POSOっていう動画を知っているか?
知らないのならば、この単語を忘れてくれ。俺ちゃんが悪かった。知らないなら知らない方が良い。
生きていく上で知らなくても良い知識ってあるよな。愛と平和は大事だが、人にはそれぞれ許容量がある。自分のリミットを知っておくのは生きていく上で大事な事だ。
義務感と責任感が乗ってる天秤の反対側には、自身の許容量が乗っている。そのバランスを崩したらサノスとかアイアンマンみたいになっちまうって訳。
つまりは、基本的に知識は力であるけれども、知らないでおいた方がむしろ愛と平和に満ち溢れた人生がゲットできるような知識もこの地球上にはあって、この4つのアルファベットはそれの中の一つってこと。
まあ、ともかくも、俺ちゃんは2001年にインドネシアのポソ県に居た。
言い換えると、このファンフィクションではそういう設定になってるって意味だ。
ポソ県は海に面していて景色は最高に良かった。アメリカの東海岸ではお目に掛かれない、透明度の高い青い海は目を癒した。緑は多く、夜には星が良く見える。独特な文化もアメリカ育ちのウェイドにとっては目新しいものばかりで、全てが興味深かった。香ばしいスパイスの匂いは食欲を刺激した。床に敷かれた絨毯の繊細な模様には目を回しそうになったし、女性が頭に巻くジルバブは花飾りなどよりずっと華やかだと感嘆した。
これが観光だったのならウェイドは素直にこの国独自の魅力的な文化や景色、歴史へ好奇心を沸き立たせていただろう。
ただし当時のポソ県はそこら中に死体が転がっているという地獄染みた状況の只中にあり、とても観光地には向かない有様だった。
顔面が二つに割られた死体、内臓が引きずり出されている死体、手足が捥がれた死体、幼児を抱きかかえる母親の死体。死体のフリーマーケットが町中に広がっていた。老衰と病死以外の死に方ならあの時期、あの地域には粗方揃っていた。
長い間放置された死体は独特の悪臭を放つ。
腐肉の臭いだけではなく、内臓の中に満ちていた大便を栄養とする常在菌が生成したガスの臭いだ。多量のガスと死後硬直で鉄のように拘縮した肛門括約筋は死体を巨大な風船にする。路上に放置されている死体は揃って腹が膨れていた。
ぱあんという破裂音と共に、時たま路上に放置されていた死体の消化管が破裂して内容物を周囲にぶちまける。その時の悪臭と言ったら、生ごみを小便で熟成した臭いの100倍は酷い臭いがした。
ウェイドとカオルは基地の中で悪臭に眉を顰めながら、民家に寄り掛かってレーションを口に押し込めていた。民家はウェイドが3回体当たりしたら崩れ落ちそうな木造建築物だったが、背もたれ代わりの役目は十分に果たした。
ここ数日同じようなものしか口にしていない。民家から食料を徴収してはいるが、ほとんどの民間人が避難しているために食料もあまり残されてはいなかった。残されている僅かな食料にも毒物が混ぜられている可能性があり、容易に手は付けられない。それに過度な緊張と悪臭のせいで食欲自体が低下していた。
だがそれでも何か食べないと動けなくなる。2人のレーションを口元に運ぶ動作はロボットのように義務的だった。
カオルは無線を耳に当てて食べ飽きたレーションを飲み込みながら口元だけで微笑んでいた。
「フローラ、ごめん。ニューヨークに一人で行く事になってしまって」
『いいのよ。元からあたしの収録のために行く予定だったんだから。良い機会だしマリカと一緒に色々見て回ってみるわ』
「CDアルバムか。ようやくだな」
『あら、ウェイドもそこにいるの?』
「いるよ。アルバムがリリースされたらサインしてくれよな。ああ、ジェイソンも近くにいる。同じ部隊なんだ。毎日顔を突き合わせてるよ」
『仲が良いのね。妬けちゃうわ』
「安心しろフローラ。俺はこいつのケツには興味ない」
「僕も君のマグナムに興味なんてないよ。フローラ、準備は大丈夫?」
『何度も確認したわ。でもニューヨークって初めてだから道に迷うかもしれないわね。地図を見ても迷路みたいなんだもの』
「マジかよフローラ!ニューヨークが初めてだなんて!そりゃあ旅行で一週間は潰れるぜ!」
『だから見て回りたい所が沢山あるの。自由の女神とか、セントラルパークとか、タイムズスクエアとか、』
「あとはブルックリン橋とワールドトレードセンターと、そうだな、ロックフェラー・センターくらいか」
「ニューヨークには行った事はあるけど、ワールドトレードセンターとセントラルパークには行った事ないな。一緒に行ければ良かったんだけど」
『じゃあ帰ったら土産話を聞かせてあげる………2人とも気を付けてね』
それまでの明るさから一転して、込み上げる感情を無理やり抑え込んでいるようなフローラの声にウェイドは無理に陽気な声を出した。カオルも声だけは明るく、まるで安全な場所で友人とトランプでもしていそうな調子で返事をした。
「ああ、勿論」
「大丈夫だフローラ。俺ちゃんとジェイソンもいるから、カオルは大丈夫さ」
『うん、マリカと2人で待ってるわ。愛してるわよカオル』
「僕も愛してる。君も気を付けて」
ええ、という返事を最後に無線が切れる。
途端にカオルは疲れた顔をした。背中を軽く叩くとその勢いで頭が風鈴のように揺れた。
「……大丈夫か?」
「うん。大丈夫」
服の袖で顔を拭ったカオルの顔は青白く、頬骨が浮く程に痩せていた。
歩兵としてチームに参加しているカオルは今日までかなりの行軍を強いられている。少数精鋭のマークスマンであるウェイドの方が負担は大きいが、カオルの体力の無さを考えるとそろそろ倒れてもおかしくなかった。
それに心理的なストレスも大きいのだろう。カオルは心優しく繊細で、とても軍人向きの性格ではない。濃い隈からすると数日は寝ていないように見えた。それなりに睡眠時間は確保されている筈だが、薄い寝袋に入り込んで深い眠りは得られない。休憩時間の今でもカオルの両手は小刻みに震えていた。長時間命の危険に晒されているせいで自律神経がおかしくなっているのかもしれなかった。
「お前は休憩してろ。顔色が酷いぞ」
「大丈夫だよ。むしろ君の方がずっとキツイ筈だ。昨日かなり無茶したって聞いてるけど」
「俺ちゃんは天才だから大丈夫さ。このままだったらクリス・カイルも越しちゃうよ」
「答えになってないよ……」
溜息をついてカオルは頭を振った。呼吸が浅く早く、冷汗で体がびっしょりと濡れている。極度のストレス状態で診られる症状だった。ウェイドはカオルに配給のチョコレートバーを差し出した。
甘いものはカロリー摂取に効率が良いだけでなく、心の栄養にもなる。黙ってカオルは受け取り、貪るように食べた。慰めるように背中を叩く。
「頑張れ。帰ったら美人な嫁の料理が食えるぞ」
「フローラの料理は大味なんだ……僕が作った方が美味しい。知ってるだろ」
「じゃあ帰って美人な嫁に手料理を食わせてやれ」
言われずともフローラが料理下手である事はウェイドも知っていた。彼女の微妙な味の手料理を食べて、引き攣りそうな顔で美味しいと言って、むくれた彼女を宥めながら一緒にベッドまでもつれ込んだこともある。
ウェイドはそうやって彼女を傷つけないように黙っていたけれど、カオルはきっとフローラがキッチンに入るとさりげなく隣に立って料理のアドバイスをしているのだろう。以前遊びに行った時に食べたフローラの料理はウェイドが知っているものよりも大分美味しかった。家によくやって来るウェイドとジェイソンに料理を振る舞う彼女の笑顔は、ウェイドが知っている彼女のどの笑顔よりも可愛らしかった。
不幸な生まれ育ちをした彼女は現在ようやく確かな幸せを掴んだらしい。それはウェイドにとっても幸福な事だった。特にこんな悲惨な場所に居ると、自分が知る女性が平和の中で幸せを築いている事は奇跡の体現であるようにも思えた。
そんな奇跡を引き起こした自分の友人が誇らしく、心配でもある。カオルはフローラの隣で奇跡のような幸福を噛み締めているべきで、こんな場所でこんな事をするような性質の人間ではない事は明らかだった。早く退役して料理の腕を生かして料理人になるなり、頑固で真面目な気質を生かしてどこかの企業に勤めるなり、ともかく軍人以外の職業に就いた方が彼の幸せだと思う。
だが戦場のど真ん中で体と同じ位の大きさのライフルを抱きかかえる友人にそんな戯言を口にするのは躊躇われた。代わりに励ますようにカオルの肩を叩く。小さく笑ったカオルはチョコレートバーを齧った。
そしてチョコレートバーがカオルの口の中に消えるのとほぼ同時に、鼓膜を裂くような爆発音が周囲一帯に鳴り響いた。
思わず視線を爆発音の発信源だと思われる方向に向ける。続けざまに同じ爆発音と、白い光が周囲を照らした。肌が熱さを感じて毛穴が一気に開いた。網膜の神経が白い光を真正面から受けたせいで一瞬視界がホワイトアウトする。
手探りで隣に座っていたカオルを庇い、背後の民家に体を押し込めた。地面に転がったカオルは呻きながらも体を起こそうと四肢を動かしてもがいている。
何が、と口にする前に同規模の爆発が続いた。無線を耳に押し当てながらM4を握り締める。その間にも爆発は一定の間隔を置いて鳴り響く。許容量を過ぎた音量に鼓膜が引き攣れて痛んだ。焦りの滲む兵士達の声が、それでも混乱を抑えた冷静さを強調するように無線越しに反響した。
『第3区画に爆発物が投げ込まれた。現在戦闘中。一部の犯人は逃走。まだ何か隠し持ってる。即応隊を要請する』
『要請を了解。現地に向かう。現場近くのチームは実行犯を可能な限り捕縛せよ。狙撃班はそれぞれの判断に任せる』
「ラジャー。可能な限りね」
地面に倒れたままのカオルを引きずり起こすと、カオルは痛む鼓膜に顔を顰めながらもはっきりと応えた。
「第3地区から逃げるならこの民家のすぐ裏を通る可能性も高い。狙撃するには一番難しい通路だ。そこで待機しよう」
「OK相棒、愛してるぜ」
ぱちんとウィンクすると呆れたような顔が返ってきた。
だがこんな時にこそふざけないと神経がやられるだろう。意図した通り、突然の襲撃に対して緊張のあまり強張っていたカオルの顔が少し解れていた。
カオルとウェイドが崩れ込んだ民家は、丁度奥の部屋が路地裏に面していた。
銃を構えて民家を横切り、薄暗い路地を映す窓に飛びついて2cmほどの隙間を開ける。視線を走らせるも人影は無い。
ウェイドは隙間にM4の銃口を突っ込んで誰か通行人が来るのを待った。横目でカオルを見ると、端末を見ながら「接近中」と簡潔な答えを返した。
その言葉を裏付けるようにバババ、パパパ、という連射音が段々と近づいてきた。民家の間を木霊して、実際よりも大きく聞こえる。汗が額から滲んだ。音は近づいてきている。グリップを握り締め、眼球に力を入れた。
どおっ、と路地裏に人の塊が突入した。足音が乱雑に響き渡る。隙間から見えた人の塊の中に知り合いの顔が一つ紛れていた。顔を殴られたのか、口端から血を流しながらも一歩も引く事無く敵に食らいついている。
悪魔の名前を持つ自分の友人は、普段は心優しく親切なクリスチャンだが、いざという時にはウェイドも驚くほどに現実的で容赦がない。そして優秀な兵士でもある。
兵士が2人と、敵が3人。引き金に指をかけて、目を細める。乱闘の動きを読みながら引き金を引く。
銃弾は真っすぐに敵の側頭部を射抜いた。すぱっという気持ちの良い音と共に、脳漿が地面にぶちまけられる。あっとこちらを見たもう一人も、次に放った銃弾で眉間をぶち抜いた。知り合いに向かってウェイドは叫んだ。
「捕縛しろジェイソン!!」
「大人しくしろ!!」
ジェイソンは残った生き残りを地面に倒して、訓練通りの手つきで動きを封じた。もう一人の味方が手早く手足を縄で拘束する。拘束された男はその場に荷物のように横たえられた。
ウェイドが殺した2人は外見からして争いごとに慣れた雰囲気をしていたが、残った1人は踝までを覆うゆったりとした長い服を纏い、動きは鈍重な中年男だった。
見た目通りに男はあっさりと手足をぐるぐる巻きに拘束され、ジェイソンにされるがままに地面に頭を擦り付けた。
「Tolong bantu!Saya tidak ,elakukan apa-apa!A, Aku akan memberimu segalanya,」
「動くな!いいか、うごくな!Freeze!!OK?Right!?」
「R, Right, right, I don't move…チ、チガ、ワタシ、みんかんじん、てきチガウ、」
「話は後から聞く!!」
顔色を真っ青にした男は何度もうなずいた。ウェイドとカオルが勝手口から路地裏に飛び出して、ジェイソンに拘束されたままの男のズボンと腹をぱんぱんと触って所持品を確かめる。硬い感触がポケットから帰ってきたために手を突っ込んだ。
爆発物か、と一瞬緊張が走ったが、出てきたのは拳銃1丁と革財布だけだった。他に爆発物はない。銃を取り上げると、ジェイソンは男の両手を掴んで引きずり起こした。
「不審な男を3名発見。2名射殺。1名捕縛しました」
『場所は』
「第4ブロック民家です。英語が喋れないようだ。翻訳を要請する」
『すぐに向かう』
簡潔な返事に頷き、ウェイドはジェイソンと共に民家の中へと男を引きずって戻った。
話を簡単に纏めると、こうだ。
男はこの地区の有力者で、熱心なイスラム教徒だった。
しかし過激派とは縁もゆかりもなく、日に2回の礼拝や日常的な儀式など、一般的な宗教活動以外に従事した事はなかった。むしろ平穏な生活を乱す過激派の事を嫌っていた。
だというのに民間人の退去命令が出されているこの地区にまだ残っていたのは、もし民間人が残っていた場合に軍やテロとの緩衝材となって民衆を保護する人物が必要だと思っていたからだった。
命の危険があると知りながらその役目を買って出たのは、この地区の名士としての責任感だったらしい。激化するテロ活動を止める事ができず、結果的に大量の死人を出した事への罪悪感を感じていたそうだ。妻は既に2年前に病死しており、一人娘は遠くの街に嫁に出ていて心残りも無かった。
そうして自分の家に居ると、過激派のメンバーが突如として家に押し入ってきて、アメリカ軍が基地にしている建物の間取りを教えろと迫ってきた。
現在アメリカ軍が基地としている建物は、以前は公民館兼病院としての役割を果たしている比較的大きな建物だった。男はその構造を隅々までよく知っていた。そもそもその建物はこの地区に病院が無い事を懸念した男が数年前に私財を使って建てた物だった。
真面目で暴力事を嫌う男は過激派もアメリカ軍も嫌いで、関わり合いにはなりたくなかった。しかし銃を向けられ、抵抗できない状態にされたために間取りを素直に教えた。
その情報を得た過激派のメンバーは効果的に基地を攻撃できるポイントを割り出した。そこに爆弾を投げ込むと決定するや、自分もそれに協力しろと銃口を向けて詰め寄ってきた。
協力しなければ、許されざる反逆者として無惨な死を迎える。遠くの街で平和に暮らしている娘も同じ運命を辿るだろうと。
抵抗したら愛する娘が殺されるかもしれない。男は恐怖で顔を歪めながらも、先ほどまで自分に銃口を向けてきた男たちと一緒に大量の爆弾を背負い、予め決められていたポイントに設置した。
しかし爆弾から十分に退避するや否や、何の躊躇もなくスイッチを押した過激派達と、目の前で起こった爆発と爆音に晒されるや否や途端に怖くなったため、突発的にその場を逃げ出してしまった。予定ではその場に残って拳銃でアメリカ兵を殺して回る予定だったが、それ以上の暴力は耐えられなかった。
「………話が合わんな。爆発を見てビビって逃げたんならどうして過激派の兵士2人も一緒だったんだ。あいつらは土壇場で逃げ出すような奴をノコノコと自宅まで送迎してやるような紳士じゃないだろう」
「Masing-masing adalah seorang ekstremis yang berusaha bunuh diri. Saya bukan teman saya.」
「彼らは自分を殺そうと追いかけて来た過激派で、自分の味方じゃなかった」
「おいおい、あいつら銃を持ってたのにわざわざお前を追いかけたのか?失礼ながらあんたは銃弾より早く走れるようには見えねえけどな。背後からパーン!それで終わりだろう」
「Mereka tidak pernah menggunakan senjata untuk membunuh pemberontak. Bor lubang di tengkorak dan bunuh, dan biarkan mayat itu berada di persimpangan jalan kota.」
「彼らは反逆者を殺す時、決して銃は使わない。ドリルで頭蓋骨に穴を開けて殺し、死体は街の十字路に晒す」
「逃げ出した奴を相手に悠長なこった」
ウェイドは鼻を鳴らすように笑って銃口で中年男の頭を叩いた。民家の中は埃臭く貧相だったが、伝統的な模様を描かれた絨毯が床を覆っており、エキゾチックな雰囲気に満ちていた。
だがそれもM4やM26MASSを背負った軍服の男達が、絨毯を泥だらけの軍靴で踏み荒らすまでの事だった。両手を拘束されたまま床に跪く男に冷やかな視線を向けて銃口を向ける。腹の出た中年男の顔色は白を通り越して青に変色していた。
無遠慮に男の頭を銃口で叩くウェイドを窘めるようにジェイソンが眉根を顰める。
「止めろウェイド。彼は被害者だ」
「こいつの話を全面的に信じればの話だろう。それにあの爆発で13人死んだ。こいつは消極的な協力者だ。同情する余地は無いと思うけどな」
「そう、消極的な、だ。まだ救われる余地はある。少なくともキリスト教では間違いを犯した者にも必ず救われる道がある。勿論異邦人もだ。ヨナの物語は知っているだろう?」
「お前はこいつに改宗を勧めるべきだよジェイソン。だが今は宗教談義をしている暇はねえ」
「君の言う通りだウェイド。今は情報を引き出すのが先だ」
ジェイソンは瞳を鋭くしてじっと男を射抜いた。真っすぐ過ぎる瞳の色に男がたじろぐのが見えた。
男の気持ちがウェイドにはよく分かった。人間にあるべき薄汚さ、私欲や躊躇い、臆病さ、そういったものが無い視線は、後ろ暗い所がある人間にとっては暴力に等しい。ジェイソンの瞳はこの戦場にあって酷く異質なものだった。
男の前に座り、ジェイソンは静かな表情のまま男の顔を覗き込んだ。
「知っている事を全て話せ。話したら安全な場所まで送ってやる」
淡々とした言葉に、男は額に汗を流しながらゆっくりと頷いた。
■ ■ ■
男から得た情報より判別した、テロの隠れ場所らしき民家へSMGを装備した兵士達が俊敏に駆けていく。
彼らを見送った後に、ウェイドはがくがくと怯え続けている男を乗せた軍用トラックの荷台に乗り込んだ。一応は安全だと思われている地区まで片道で3時間はある。舗装されていない道は重量のある軍用トラックをも兎のように跳ねさせる。
荷台には拘束されたままの男と、ジェイソンとカオル、それとウェイドの3名が乗っていた。森近くの道であるために木々が時折視野を塞ぐ。しかし一本道には迷う要素が全く無かった。
ウェイドは煙草を咥えて空を見上げた。気持ちが良い程に青く抜けた空だ。地上の喧騒からは酷く遠く、こちらを見下ろして馬鹿にするように雲が空を通り過ぎていく。
こんな状況でなければ良いピクニック日和だと笑顔にもなっただろう。だが状況は戦場を突っ切るトラックの狭い荷台に4人の男がむさ苦しく並んでいるという最悪なものだった。吸っている煙草も心なしか普段より不味い。
煙を吐き出すと安っぽい草の臭いが鼻孔を擽る。ウェイドはぼやくように声を上げた。
「安全圏まであと2時間ってところか。帰るまでには全部終わってそうだなあ」
「そうなっていればいいけどな。まあ実行犯は全部で6人で、お前が2人殺したからそう長くもかからんだろう」
「だと良いが……おいあんた、大丈夫か?」
びくびくと震えている男の顔をジェイソンは覗き込んだ。
あれから表情一つ変えず、執拗で徹底的な尋問をしたジェイソンが親切そうな青年の表情で話しかけてくるなど男にとっては軽いホラーのようなものじゃないかとも思ったが、ウェイドは賢明にも口には出さなかった。
この友人が為す事は全て善意から来るもので、怯える男を心配しての行動である事は分かり切っていたからだ。友人は厳つい見かけによらず繊細なので「お前のやってる事はホッケーマスクを被ってチェーンソーを持ったモンスターと同じ位に相手を怖がらせる」という事実を伝えると落ち込んでしまうだろう。
怯える眼でジェイソンを見る男に何を思ったのか、ジェイソンっはゆったりとした声で優しく話しかけた。
「もう大丈夫だからそう怯えるな。俺達はあんたを安全な場所まで送るだけだ。暫くはそこで軟禁させてもらうことになるが、潔白が証明されればすぐに開放される。奥さんにも会えるさ」
「だからそうやって子猫ちゃんみたいに震えるのを止めろ。レディーならともかく、あんたみたいな良い歳したおっさんがビビッて目を潤ませても気持ち悪いだけだ」
「ウェイド」
「事実だろうが。いつまでもビビられてたらこっちもあんたを護る気が失せちまう。ただでさえ、あんたはまだ容疑者なんだからな」
軍に支給される煙草は不味い。まだ残っている煙草の火をトラックの荷台に押し付けて消し、ウェイドはぽいと投げた。
「全く神様とやらのために毎日毎日お辞儀して良く分からん呪文をむにゃむにゃと唱えて、何が楽しいのやら。あんたに一度も声をかけてもくれないアッラーのためによくもまあ馬鹿馬鹿しい奉仕ができるもんだな。それともあれか、死後の世界とやらのためか。良い事をしてたら天国に行けて、悪い事をしたら地獄に?それじゃあ人殺しのために爆弾運んだあんたはどうなるんだろうな。それとも「神様のため」だったら人殺しはノーカンで、天国行って美人な処女を貰って万々歳って訳か。馬鹿馬鹿しい」
鼻で笑うと男はピクリと肩を揺らした。怯えた瞳に微かな反抗が見えた。しかしぎろりと睨むと僅かな反抗は姿を消した。
その代わり、顔を少しひきつらせたジェイソンが小さく息を吐いた。
「……ウェイド」
「何だよ」
「僕はクリスチャンだ。だから止めてくれ」
「何で」
「君の理論で言うと、神託を受けていないのに敬虔な信仰を持つ人は皆気が狂ってる事になる。僕も含めて」
「そりゃあ悪かった」
肩を竦めてウェイドは口を閉じた。
ジェイソンの強い信仰心を全くもってウェイドは理解できないが、この好青年の気が狂っているとは全く思っていない。過剰にお人よしでやや口煩いが、ジェイソンは気の良い奴だ。
ジェイソンのこの気質を作ったのは宗教かもしれないが、ウェイドがジェイソンを見る目には宗教のフィルターはかかっていない。人が成長する過程に宗教は多かれ少なかれ全ての人が、ウェイドでさえ、影響されているが、その結果どんな人間になったのかは宗教には関わりが無いことだ。
だからウェイドは、宗教が人を差別する原因になり、それどころか戦争の源にもなるという理由を全く理解できなかった。この戦争も、なんて馬鹿馬鹿しいのだろうという感想以上のものを抱けない。
まだ領土を争ったり、エネルギー資源を奪い合ったり、戦争特需で儲ける企業から圧力を受けて勃発する戦争の方が理解できる。ウェイドにとっては死後の幸福よりも、より即物的な利益の方が重要性が高く、理解がしやすいものだった。
カオルは会話についていけないのか目を白黒としている。
大方の日本人らしくカオルはブッディストらしい事をウェイドは知っていたが、宗教めいたものをカオルから感じた事はなかった。こうして宗教を原因とする戦争の最中にあってさえ、カオルは目に見えない神を信仰する人々の気持ちに共感するどころか、欠片も興味を抱いていないらしい。
その見事な程の無関心ぶりは、生まれ育ちから(主に母親のせいで)宗教に対して否定的な見解を持つに至ったウェイドとは異なり、宗教とは無縁の生活をしてきた事が理由なのだろうと思われた。否定も肯定もなく、ただ理解ができないし、興味もない。カオルにとって宗教とは趣味嗜好の範囲を出ないものなのだろう。
敬虔なクリスチャンのジェイソン、宗教に無関心なブッディストのカオル、宗教嫌いであり無宗教のウェイド、そして生粋のイスラム男が、過激派が暴れている戦線で同じ場所に居て、尚且つ同じ場所を目指しているのだから中々おかしな状況だとウェイドは思った。
宗教の色が濃い状況だというのに、誰も天国だの地獄だのコーランだの聖書だのを口にしない。ただトラックの荷台で揺れながら、神の怒りではなく銃口だったり爆弾だったりを警戒している。
それはこの場にいる全員が神様とやらに対して、自分の頭の中で既にある程度の折り合いを付けているからなのだろうとウェイドはぼんやりと思った。現実と宗教について、どこまでどちらを優先して、どこまでどちらのために行動するかをとっくの昔に決めている。だから誰かに何かを勧めるつもりも無いし、何かを勧められても変わらない。
ウェイドは宗教のために裂く自分の労力の割合は0%で、これから先にこの割合が変わる事はまず間違いなく無い。口には出さないが、カオルも自分と同じ筈だ。
カオルがイスラムの男を見る時、顔には理解不能なものを見る怪訝な表情が浮かんでいた。
「まあ、宗教は自由だけどさ。でも他人に押し付けるのは良くないよ。誰が何を信仰しても自由なんだから、拒否する自由もあるべきだ」
「……全世界の人がお前と同じ考え方だったら宗教戦争はなくなるだろうな」
「そうなんだろうけど、宗教で心が救われている人もいるだろうから、そうそう誰もが簡単に譲る事はできないんだろうね。でもだからって戦争まで起こす必要もないだろうに。話し合いで済ませれば良いだけの事じゃないか」
「お前の話し方はミサに一度も連れてって貰った事のないプライマリースクールの子供と同じだな」
「プライマリーはともかくミサには一度も行ったことが無いよ。フローラも無宗教だしね」
あはは、とカオルは乾いた声で笑った。ジェイソンもつられて笑った。
「カオルはイスラムの考え方に違和感があるのか?まあ、あんまり日本人には身近な宗教じゃないよな」
「正直僕はイスラム教だけじゃなくてキリスト教もよく分からないよ。日本でもクリスマスを祝うけど、あれは単なるお祭り騒ぎだし、そもそも宗教っていうものが良く分かってないんだと思う。知識としては知ってても、週末に教会に行くとか、食事の度にお祈りをするっていう感覚が無いから」
「日本はシントーとかいう多神教の国だったな。キリスト教は馴染みが無いか」
「いや、日本人の殆どの人が仏教徒だと思うけど、でも法事とお盆以外に何の関りも無いし、結婚式だって最近じゃあほとんど教会で挙げるし、なんていうか……あんまり興味がないんだろうな。宗教が無くても生活できるから」
「…………ジャア、シゴのセカイは、ドウナル、思う?」
これまで石像のように黙りこくっていたイスラムの男はカオルに目を向けてポツリと呟いた。声は小さかったが、ジェイソンに向けるような明らかな怯えは無かった。
まず間違いなく、この男にとってここまで宗教に無関心な人間と遭遇したのはこれが初めてなのだろう。男の視線には軽蔑と好奇心が半々の割合で含まれていた。
人の機微に聡いカオルはそれに気づいているのだろうが、全く気分を害した様子も無く、少し考えてから口を開いた。
「僕は生まれ変わったりするんじゃないかと思ってるけど、輪廻転生って言うんだっけ」
「ブッディストの考え方だな。解脱を目指して現実で苦行を重ねるという」
「いや、別に解脱とかはよく分からなくて……なんだかちょっと違うかな。仏教の考え方なんだろうけど、もっとシンプルな……そうだね、僕はまだ死にたくないから、死んだらまた人生をリトライできるっていう自分に都合が良い考え方を信じているのかもしれない。そうやって無意識の内に精神の安定を図っているんだろうな。死んだ後の事を真面目に考えると怖いから」
「日本じゃあスーツを着た閻魔様に界王様の所へ行く道を教えて貰うんじゃねえの?」
「それはドラゴンボール」
「じゃあ死神に尸魂界に連れて行かれるか、もしくは地上に留まって虚になるか、」
「それはBLEACH。流石に日本人でも漫画の世界をリアルだと思ってる人は居ないよ……多分」
息を吐いたカオルは、これで良いか、と男を見た。
男は不可思議なものを見るような視線をカオルに向けたが、何も言葉にすることは無かった。内心では、自分の信じたいものを信じると言ってのけたカオルを軽蔑しているのかもしれない。だが男は口を閉じて一度頷いた。
男の視線は今度はウェイドに向いた。
「あなたハ?」
「俺は無宗教だ。天国も地獄も無いし、死んだら何もなくなるだけだと思ってる。アメリカじゃあ珍しくも無い考え方だ」
「……じゃあ、なにヲ信じてル?」
男の視線を受けて、じっと睨み返す。
国の命令を振りかざして人殺しを繰り返す無宗教の軍人の心情に興味でも湧いたのか。確かに敬虔なイスラム教徒の男からしてみれば自分は未知の生き物に違いないだろう。男はウェイドの軍人らしく鋭い視線に少し体を震わせながらも視線を逸らせる事は無かった。
何を信じているか。宙を見上げる。
母はクリスチャンだった。そのせいもあって、ウェイドはキリストの神を信じていない。あれだけ祈ったにも関わらず、神は父の暴力から母を護らなかった。
だから神なんて存在しない。もし存在していたとしても、大嫌いだ。気分屋で依怙贔屓の酷い奴だ。もしくは無力な人間を見下ろして嘲笑っているような性根の腐った奴だ。
上からこちらを見ているだろうに、神は一度も哀れな自分を助けてくれなかった。父親に暴力を受けている時も、その存在を欠片たりとも感じることは無かった。家の外の木に縛り付けられて、殴りつけられた頬を雨が打つ痛みに涙を流した時も、濡れた頬を拭ってくれた事は終ぞなかった。
昏い夜を拒絶するように閉じた瞼の裏で閃いたのは、十字架でもジーザスでもなかった。もっとより身近で、現実的でありながら、遠い存在だった。
子供の頃の自分を助けてくれたのは——————
「……キャプテン・アメリカ?」
ふと口に出した。無意識の言葉だったが、それは間違っていないように思った。
何かを信じれるとすれば、それはキャプテン・アメリカだ。言い換えれば、きっと誰もが納得する正義を為してくれる人がこの世界にはいるに違いないという祈りだった。ウェイドが何かしらの宗教を信じているとすれば、それはヒーローという名前の宗教だった。カオルはぱちくりと目を見開いた。
「君の神様はキャプテン・アメリカ?」
「さあな。でもキャプテンは敬虔なクリスチャンだから、俺ちゃんみたいな考え方は唾棄すべきだと思ってるかもしれねえな」
小さく笑う。馬鹿馬鹿しい考え方だ。コミックスの中の英雄に心酔するなんてティーンの子供でもあるまいし。でもそれが自分の内心を表すのに最も適切な表現なのではないかと思った。
意味が分からないとイスラムの男は首を振った。その瞬間に爆発音が周囲に鳴り響いた。
トラックが横転する。視界が反転して、重力が身体を地面へ叩きつけようと押し寄せて来た。咄嗟に隣に座っていたカオルの体を引き寄せる。
体が宙に浮かび上がる奇妙な浮遊感の後に、爆音が再度響き渡った。熱気が全身を襲う。カオルを身体の下に敷いて庇い、ウェイドは歯を食いしばった。1日に2回も爆発で吹き飛ばされるのは初めてだと冷静な部分の頭で思った。
爆発音が途切れた隙に頭を上げると、横転して燃え上がるトラックが見えた。割れたフロントガラス越しに見えた運転席と助手席は血塗れだった。
「ジェイソン、ジェイソンどこだ!」
「俺はこっちだ!」
そう遠くない位置でジェイソンは男を身体の下に庇いながら地面に伏せていた。
ジェイソンには大きな怪我は見られず安堵の息を吐くも、その身体の下に庇われている男は口からピンク色の舌をだらりと垂らし、首から上を180度回転させていた。爆発で吹き飛ばされそのまま地面に首を打ち付けたのだろう。
保護対象を殺された。舌打ちする。任務失敗だ。
それだけではない。武装はしているものの、車が無くなった。安全圏まで行くにしても基地に戻るにしてもかなりの距離がある。危険な行程になるだろう。通信機で救助を頼むにしても、そう長く持ちこたえられるかどうか。
せめて身を隠そうとジェイソンに向かって森を指さすと、ジェイソンはこくりと頷いて駆け出した。
身体の下に敷いたままのカオルを担ぎ上げて、走る。
だが数歩もしない内に背後からパパパ、と音が連続で鳴った。銃弾で皮膚が破れ、肉が裂ける鈍い音がした。
ぞっとした。ウェイドの身体に痛みは無かった。カオルを担いだ背中に温い液体が伝って落ちる感触がした。
カオルからくぐもった声が数語聞こえたが、その意味を今は深く考えたくなかった。ただ体中から血の気が引いた。
そんな訳は無い。きっと銃弾が皮膚を掠っただけだ。すぐに手当てをすれば良い。そう自分に言い聞かせながら、森に向かって走った。そうしなければ足を止めてその場に崩れ落ちそうだった。
森に入った後も外から姿が見えない位置まで走った。その間一言もしゃべる事は無かった。カオルの浅く速い息が耳元で反響していた。
ジェイソンはウェイドより少し遅れて走っていた。犬のように疾走するウェイドに付いて行くのは容易では無かったが、ウェイドは肩にカオルを担いでいたためになんとか付いて行く事が出来た。
だがそれでもウェイドの脚力は尋常ではなかった。草に足が擦れる微かな音以外には音を立てることもなく地面を滑走し、地面に足跡を残さない足さばきで銃弾を避けるようにジグザグに軌道を描いて走った。
数十分は走っただろうか。銃声は聞こえなくなり、周囲には足音も無かった。
静かな森の中でウェイドはカオルを湿った地面の上に横たえた。ジェイソンもウェイドの隣でカオルを覗き込むようにしゃがむ。
深い森の中は草の青い臭いがした。土は故郷を思い出させるような豊かさで、カオルの軽い身体を柔らかく包んだ。鳥の声が小さく響いていた。カオルは目を細めて、木々の隙間から零れる太陽の光を見上げていた。
カオルの胸の近くから血が迸り出ていた。元々不健康気味な白い頬は蝋のように青白く冷めていた。手を握ると、冷たかった。この国中に漂っている死の臭いがカオルからも臭った。
ジェイソンとウェイドは、鼓動に合わせて噴出する血液を抑え込むように胸に両の手を当てた。しかし4つの手のひらの隙間から血液は休むことなく流れ出ていた。ジェイソンの両の瞳からぽたぽたと涙が落ちてカオルを濡らしていた。嗚咽を抑え込んでいるジェイソンに、ウェイドは何も言えなかった。
「水」
囁くような声がカオルの口から聞こえた。ジェイソンは黙って鎮痛薬をベストから取り出し、カオルの口に放り込み、水筒のキャップを開けてカオルの口の傍まで持って行った。カオルは唇から水を零しながらも錠剤をのみ込んだ。
「カオル、痛いか」
「……驚いたよ。思っていたより、痛くない」
カオルは静かに目を閉じた。微かに動く唇は白かった。目を閉じたままカオルは言葉を続けた。これまで何度も練習したかのように、その言葉は淀むことなくカオルの口から零れ出た。
「ウェイド、フローラを頼む。僕が死んだら良い人と再婚してくれと、遺書には書いてあるから。君なら……」
かっと頭に血が上る。ウェイドはカオルの頬を全力でひっぱたいてやろうかと思った。なんて馬鹿な事を。
フローラの夫はカオルだけで、マリカの父親もカオルだけだ。2人の家族にカオルは心から愛されていた。カオルが2人を愛するように、2人の愛はカオルのものだ。そうそう簡単に他の誰かが代われるものじゃない。カオルの言葉は2人の愛を軽いと言っているに等しかった。
怒りのままに手を頭の上まで振り上げる。しかし青白い顔をして最期を待つ親友を見ると、その顔を歪めるような暴力を働くなど出来る訳が無かった。振り上げた手はカオルの黒い髪を梳いて終わった。
例えいくら正当な暴力だったとしても、親友の最期はせめて安らかであるべきだ。聡明で寛容で、少し不器用な親友に、ウェイドはいつものように揶揄うような口調を混ぜて言葉を返した。
「馬鹿な事を言うんじゃねえよ。マリカはどうするんだ。俺はあいつのジーニーだぜ?パパじゃない」
「頼むよウェイド。君なら、僕は許せる……ジェイソン、ウェイドを頼む。こいつは優秀だけど、無謀で馬鹿な奴だから」
「分かった。分かってる。大丈夫だカオル」
涙を零しながらジェイソンは頷くと、カオルのドックタグを胸から取り外してウェイドのポケットに突っ込んだ。
穏やかな顔をしていたカオルは最後に顔を小さく歪めて、「死にたくない」と呟いた。その言葉を最後に目を閉じて、動かなくなった。
ウェイドはカオルの顔についた泥を拭って、一度深く息を吐くと、ポケットの中身を漁った。標準装備の手榴弾と予備の弾倉、コンバットナイフ、そして救急キットを取り外す。
友人が死んだというのに酷く冷静な自分がおかしかった。ブートキャンプでバトルバディーになってから、もう3年以上経っていた。カオルの事を親友だと思っているし、思われていただろう。結婚式でスピーチもした。カオルの娘の名付け親にもなった。それなのに自分は今冷静に、自分とジェイソンが生き残るためにカオルの装備を剥いでいる。
とことん自分は兵士に向いていると、皮肉な事を思う。そんな余裕があるのもおかしかった。こんな薄情な男だとカオルは知っていただろうに、自分の愛する妻と娘を任せようと考えたカオルは、何をもって自分をそんなに高く評価していたのだろうか。
「ジェイソン、基地に連絡を」
「分かった。どこからバレたのかは分からないが、連中が追ってくるのは間違いない。移動するぞ」
「ああ」
ジェイソンが鼻をすする音は聞かない振りをした。
横たわるカオルの黒くて短い髪を一房切り落とし、ウェイドは医療用のガーゼに包んでドッグタグと一緒に心臓に一番近いポケットに詰めた。胸の奥が苦しくて呼吸をするのも困難だった。だが何も声に出すことはなく、ただ歯を食いしばった。
親友の死による哀しみを状況も考えず露わにできる程にウェイドは情に篤くはない。どんな時でも冷静に動く事ができるという、非常に兵士に向いている特性をウェイドは有していた。
しかしウェイドは友人の死に何も思わない程に冷血漢でもなかった。友人が突然、あっけなく死んでしまった事に納得のできる説明を付けて、簡単に飲み込めるように加工するための宗教への信頼もなかった。
冷たいのか熱いのかもよく分からないが、狂ったように心臓を打ち鳴らす胸に拳を押し当てて、ウェイドは何かに祈った。何かは、少なくとも神ではなかった。ただカオルのために祈った。片手に握るSMGの冷たい感触だけがウェイドの祈りを強く受け止めてくれた。
乾いた銃声が2発鳴った。反射的にウェイドとジェイソンは草むらの中に身を潜めた。
厚く生い茂る葉の隙間から目を凝らすが、銃を構えている敵の姿は見えない。ただ銃を乱射している音だけが響き渡っていたため、敵が居る方向ははっきりと分かった。
「基地は何て?」
「敵本部への突入作戦を決行したが、もぬけの殻だったらしい。既に逃げ出した後だったとか。元々あの男は使い捨ての駒だったのかもしれないな」
「Shit, shit, shit, こっちが本命ってことか?」
「かもしれない。裏切者の制裁か」
「頭蓋骨にドリルで穴を開けて十字路の真ん中に晒すんじゃねえのかよ!」
敵が居るだろう方向に向けて発砲する。短い悲鳴が聞こえたが、銃声の音は止まなかった。
足音に耳を澄ませると、少なくとも7, 8人以上は居そうだった。一人が痛みのあまり地面にのたうち回っているらしく土が擦れる音がしたが、誰も痛みに悶える仲間を気にすることなくこちらに注意を向けている。
「どうして宗旨替えをしたのか分からないが、今はそんな事を気に掛けている場合じゃない。逃げよう」
「賛成だ畜生め」
この状況では分が悪い。逃げるしかない。そう分かっていながらも、ウェイドの頭にあったのは、車両も無く、土地勘も相手の方が上の状態で逃げるのは困難なのではないかという焦りと、置き去りにしたカオルの遺体だった。
まさか遺体まで荒らすような事はないだろうと願いたかったが、アメリカ軍が彼らにやらかした事を思い返すと、軍服を着ているアメリカ人の遺体を辱める事は彼らにとって心を痛めるような悪行ではないだろうとすぐに分かる。同じ人種のイスラム教徒を躊躇なく殺すような連中であれば猶更だ。
殺されたあのイスラムの男は最後に神を思ったのだろうか。自分を殺した連中が崇めているような神を。そう一瞬思い、すぐに息を吐いた。そんなの、今はどうでも良い事だ。
「援護が車でどう見積もっても30分はある。それにこの森はそう広くない」
「そうだな。それに奴ら、銃弾を消費するのが趣味のようだ」
こちらの姿を確認もせずに発砲を繰り返す連中のおかげでこちらの声や足音はかき消されているが、それでも確実に距離が詰められているのが分かる。今の所は物陰に隠れながら移動してやりすごしてはいるものの、直ぐに限界が来るだろう。
しょうがない。ウェイドは銃を構えた。
「一人があいつらをひきつける。一人が逃げる。OK?」
「NOだ。馬鹿かお前は」
「馬鹿じゃねえよ。JapanのDEMON島津が考えた、SUTEGAMARIっていう立派な戦法だ。本隊を逃がすために少数が犠牲になる、まさにThe Americaな戦法さ。古今東西戦に狂ってる奴らは発想が同じって訳だ」
「俺達は今2人だ。どっちが多数なんだ」
「お前が多数に決まってる。俺とお前なら生き残るのはお前の方が相応しい。それに俺なら敵を皆殺しにして生き残る可能性がある。ほら、俺ちゃん優秀だし?」
「無茶だ馬鹿!」
「それじゃあ頼んだぜ」
ポケットからガーゼに包んだカオルの髪とドッグタグを取り出して、ジェイソンのポケットに突っ込む。
ウェイド!と叫ぶ声が背後から聞こえてきたが、ウェイドは軽く手を振って応えるに留めた。
敵に向かって走る。方向は分かっている。物陰に隠れながらとは思えない速度で、足音を殺してウェイドは走った。
銃声が大きくなる。だがこちらには気づいていない。微かに揺れる葉の動きを見て、どのあたりにいるのか見当をつける。
一番大きく葉の動く位置に銃口をぴたりと向けて発砲した。くぐもった悲鳴と、地面に倒れる音が聞こえた。
動揺の声が小さく上がり、その方向に向けて走る。一瞬前まで自分が居た地面に小さな穴が空いて、微かな煙が立っていた。
「Bunuh musuh Tuhan!Bunuh musuh Tuhan!」
「Anjing, American!」
銃声が木々に反射して方向が分からなくなる。目を細めて、走りながら引き金を引き続ける。
腕は痙攣して、寸断なく聞こえる銃声に神経が震えた。顔の横を銃弾が横切った回数は1度や2度では無かった。これまでになく死を身近に感じた。だがそれでもウェイドは銃を手放すことなく戦い続けた。
あと何人だろう。最初に聞こえた足音からは確実に少なくなっているが、それでも人数ははっきりと分からない。
「Saya menemukannya!」
はっと振り返る。一人がウェイドの背後に回っていた。銃声のせいで聞こえなかったのか。
距離にして10mもない位置から銃口を向けられている。反射的に横に飛んだ。脇腹を銃弾が掠めてぱっと血が散った。
横に飛びながらも銃口を向けて、引き金を引く。ヘッドショットが綺麗に決まり、脳みそが地面に飛び散る。
だが男が叫んだ言葉は周囲に響いており、踵が地面を蹴る音が幾つも聞こえた。脇腹から血がどくどくと流れているが、アドレナリンが放出しているせいで痛みは感じない。ただ酷く思考が澄んでいた。
銃声が鳴る。横に飛んで逃げるが、今度は太腿を一発の銃弾が貫通した。一瞬焼け付くような痛みが走り、その場に倒れた。
地面に倒れながらも銃を撃つ。だが足音が近づいて来る。死の音だ。死の音は草の擦れる音と、泥を弾く靴の音をしていた。ウェイドは冷静にその音に耳を澄ませた。
十分前のカオルもこんな気持ちだったのだろうか。恐怖はそう大きくは無かった。ただ体の芯が酷く澄んでいるような気がした。泥の臭いと血の臭いで環境は最悪の筈だが、妙に気分が爽快だった。
味方を助けるために一人残って敵と対峙するなんて、キャプテン・アメリカみたいだ。
場違いな微笑みが浮かんだ。そうだ。自分はこうなりたかった。ずっと子供の頃から、こうなりたかったんだ。
小説の挿絵を今でも鮮明に思い出せる。埃臭いシーツに包まれて、ドキドキしながらページを捲った。ヒトラーと戦うキャップ。悪と戦う分かりやすい正義。万人から価値があると認められる、尊敬と親愛を一身に受けて当然だと納得できる人。
泥だらけになりながら銃を撃つ今の自分には、彼と同質の価値があるようと信じられた。田舎で両親から虐待されていた小さな子供が、英雄とまでは言えなくても、少なくとも自分で自分を誇れる程度の男にはなれたのだ。
上等な人生じゃないか。
ジェイソン。悪い、カオルをフローラに届けてやってくれ。俺はここに残る。
呟いて死の音が近づいて来るのを待った。SMGは残弾が尽き、拳銃を構えた。
草の擦れる音が近づく。耳になれない外国語の声も一緒になって頭上から降ってくる。ウェイドは目を閉じた。
銃声が鳴った。同時に数人の男が崩れ落ちる音が聞こえた。
頭をもたげると、ジェイソンが立っていた。息を切らしてウェイドを見下ろしている。額からは大粒の汗がいくつも噴出されていた。
ジェイソンはその場に足をついて、ガーゼの包みをウェイドに押し付けた。
「走れ、ウェイド」
「馬鹿野郎め」
乾いた笑みを零して、ウェイドは宙を見上げた。そうとう悪運が強い星の下に自分は生まれてきたのだろう。
そしてどうやってもヒーローにはなれない運命らしい。太腿を貫通した銃弾は太い動脈や神経を傷つけることはなかったようで、立ち上がると強烈な痛みは走ったものの、歩けないことはなさそうだった。
ガーゼをポケットに入れて周囲を見回す。遠くからまだ敵の声が聞こえた。
「ジェイソン、逃げるぞ」
「いや、無理だ」
ジェイソンはほら、と自分の腹を指さした。軍服をじっとりと血液が濡らしていた。ぞっとするような量の血液だった。ああ、もう助からないな、とウェイドはその姿を見て直ぐに察した。だがそれを認める事は出来なかった。
ジェイソンはその場に力なく倒れて、頬を泥で汚した。慌ててその隣に膝をつく。
「逃げてる途中で撃たれた。それで、もう助からないと思って無様に戻って来た訳だ。正直もう一歩も動ける気がしない」
「……じゃあ担いでやるよ」
「その足で?」
「無理じゃないさ」
ジェイソンの腕を掴んで引き上げようとすると太腿に鋭い痛みが走り、そのままウェイドも泥の中に顔から突っ込む羽目になった。頭をぶつけた衝撃で視界が回るように揺れる。強かに全身を叩きつけられた痛みは気絶しそうな程に強烈だった。
痛みのあまり呻き声をもらすウェイドに、ほらな、とジェイソンは呆れ半分嘲笑半分といった表情で片眉を上げた。
「諦めろ、ウェイド。俺も、そろそろ気が遠くなってきた」
「馬鹿言うんじゃねえよ。俺みたいな奴より先にお前が死ぬなんてことあるか」
吐き捨てるように言っている間にも、ジェイソンの顔色が段々と先程のカオルの白い色に近づいていく。表情は溶け落ちて、凡庸ながら人の好さそうなジェイソンの顔立ちだけが顔面の上に残っていた。
澄んだ瞳の色が徐々に光を無くしていくのを間近で見て、もうジェイソンは駄目だとウェイド察した。
しかし、それでも諦めたくなかった。カオルは死んでしまった。その上もう一人の友人までが死に、自分一人で生き残ってどうやってフローラとマリカに会いに行けば良いんだ。
もう一度立ち上がろうと足を踏ん張る。震える足に鞭打ち、なんとか両の足で体を支えた。しかし自分の体重以上の物は1gも支えられないような気がした。血がだらだらと流れ続けている太腿を手で抑えながら、ふらふらとジェイソンに近寄る。
「帰るぞ、ジェイソン。アメリカに帰ろう」
さあ、と手を伸ばす。目を見開いたままのジェイソンは、何の反応も返さなかった。ウェイドが伸ばした手は震えていた。
こん、と音がした。振り返ると、口から血を吐き出して、目も虚ろな敵が、震える指で手榴弾のピンを抜いている光景が見えた。
咄嗟に近場の木の影に倒れ込む。それとほぼ同時に、爆発音が鳴り響いた。
背中を焼くような熱が次の瞬間にウェイドを襲った。軍服越しでも肌を焼きそうな熱に身もだえる。
しかしそれでも、爆発音が止むと、直ぐにウェイドは痛みを堪えながら足を引きずりながらその場から逃げた。後ろは振り返らなかった。ドックタグと髪の入ったガーゼの小さな包みを、ポケット越しに指でなぞった。
ごうごうと木々が燃える音が背後で鳴っていた。
■ ■ ■
ウェイドは援護に来た即応部隊に拾われ、安全圏にある医療施設で治療を受けることになった。
脇腹と太腿から失血してはいたものの致命的と言える程ではなく、数単位の輸血と縫合のみで処置は済んだ。ただし銃弾は綺麗に貫通していたとはいえ損傷した筋肉が直ぐに回復する訳も無く、数か月は歩行が難しいだろうと医者からは説明を受けた。
適切な医療機関での治療とリハビリを受ければ半年程度で元通りに走れるようになるだろうと説明を受け、ウェイドはどこか他人事のように頷いた。
早々にアメリカへの帰還が決定したウェイドは、輸送機を待つまでの数日間をベッドの上で過ごした。
同じ病室には知り合いはおらず、ウェイドは一人でテレビを見たり、本を読んだりして暇を潰していた。昔、小さなバーでショーをしていた黒人が超人気アーティストとしてテレビで素晴らしい歌声とピアノを披露している映像を見て、そう言えばジェイソンとカオルと初めて飲みに行った時に見たアーティストであることに気付いた。
あの時にカオルはフローラと初めて出会ったんだったか。
自分とよく似ているフローラがカオルを選んだ理由は、何となく分かる。カオルは本当に良い奴だった。冴えない外見とは裏腹に、熱い心を持っていた。誠実で頭が良く、友人思いな男だった。
あんな泥の中で血を噴出して死ぬような男じゃなかった。
ジェイソンもそうだ。心優しく高潔で、珍しい程に純朴な男だった。学校の教師として沢山の子供たちを導き、守っていくのに相応しい人格と能力を併せ持つ男だった。あんな奴が、銃を握って敵に向ける事自体が間違っていた。
とっくにその事実に気付くべきだったのだ。その機会は何度もあった。少なくとも、あの2人とは違って兵士が天職だと明言できる自分だけは、その事実をはっきりと2人に指摘するべきだった。
しかし自分達が初めて出会った時、自分はまだ実戦を知らない若造で、こんな事があるとは思っても居なかった。勿論理屈として兵士になるというのは死と隣り合わせだという事を理解してはいたものの、その現実はどこか霧がかった向こうの世界の事のように思っていた。
楽観視していたのだ。死はいつも隣にあった。神に祈ることで死への恐怖を克服する人々の気持ちをウェイドは全く理解できなかったが、それはウェイドの精神が人一倍頑丈だったからなのではなく、死をどこか遠いもののように思っていたからだった。
子供の頃の方がずっとウェイドは死を間近に感じており、その恐怖はキャプテン・アメリカに縋りつかなければ耐えられない程だった。その事実を忘れていた。
2人が死んだ責任は自分にある。その責任を、自分は果たさなければならない。
自分が何をしなければならないのかよく分かっていた。しかしそれでもカオルの遺髪とドックタグを片手に、もう一本の手に携帯を持ってアドレス帳を開いているといつの間にか一日が終わってしまっているのだ。
明日には本国に帰る。ウェイドは白いシーツを前に目を閉じた。心を平静に保つための準備が必要だった。
暫くの後に目を見開く。震える指でフローラの携帯にかかる電話番号を押した。
耳に押し当てた携帯は数回のコールを鳴らした。このままフローラが電話に出ないで、時が過ぎて行く事を願った。
しかしがちゃりと音が鳴り、聞き慣れたフローラの穏やかな声が聞こえた瞬間にその願いは永遠に叶わないものとなった。
『ハーイウェイド、どうしたの?』
「フローラ……フローラ、」
声が震えているのが自分でも分かる。
長い付き合いのフローラは、その声の調子からウェイドが平時の状態に無い事を直ぐに察した。冗談や軽口の多いウェイドの口からこんな声を聴くのはフローラも初めての事だった。
『ウェイド、どうしたの?何かあった』
「君に……君に伝えないといけない事があるんだ。今、時間はあるか?」
『ええ、良いけれど、でもちょっと待って。さっきから何だか煩くて、場所を移すわ』
確かに電話越しにも、空気が擦れるような音が奇妙な音がした。電波が悪いのだろうか。しかしそれにしても妙な音だった。何か巨大な物が近づいて来るような音のように思えた。
フローラがマリカを呼ぶ声が聞こえた。マリカ、そろそろ出るわよ。
はーい。少し不機嫌なマリカの声。くすくすと笑うフローラがマリカの手を握り、ヒールを鳴らして警戒に歩く。携帯を頬に当てる擦れた音。
きーん。高鳴る音。近づいて来る。ウェイド、それで、何があったの?
「フローラ、落ち着いて聞いてくれ」
ぶつりと携帯が切れた。
ウェイドはそれから何回かフローラの携帯に電話をかけなおしたが、結局フローラは出なかった。
それから30分後、テレビの画面には、爆発し、崩れ落ちる大きなビルが鮮明に映っていた。
■ ■ ■
「マリカ、ほらトマトもちゃんと食べな。野菜も食べねえと美人になれねえぞ」
「とまと、や!」
唇を尖らしてむくれるマリカは最高に可愛い。思わず頬が垂れ下がってしまう。カオル似のチョコレート色の瞳とフローラ似の白い肌が合わさったマリカは、名付け親としての贔屓目を加味してもとても可愛い子供だった。
そんな子供に嫌いなトマトを突き出すなんてなんて酷い事を!そもそも嫌いだと分かっているのにどうして朝食のサラダにトマト添えたのだ!なんて自分で自分を非難するも、このまま野菜を食べない子供に育ってしまっては困る。
バランスの良い食事が子供の健康的な成長に繋がるのだ。ウェイドは心を鬼にしてマリカの前にトマトを差し出した。
「マリカ、可愛いマリカ。My sweet, 野菜を食べないせいでマリカが大きくならなかったら俺ちゃん泣いちゃうぞ?」
「ん~、や!トマト、やぁ」
「だいじょーぶだマリカ。ほーら、赤くて可愛い色だ。マリカの唇と同じ色!」
小さく切ったトマトをマリカはジト目で睨み、むう、と尖らせた唇を微かに開いた。
その隙間にトマトを入れると、凄く嫌そうな目をしてマリカは数回咀嚼してなんとかトマトを飲み込んだ。マリカは大きな目に涙をいっぱい溜めていた。ウェイドはマリカの髪を撫でて大きな声で褒めた。
「良い子だマリカ!頑張ったなあ、偉い偉い」
「マリカいいこ?」
「ああ、良い子だマリカ。マリカはいい子。可愛い子。苦手なトマトも食べれるし、トイレでおしっこもできるようになってきたもんな。ほらたっち」
「たっち、ジーニー!」
両手で万歳をするマリカにたっちをする。マリカは先程まで泣きそうだったことを忘れたようににこにこと笑った。
両親を失ったマリカの一時的な保護者として、ウェイドは一人残されたマリカの世話をしていた。腹と太腿を抉った銃弾を癒すための療養期間を、ウェイドは全てマリカのために使った。足はまだあまり動かず、少し歩く程度でも痛みが走ったが、2歳の子供の面倒をみる程度ならば問題は無かった。
毎日慣れない手つきで子供用の食事を作り、トイレトレーニングをして、おむつを付け替える。身長が190cm近い大男が細やかに幼児の世話を焼く姿は傍から見ると滑稽かもしれないが、小さな2人の幸せな生活を揶揄する者は誰も居なかった。それにもし誰かに馬鹿にされたとしても、自分は全く気にも留めなかっただろう。
マリカの世話は大変な事も多かったが、全く嫌ではなかった。元から世話好きな性格だったが、それよりも日々少しずつ成長するマリカの姿にウェイドは癒されていた。
親友3人を一度に失ったウェイドの精神は酷く疲弊していた。アメリカに帰国した直後などは碌に眠る事もできず、拳銃を携帯していなければベッドから一歩たりとも動く事がきなかった。
少し調子が戻ってからも、日常の些細な物音に対する敏感さは中々戻らず、大きな物音がしたら咄嗟に物陰に隠れてしまっていた。調子の悪い日は柔いベッドの上から下りるとそこは泥沼なのではないかという妄想に憑りつかれてしまい、丸一日シーツを被ってベッドの上から動く事ができなかった。
だがマリカは、軍のカウンセリングよりも遙かに強い力でウェイドを癒してくれた。
もしマリカが居なければ、そしてウェイドがマリカと共に暮らすこの数カ月間が無ければ、自分はどうなっていたか分からない。もしかすると心を病んで精神病院にでも行っていたかもしれない。
だがマリカの世話は大変で、そしてそれ以上に素晴らしい日々だった。ウェイドの疲れ切っていた精神はマリカとの日々の中で回復しつつあった。
もしウェイドが結婚していたのならば、このままマリカを養子に迎え入れる事も出来ただろう。しかし現実はそうではなかった。フローラの親戚がマリカを養子にする事が既に決定していた。
今日はウェイドがマリカと過ごす最後の日だった。
「マリカ、ほら、そろそろ家を出るぞ。その前に歯磨きしような」
「ん!」
歯ブラシを構えたウェイドの膝にマリカは乗り上げて、あーんと口をあける。行儀よく並ぶ小さな歯を一つずつ丁寧に磨いた。膝の上の小さな体温がこの上なく愛おしい。
歯磨きを終えたウェイドはマリカを立たせた。洗面所でうがいをさせて、そのまま鏡の前で髪を梳かす。子供特有の細い髪にリボンを絡めて綺麗に編み込み、髪の先にキスをした。
「マリカ、俺ちゃんはいつでもお前のジーニーだ。何かあったらスープスよりも早く助けに行く」
「……ん、」
「だから何か、助けて欲しいと思うような事が有ったら俺ちゃんを呼ぶんだぞ」
「ん!」
上下する頭と同時に、編み込んだ髪が揺れた。
額にキスをして、纏めた荷物と一緒にマリカを玄関まで送る。そこには既にマリカの養父と養母となる夫婦が待っていた。
確かにフローラと似た口と鼻の形をしている男だと思った。しかしフローラとは違い、もっと恵まれた人生を送っているだろうことがよく分かる充実した表情をしていた。凡庸な顔立ちの夫婦は、街中ではその姿も紛れてしまうだろう、至って平凡な雰囲気をしていて、マリカがその間に入っても何の違和感も無い。少なくとも独身の大男がマリカを連れて歩いているよりもよっぽど普通で幸福な家庭に見える。その事にウェイドは安堵し、少しの悲しみを覚えた。
儀礼的なやりとりをいくつかウェイドと夫婦の間で行った後、ウェイドはマリカの手をひいて夫婦の方へ押しやった。
「マリカ、本当にありがとうな」
「……ジーニー?」
「バイバイだ。でもまた会えるさ。大丈夫、何も怖がることなんて無いんだ。何か怖い事があったら、おじさんとおばさんに頼るんだ。我慢する事なんて無いんだからな」
きっとマリカはフローラやカオル、そして自分とは違う、平凡な人生を送ってくれるだろう。平凡な家庭で成長して、平凡に恋をして、幸福になってくれる。そうウェイドは信じていた。
マリカは寂し気な瞳を瞬かせながらも、自分の背中を押す夫婦を交互に見上げて、何かに納得したように一つ頷いた。不幸な環境にある子供が時折見せる不思議な聡明さがマリカの瞳に宿っていた。
2人に手を繋がれながら去って行くマリカは足を動かしながらも振り返り、猫のような可愛らしい瞳に焼き付けるようにウェイドの姿を目に映した。
「バイバイジーニー!バイバイ!!」
「ああ、バイバイマリカ。幸せに、幸せにな………幸せになるんだ」
瞼の裏ではカオルの最期の姿が閃いていた。そしてマリカを護るように腕に抱えながら事切れていたフローラの姿も。
マリカは車に乗るまでずっとウェイドに、ジーニーに手を振っていた。
ウェイドも大きく手を振り返した。
そのまま車が見えなくなるまで、ウェイドはそこに立っていた。
それから一週間後、ウェイドは軍に復帰した。
優秀な実力が認められ、復帰してから程なくして空挺学校への推薦入学が決まった。
卒業してすぐにRIP(レンジャー教化プログラム)を受け、合格し、レンジャー訓練生として文字通り血反吐を吐くような目に遭った。ウェイドはその中でも自分を追い込むように訓練に没頭した。
這いつくばりながらもレンジャー学校をなんとか卒業して肩章を得た頃には、周囲にはカオルやジェイソンと親友であった頃のウェイドを知る者は居なくなり、兵士が天職だと口にしてもおかしくない男ばかりに変わっていた。
ウェイドはそのまま第75レンジャー連隊に入隊した。仲間は皆自分と同じように立派な体格の目が鋭い男ばかりで、ブートキャンプの頃はまだまだ緩い連中ばかりだったのだなと思った。
それから数年の間、RFF(レンジャー即応部隊)としてウェイドは幾度も出撃した。化け物揃いのレンジャー部隊の中でもウェイドは最優秀の成績を誇っていた。
そして入隊から6年後、24歳の時。
ウェイドはデルタフォースに入隊した。