう周りに振り回されていた少女ではない。大人の女になったというのに、未だに生きる希望も意味もどこにもない。自分の周りには誰も居ない。自分を肯定する人間は誰も居ない。私の存在価値はどこにもない。

 この歌を聞いている人は、私のようになってはいけない。本当に価値あるものに気付きもせず、生まれて来た意味も分からず、ただ流され生きて生きて来た。全て自業自得だと分かっているのに、何かに縋らずにはいられない弱い人間。

 神様はいつか私を救ってくれるだろうか。見放してはいないだろうか。こんな愚かな自分にも生まれてきた意味があるのだろうか。それを知るためには、どれだけ苦しくても、悲しくても、生きていかなければならないのだろうか。生きていかなければ——————ああ、神様。

 

 

 

 

 ウェイドは言葉が無かった。フローラは自分と別れて幸福な人生の第一歩を踏んだのだと思った。

 だがフローラはより悲劇的な人生へと進んでいたらしい。だからこそフローラは歌手として大きな一歩を歩んでいた。

 彼女の悲劇は彼女を天才にした。他の誰にも真似できない彼女の歌は、幸福から遠いところにあるが故に、彼女を彼女たらしめていた。

「……彼女は、ウェイドの知り合い?」

「ああ。もう別れたけど」

「そう」

 カオルは潤んだ目を袖で乱暴に擦って一心にフローラを仰ぎ見ていた。その気持ちがウェイドにはよく分かった。 

 歌が上手いと手放しには賞賛できない歌だった。喉のケアを怠っているせいで声は荒れているし、所々音程が外れている。ちゃんと音楽学校で訓練を受けたような歌手で無い事は明らかだ。

 しかしこの上無く価値がある歌だった。少なくとも、自分のような生まれ育ちをしている人間を沼の底から救い上げるような歌だった。吐瀉物をまき散らすほどに大丈夫だと言い聞かせてくれているような気がした。そのまま彼女のすっからかんになった身体の中に埋めて欲しいとまで願った。そうすればきっと寂しくはなくなるだろう。

 全くもって神様など信じた事のないウェイドだったが、フローラの歌の中にウェイドは生まれて初めて限りの無い神聖な愛を感じた。そこらの讃美歌よりもはるかにフローラの歌は愛に満ちていた。

 

 潤んだ瞳で周囲を見回すと、なんだこの下手な歌はと眉を顰める者もいれば、涙を流して嗚咽する者もいた。分かる者には分かるが、分からない者には絶対に分からないだろう。分かってたまるものか。

 先細るようにフローラの声は消えていく。ピアノを弾く指は疲労のせいで痙攣している。そしてラジオが強制的に落とされるように彼女の声は曲の途中でぷつんと途切れた。

 一瞬の静けさの後に、ウェイドは椅子を蹴倒す勢いで立ち上がり、手の骨が折れるのではないかという勢いで拍手をした。隣を見るとジェイソンとカオルも高らかに拍手を鳴らしていた。店内は無言の拍手で満ちていた。誰もBravoとは言わない。言う余裕もない程に彼女の愛が満ちていた。

 

 カオルは目を赤く腫らしながら一心にフローラを見つめていた。

「凄い……彼女、凄いね」

「俺もあいつがあんな歌を歌えるなんて知らなかった」

「ウェイド、挨拶に行かなくてもいいのか?」

 ジェイソンに言われて、ステージの中央でぎこちなくお辞儀をするフローラに視線を向ける。

 自分と別れて、社会的地位のある男と付き合い始めたと聞いた。しかし上手く行かなかったのだろう。もし上手く行っていたらあんな歌を歌う事は出来ない。

 会いに行ってもいいのか、という躊躇いは短かった。少なくとも彼女の腫れている足と傷跡を見た以上、このままさようならと爽やかに別れる気分にはなれなかった。

 舞台袖に下がっていくフローラを見上げながら小さく呟いた。

「ちょっと行って来る」

「よかったら紹介してね」

「ファンになった?」

「うん。これまで聞いた歌の中でも最高だった。彼女は最高だ。ファンになったよ」

 カオルは頬を殴られた理由以上に紅潮させて目を潤ませていた。

 ウェイド以上にカオルはフローラの歌に感銘を受けたらしい。既に姿が見えないというのに、カオルの視線は舞台袖に未だ注がれていた。

 フローラは、ウェイドと付き合っていた時と性格が変わっていなければ、口数が多く陽気な性質の女だ。ファンだという童顔の男と喜んで握手もサインもするだろう。無論、ウェイドが知る彼女のままであったらの話だが。その可能性はあまり高くないように思えた。

 誤魔化しも含めた無言で頷いて、舞台袖に向かう。次に現れたアーティストに観客の興味は移っていた。もしくはフローラの余韻をかき消すように無理やりに意識を逸らすようにしていた。

 

 

 舞台裏に続く廊下は店内からすぐに入ることが出来る。スポンサー希望の客を歓迎する店の雰囲気が現れているのか、廊下には用心棒が一人立っていたものの、舞台裏に近寄ってくるウェイドへあからさまな警戒心は露わにしていなかった。

 ダメ元でフローラに取り次いでくれるよう頼むと、意外にも用心棒は素直に頷いて一度舞台裏に引っ込んだ。厄介な客だと店長に告げ口でもされているのかと一瞬疑ったものの、意外にも用心棒の男はすぐにフローラを連れて廊下へと戻ってきた。

 フローラはウェイドを見て不器用そうに微笑んだ。その表情に驚きが無いところを見るとステージの上からウェイドの姿を見つけていたのかもしれない。用心棒の態度もそれで納得ができた。予めフローラがウェイドの来訪する可能性を伝えておいてくれたのだろう。

「フローラ」

「ウェイド………久しぶり」

 下手くそに笑うフローラに、それよりも幾分か上手にウェイドは笑った。

 フローラは酷く痩せていた。ウェイドと交際していた時も痩せ気味だったが、今は骨と皮ばかりになっている。肌の艶は無くなり、髪も荒れていた。ウェイドに似て澄んだ青色をしていた瞳は曇っていた。

 あの時フローラの言うがままに別れるんじゃなかった。ウェイドは後悔しながら、しかしそれでもそれ以外の選択肢は無かったように思う。

 今を以ってしても自分によく似た彼女を人並みに幸せにできる自信は無かったし、彼女と一緒に居て自分が幸せになる想像もできなかった。だというのに彼女を引き留めることなど出来る訳がない。

 だが自分と一緒に居れば、少なくともこんな目に遭わせていなかった。そしてフローラはあのような歌を歌う事は出来なかっただろう。

「また会えて嬉しいよ。でもどうしたんだ。こんな所で働いてるなんて思っても居なかった」

「私は前から歌手志望だったのよ?バーで歌うのはおかしなことじゃないわ……ちょっと向こうで話しましょ」

 はい、と温い缶ビールを手渡されて裏口へと案内される。

 

 裏口に続く路地は点滅する小さな街頭が一本立っているのみで、周囲のビルのせいで星明りも入り込めない薄暗さが漂っていた。ごみの詰まった袋やビール瓶にたむろする蝿がぶんぶんと五月蠅い羽音を散らしながら飛んでいる。

 彼女はそう言った諸々を気にもせず、壁に背を付けて缶ビールに口をつけた。ウェイドも彼女に倣って背中を壁に預けて缶ビールを啜る。

 ゴミ溜めのような路地裏で温いビールを啜る傷だらけの女と貧乏な軍人というのは、傍から見れば侘しいことこの上無いだろう。その光景と同じようにウェイドの心持も寂しいものだった。幸せになっていると思い込んでいた女がこんな場所に居る事が何よりも寂しく、そうと思い込んでいた自分の浅はかさに苛立った。

 遠くから聞こえる酔っ払いの声を背景にウェイドは口を開いた。

「いつからここに?」

「先月からよ。ショーはこれで3回目。まだまだ新米ね」

「今日のステージでは一番良かった。最高だった」

「今日のステージだけ?」

「悪い、間違えた。生まれてからこれまで聞いた歌の中で一番良かった。アレサ・フランクリンも真っ青な歌声だったよ。スポンサーがついたらヒットチャート間違いなしだ」

「ありがとう」

 小さく微笑んだ彼女の笑窪に、自分と一緒に暮らしていた頃のフローラの面影を見てウェイドは少し心を落ち着かせた。

 自分が想像していたよりもフローラは変わったわけではないようだった。少なくとも内面の方は。缶ビールを小さく啜る様子は退廃的だが、ウェイドを見る目つきは1年前と同じように柔らかい。

「でも歌手とポールダンサーとストリッパーの見分けも付いてないような客も居るだろ。金持ちと交際し始めたんじゃないのか?

「別れたわよ。8回殴られて、4回浮気されて、骨を2本折られてようやく目が覚めたわ。馬鹿な事をした。ほんと、男を見る眼は最悪なのよね、あたし」

「どこのどいつだ。殺してやる」

 空になった缶を握りつぶし、苦味を噛み潰したような顔をするウェイドの腕をフローラは笑って叩いた。

「別にいいのよ。あたしも馬鹿だった。目先の欲に囚われ過ぎてたのよ。自業自得だわ。それよりウェイド、この近くに配属されたの?」

「……ああ」

「そう。訓練は厳しい?」

「キャンプみたいなものさ。命懸けだが健康的だ。君程辛い思いはしてないよ」

「それならよかった。あなたが幸せになってくれたらいいなって結構本気で願っていたから。あなたは頭が良いからあたしみたいな馬鹿はしないだろうけど」

 

 悪戯めいたウィンクをしてフローラは口端で笑った。それにつられてウェイドも笑う。別れてからたった1年と少ししか離れていなかったのに、フローラは一生分の不幸を飲み込んだような疲れた顔をしていた。

 衝動のままにフローラの体を抱きしめる。愛おしさよりも哀れみが勝る衝動だった。取り落とした空き缶が地面に落ちてカンカンと乾いた音を鳴らした。腕の中にすっぽりと収まる体は前よりもずっと細く、埃臭い。首筋に顔を埋めて髪を撫でる。フローラの腕は少しの躊躇いの後にウェイドの背中に回り、母親が子供にするように背筋を優しく叩いた。

 暖かな感触に目を細めて少しだけ体を離し、そのまま唇を合わせようとすると背中に爪を立てられた。

「駄目よウェイド。私はもうあなたと付き合わない」

 断固とした意志を持つ声だった。ウェイドは言葉を詰まらせ、腕の中にフローラを抱きしめたまま唇を噛んだ。

「どうして。せっかくまた会えたのに。俺はまあ、社会的地位は無いけど自分の女に暴力を振るうような真似はしないし、浮気もしない。それにもう無職の未成年じゃない。軍人になって収入も、まあ多いとは言えないけどちゃんとある。歌手になりたいんなら応援も協力もする。一番のファンになるよ」

「ありがとう。嬉しいわ。嬉しけど、でもあなたとは良い友人でいたいの。私とあなたは似ているから………それに、ごめんなさい、怖いの」

 背中に突き立てられた指から細かい振動が伝わっていた。フローラの身体は酷く震えていた。

「あなたは良い人だって知ってる。あたしの大事な人よ。あなたと一緒に暮らしていた時間は、これまでの人生で一番幸せだったわ。あなたは何も悪くない。でも、ごめんなさい。あたしは……大きな男の人が怖くてしょうがないの。しょうがないのよ、ウェイド」

 

 罪悪感を顔に貼りつかせて呟いたフローラに、ウェイドは何も言えなかった。腕の中でフローラは細かく震えていた。怯えさせないようゆっくりと腕を離し、一歩離れる。顔色は青白い。

 何があったのか具体的には分からない。しかしフローラを自分が幸せにすることは不可能だと突きつけられた思いがした。それはきっと間違いではない。

 小さな子供のように震えて、怯えた目をしているフローラに、ウェイドは昔を思い出した。自分もこうだった。

 家を出てからまだ5年も経っていない事が嘘のように自分の状況は大きく変わったが、それでもあの時期の恐怖は根深く脳裏に染みついている。

「——————実は俺も、大きな男が少し怖い」

 そう言って頭を掻いた。フローラがゆっくりと頭を上げた。

「大柄な白人で金髪碧眼の、特に軍人経験のある奴は最悪だ。俺の親父に似てるから」

「……分かるわ」

 フローラは笑って頭を振り、潤んだ目を何度も瞬かせた。両手を差し出される。ウェイドはゆっくりとその手を握った。

 冷たく震えている。でも振り払われる事はない。これが最適の距離なのだと言われた気がしたし、ウェイドもそうだと認めざるを得なかった。

 もし自分がか弱い女として生まれていたら、大柄な白人で、更に金髪碧眼を持つ軍人とだけは付き合いたくないだろう。それどころか身近に居るだけで身震いするかもしれない。

 しかしフローラは自分の手を握り返した。それで十分だ。ウェイドは頭を振って笑った。体温の高い自分の掌でフローラの指を温めるように擦った。

「ねえウェイド、あたしはもう今日の仕事はこれで終わりなの。良かったらお友達を紹介してちょうだい?あのアジアンの男の子、凄く熱心に見てくれていたから挨拶したいわ」

「男の子っていうか、俺より年上だけどなあいつ」

「うっそ、ほんと?ティーンかと思ったのに、じゃああたしより年上なの?」

 

 あはは、と笑うフローラを連れて、ウェイドも笑いながらカオルとジェイソンに紹介するためにテーブルに戻った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それから1年後、カオルとフローラは結婚した。

 結婚式には親友代表としてスピーチをして、ジェイソンと一緒にカオルにシャンパンをぶっかけて大笑いした。

 そしてそれから更に1年後には、カオルとフローラの間に娘が生まれた。

 名付け親になって欲しいと言われて、うんうんと悩みながらジェイソンと一緒に名前を考えた。

 

 2人の遺伝子をちょうど半分ずつ受け継いだ、ブリュネットの髪と猫のような瞳を持つ赤ん坊に、ウェイドはマリカと名付けた。日本人としてもおかしく無い名前にしたかった。もしいつかマリカが自分のルーツを知りたいと思った時に、日本へ行っても違和感を感じないようにしたかったのだ。

 

 

 

 

「じーにー!」

「ジーニー?」

 玩具のように小さな指で指さされたのは、間違いなく自分だ。しかしどうしてジーニーと呼ぶのだろうか。

 膝に乗せたマリカはきゃっきゃと笑いながら身を捩っている。

「じーにー、じーにー!」

「俺ちゃんがジーニー?ランプの魔人の?」

 こくこくと頷く、もうすぐ2歳のマリカはいつも楽しそうに笑う子だった。手間のかからない明るくて賢い子だと、やや親馬鹿の気があるらしいカオルはいつも自慢していた。

 どういうことだとこの家の家主に目を向けると、カオルは子供用の玩具を片付けながら、ああ、と口を開いた。

「最近ディズニーアニメを知り合いから沢山貰ったんだけど、マリカはアラジンのジーニーが好きみたいでね。だからウェイドをジーニーだと思ってるのかもしれない」

「いや、共通点なんもなくね?俺はあんなハゲじゃねえし」

 

 苦笑しながらカオルは「ほら、ジーニーじゃなくてウェイドおじちゃんだよ」とマリカに言うが、マリカは変わらず「じーにー!」と言ってウェイドを指さした。カウンターキッチン越しにその光景を目の当たりにしたフローラは噴き出すように笑った。その隣でランチの準備をしていたジェイソンは、「人種的に俺の方がジーニーに近いんだけどなあ」と言って和やかな笑みを浮かべた。

 

「いや、ジーニーは人種とかないだろ。魔人だし。肌の色青いし」

「でも顔の造りは白人よりも黒人寄りだろう?いつか実写化したらきっと黒人の俳優が演じると思うよ」

「ていうかなんでジーニー?」

「ウェイドがマリカ(ジャスミン)って名付けるからだよ」

「じゃあそこはアラジンでいいじゃないのよ……」

「でもアラジンは18歳の設定らしいじゃない。ウェイドは、」

「まだ俺ちゃん21歳よ!?ジーニーよりはアラジンの方が近くね!?」

「じーにー!」

 

 きゃきゃと笑うマリカの頬を指先でつっつく。焼きたてのパンのような感触がした。もっちもちだ。

 

「いいじゃない。マリカはアラジンよりもジーニーの方が好きだもの」

「俺だってそうさ。乳首の無いコソ泥よりも魔法の使えるロビン・ウィリアムズの方が好きに決まってる。でも結局ジャスミンはチョイ悪の半裸野郎に取られていく運命だから……まあそんなの俺は許さないけど!」

「じーにー!」

「いつかマリカが自分のアラジンを連れてきたら、僕より君の方がキレそうだね」

「こんなに可愛いマリカを嘘つきなコソ泥に取られてキレない訳がねえだろ。それだったらむしろ俺ちゃんが貰っちゃう!」

 ん~!とほっぺにキスするときゃあきゃあとマリカは楽しそうに騒いだ。

 はいはい、とフローラは笑っているが、カオルは複雑そうな顔をした。

「ウェイドが僕の義理の息子……いや、ちょっと受け入れ難い……無理……」

「じゃあ俺ちゃんと露出狂の窃盗常習犯とどっちがマシ?」

「んんんんんんんんん」

 唸るカオルの隣で、ジェイソンの携帯が鳴った。

 通信元の番号を観て、微笑んでいたジェイソンの顔が一瞬で無表情になる。即座に通話ボタンを押して耳に押し当て、暫くのやり取りの後にジェイソンは携帯を閉じた。

 カオルとウェイドは黙ってジェイソンを見やった。フローラは不安げにカオルを見やっている。ウェイドはきゃあきゃあと笑うマリカの頭を撫でながら、口端に笑みを浮かべた。2人の視線を受けて、ジェイソンは目で小さく頷いた。

 

「ウェイド、カオル。俺達の戦場が決まった」

 

 

 

 


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