ジーニーの祈り   作:XP-79

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4. The Great Dictator

 そこまでの話を聞くと、少女は大きく息を吐いてウェイドを見上げた。キャラメル色の瞳は子供特有のぱっちりとした形をしていたが、ウェイドを気遣うように緩やかな弧を描く唇はあまりに子供らしさとはかけ離れていた。

「———お兄ちゃんは、頑張ったんだね」

「そうよ、頑張ったのよ。俺ちゃん天才だけど、やっぱりデルタフォースはぶっとんだ奴らばっかりだから、そりゃあもう実戦も訓練も死ぬほどきつかったさ。恐怖の館の夢を何回見た事か。おまけにパワハラとかいう概念が欠片もねえ連中ばっかりだから休日なんてありゃしねえし、ストレス性胃潰瘍で血を吐いた奴もいたよ。いきなり盛大に吐血しやがったから変な感染症なんじゃねえかってみんな大慌てで、」

「そっちもだけど、その、戦争でお友達を亡くしちゃって……」

「あーそっちか。まあでもあれは頑張ったとかそういうのとはちょっと違う。そりゃあ2人が死んだ時は悲しかったさ。よわよわの真面目君とぴゅあぴゅあなクリスチャンとかいう俺とは全く違う奴らだったけど、意外に気が合ったから」

 宗教や人種、能力も出身も全てバラバラだったが、寛容な2人のおかげでなんとか自分は彼らと友人関係が保てていたのだと今では思う。ウェイドの高慢で気分屋で現実主義的な性質を2人は上手く受け入れ、そこに美点を見出してくれていた。軍での所属が別々になっても友人関係が保てていたのはあの2人の寛容さのおかげだった。

 だからこそ、あの2人が死んだあとはそれなりにふさぎ込んだし、ショックも受けた。フローラの死も重なり、あの当時の自分の荒れようは中々に酷かった。

 病院で療養している時から毎日浴びるように酒を飲んで、うっかり血が出る程に吐いてしまい退院が長引いた。精神科にも受診し、精神安定剤だかなんだかをいくつも処方されたりした。

 

 だがそんな日々も半年程度で終わった。酒量は日々減り、処方される錠剤もすぐに減った。そしてカウンセリングで問題なしと診断されるなり、少なくとも表面上は、ウェイドは何事も無かったように軍に戻った。

 

「……友達が俺ちゃんの目の前で悲惨に死んじまうなんて事は、俺ちゃんの人生では別にそう珍しい事じゃなかった。退院してからいい女に声かけて何回かファックしたら、すぐに元通りの俺ちゃんになったよ。その程度の事だ。あんなのはそこらへんによく転がってるテンプレ的悲劇に過ぎねえもんだ」

「でも、あなたにとってそれはテンプレ的なんて言葉では片づけられない事だったんでしょう?」

「ああ、そうじゃなかった……初めての親友だった。でも身内や友人が誰も死んだことのない人間がどれだけ居る?理不尽な暴力を振るわれた事のない人間は?両親から見捨てられた事のない人間は?そんなありふれた悲劇のどれもに遭った事の無い人間の方が少数派で、だったら悲劇から立ち直れるのは当然だ。俺ちゃんはその時点ではまだ多数派に属していたんだ。ローマ人に宛てた手紙をゆっくり読んで安堵できる気楽な立場だよ。悲劇の主人公を気取るには要素が少なすぎる」

「そんな事はないよ。誰だって親友が死んでしまったら悲しいし、悲しむ権利がある筈なんだから。誰もが同じような悲しい目に遭っているからって、誰もがすぐに立ち直れるわけじゃないもの。それを助けるために宗教があって、カウンセリングがあるんでしょう?無理に頑張る必要なんて、」

「このように、俺ちゃんたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている!ってなもんだ。本気にすんなよ、ただの冗談さ。確かに同僚には精神をやられて変な宗教にのめり込む奴も居たよ。でも俺はそういうのは無理だった。礼拝にだって一度も行った事が無い不信心者が友達死んだからっていきなり神様を信じられる訳がない」

 

 そう言った後に、確かにこれまで一度も教会に足を踏み入れた事は無いが、神に祈った事はあるという事実に気づいて自嘲気味に頬を揺らした。むしろそこらのクリスチャンよりも祈った回数は多かったと思う。

 どうか助けてください!あの野郎をぶっ殺す手助けをしてください!ああ神よ、戦友を助けてください!手に汗握る祈りは届いたり届かなかったり。

 でも得られた結果は神が全く関わることのない現実的なものだから、結果が出た0.1秒後には神の存在を忘れている。別居している夫婦よりもドライな関係だ。その程度が軍人と神の関係としては丁度良いのではないかと思う。

 

「宗教やドラッグは俺には必要なかった。精神科のドクターに言われた通りお薬飲んで、カウンセラーとお話して、適度なアルコールと女を摂取して、それで終わりさ。模範的軍人のあるべき姿ってな」

「お兄ちゃんは強いんだね」

「どーも」

「………そんな目に遭っても、軍を辞めなかったんだから」

 労わるような少女の声に、ウェイドははっと鼻で笑った。

「辞めないさ」

 目を閉じて首を振る。昔を思い出すように目を閉じる仕草は、ウェイドにとって珍しいものだった。ウェイドの瞼の裏には懐かしい青春と2人の親友たちの姿が浮かび上がっていた。2人は笑っていた。

「——————俺ちゃんが辞めちゃったら、ジェイソンとカオルの事を覚えてる奴がいなくなっちまうんじゃないかって思った。たとえ天才的な兵士の俺ちゃんでも平和な日常に戻ったらころっと奴らの事を忘れて、安穏と暮らしちまうんじゃないかって。馬鹿馬鹿しいよなぁ」

 自嘲気味に唇の両端を持ち上げた。その危惧は少し当たっていたかもしれないと思う。

 

 ヴァネッサは最高に良い女だった。強く、美しく、しかし弱さと暗い過去を持つ、決して完璧ではないからこそ最高の女。

 彼女との生活は至福の日々だった。人生という悲劇に挟まれた幸福なCMの間、ウェイドは親友たちが死んだインドネシアの泥沼の事を頭の隅に押しやり、ランチには何を作るかとか、次のデートの行き先とか、今晩のセックスの体位の事ばかりを考える事ができた。日々は温かく、柔らかく、明日へと地続きに繋がっているものだった。

 だがそれでも彼らの事を忘れた訳ではなかった。ふとした瞬間に、自分ばかりが柔らかいベッドで眠り、彼らは冷たい泥沼で死んだ現実への体を焼くような罪悪感や行き場のない苛立ちを覚えた事もある。好きな人と愛し合う生活に後ろめたさを感じる事もあった。だからと言って自らの平和と幸福を手放す事もできなかった。

 思うに、あまりに幸福に慣れていなかったせいで自分は余計な事で悩んでいたのだと思う。生まれてから初めてと言ってもいい平和な日々をどう受け止めれば良いのか分からなかったのだ。

 きっとあの日々が長く続けば、自分の中で過去と現在の折り合いをつけることもできただろう。昔を忘れることなく、しかしかといってずっと考え続ける訳でも無くそこらのありふれた退役軍人と同じように年を重ねて行ったに違いない。

 だが実際にはその懊悩の日々は長くは続かなかった。

 ウェポンXの手術を受けた結果、全ての記憶が吹っ飛んでしまったのだから。

 

 今ではウェイドの記憶はまっさらだ。何も残っていない。愛するヴァネッサの事を覚えているのが奇跡的な程に、ウェイドの記憶は重大な欠陥を抱えている。もちろん2人の親友の事なんて何も覚えていない。

 覚えていないのに、この少女を前にすると不思議と記憶が蘇る。何故だろう。

 

 少女をじっと見る。少女は可愛らしい造形をしているものの、街中を歩けば人込みの中で紛れるだろうという顔立ちで、特に目立つような所は無い。ただ大きな瞳は酷く大人びた輝きを湛えていた。瞳は大気圏を思わせる薄い青をしていた。

 この少女の瞳は青色だっただろうか?その瞳の色に違和感を覚えた。美しく真っすぐな青色は少女の外見の中で一つの異質だった。

 違う。この少女の瞳の色はこんなに怜悧で鮮烈な色はしていなかった。

 その事をはっきりと確信すると同時に、違和感の範囲が自分の周囲全てに広がった。

 

 

 

 

 何故自分はこんなところで、こんな少女を相手に、覚えている筈のない自分の過去について話しているのだろうか。

 

 

 

 そもそもここはどこだ。

 こいつは誰だ。

 

 意識するともう駄目だった。背筋がぞっとする。何も分からない。

 何故これまで自分は呑気に自分の過去について滔々と語っていられたのだろうか。流れるように自分の過去を喋るなんて、天と地がひっくり返っても脳みそがイカれ狂っている自分に出来る筈が無いというのに。

 あまりに得体の知れない状況に舌打ちした。ここまで訳の分からない状況に放り込まれたのは初めて……でもない。むしろもっと酷い状況の中で目を覚ました事もある。

 ただ目の前の少女から全く敵意を感じないのが不気味だった。もっとはっきりこちらに殺意を向けてくれていれば、ウェイドも安心して暴れる事が出来ただろう。

 だが少女は殺意どころか、ウェイドを心から心配しているような表情で見上げている。

 

「俺は……あんたは、何を俺に言わせたいんだ」

「お兄ちゃんが言いたいことを言って欲しいの」

 返事になっていない言葉に、少女は何も説明する気は無いのだと察せられた。ウェイドは立ち上がって少女を高圧的に見降ろした。

「俺が言いたいことだって?タラレバ娘が居酒屋で愚痴るような日頃のストレスを吐き出せってか?『あたしに相応しいイケメンでお金持ちでダークナイトみたいな糞映画を死んでも観ないような結婚相手がどこかに居る筈なの~』ってか。ふざけんな。俺に相応しい男なんてスパイディ以外に居るわけねえだろうが!それとダークナイトは誰が何と言おうと傑作だ!!!!」

「そうじゃなくて、お兄ちゃんが言いたいこと……吐き出したいことを、話して欲しいの。友達の事でも、後悔している事でも、何でも。僕はここでの事は絶対に口外しない。約束する。本当は違う予定だったんだけど、今、僕は君の事をもっと知りたいんだ」

「つまりここは懺悔室って事か。そもそもここはどこなんだよ。何が起こってるんだ!」

「……君は狂っているんじゃなくて、普通の人よりもずっと正気なのかもしれないね。まさかこんなに早く解けかけるなんて……すまない、ウェイド。もう少しなんだ。もう少し、ここで僕に話をしてくれ」

「あんた幼気な女の子なんかじゃねえな。その外見はなんだよ。誰だよあんたは」

「警戒するのも分かる。でももう少しなんだ。それに僕はもっと君の話を聞きたい。トニーは君にはアベンジャーズに入る資格は無いと言ったけれど、それは早計だと僕は思う。僕達にはもっと話し合いが必要だ。今はその絶好の機会なんだと思う。君が誰かに言いたいことを、僕に言って欲しいんだ。きっと今以上の機会はないだろうから」

「俺が、俺が?誰かに言いたいことだって?」

 少女の言葉は理解ができないものばかりだった。

 外見は少女のままだというのに、少女の声は変声期をとうに終えた男のものに移り変わっている。ウェイドが少女に明確な警戒心を抱くようになってから、彼女の仕草も子供めいたものから成人した男のように大胆なものが見え隠れするようになった。

 そしてその少女の外見さえ、今では2重にぶれて見える。断線しかかっているテレビのようにぶつぶつと少女の姿は現れたり消えたりを繰り返し、ウェイドの目の前で点滅した。

 だがそれでも、ウェイドは少女に明確な敵意は感じず、また自分の方も敵意を抱く事が出来なかった。

 

 少女の目が悪い。綺麗な青い瞳はウェイドを真っすぐに見ていた。その瞳は胸を突くように純真だが、凄腕のエージェントのように鋭かった。その2つが何の違和感もなく2つの瞳に収まっているのは奇跡のように思えた。

 じっとその瞳に見上げられていると、不思議とその期待に応えたくなる。澄んだ瞳にはこの少女の言葉は間違っていないと思わせる力があった。ウェイドは少女が言う通りに自分が今少女へ言いたい事を考え始めていた。

 思考の海に足を踏み入れると、すぐになんだかとても大事な事を喋ろうとしていた事に気づいた。絶対に忘れてはいけないような事だ。しかし記憶が朧気だった。ウェイドは記憶を手繰るようにゆっくりと口を開いた。

 

「………MCUのPhase 4に俺ちゃんが入る予定はないってケヴィンに言われちゃった事……?」

「え?」

「いや違うな。エンドゲームが歴代最高の興行収入を叩きだした事か?20世紀フォックスは買収された挙句アバターも抜かれちまっていい面の皮だと思ったんだが、よく考えたらディズニーに吸収された訳だから別にエンドゲームにそう嫉妬する事もねえんだよな。ボヘミアン・ラプソディは大ヒットした事だし……DCEUは悲惨としか言いようが無えけど」

「ちょっと待てウェイド。何の事だ」

「ジャスティスリーグはマジで酷かった。どうして人気キャラをあれだけ出しておいてあんな事に……主にはスプスの顎のせいだろうけど。ダークフェニックスもちょっとネタに出来ねえレベルでヤバかったが、マーベルがこれからX-MENを上手く料理する可能性もあるし、ここら辺はまだ分かんねえか。それより、それより今はスパイディがMCUに復活した事の方が重要なんだよ!!!」

「ウ、ウェイド、大丈夫か?」

「俺は大丈夫だ、大丈夫じゃねえのはMCUだ。スパイディの一連の問題が一応集結したのは目出度いが、ぶっちゃけPhase 4にもう突入してんのに今更こんな問題でがやがや言ってて大丈夫なのか滅茶苦茶心配なんだよ!!Fuck you, SONY!!!もうこうなったら今こそ俺ちゃんがMCU入りしてアベンジャーズのリーダーとしてチームを牽引していくべき時だっていうのに、ゾンビランド続編ってなんだよ!ヒーローものの2作目って大体クソだっつーのにどうしてそっちに行くんだよ!ただしウィンターソルジャーとガーディアンズ・オブ・ギャラクシーVer.2とダークナイトと俺ちゃんの映画は除くな!むしろデッドプールは2作目が最高だから!勿論オリジンも最高だけど!」

「落ち着けウェイド。よく分からないが落ち着いてくれ」

「俺ちゃんは落ち着いてる。落ち着いてるが、もしこれをMCUを打ち倒す好機だと勘違いしたDCEUがジャスティス・リーグ2を出したとして、それにグリーン・ランタンが出てきたら俺ちゃんはDCEUを跡形もなく破壊する所存だ!そんなもんやる暇があったら「バットマンVSアイアンマン」とかやれって話だろ!もしくは「X-MEN VSアベンジャーズ」とかな!配給会社なんて糞くらえだ!!緑の変態コスチューム馬鹿よりもそっちの方を皆観たいよな!?俺は割とガチで観たい!!」

「ウェイド、気持ちは分かるが落ち着け。ほら隊長が困ってるぞ。あの人ヒーローものにあんま興味ない人なんだから」

 

 

 

 宥めるように肩を叩かれて前を見ると、奇妙なものを見るような、そして同時に可哀想なものを見るような目をした自分の部隊の隊長が立っていた。いつも厳格で滅多に表情を変えない男だが今は明らかに自分の部下に対して呆れの表情を露わにしていた。

 そんな隊長を他所に自分を含めた特殊部隊のメンバーの過半数は歓喜と興奮からその場で奇声を上げたり身を捩ったりしていた。

 傍から見れば筋骨隆々の特殊部隊員達が興奮しながら奇声を放つという、そこらの人間ならば恐ろしさのあまりにその場で腰を抜かしてもおかしくない光景だろう。これが普段ならばウェイドも同僚たちの奇行にドン引きしつつも携帯でこの光景を撮影していたに違いない。

 だがそうはできなかった。ウェイドも奇行に走る特殊部隊員の中の一人だったのだ。

 むしろウェイドは同僚たちの中で最も大きな奇声を上げていた。度重なる厳しい訓練により培われた巌のような筋肉は興奮のあまり硬直したようだった。

 

「うっひょうはぁああああうぁあああああ!!!!」

「きゃ、きゃ、キャプテン、キャプテン・アメリカ……マジか」

「うわぁマジか。マジかぁ。どうしよう。一旦家に帰ってトレーディングカード持って来てもいいですか?プライマリースクールの頃から集めてたレアカードがあるんです」

「俺もコミックスにサイン欲しいので、ちょっと本屋に寄ってもいいですか?コンプリート版が先月発売されたばっかりだから、是非それにサインをして欲しい」

「うぁわああぁにゅあああああ!!!!」

「………ウィルソン、その悲鳴なのか喘ぎ声なのかよく分からん奇声を止めろ。緊張感がなくなる。あとお前らも興奮する気持ちは分かるがいい加減にしろ。相手は外見はともかく実年齢は90歳越えのジジイだぞ。アニメやコミックの挿絵みたいな外見じゃないかもしれんだろうが」

「でも、そうだとしても隊長、キャプテン・アメリカですよ……キャプテン・アメリカなんですよ!?俺がレンジャーの狂った訓練に耐えられた理由の40%はハウリング・コマンドーズに憧れていたからなんですよ!?」

「俺は60%だ!配置変われ!!なんでお前がキャプテンの部屋のすぐ外に配置されてんだ!!」

「嫌だ!!絶対嫌だ!!」

 

 ぶんぶんと髪を奮いながら頭を横に振る同僚にウェイドは今ほど苛立ちを感じた事は無かった。両手で髪を引っ張ってぶんぶんと振り回そうとすると、髪に指がひっかかる前に素早く腕を取られそうになり寸前で手を引く。流石デルタフォースと言うべきか全く隙が無い。さらに同僚の瞳は絶対に譲るものかという強い意志で輝いていた。

 普段はキャプテンのファン仲間として仲良くしている同僚も今この瞬間に限っては敵だとウェイドは確信した。この上無く明確に敵だった。

 

 特殊部隊にはヒーローファンが多く在籍している。それというのも、常に緊張を強いられる任務が多いという部隊の特性上、殆どのメンバーが過剰なストレスを緩和する目的にコミックスや小説をザックの中に数冊詰め込んでいるためだった。戦場における唯一と言って良い娯楽は、生死の境目が日常的に傍にある兵士にとって聖書に等しい影響力があった。

 そして多くのヒーローの中でも元アメリカ軍兵士であったキャプテン・アメリカは、現アメリカ軍兵士においては既に信仰の域にある存在と言っても過言じゃない。

 昔からキャプテン・アメリカのファンだったウェイドの心は大人になるにつれて多少の落ち着きを見せ、子供らしいヒーローへの憧憬は鳴りを潜めたたものの、それでも一番好きなヒーローは未だにキャプテン・アメリカだ。新しいキャプテンのグッズが出れば少ない給与を削って即座に買い集め、プレミア付きのトレーディングカードは額縁に入れて部屋に飾っている。

 

 出来得ることなら今すぐ家に帰ってヒーローカードシリーズのキャプテン・アメリカのカードを取りに帰り、ついでに初任給で買ったハードカーバーのキャプテン・アメリカ小説シリーズも取って来たい所なのだが、目の前の隊長の表情を見る限りそれは難しそうだった。

 何しろ今日がその任務の当日なのだ。事前に連絡してくれていればキャップのサインを貰うために準備万端に備えられただろうに。

 そう思うもキャプテン・アメリカが北極から発掘された事自体が極秘事項であるから、寸前まで秘匿されていたのはしょうがない事なのだろう。

 

 そう、キャプテン・アメリカは生きていたのだ。

 

 70年間北極で眠り続けていた英雄は現在S.H.I.E.L.D.に身柄を預けられており、今まさに目覚めようとしていた。まるでティーン向けのコミックスのような展開だ。隊長の顔がいつもの面白みの欠片も無い真面目腐った顔でなければ季節外れのエイプリルフールだと思っていたに違いない。

 ニック・フューリーに似た厳めしい顔つきで、隊長は普段よりも浮足立っている隊員たちへ呆れながらも言葉を続けた。

 

「既にキャプテン・アメリカことスティーブ・ロジャース氏の解凍処置は終了しており、生命には特に問題が無い状態だとフューリー長官からは連絡を受けている。我々はロジャース氏と面会予定の政府要人の護衛としてS.H.I.E.L.D.の施設に向かい、何事も起こらないよう注意を払うだけの任務だ」

「我々は何からお役人を守ればいいんですかね?」

「キャプテンは70年間眠っていたんだ。生半可なジェネレーションギャップじゃない。記憶が錯乱して突発的に暴れないとも限らん」

「そのリスクがあるのにどうしてわざわざ面会なんて」

「キャプテンの名前はでかいからだろ。機嫌を取っておいて悪い事はない。それにキャップがS.H.I.E.L.D.に独占されるのが気に食わない奴らもいるだろうしな」

 

 鼻で笑ったチームメンバーのボブにそれもそうかと頷いた。キャプテン・アメリカの名前を知らないアメリカ人は居ない。彼程に国民から篤い信頼を寄せられている有名人なんてそうは居ないだろう。名前を売りたい奴らにとってキャプテンは人目を集める誘蛾灯のようなものだ。手元に置いておきたいに決まっている。

 自分だって子供の頃からキャプテン・アメリカの華々しい活躍劇に胸を躍らせ続けている一人だ。キャプテン・アメリカは憧れの粋であり、心の大きな支えだった。

 そのキャプテン・アメリカに会いに行く。そう考えただけでやばい。とてもやばい。何がやばいって、全てがやばい。

 気持ちは20年憧れたアイドルとの一日デート券を手に入れたファン。もしくは心から愛する二次元キャラクターが三次元に飛び出して目の前に現れたオタク野郎。もしくは運悪く不良に絡まれている時に、プライマリースクールの頃から大好きだった仮面ライダーがバイクに乗って現れて「大丈夫かい?」と手を差し伸べてくれた瞬間の少年。

 つまりウェイドの心拍数はとんでもなく荒れ狂っていた。自身の保身か、それとも政府の安泰のためにキャプテンに会おうとしている政治家を守る任務であるという事に苦々しい思いが無い訳でも無かったが、それでもキャプテンに会えるかもしれないという期待を殺す事はできなかった。

「まあ、そんなに危険度は高くない任務だ。とはいえ気は抜くなよ」

 あまり気の入っていない上官の命令へ、Yes, sirとウェイドを含めた皆は普段よりも力の入っている返事をして、揃ってS.H.I.E.L.D.の施設へと向かうべく足を動かした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 S.H.E.L.D.とデルタフォースの関係はそう強い訳では無い。デルタは対テロ特化部隊として設立された背景もあり、飽く迄人間を敵とした集団戦のための部隊として機能している。

 しかしS.H.I.E.L.D.は敵が人間でない場合のテロ組織を想定して設立されており、やや特殊な立場にあった。兵士よりもインテリジェンスオフィサーが活動のメインに置かれ、CIAに近い雰囲気がある。

 だからこそ戦闘面の補強をすべくキャプテン・アメリカの戦闘能力と指揮能力を欲しているのかもしれない。

 秘密主義のデルタフォースに輪をかけて秘密主義の塊であるS.H.I.E.L.D.の施設に足を踏み入れたのはこの時が始めてだった。フォートブラッグにあるデルタ訓練施設よりも清潔で広々とした建物は、軍施設というよりもどこかの大企業の本社といった雰囲気がある。

 

 その雰囲気に合わせてか、それとも政府要人とやらの要望か、ウェイドは着慣れないスーツに身を包んでインカムを耳に突っ込んでいた。通信状態は良好。1940年代のラジオの割れた音声までが詳細に聞こえる。

 キャプテン・アメリカことスティーブ・グラント・ロジャースは無事に冷凍状態から回復し、いつ目覚めてもおかしくない状態らしい。まだ北極で仮死状態のまま眠っている所を発見されてから2週間程度しか経過していないのに、超人血清とは計り知れないものだ。S.H.I.E.L.D.がキャプテンの存在について過剰なまでに情報統制を敷いているのも分かる気がした。

「そんな機密情報たっぷりのS.H.I.E.L.D.の施設にいきなりデルタフォースを伴った政府の連中が乗り込んでくるんだから、そりゃあ良い気はしねえよなぁ」

 呑気な顔で息を吐くボブに舌打ちをする。今日のバディーであるボブは陽気な性格で仕事もできる男だが、ヒーローにそれ程の思い入れは無いらしく、キャプテン・アメリカの奇跡の生還へも興味を示していない。

 こんなに近くにキャプテン・アメリカが居る状況なんてこれから先一生無いかもしれないというのに、興奮の欠片も無いボブの冷めた態度へ理不尽だと分かっていても苛立ちが湧いた。

 キャップがこんなに近くにいるのに、顔を見るどころかキャップの居る部屋から遠い廊下でまんじりと待機しているだけなんて、そんなの悔し過ぎる!!

 悔しさのままに歯軋りを鳴らしながらウェイドは言葉を漏らした。

「そりゃあS.H.I.E.L.D.は機密情報たっぷりの胡散臭い組織だろうけどよ、これはねえんじゃねえ?監視カメラは設置できねえんだからせめてもっと近くに配置させろよ!」

「そういやカメラがねえな。なんでだ」

「1940年代には監視カメラなんて無かったからだろ。余計なものを増やしてキャプテンにバレるリスクを高めるのは本末転倒だ」

「そこまで忠実に再現するこたあねえだろ。どっかに隠しておけば」

「キャプテンにバレたらどうすんだよ。「なんだいこれ?変なインテリアだね」とか言われたら反応のしようもねえだろ。「最近流行りのインテリアなの。レンズの角度がおしゃれでしょ」とでも?」

「そんなに簡単にバレやしねえだろ」

「馬鹿、相手はキャプテンだぞ。あのキャプテンだ。どっからばれてもおかしかない」

 ウェイドのキャプテンフリークっぷりを知っているボブは肩をすくめて苦笑いを零した。

「お前は本当にキャプテンが好きだよな。俺はアイアンマンの方が最先端でカッコいいと思うんだけど」

「そりゃあよかった。もしキャップが保護室をぶち破って逃げ出したら俺が行くから、お前はしっかり写真を撮ってろよ。俺とキャップのツーショットを撮るのがお前の任務だ。ついでにチャンスがあったらサインを貰いに行け。『ウェイド・ウィルソンへ』って入れてもらうのも忘れるな」

「へーへー」

 ボブの返事は気の抜けたものだった。ウェイドとボブが待機しているS.H.I.E.L.Dの施設の廊下はキャプテンが保護されている部屋からはやや遠く、エントランスにほど近い場所だった。

 

 70年間の冷凍状態から覚めたキャプテンは、常人では耐えられないだろう精神的なショックを最小限にするために、まずは無事に生きてアメリカに帰還した事実だけを伝えるらしい。それから徐々に70年間丸々眠っていた事実を教えて、現代社会に馴染むための知識を教えていくんだとか。

 その対応が正しいのかどうかは分からないが、そもそも70年間分の時間をタイムスリップした事実に変わりなく、どうせいつかキャプテンはその事実を受け止めなくてはならない。

 遅かれ早かれ訪れるその時を思うと、自分が大好きなキャプテンがどんな対応を取るのか心配であり、興味もあった。人間らしく取り乱し泣きわめくのか、それとも悠々とその事実を受け止めるのか。

 

 インカムの向こうで動きがあった。シーツが擦れる音。

 キャプテン・アメリカが体を起こしたらしかった。

『対象の意識が回復した』

 その言葉に体を少し強張らせる。緊張したわけではない。今すぐキャプテンに走り寄りたい衝動がウェイドの背中をほんの少しだけ押した。少年時代に薄暗いベッドの下へ向けていた祈りを思い出した。

 

 冷たい雨の中、木に縛られて、空腹で身もだえしていた日々。殴られた頬の痛みと吐きつけられた唾。

 ざあざあと雨が鳴る中でウェイドはいつも自分の部屋のベッドの方を向いていた。辛い時はいつもそうしていた。負けないためにだ。自分が正しいと信じ続けるために。

 そしてどんな時だってキャプテンはそこにいた。自分を助けてくれた。彼が存在していたというだけで自分は救われていた。

 

 あなたのおかげで俺は地獄のような少年時代を生き抜く事ができた。俺はあなたのようになりたくてここまでたどり着けたんだ。本当にありがとう。あなたが大好きだ。

 今生きているキャプテンにその事実を伝えたくなった。しかしぐっと歯を食いしばってその衝動に耐える。今はそんな余裕はキャプテンには無いだろう。彼自身が今は地獄のような状態にある。

 キャプテンの声がインカムの向こうから聞こえる。存外に落ち着いている声だった。対応している女性エージェントが宥めるようにキャプテンに話しかけている。

 しかしすぐにキャプテンの声に疑惑が混じった。女性エージェントの声に動揺が走る。

『対象の精神が不安定だ。エージェントを投入する』

「はあ?おい、待て」

 S.H.I.E.L.D.の武装エージェントなんて目の当たりにしたら余計にキャプテンは混乱するのでは。

 そう思った瞬間にインカムの向こうから破壊音が響いた。ウェイドは悪態をついて即座に立ち上がった。

「ウェイド、どこに」

「エントランスだ!あそこを突破されたら民間人が巻き込まれる!」

 軍靴で地面を弾くように走る。

 廊下を歩くスーツ姿の職員を押しのけるように真っすぐエントランスへと向かった。

 

 キャプテンを保護していた部屋は、彼の特殊な立場を考えこの施設の中でも奥まった場所にある。それなのにウェイドがようやくエントランスに到着した時には、インカム越しではなく、地面を抉るような音を立てながら何かが走っている音が聞こえた。

 エントランスで扉を背にするように立ったのとほぼ同時に、金髪碧眼の鍛え上げらえた肉体を持つ男がエントランスへと飛び降りてきた。

 2階から危うげなく着地した男は、この施設から脱出しようとしているのか、ウェイドの背後、ガラス越しに広がる車道へ視線を向けていた。シャツにパンツというランニング最中のようなラフな格好だというのに背筋が粟立った。頭の中で注意警報がガンガンと鳴り響いた。猛獣を前にしているような気がした。

 

 だが頭の一部では、それにしても容姿が良い男だと呑気に思っていた。

 キャプテン・アメリカのコミックで見たような現実離れした筋骨隆々とした体格では無い。筋肉が全身を覆う理想的な肉体ではあるのだろうが、デルタフォースにはこの位の肉体美を持つ男はごろごろ居る。

 ただ容姿が素晴らしく整っている。ギリシャ彫刻として美術館に並んでいても気づかないのではないかという容姿に、確かにこんな顔で「国債を買ってはくれませんか?」だなんて言われたら思わず財布を取り出してしまうだろうなと妙に納得した。いや、ティンカーベルをやってる時にはマスクを着けていただろうけど。

 しかしその容姿に感嘆する暇は無かった。

 猛牛のように突っ込んでくるキャプテンを食い止めるべく両足に力を籠め、掴みかかろうと駆け出す。

「キャプテン、落ち着いて下さい!」

 自分とキャプテンの体格はほとんど同じだ。薄いシャツをひっつかみ、そのまま相手の走る勢いのままに投げ飛ばそうと歯を食い縛る。

 

 そう、体格はほとんど同じだった。それも相手は70年の眠りから目覚めたばかりで混乱している。おまけにキャップは非武装で、こちらはスーツ姿だがその下にはしっかりとプロテクターも身に着けている。

 負ける要素は無かった。

 ウェイドが認識できたのは白いシャツを掴もうと手を伸ばした所までだった。

 上下さかさまになった視界の中でキャプテンの顔がはっきりと見えた。

 

 

 

 あ、瞳の色が俺ちゃんと一緒ですごく薄い青色だぁ。

 

 

 

 

 一度瞬きした後に全身を襲う衝撃。

 耳が地面に打ち付けられて酷い耳鳴りがした。そのままごろごろ地面を転がる。ようやく衝撃を殺した身体が動きを止めた時には痛みのあまり呼吸ができなかった。

 何が起こった。いや、分かる。技を極められた訳では無い。その必要も無かったんだろう。ただ腕力に任せて、枕投げの枕のようにぽーんと投げられただけだ。それも凄まじい力で。

 身長190cm近く、体重90kgオーバーのウェイドはキャッチされなかったベースボールのように地面をごろごろと転がったのだ。

 すぐに体を起こすも、その時にはもうキャプテンは外に駆けだしており、後姿も見えなかった。ウェイドがキャプテンに向かって駆け出してから時間にして3秒と経っていなかった。ウェイドはすぐさまに立ち上がり、キャプテンの後を追った。

 

 

 

 

 

 

 

 タイムズスクエアの中心で茫然としているキャプテンの背中には寂寥感が浮かんでいた。その傍にはフューリーも居り、そう易々と近付けるような雰囲気ではない。周りのエージェントも佇むキャプテンに声をかけることも出来ず、ただ彼が自ら動くのを待っていた。

 その雰囲気を知っていながらも、ウェイドはおずおずと近寄った。戦闘後の高揚と、キャプテン・アメリカを直に見た感動が周りの雰囲気への遠慮に勝っていた。そもそもウェイドは積極的に雰囲気を読むようなタイプでは無い。何より、キャプテン・アメリカに話しかけるチャンスをみすみす逃すなどあり得ないと思っていた。

「……キャプテン、S.H.I.E.L.D.までお送りします」

 無視されるだろうかと思ったが、茫洋とした表情ながらもキャプテンは、ああ、と言って足を動かした。だが視線は未だニューヨークの摩天楼に捧げられている。点滅する色鮮やかな電光掲示板。肌を露出した女と奇抜な髪色をした男の群れ。爆音で流れるロックとクラクションの渋滞。

 小さな個人など踏み潰してしまうような情報量に圧倒される様は、初めてニューヨークに来た観光客のようだと思った。しかし実際はもっと酷い衝撃に見舞われているに違いなかった。インターネット越しにニューヨークを見た事が無いどころか、彼の常識ではこんな光景はありえないだろうから。

 しかし流石の精神力と言うべきか、キャプテンはフューリー長官に冷徹に突きつけられた事実に錯乱する様子は無く、むしろ淡々と受け入れているようでさえあった。

「車に、」

「いや、歩いて帰りたい」

 小さく手を振ったキャプテンはそう言った時には既に足を動かしていた。幸いそう遠くまでキャプテンが逃亡した訳では無い。直ぐに戻れるだろう。

 逃亡。いや、逃亡ではない。彼は保護されていただけだ。どこに行くのも彼の自由だ。S.H.I.E.L.D.は70年間のギャップから彼を護ろうとしただけで、彼の人権を奪おうとした訳では無い。

 だがS.H.I.E.L.D.が彼を単なるスティーブ・グラント・ロジャースとして蘇らせた訳では無い事もまた確かなように思えた。彼を北極から回収して蘇らせた予算は全て善意では無いだろう。まず間違いなく、彼はヒーローとしてリクルートされるに違いない。それは彼の意思を無視した決定事項だ。

 何もかもを悟ったように歩くキャプテン・アメリカがどこまでを理解しているのか、ウェイドには計り知れなかった。

 

 歩行者の数は多いものの、キャプテンの周囲を護りながらS.H.I.E.L.D.まで歩いて帰るのはそう面倒な事でも無い。一歩一歩踏みしめるように歩くキャプテンの隣に他のエージェントを押しのけて無理やり並んだ。

 S.H.I.E.L.D.のエージェントからは鋭い視線を貰ったが、元々共同の任務の筈だ。いやこっちの名目は政府要人の護衛なのだけれど、そんな細かい事はどうでも良い。デルタのキャップファン代表としてこの場所は譲れない。

 キャプテンは空を覆う程に立ち並ぶ電光掲示板を見上げて、ぽつりと呟いた。

「……建物が高い。それにピカピカしてる」

「ええ、ニューヨークは世界で最も賑やかな街ですから」

 独り言のようなキャプテンの言葉に思わず短く返す。いつものお喋り加減のままにニューヨークの歴史やら、この70年間の世界の歴史やら、70年前はどうだったのかなどをぺらぺらと喋ってしまいそうになったがぐっと堪えた。キャプテンはまだ見知らぬ人間と情報量過多なお喋りを楽しめるような心理状況ではないだろう。

 雰囲気は読めないし、あまり読む気も無いウェイドだが、ショックを受けている人間への気遣いまでもが無い男ではない。

 それにしても、とキャプテンの端正な横顔を見る。初めて目の当たりにした時に受けた印象と同じく、鋭利に整っている顔つきではあるものの、よく見ると完成されているとは言い難い顔立ちである事に気付いた。自分と同い年か、少し年下だろうか。まだ成熟しきっていない青年のような青さがある。

 それもその筈で、ファンブックの設定を信じるならキャップはまだ20代後半の若者なのだ。70年間の冷凍期間を除けばだが。

 見ず知らずの特殊部隊員からの返事に、キャプテンは気にする様子も無く言葉を続けた。話し相手が欲しいのかもしれない。ウェイドは役得だと拳を握った。

「人も凄く多いな、表情も明るくて……アジア人も居る」

「観光地ですからね。日本人や中国人、韓国人なんかもよく来ます。今じゃアジア系アメリカ人も珍しくは無いですよ」

「……アジア人や黒人に、いじめや迫害なんかは」

「無くなったとは言えませんが、貴方が知っている程ではありません」

 少なくとも投票権は平等になったと言うと、キャプテンは少し複雑そうに眉根を下げ、すぐに「そうか」と嬉しそうに微笑んだ。

 キャプテンの感覚はまだ第二次世界大戦の最中にある。敵対国である筈の日本人や、公に差別の対象だった人種が普通にニューヨークの街を歩いている事にまず驚き、そして平和になった事を喜んだのか。

 この調子であればキャプテンが現代に馴染むのも早いのではないかと思った。少なくとも、来年から大統領が黒人になるという程度の事実はあっさりと受け入れそうな様子だった。

「でも車は浮いていないんだな。70年も経ったのに」

「は?」

「いや、こっちの話だ。何でもないよ。それにしても凄いな。僕はまだ第二次世界大戦にいる感覚だから、あんな風に、」

 そう言ってキャプテンは頭上で瞬く看板の群れを指さした。

「むやみやたらに明るいと目が潰れそうになる。戦時中は今よりもずっと……暗くて、閉鎖的だった。それにこんなにたくさん人種が混じっていて、それをみんなが平然と受け入れているなんて驚きだよ。さっきの彼は大きな組織の長官なんだろう?黒人が組織のトップというのは僕の感覚では驚きに値する事だ」

「拒否感が?」

「いや、良い事だと思う。人種や国籍はその人の価値には関わらないと僕は知っている。僕のチームには日系や黒人の仲間もいて、彼らは素晴らしい兵士だ。ただまだ常識がついて来れない」

 首を振るキャプテンは、しかし非常に冷静であるようにウェイドには思えた。

 

 突如として70年後の世界に放り込まれて、それでも彼は既にその状況を受け入れようとしているのだ。普通ならば恐慌状態に陥ってもおかしくはない。

 ヒーローの中のヒーローであるキャプテン・アメリカならばその位当然だ、と思うには、目の前の彼は自分と同世代の単なる青年にしか見えなかった。星条旗色のピチピチスーツではなく、ラフなシャツにパンツという恰好がさらにそう思わせているのかもしれない。

「常識は徐々に身についてきますよ。今は体を休めて下さい」

「……ああ、そうだね」

「貴方は十分に戦われたのですから、休息が必要です。あなたのおかげで……」

 

 あなたのおかげで俺は救われました。

 

 いきなり初対面の人間にそんな事を言われても困るだろう。そもそも意味不明だ。しかしどうしても口に出して感謝を言いたくて、言葉を詰まらせた。

 話し相手として隣を歩いていた男が突如として黙り、キャプテンはすっと顔を覗いた。ウェイドは少し眉を下げて迷子の子供のような顔をしていた。

「僕のおかげで?」

「あ、貴方のおかげで、多くのアメリカ国民の命と自由が守られました———貴方は英雄です」

「僕はただの兵士さ。ただ運が良かった」

「そんな事はありません。あなたは正義のヒーローとして知られていますし、実際そうであると俺は信じています。俺だってあなたに憧れて、その……ヒーローに、憧れたんです。子供の頃に。それで今は特殊部隊に」

 顔が赤くなるのを感じた。こんな時に白人は不便だ。感情がすぐ顔に出る。

 キャプテンはじっと自分を見るウェイドに何を思ったのか少し微笑んで、目尻に小さな皺を寄せて首を振った。悩んでいるような、迷っているような顔だった。

 ウェイドと同じような迷子の子供めいた表情だったが、しかし瞳はただ真っすぐに前を向いていた。

「僕は自分の信じる事をしただけだ。ただ、ちょっとばかり運が良かっただけなんだ。もし僕が生まれたのがドイツだったら僕はナチスへの反逆者として処刑されていただろう。日本人に生まれていたら反戦争論者として袋叩きにされていたかもしれない。僕は偶然自分の正義と国家の正義が上手く合わさったタイミングに生まれて、そして周囲の人に恵まれていただけだ。だから………もし君がヒーローになりたいなら、君が信じる事をするだけでいいんだよ」

 口端だけで笑ったキャプテンはウェイドの背中を軽く叩いた。

 そのまま、じゃあ、とだけ言ってキャプテンは到着したS.H.I.E.L.D.の施設の中に姿を消した。有無を言わさずその周囲をS.H.I.E.L.D.のエージェントが囲む。

 部外者だと言わんばかりに締め出されたウェイドは、彼の広い背中を見送りながらぽかんと口を開いた。叩かれた背中が妙に熱を持っていた。ボブが近くに寄ってくるまでウェイドはそのまま呆けていた。

 

「ウェイド、隊長から指示が来ただろ。何勝手な行動やってんだ」

「か……」

「すぐに他のチームと合流するぞ、CIAから連絡が……ウェイド?」

 

「かっけえ………」

 

 ウェイドはその場に崩れ落ちた。

 ヤバい、カッコいい。ヤバい。憧れたヒーローそのものだ。ヤバい。かっこよすぎる。ヤバい。

 そう言いながら悶えるウェイドを見下ろして、ボブは「次の任務が入ったからな」とため息混じりに伝えた。

 

 

 

 

 

■  ■  ■

 

 

 

 

 キャプテン・アメリカと直にあって言葉を交わすという、今から考えれば奇跡のような時間の後に待ち受けていた任務は酷く冷徹で陰惨で、浮足立った気分を非情な現実に戻すものだった。

 ウェイドを含むデルタフォースのチームはニューヨークからハドソン川を遡り、アパラチア山脈の一角に辿り着いていた。

 

 アメリカ東部を中心に活動しているテロ組織が子供を誘拐し、人身売買を行って活動資金を稼いでいるという情報は数か月前から掴んでいた。孤児院や母子家庭の保護施設を狙って子供を誘拐する手口は鮮やかで、何の痕跡も残さないプロのもの。既にその被害者は判明しているだけで30人以上になる。被害届が出ていない者も含めれば40人以上に上るのではないかと思われていた。

 何の手がかりも残さない所業に業を煮やしたCIAは彼らを追跡するのを諦め、次に襲われる可能性の高い孤児院をリストアップし、そこで暮らしている子供達全員の靴に小型のICチップを埋め込んでテロ組織が動くのを待つという屈辱的な策に出た。

 無垢な子供が誘拐されるのを指を咥えながら待つというのだから、プライドの高いCIAにとってここまでの屈辱は無かっただろう。

 思惑通りに誘拐された子供の靴から発せられている信号を衛星で探知し、彼らの居場所が広い山脈のど真ん中である情報を掴んだCIAはすぐさまにデルタフォースへと情報を共有した。

 直ぐに連中の手の内から子供を一人残らず助け出せ、というメッセージと共に。それがつい先日の事だった。

 

 

 ヘリを飛ばして敵に察知されては困るという理由から、ウェイド達デルタチームは人数を分散させ、一般車に乗り込んで山中を走った。途中まではそのまま車で動き、車道から車の数が少なくなれば目立たないよう徒歩の移動に切り替えた。

 ICチップが指し示す地点は山のど真ん中で、余程物好きな登山家でも無いと足を踏み入れないだろう場所だった。ただでさえ一般人であれば途中で体力が尽きるような山間に、周囲に気を張り巡らせながらの異動は少なくない体力を消費させたが、デルタフォースのメンバーの足は遅くなるという事は無かった。

 むしろ悪辣な活動を繰り返すテロ組織から子供を助けるという分かりやすい正義の行いに、重装備が普段よりも軽く感じられたくらいだ。残念ながら、こんなに容易く自分達が正義だと信じられるような任務ばかりでは無かった。

 

 ウェイドは昔から子供好きだった。幼少期に大人から虐待されたせいか、小さな子供には無条件で庇護欲が湧いた。短期間ながらマリカを育てた後はさらにその傾向が強まり、子供は何を賭しても守るべきだと思っていた。

 そんな子供を大量に誘拐し売り捌いているクズ共。そいつらはカオルとフローラ、そしてジェイソンを殺したテロリスト共の同類でもある。そいつらがこの先に居る。脳がふつふつと湧き立つような怒りに体が燃えていた。

 だが怒りに視野が狭くなるような事はなく、むしろ普段よりも冷静に周囲の状況を見るように努めた。感情に任せても碌な事にはならない事はこれまでの経験からよく知っている。

 

 子供達を乗せているだろう車の痕が近くを走っていた。木に身を隠しながら視線を先へと走らせる。

 人影も無ければ、民家の姿も見えない。ただ鬱蒼と茂る木に隠れるようにポツンと一つ建物が見えた。建物はキューブ状をしており、一切の窓が存在していなかった。何階建てなのかも外見からは判断し辛い。民家にしてはあまりにデザインがシンプル過ぎる。こんな形に住んでいるような人間は間違いなく変人だろう。

 辺りは深い枯草に覆われ、舗装もされていない一本の車道だけがその家へと続いていた。普段車を停めている事を示すように一部分だけ雑草が生えていない場所があり、そこは今住人の不在を示すように空いている。

 周囲に人影が見えない事を確認した後に、インカムから待機の指示が下った。建物の近くで枯草の上に腹ばいになり、木陰に身を伏せる。ウェイド含むチームはそのままの体勢で2時間以上待機した。

 

 焼け付くような時間だった。焦りが少しずつ心の淵に溜まるようだった。

 こうしている間にも子供達はどんな目に遭わされているのか。そう思うとすぐにでもあの建物に乗り込んで暴れまわってやりたくなる。しかし一人不用意な行動をする事は絶対に許されない。チームで動く事が何より子供達の命を守るためには最善だと分かっていた。

 まんじりともせずに、ただ指示を待つ。そうしているとようやく犯人と思われる車が近づいているという連絡が入った。

 その連絡から数十分の内に、車の走る音が聞こえた。静かな森の中ではその音はよく聞こえた。段々と近づいて来る。エンジン音から小型トラックである事はすぐに分かった。

 木々に遮られながらでも目を細めれば、道を走るトラックの姿は見える。トラックは駐車場に停まり、運転席と助手席から人が降りた。笑い混じりの雑談を交わしながら2人はトラックの後扉を開けた。男達は荷台に乗り込み、中から次々と子供達を引きずり下ろした。

『誘拐された子供を目視で確認しました』

「こちらも確認」

 年齢は5歳から10歳までの幅があるだろう子供達は、しかし揃って力なくぐったりとしている。子供達は運転手と荷台に乗っていた男、そして施設から出て来た男に引きずられるがままになっていた。何か薬物を投与されたのだろう。髪を掴まれてずるずると地面を引きずられているのに呻き声一つたてない。

 子供はそのまま建物の中に連れ込まれていった。家屋にしては無機質なキューブ型の建物は何かの実験施設のように見えた。鍵もカードキーのようで、民家にしては警備が厳重過ぎる。だが外見から見る限りでは2階建て程度の大きさで、そう大きくも無い。これまで誘拐された子供が全員ここに居るとは考え辛かった。

 ここに居ない子供は別の基地に送られたか、それとも既に売られたかだろう。

「糞野郎め」

「内部はどうなっているんだ」

『センサーには建物内部に今連れられた子供の7人、それと大人5人分の反応がある。ただし地下にも反応がある』

「地下はどうなってる」

『詳細不明。ただかなりの人数が居る事は確か。10人以上は居そうだ』

 舌打ちするも、下手に突っ込んで子供を人質に取られ、殺されでもしたら取返しが付かない。ウェイドはその場でSMGを構えたまま指示を待った。その間にも味方が施設の周囲を取り囲んでいるのが分かる。

 

 数分が数時間にも思えた。皆が焦れていた。スターク社製のセンサーでも地下の状況は分からず、この時にも子供が酷い目に遭っているかもしれない。

 世界最高峰の技術を誇るスターク・インダストリーのセンサーでも分からないのなら待ってもしょうがないのではないかという雰囲気が部隊に流れていた。今にも子供が殺されてもおかしくない状況を鑑みると、チャビン・デ・ワンタル作戦を決行するには時間が足りず、即時解決を決行する段階のように思えた。

 被っているヘルメットとマスクを木に押し当てて、SMGのグリップを握る手に力を籠める。熱い息を吐いた。

 

 ヘイ、落ち着けウェイド。焦ってもしょうがない。正しいと思う事を為すんだ。お前の神はそう言っただろう?

 天におわす神は欠片も信じちゃいない。でもヒーローは信じられる。祈るんだ。

 自分が正しい行いができますように。

 

 息を整えながら待つ。その時はすぐに訪れた。

 

『チームB、突入準備。チームA、Cは予定通りに』

「ラジャー」

 チームBのリーダーの合図に従い、ウェイドは突入準備に入った。外からでは内部構造がまるで分からない。その分状況判断が求められる。ウェイドの所属するチームBは建物内に人質と閉じこもった犯人の制圧において最も優秀なチームだった。

 恐怖の館で散々訓練した通りに木陰から素早く飛び出し、扉近くに体を貼り付けさせる。中から物音が聞こえた。監視カメラが備え付けられていたのだろう。建物目掛けて走り寄ってきたこちらにとうに気付いていてもおかしくない。

 

「Go」

 小さな合図を確認したウェイドは扉のカードリーダーに、これまたスターク社製のカードキーを差し込む。デルタ所属のハッカーは優秀だ。電子キー越しに扉は容易にハッキングされ、数秒としない内にあっさりと扉が開いた。

「サンキューアイアンマン」

 取り出したカードキーを回収して、扉を蹴破った。同時に中に催涙弾を投げる。

 小さな爆発音と共に煙が噴き出した。突入する。

 マスクも何も身に着けていなかった男達はその場に蹲っており、即座に拘束した。建物の内部は床はタイル張りで小さな家具が所々に置いており、それなりに生活感があった。ここを基地にし始めたのはそう最近の事ではなさそうだった。

 子供はぐったりとしたまま床に倒れており、他のチームメンバーが直ぐに建物の外へと連れ出した。既に医療班もバックアップとして待機している。ヘリもこちらに急行しており、迅速な治療が受けられる筈だ。

 

 床に倒れたままの男の両腕を後ろ手で縛り上げて、頭を軍靴で踏みつけた。呻き声を上げる男の頭蓋に銃口を突きつける。

「ヘイBaby, 地下はどこから行ける。さっさと言わねえとその脳みそ吹っ飛ばすぞ」

「俺は、俺は命令されてやっただけだ。子供には何にもしちゃいねえ」

「報告しておいてやる。いいから言え!」

「あそこのタイルの下だよ!」

 銃口をごりごりと眉間に押し当てると、物分かりの良い男は震える指先で部屋の隅を指さした。

 男の髪をひっつかんで引きずりながら部屋の端まで歩く。呻く男の声は無視だ。ウェイドは煙で鈍い視界の中で、他と比べて手垢の目立つタイルの一枚を見つけてコンと叩いた。軽い音だ。喚く男の耳に口を近づけ、大声で叫ぶ。

「これまで誘拐した子供もこの下か!」

「あ、ああ、それと技術者やらなんやらも下にいる。俺達のリーダーも、」

「糞野郎め!何人だ!」

「分かんねえよ、多分7人とかそこら……」

「技術者とは何だ!ここで人体実験でもやってたのか?それとも何かヤバいもんでもここで作ってたのか!?」

「知らねえって、本当に俺は雇われただけで、」

 男を放り投げて無線をONにした。情報を共有すると、すぐさまに突入指示が下った。

 ここまで地上で大騒ぎしておいて、階下で何も起こっていない訳が無い。子供の安全のためは直ぐに保護する必要があるという判断は満場一致した。

 

 他のメンバーもその場に集まり、銃を構えている中でタイルに指をかける。存外に軽い力で引っぺがされたタイルの向こうには階下に繋がる階段が灯りに照らされていた。

「Go」

 合図と共に、素早く突入する。地下は明るく、生臭い臭いがした。剥き出しの洞穴のように周囲は岩ばかりで、頭上に光る蛍光灯だけが近代的に明るかった。

 階段を降りると、大人が腕を広げた位の広さの道が30m程目の前に続いており、その先で右に折れていた。かなり広い地下迷路だ。ウェイドは他のメンバーと並び、銃口を前に付きつけながら前へと足を進めた。

 

 前に進むたびに生臭い臭いが鼻につく。サバイバルの訓練で鹿を捌いた時のような臭いだ。

 殺したばかりの鹿の肉は無臭だったが臓腑の臭いは強烈で、さらに腸を誤って傷つけてしまったために内容物が零れて酷い汚臭がした。その時に似た臭いがした。

「……臭いが酷いな。何の臭いだ」

「生臭いというか、腐った肉みたいな、」

 そこまで呟いた同僚は口を閉じた。奴らが商品である子供を誤って殺したとして、そのまま地下に放置していた可能性が脳裏を過ったのだろう。ウェイドもその想像が脳裏を過り歯を噛み締めた。その可能性については、あまり考えたくなかった。

 そのまま無言で数歩歩く。蛍光灯のあかりは瞬くことも無く先を照らした。右に折れている道の先に大きな影が見えた。

 それと同時にずる、ずる、という音が洞穴の奥から響く。足を止める。

 逃げ出した子供か、それとも反撃のために出て来たテロ共か。銃の引き金に手をかける。ずる、という音は何かを引きずっているようで、さっきの男達のように子供を引きずってこちらに向かっているのかもと思った。人質のつもりで連れて来たのかと。

 しかしウェイドのその予想は外れた。折れた道の向こうからは、どう見ても化け物としか言いようのない生物が現れた。

 

 一言で表すならば、全身が混濁した緑で覆われた液状の生命体。

 

 全身から体液を噴出しているその生物は見ているだけで嫌悪感と吐気を齎した。体長は3m近くあるだろう、それほど広いとは言えない洞穴を覆い隠す程の巨体だった。手足は2本ずつあり、顔らしいものも首の上についているのだが、幼児が作った泥人形のように造りが雑でどうにも人間には思えない。

 どう見ても人間ではなく、地球上にこれほどまでに醜悪な生物はいないように思えた。動きは鈍重だが、その生物が身じろぎする度に汚臭を纏った粘液質な液体が周囲に巻き散らかされた。

 

『————マァ、マ。マミィ』

 

 その生物には口らしきものは見当たらなかった。口も眼も鼻も無く、ただ全身に大小の穴が穿たれている。だがその音はこの生物が発している声だという事はすぐさまに分かった。虫の羽音を塗り込めたような声はこれまで聞いたことが無い程に不快な音で、鼓膜にペニスを突っ込まれてレイプされているような悍ましさに身の毛がよだった。こんな声を発せる人間が居る訳が無く、目の前の悍ましい生物が呻いている事は明らかだった。

 

 生理的な嫌悪感が限界に達したのだろう、一人が化け物に向かって発砲した。乾いた発砲音が鳴り響き、小さな煙が上がった。勝手な行動を取った隊員はその場で叱責されるべきなのだろうが、誰も声を発する事ができなかった。

 銃弾は粘液を貫通する事無く柔く受け止められていた。銃弾は跳弾する事無くその場にぽとんと落ち、痛みを感じていないらしい化け物は首を傾げながら興味深そうにつんつんと腕でつついた。

 その光景に全員が顔面を蒼白にしながら後ずさりするも、チームのリーダーは冷静さを必死に保つように声を低めて宣言した。

「………S.H.I.E.L.D.案件だ。撤退するぞ」

「しかし子供が中に、」

「想定外過ぎる。余計な刺激を加える訳にもいかな、」

 風を切る音が聞こえた。ウェイドは反射的に脇に飛びのいた。車がすぐ横を全速力で駆け抜けたような音が聞こえた。

 衝撃で体が剥き出しの岩壁に叩きつけられる。頭を庇うように覆った腕の隙間から赤く染まった地面が見えた。

「ひっ」

 腰が抜けて、その場に倒れる。喉が引き攣れて呼吸が出来ない。トラックに轢かれて粉々になってしまったかのような無数の肉片が目の前に散らばっていた。

 その中心では緑色の液体をまき散らす巨体が泥遊びするように不格好な腕を振り回し、血塗れの肉を捏ねていた。

 化け物が捏ねているのはさっきまで喋っていた仲間の肉片だった。飛び掛かってきた緑の化け物に押しつぶされてミンチになったのだ。

 

 ウェイドを襲った衝撃は、猛スピードで突っ込んで来た化け物の単なる余波でしかなかった。押しつぶされた仲間たちは痛みを感じる暇も無かっただろう。

 

 咄嗟にウェイドはその場から逃げ出した。仲間の敵討ちなどという言葉は全く浮かんでこなかった。恐怖が全ての理性を押し殺し、生存欲求だけがウェイドの中で声高に喚き散らしていた。

 階段は化け物の向こう側であったから、その反対側へ。つまりは洞穴の奥へ。装備してある無線を震える手でもぎ取るように口元まで持って行った。

「本部、本部、俺以外全員やられた。緑色のどう見ても人間じゃない化け物、S.H.I.E.L.D.案件だ!!」

『……S.H.I.E.L.D.案件了解。すぐに応援を要請する』

「到着までどれだけかかる!?」

『ヘリを飛ばして、最速で40分』

 その間にあの化け物がこちらに意識を向けたら、自分は虫のように押しつぶされて死ぬだろう。その想像はあまりに容易だった。

 しかし反撃など考えられない。どう見ても人間ではなく、いくら特殊部隊である自分でもあんな化け物は殺せない。立ち向かうよりも逃げた方が生き残れる可能性は高い。

 それに40分待たずとも、外にはデルタの味方が居る。こちらに異常事態が起こった事は既に伝えているのだから応援はすぐに来るだろうと、縋る様な思いで祈った。

 ただしSMGの銃撃を受けても何のダメージも受けていない様子だったあの化け物を、ただの人間の兵士であるデルタが何とかできるという想像が難しいのも確かだった。

 

 洞穴の奥に向かって走る。夢中で走った。呼吸の粗さも、疲労も、何も感じなかった。ただずるずるという音がまだ聞こえて来ていた。

 あの化け物がこちらに近寄ってきているのか、それともこの先から聞こえてくるのかさえ分からない。今は前に向かって走るしか無かった。走った先に同じような化け物が居る可能性なんて考えたくも無かった。

 

 走って3分も立たないうちに行き止まりに突き当たる。洞穴の行き止まりには、岩肌の露わな洞穴には不似合いな金属製の扉が待ち構えていた。先ほど見た化け物も容易にくぐれそうな大きな扉だ。

 扉の向こうには化け物が待ち構えているのではという想像が脳裏を走ったものの、走ってきた道の方からずるずるという音が近づいて来ているのが分かった。段々とその音は大きくなっている。選択の余地は無かった。

 焦りのあまり震える手で扉の横のカードリーダーにスターク社製のカードキーを差し込む。ハッキングが完了するまでの数十秒が死ぬほど長く感じられた。

 こんな洞穴の奥でもスターク社製のカードキーは問題なく衛星を介してデルタの本部と通信できるらしい。この作戦が終わったらアイアンマンのポストカードを買ってやろうとウェイドは心に決めた。

 ピッという小さな電子音と共に扉のロックが解除される。その間にもずるずるという音は大きくなり、こちらに近づいているのが分かる。

 

 躊躇いなく扉を開ける。中は広く、白い光に満ちており、狭苦しい洞穴とのギャップに一瞬目が眩んだ。病室のような白い壁のせいで余計に眩しさが眼に痛い。

 部屋の中は子供用のミニプールや、小さなブランコ、カラフルなボールの山、キャラクターもののトランプなどが乱雑に置かれていた。部屋の隅には絵本が積み重ねられていて、幾つかはページを開いたまま床に置かれている。プレスクールの遊び時間の真っ最中であるような雰囲気がした。これまでの粗雑に造られた洞穴とはあまりに違う部屋だった。しかし腐った臓腑のような生臭さはまだ部屋中から漂っていた。

 飛び込んで扉を閉めて鍵をかける。扉越しにもまだずるずるという音はまだ聞こえていた。しっかりと鍵を閉めた事を確認して、一度息を吐く。

 

 何なんだあれは。疲労ではない理由から額から汗が零れ落ちた。

 あれは、化け物だった。間違いなく化け物だ。人間の世界に居て良い存在じゃあない。精鋭揃いのデルタのメンバーが瞬きをする間もなく惨殺された。あの化け物が肉塊になった仲間たちで泥遊びをしていなければ、自分もその中の一人だっただろう。

 気分が悪かった。何かの悪い夢ではないかと思った。パニック映画のような洞穴を走り抜けた先には、子供用の玩具で溢れた白い部屋があったなどという非現実的な光景に、これは夢だという想いが強まった。

 だがそのウェイドの希望を絶つようにこつこつという足音が聞こえた。ずるずるではなく、普通に靴が床を蹴る音だった。

 疲労感のあまりその場に崩れ落ちそうになる身体を叱咤し、音の発生源である部屋の奥を見る。

 部屋の奥には、ウェイドが入ってきたのと丁度反対側に、もう一つ扉があった。蝶番の軋む音をたてて、一人の男がその扉から部屋へと入ってきた。男は山のように積み上げられている絵本を見ると「片付けもしなさいと言ってるのに、」と苦笑して広げられたままの絵本を丁寧に閉じた。

 

 男は体格の良い黒人で赤いマークのついた軍服を身に着けており、姿に似合わない柔らかな笑みを浮かべていた。軍人よりも神父か教師と言った方が説得力のあるだろう優し気な顔立ちだ。容姿は凡庸ながらも顔の中心にある2つの大きな瞳は印象的に瞬いていた。ウェイドはその男に見覚えがあった。

 デルタに入るずっと前、ウェイドはその男と、もう一人の友人と共に青春を過ごした。自分の中でも数少ない、人並みに幸福な記憶だった。心優しい敬虔なクリスチャンの友人の顔とその男の顔は完全に一致した。しかしまだ兵士として新米であった頃の記憶を思い起こすのに時間がかかり、また自分の目が信じられず、ウェイドの親友に対する反応は一瞬遅れた。

 

「久しぶりだな、ウェイド」

「…………ジェイソン?」

「そうだ。覚えていたか」

 

 良かった、と呟いた男は、ウェイドの目の前で爆殺された筈の親友の姿をしていた。

 ウェイドは首を振るいながら、嘘だろうと口にした。似ている他人であるという方がよっぽど可能性が高い。

 しかし男はウェイドが何を思っているのか分かっていると言わんばかりに「俺はジェイソン・マクスウェルだよ。お前がAIT時代に同僚の浮気をバラして訓練でタコ殴りにされた事も覚えてる」と告げた。それは確かに懐かしい記憶だった。

 しかしそれでも信じ難い。

「……お前は死んだ筈だ。もう、もう7年も前に」

「そんなになるか。お前も老ける筈だ」

「まだ俺はギリ20代だ。それにお前もおんなじくらいに老けてるじゃねえか」

「ああ、生きてたからな。ヒドラのおかげで」

 飄々と口にしたジェイソンは、何か飲むか、コーヒーしか無いが、と何ともなさげに言い放った。

 ウェイドはその言葉に応える余裕は無かった。ヒドラ。キャプテン・アメリカが殲滅したというドイツのテロ組織。

「ヒドラ……お前を助けたのがヒドラだって?」

「そうだ。アメリカ政府と言い換えてもいい。こら、止めなさいトーマス!」

 ジェイソンがそう言うと、扉の向こうから聞こえていた化け物のずるずるという音が止んだ。

「今は大人同士で話をしているんだ。遊んで貰うのは後にしなさい!」

「……遊ぶ?」

「そうだよ。トーマスはやんちゃで人懐っこくてね。初めて会う大人を見ると自分と遊んでもらいたくて、つい飛び掛かってしまうんだ」

 可愛いよね、と言ってジェイソンは笑った。趣味の悪い冗談を言っているような顔ではなかった。

 その顔に、トーマスという可愛い少年が自分の後ろにいるのかとウェイドは後ろを振り返ったが、目に見えるのは金属製の扉だけだった。あの扉の向こうには悍ましい化け物が居る。だとすればジェイソンがトーマスと呼んだ存在が何なのかは自明だった。

「トーマス?あの緑の化け物が?」

「化け物じゃない。子供さ。まだ彼は8歳の少年なんだ」

「化け物だろうがどう見ても。俺の仲間を虫みたいに潰して、」

「あの子は殺すつもりなんてなかったんだ。不幸な事故だ」

 何を言っているのかと思うが、彼はこちらを真っすぐに見ていた。そして扉の向こうに労わるような視線を向けていた。その視線には全く冗談めいた色は見当たらなかった。下手な冗談であって欲しいと願ったが、ジェイソンは本当に、あの緑色の悍ましい化け物が8歳の人懐っこい少年だと信じているようだった。

 

 とても正気とは思えない。この7年間でジェイソンに何があったのか知らないが、とんでもなく酷い目に遭ったのだろう。化け物を子供だと誤認してしまう程に。

 

「———おい、おい冗談は止めろよジェイソン。不幸な事故でデルタチームを轢き殺すおこちゃまが居る訳ねえだろうが。目を覚まして正気に戻れ」

「俺は正気さ。あの子はいきなりお前たちに銃で撃たれて、そしてお前達にじゃれついた。それだけだ。死んでしまったのは不幸かもしれないが、そもそもいきなり銃で撃ってきたのはそちら側だ」

「どっちが悪いとか、そういう段階の話じゃねえだろ……」

 ジェイソンはおかしくなってしまっているとウェイドは確信した。

 じゃれついただけでついアメリカが誇るデルタチームを殺してしまうような化け物を擁護するなんて、理解不能だ。まだ神とやらの為に戦争を起こす宗教狂いの馬鹿共の方が理屈に則っているような気さえする。少なくともそいつらは、神をあんな化け物だとは思っていないだろう。

 親友を、それも兵士として未熟だった自分のせいで死んだと思っていた親友が完全に狂っているのを見て、既に限界まで疲弊していたウェイドの精神は悲鳴を上げていた。

 親友が生きている事を喜んで、仲間が死んでしまったことを悲しんで、こんな場所からジェイソンを引き剥がして一緒に帰ってしまいたい。この願いを叶えてくれれば敬虔なクリスチャンにでもブッディストにでもなんにでもなろう。

 

 震える息を殺して、ウェイドはジェイソンに向き直った。どうか自分の言葉がジェイソンに通じるよう心から神に祈った。

「ジェイソン、何があったのか俺は知らない。でもお前が凄く辛い目に遭った事は分かる。だからどうか、お前が知っている事を全てS.H.I.E.L.D.に話してくれ。お前はヒドラなんかの仲間になるような奴じゃなかっただろう。正直に全部話せばきっと、」

「S.H.I.E.L.D.……?ははっ、S.H.I.E.L.D.か。まあ、別にそうしても構わないんだけどね。でもできれば面倒事は避けたい。俺は子供達が君たちの手によって傷つけられる所は見たくないんだ」

 おいでトーマス、とジェイソンが優しく呼ぶと、ウェイドの背後で扉が軋み、玩具のように捻じ曲がった。

 蝶番を引き千切り、緑色の化け物はゆっくりと部屋に入って来る。咄嗟に部屋の隅に逃げるが、化け物はウェイドに視線を向ける事無くジェイソンの元へと近寄った。ジェイソンの身体に粘液を纏わりつかせながら擦り寄る姿に、親に呼ばれた子供のような仕草だと、ウェイドはどこか麻痺しかけている頭の隅で思った。

「待て、ジェイソン」

「トーマスは義理の父親から日常的に過剰な折檻を受けていたんだ。ヒドラが保護した時には両腕が壊死していて、敗血症で1カ月も生死の境を彷徨っていた。でも今はこうして元気に動けている。他にも、他にも沢山の子供達が居るんだよ。マリアは伯父に6歳から9歳までずっとレイプされ続けていて、言葉を一つも喋れなかった。ジーナの母親は彼女がお腹にいる時からドラッグをやっていて、生まれた時から両手両足に奇形があった。ディックは金に困った父親に命じられて、スナッフフィルムに出演させられる寸前にヒドラによって保護されたんだ。ウェイド、君はまだ神を信じていないのかい?」

「ジェイソン、俺の話を聞け!」

「ウェイド、神はいるよ。天上から俺達を見下ろして下さっている。誰もが大事な使命を神様から貰って生まれて来たんだ。俺はようやくその使命に辿り着いたんだ」

 緑色の化け物、トーマスはジェイソンと共に歩を進めた。ウェイドに背を向けて、ジェイソンは部屋の奥へと戻っていく。

 奥に続く扉は自然と開いた。ウェイドはその扉の向こうに無数の緑色の塊が蠢いているのを見た。

 優しいジェイソンの声が、待たせてごめんねマリア、はしゃいじゃ駄目だよジーナ、こらディック、玩具はちゃんと片付けなさい、と言っているのがどこか遠くの世界から響いているように聞こえた。

 トーマスとジェイソンが呼んでいたのと同じような化け物が扉の向こうにひしめいていた。体の表面を緑の粘液で波打たせながら、その緑色の群れはジェイソンを歓迎するように棒のような腕を振り回してはしゃいでいた。

 

「俺はまだ神を信じている。俺の使命は、この子たちを救う事なんだ。その為なら俺はなんだってやる」

 

 最期に一度振り返ったジェイソンの瞳は、やはり優し気な色をしていた。ジェイソンは緑の化け物に埋もれるように扉の向こうに姿を消した。

 

 途端に部屋には静けさが満ちた。白く簡素な部屋には子供の玩具とウェイドしか残っていなかった。ジェイソンが生きて目の前にいた事と、非現実的な緑色の化け物が目の前を横切った事を示す証拠は、床を汚す緑色の粘液しか無かった。

 数分か、十分か、ウェイドはその場から動けなかった。視線は扉に釘付けになり、呼吸は酷く荒く、全身が冷汗で濡れていた。扉からはがたがたと音が鳴り、きっとこの場から逃走を図っているのだろうと察せられた。

 これだけ広い地下を用意しているのだから、脱出経路ぐらいは確保しているに違いない。だがそうと知っていても、ウェイドは扉を開ける事は出来なかった。まだ奴らが居るかもしれない場所に近づくのは、あまりに恐ろしかった。特殊部隊員として有り得ない事だが、ウェイドは彼らがさっさとこの場所から逃げ出してくれることを祈っていた。

 ようやく物音が止み、身じろぎが出来る程度に精神が回復したウェイドは、部屋の奥に続く扉に手をかけた。

 扉の隙間から緑色が見えない事を確認して、ゆっくりと開ける。

 

 うぅ、と唸るような音が聞こえてきた。それに酷く生臭く、洞穴や先ほどまでいた部屋とは比べ物にならない異臭がする。鼻が曲がりそうな悪臭はそこら中に腐った生ごみをまき散らしたよりも遙かに酷いと断言できるものだった。戦場で散々に悪臭に慣れていなければ、今この場に胃の内容物を全て吐き出していただろう。

 部屋は薄暗く、視界は殆ど何も移さない。

 手探りで部屋の明かりをつける。

 いっきに開けた視界には、実験室のような造りをしている部屋が広がった。机が整然と並べられ、ビーカーやら書類やらがその上にぶちまけられている。

 部屋の隅には手術の時に患者が乗せられるような狭いベッドが並んでいた。そこには手足を拘束された子供達が、人形のように縛り付けられていた。素っ裸の子供達は身じろぎもしておらず、余計に人形めいた印象を与えた。ただ口から洩れる呻き声だけが彼らが生き物であることを証明していた。

 

「……マリカ?」

 

 部屋の隅のベッドの上に、猫のような瞳をしたブリュネットの髪の少女が拘束されていた。見覚えのある顔だった。カオルの面影が強く、しかし強気そうな鼻はフローラに似ていた。

 あれから7年も経つ。見間違えであって欲しいと願いながら駆け寄り、細い肩を揺さぶった。

「おいおいおい、マジかよ、なあ、目を開けてくれよ。よく似た別人だと言ってくれよ」

 揺さぶっていると、少女は薄く目を開けた。少女はウェイドを見て、じーにー、と呟いて、笑った。

 

 

 

 

 

 

 

 


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