ジーニーの祈り   作:XP-79

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5. 狂へる悪魔

 ボブは同じチームで戦う仲間だった。それなりに付き合いは長く、何度も一緒に酒を飲みに行ったし、戦場では一緒に死線を何度も潜り抜けた。

 陽気でパーソナルスペースの狭いウェイドには仲の良い友人が多く居たが、ボブはその中でも一緒に行動する事が多かった。よく馬鹿をやるウェイドのストッパー係と周囲には認識されていた様だが、実際にはウェイドに便乗して馬鹿をする事の方が多かった。

 だから自分の決断にこうまで反対するボブを見るのはウェイドにとって初めての事だった。ボブは車を走らせながら、助手席に座り鼻歌を歌うウェイドに何度目かの説得を試みていた。

 

「おい、何度も聞くけどマジなのかよウェイド。はっきり言ってどうかしてるぜ。てめえが銃を手放して、ガキとお手々繋いで学校行ってる姿なんて俺には想像できねえよ」

「俺はいつだって本気だ。先輩達のお楽しみに突っ込んで行ってお邪魔虫になった時だって本気だっただろう?」

「ああ……ありゃあイカれた行動だった。ケツを蹴っ飛ばされて素っ裸で逃げ惑うあいつらの姿は最高に笑えたし、強姦されかかってた後輩を助けたあんたをちょっと尊敬したりもしたさ。だからそんなあんたが血も繋がってないガキの世話に掛かり切りになるなんて想像したくもねえんだよ。そもそも、」

「ところでボブ、9歳の可愛い女の子が好きな物って何か知ってるか?取り合えずジーニーの人形を買ってみたんだけど、やっぱテディベアとかの方が良かったかな。それともバービー人形?」

「………あんたが子供好きっていうのはよく分かった。でもいくら何でもただの友達の子供を、それも誘拐されて虐待を受けた子供を引き取って育てるなんて無茶だ。そんなの国が許す訳ねえだろ。お前はあの子の家族でもないし、カウンセラーでもない。結婚してるんだったらまだちょっとは可能性があったかもしれねえけど、結婚どころかお前は月単位で女をとっかえひっかえする独身の無神論者で、ついでにお前自身が実家と絶縁してる天涯孤独の特殊部隊員の現役兵士ときたもんだ。駄目な要素しかない」

「軍人は辞める」

 腕に抱えているジーニーを模した人形を撫でた。

 ボブはウェイドがそうやって何かを愛おしそうに撫でている仕草を始めて見た。ウェイドはすっきりとした表情で唇を持ち上げていた。

「退役する」

「………そうか」

 ボブは病院の前で車を停めた。何を言ってもウェイドが足を止める事は無いとその表情だけで確信できた。これ以上何を言っても全てが無駄だろう。

 人形を抱えて車を降りるウェイドに軽く手を振る。

「人を殺すよりも子供を育てる方があんたに向いてるとは思えんが、まあ、好きにするといいさ。あんたの人生だ、ウェイド・ウィルソン軍曹」

「正当な評価あんがとよ」

 大柄な男の腕にもあまるサイズの人形を抱えたウェイドに苦笑いを零し、ボブはその場を後にした。

 

 

 

 病院の一室でマリカは滾々と眠っていた。これまで何回か見舞いに来たが、マリカは周囲からの刺激に何の反応も示さずにただ目を瞑っていた。眠っているのか、それとも植物状態になっていてこのまま死ぬまで目覚めないのかすら外部から推し量ることは出来ない。

 9歳というにはあまりに小さな身体は病院のベッドの中で埋もれていた。腕には点滴が繋がれている。病室に置かれているチェストにはこれまでウェイドが持って来た人形や花が所狭しと置かれていた。

 その中にはフローラが生前出した唯一のCDアルバムもある。カオルと出会った頃は陰惨で悲痛な歌ばかりを歌っていたフローラだが、カオルと結婚し、マリカを産んだ頃には明るく爽やかな歌や、有名な曲のカバーも歌うようになっていた。

 

 ウェイドは個室であることを良い事に、持ち込んだコンポにCDを差し込んで曲を流した。鮮やかで満ち足りた笑顔を浮かべるフローラが映るCDジャケットが良く見えるよう、CDケースはコンポに立てかけた。

 フローラが歌う“Whole New World”がひそやかに部屋に流れる。2歳の頃マリカはこの曲が好で、子守歌代わりにフローラはよくこの曲を歌っていた。ジーニーが好きなのだからマリカは勿論“Friend like me”も大好きだったのだが、カオルは音感を母親の胎内に置き忘れてしまったような音痴で、子守歌を歌う役目はいつもフローラに譲っていた。

A whole new world. A new fantastic point of view.

No one to tell us no pr where to go. Or say we're only dreaming.

 ハスキーで豊かな声がゆっくりと病室に広がると、ウェイドはあの頃の幸福な日々を容易に思い出すことができた。幸せそうなフローラとカオル、そしてその2人に育てられ、幸福な子供になる筈だったマリカ。

 

 日向の中ではしゃぎ疲れるまで走り回るマリカが転げやしないかと、カオルが心配しながら見守っている。ジェイソンは転げたマリカに一番に駆け寄った。その手をすり抜けて自力で起き上り、そしてまた笑って走るマリカに、ウェイドは「こんなに根性があるなんて将来は大物になるに違いない!」と大げさに褒めてフローラに笑われた。

 あんなに派手に転げても起き上るなんてマリカは凄い奴だ。きっと将来はアメリカ代表のアスリートになるぞ。あんなに可愛いのにあんなに根性がある子供なんていやしない。

 ウェイドは何度もそう言った。そして実際にそうだと確信していた。カオルとフローラの性根を受け継いでいる子供なのだから、きっとそうだ。

 きっと誰もが好きになる、素敵な女性へ成長するに違いない。アスリートでも、歌手でも、主婦でも、何でもいいんだ。たとえ何でも、マリカは世界中から愛情を受けるに相応しい人になる。

 

 そうだ。そんな日々だった。一日だってウェイドはそんな日々を忘れた事は無かった。ただ全てが霧の向こうに閉ざされてしまったようで、今自分がいる居場所とは明確に区切りがついた過去のように思えてならなかった。

 

 マリカがあの施設で何をされていたのかは分からない。

 施設にあった書類や実験器具は全てS.H.I.E.L.D.により回収され、情報がデルタフォースに回ってくる事は無かった。ウェイドが盗み見た書類には『Weapon VIII』と書いてあったような気がするが、その意味もよく分からなかった。レベル6以上の機密情報であるらしく、ウェイドが持つセキュリティクラスでは情報閲覧が許可されなかった。

 

 ただマリカがどうしてあの施設にいたのかは分かった。フローラの親戚であり、マリカの養父であった男に問い質しに行ったところ、彼は既に妻と離婚していた。ウェイドが軍人であることを知っていた彼は、ほんの少し尋問しただけで彼の所業をぺらぺらと吐いた。彼は事業で失敗してかさんだ借金の返済としてマリカを違法組織に売っていたのだ。

 頭に上った血のままに、ウェイドは男を何度も殴りつけた。フローラと、そしてマリカにも少し似ている顔つきが全くの他人にしか見えなくなるよう徹底的に潰して、そしてマリカを撫でた事もあるだろう手の骨は一本一本丁寧に折った。

 心行くまで男の骨が折れる感触を堪能した後、少しだけ冷静さを取り戻し、尋問の途中で剥げてしまった爪を拾って男の口の中に返してやりながら、至って紳士的な口調で二度とマリカに会わない事、連絡を取ろうとしない事を約束してくれるよう頼んだ。

 頼み事の内容がよく分かる様に、男の耳元で軍隊仕込みの大声で約束を言い聞かせた後にバスタブに張った水の中に男の頭を沈め、窒息する寸前に引きずり上げて一言一句間違いなく繰り返せさせた。

 口から血塗れの爪と大量の水を吐き出しながら、男は快く了承してくれた。

 

 

 もう二度とマリカをあんな場所には戻さない。優しいフローラの歌声に包まれながらウェイドは歯ぎしりを零す。

 人身売買に手を染めた男の所へ、虐待児であるマリカが戻る事は絶対にありえない。そんな事を児童保護団体が許す訳が無い。しかし男の他にマリカには親族らしい親族はいなかった。ならば順当に考えればマリカは孤児院に行くか、里子に出される事になるだろう。

 だがウェイドは見ず知らずの他人の手にマリカを託すつもりは無かった。

 優しく裕福な夫婦を探して里子に出すのが最もマリカの幸福を考えた行動には違いない。しかしウェイドはマリカの名付け親としての権利を主張しようと心に決めていた。

 この選択が本当にマリカにとって一番の幸せになるのかは分からない。ボブの言う通り、軍人としての生活しか知らない自分ではマリカを育てるのに相応しい人間とは言えないだろう。胸を張って「幸せにする」と言えない時点で、自分にはマリカを育てる資格は無いかもしれない。

 だが愛する人を手放していずれ後悔するのは、フローラと、2歳のマリカの2回だけで十分だった。

 

「マリカ、いい天気だ。ほら今日はジーニーを持って来たんだ。好きだっただろう?Whole New Worldもよく聞いてたもんな。でも今はアラジンよりもチキン・リトルとかニモとかの方が好きかな。俺ちゃんそういうのに疎くってさぁ」

 ジーニーの人形をマリカの目の前で振る。マリカは滾々と眠っていた。ウェイドは小さな頭を撫でて額にキスをした。

「眠り過ぎるのも成長には良くねえぞ。まあ人生たまには寝すぎるのもいいけどな。キャプテンだって70年間寝っぱなしだったのに、ついこの前エイリアンとニューヨークでドンパチやって勝っちまったしな。でもキャップは眠りにつく前から十分すぎるくらいに成長してた。マリカはまだまだ成長期だろ?」

 ジーニーの人形をチェストの上に置く。これまでプレゼントした色とりどりの人形の間に挟まって、ジーニーの人形は何の悩みもなさそうに口を開けて笑っていた。

「9歳っつったらまだまだおチビちゃんだ。俺が9歳の時は……まあ俺の話は良い。外で遊びたい盛りだろう?俺でさえ仕事の合間に外で遊ぶ機会はあったもんだ。小説を読む事もできた。ヒーローに憧れる事だって……それなのに、俺ちゃんなんかよりずっと良い子のマリカがこんな所に閉じ込められてるなんてあっちゃいけねえ事だ」

 マリカの顔色は酷く白かった。フローラに似て元々白い肌をしていたが、今は心配になるような青白い肌をしている。医者が言うには内臓を弄られていて何かの薬物投与も受けていたらしい。血液検査やCT検査ではまだはっきりとは分からないが、何らかの後遺症がある可能性が高いそうだ。

 もしかするとこのまま二度と目覚めないかもしれない。拳を握り締める。自分のせいだ。

 自分がマリカの手を離したのがいけなかったんだ。名付け親のくせに。カオルと約束したくせに。

 マリカのジーニーのくせに。

「………マリカ、信じられるか?俺ちゃん本物のキャップに会ったんだぜ。リアルのキャップはコミックみたいな筋骨隆々のマッチョマンじゃなくて、GUCCIのCMにでも出てそうなおっぱいのデカいイケメンだったよ。でもマリカはアイアンマンの方が好きかな。それともハルク?アベンジャーズがボランティアで病院に来てくれたりしねえかなぁ」

 マリカの手を握った。小さな手だ。成長期に差し掛かっているという年齢を考慮してもあまりに小さいように思えた。その小ささに目が熱くなった。

「————大丈夫だ。マリカが会いたいヒーローが居たら俺ちゃんが呼んでやる。行きたい場所があったら、どこでも連れて行ってやる。俺ちゃんはマリカのママにはなれねえし、パパにもなれないかもしれないけど、今度こそジーニーみたいな友達にはなれるよう、頑張るよ」

 

 どんな後遺症があっても、もう目を覚まさなくても、マリカはずっと自分が面倒を見よう。その覚悟はあった。

 しかしただベッドの上で眠ったまま年を取るマリカを見続けるという想像は全く愉快ではなかった。

 

 ウェイドは深く息を吐いた。これまで幾つも間違いを犯した。

 フローラと別れてそのまま見送った事。カオルを助けられなかったこと。ジェイソンを置いて帰った事。マリカを手放した事。

 間違いばかりだ。もう二度と間違いは犯せない。そしてこれまでの間違いを償うためにも、マリカを手放す訳にはいかなかった。何があっても。

 

 握った手がぴくりと動いた。その僅かな動きに息が止まる。

 見間違えじゃないか、と一瞬思うも、ウェイドの手を握り返すように小さな指がはっきりと動いた。胸の奥で心臓が狂ったように拍動を打ち鳴らした。

「マリカ?」

 肩を小さく揺らす。もう一度名前を呼ぶと、瞳がうっすらと開いて天井を見上げた。合わない焦点で眠たげに瞬きを繰り返していたマリカだが、暫くすると自分の手を握るウェイドの方へと視線を向けた。フローラとカオルを足して2で割ったような容貌に胸が潰れそうになった。

「マリカ」

「……あ、あたし、」

 ウェイドの記憶にある2歳のマリカよりずっと明瞭な口調でマリカは喋った。ウェイドを見上げるマリカの瞳は夢心地だったが、暫くすると焦点が合ってきた。光を取り戻した瞳はあきらかに意識を取り戻した人間のものだった。

 

 ああ、神よ。感謝します。

 生まれて初めてウェイドは心からそう思った。

 

 深い眠気を追いやり、覚醒したマリカは9歳にしてはどこか大人びた顔をしていた。ウェイドの姿を見て口の端を持ち上げ大きな瞳でゆっくりと瞬き、何かを訴えたそうに息を荒く吐いている。今にも呼吸が止まりそうな荒い息遣いにウェイドはすぐさま立ち上がった。

「ま、待ってろマリカ。先生を連れて来るから!」

「い、じぃ、にげ、」

「直ぐに戻るから待ってろ、な?」

 そう言い残して、ウェイドは耐え切れない笑みを零しながらナースステーションへと走った。

 マリカが眼を覚ました。その事実だけで涙が零れそうだった。

 

 廊下を走る足音も荒く、ウェイドはナースステーションで大声で叫んだ。詰めていた看護士やら医者やらが一斉にこっちを見たが、全く気にもならない。

「ドクター、ドクター!誰か、おい、誰かマリカを見てくれ!目を覚ましたんだ!!」

 そう叫ぶと、「落ち着いて、直ぐに行きますから」と一人の医者がウェイドの元へと駆け寄った。マリカの主治医であり、この病院にマリカが搬送されてからずっと診ていた医師だった。

 医師は驚いた顔をしながらも冷静だったが、逆に歓喜と興奮で満ち満ちているウェイドは何から伝えてよいのか分からず口の中で舌を転げ回していた。

「ああ、先生、マリカが眼を覚ましたんだ!喋ったんだ!俺をジーニーって呼んだ!ああ、でも先生、呼吸が荒くて、喋りはしたんだけど後遺症とかあるかもしれねえし、本当に大丈夫なのかどうか分かんねえから」

「直ぐに診察しますから落ち着いて下さい。周囲が慌てていると患者も焦りますからね」

 そう言われてウェイドは荒れ狂う心臓を必死に宥め、廊下を歩く医師の背中に「お願いします先生」と言ってその後をついて行った。

 ナースステーションからは「あの子、目を覚ましたのか」「良かったな」なんて声が聞こえてくる。本当に良かった。込み上がってくる涙が眼の縁に溢れそうだった。

 

 

 

 

 しかしマリカの病室に戻る廊下の丁度半ばまで歩いた所で2人は急いて動かしていた足を止めた。

 その先へと向かう意思を萎えさせる程の異臭がマリカの病室から漂っていた。それはこれまで嗅いだどんな臭いよりも神経に触る、腐った内臓をかき混ぜたような臭いだった。強制的に吐気を催させるような臭気は凶悪な意志を持っているかのようだった。

 医者は異臭に怪訝な顔をして顔を顰めたが、ウェイドは顔を青白く変えた。

 あの洞穴で嗅いだ臭いと同じ臭いだった。

「嘘だろう?」

 ようやくマリカが眼を覚ましたのに、あの化け物がやってきたのか。

 最悪だ。ファック。糞ったれなバケモノめ。狂ったジェイソンの取り巻きめ。ふざけやがって。

 しかしどこから。どうやって。疑問が湧くも、それは今はどうでも良い事だった。ただあの化け物がこの病院に、マリカが居る病室の近くに居るという事が何より重要だった。

 胃の底から炎が燃え上がるようだった。腰のホルスターから銃を抜き出す。視線を周囲に飛ばし、緑色が視界の端にでも映っていないか神経を尖らせた。強い臭いがする。かなり近い。

 医者は悍ましい異臭にたじろぎ、怯えるように周囲を見回していた。「あんたは戻っていろ」とウェイドは告げ、医者をその場に置いて先へと進む。

「これは何の臭いだ?あの病室から……君は何か知っているのか?」

「ドクター、直ぐにS.H.I.E.L.D.に連絡を。緑の化け物が居ると伝えてくれ」

 

 マリカ、マリカ、マリカ。

 

 今はただ、マリカの無事しか頭に無かった。混乱しながらも逃げる医者を確認し、走ってマリカの病室へと戻る。

 病室の扉を開くと一段と酷い異臭が鼻孔を襲った。空気まで淀んで見える程の異臭は涙が出そうな程だった。

 だがそれよりも悍ましい光景が病室に広がっていた。

 

 汚臭を纏った緑色の粘液の巨体が、マリカが寝ていたベッドの上に横たわっていた。清潔なシーツは緑色の粘液で汚れてしまっている。チェストに置いてあった花束も人形も、笑っているフローラが映るCDジャケットも緑の粘液を被っていた。

 部屋には変わらずゆったりとしたフローラの歌声がWhole New Worldを紡いている。場違いな優しい歌は一層目の前の光景を悲惨なものにしていた。マリカは巨大な粘液の塊に圧し掛かられているか、その姿は見えなかった。

 

 頭が一気に沸騰した。口から血を吐きそうだった。判断は一瞬だった。ウェイドは吼えた。

「マリカに何してやがる!」

 拳銃を、粘液を纏った巨大な化け物に向けて放つ。標準を定める必要は無かった。あまりに巨大な身体は天井まで届き、身をかがめなければならない程だった。

 だがその身体に当たった銃弾は柔らかな粘液に跳ね返されてその場に落ちる。舌打ちして、ナイフを持つ。あの洞穴で感じたような恐怖は無かった。それよりも巨大な怒りがウェイドを支配していた。

 

 緑の化け物に飛び掛かり、ベッドから引き剥がそうとする。重く巨大な肢体は微塵も動かなかった。

 この巨大な身体に圧し掛かられているとなれば、マリカは呼吸もできていないのではないか。そう思うと血の気が引いた。

「この野郎、この化け物め!」

 振り上げたナイフを化け物の背中に突き刺した。手の感覚で化け物が震えたのが分かった。

 突き刺した傷から、この化け物の血液なのか、緑色の液体が零れ落ちる。痛みに悶えるように化け物は手足をばたつかせて暴れた。

 拳銃は効かないが、ナイフは効くようだ。そう察したウェイドの判断は迅速だった。

 振り落とされないよう身体に縋りついてナイフを引きぬき、再度振り下ろす。泥人形のような身体の、心臓があるだろう場所に突き刺し、引き抜くと大量の液体が零れ落ちて鼻を突いた。

 動きが鈍くなった瞬間を見て、胴体をベッドの上から引きずり下ろす。粘液で汚れた床に倒れた化け物に馬乗りになり、ウェイドはその頭へナイフを突き立てた。

 卵の殻を突き破るような感触がした。ナイフを引き抜き、また突き立てる。どろりとした粘度の高い液体が零れる。また引き抜き、突き立てる。

「死ね、化け物、死ね!」

 また引き抜き、突き立てる。引き抜き、突き立てる。

 フローラの優しい歌声と、化け物が噴き出す粘液が床に撒き散らされる音が混じって鼓膜に突き刺さる。

 引き抜き、突き立てる。

 零れ落ちる粘液は徐々に少なくなっていった。見上げるような巨体も小さくなっていく。吐き出した粘液の中からごぷりと空気が吐き出された。

 突き立てたナイフから手を離し、首を絞めるように手をかける。細い首だった。そのまま力任せに引きずり起こすと粘液が繭のようにその身体から離れて行った。

 身体から粘液をぽたぽたと落としながら、噴出した粘液の分だけ小さくなった体はウェイドの為すがままに宙に手足を浮かしていた。ウェイドは全身をナイフで斬りつけられ、顔を滅多刺しにされ、首を絞められて紫色に変色した、子供の顔を見た。

 

 頬の肉はこそげて顎の骨までが露出している。柔い頭蓋骨は切り刻まれ、ずたずたになった脳までがはっきりと見えた。口の中からは切り刻まれた口腔粘膜からナイフで切断された頸椎の端が覘いている。眼球は両方とも潰れ、眼窩からどろりと零れ落ちてしまっていた。中身が零れた眼球は薄い皮となり、ぺしゃりとウェイドの足元に落ちた。

 2つに裂かれた瞳孔はキャラメル色をしていた。

 それはマリカだった。

 

 

 

 A hundred thousand things to see. I'm like a shooting star.

 I've come so far. I can't go back.

 To where I used to be.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その後の事は、あまり記憶に残っていない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■  ■  ■

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 上官の執務室の扉を蹴破って開けたのは始めてだった。何の抵抗も無く古めかしい両開きの扉は騒音を立てて吹き飛んだ。

 秘書らしい男はアポイントメントも無しに上官の突如乱入したウェイドに驚いて腰を上げたが、部屋の主であるガルシア教官……ガルシア大尉は平然とした表情のままウェイドを迎え入れた。広いデスクに深々と腰かけて湯気の立つコーヒーを舐めている。

 ガルシアはウェイドの教官であった頃よりも少し額に皺を増やし、髪には白いものが混じっていた。だが他は時を止めているように変わっていない。軍服をきっちりと着込み、どこか上品な雰囲気を纏っている。

 荒々しい怒気を纏わせている乱入者を体を張ってでも止めるべきかと秘書が逡巡している間に、ウェイドは軍靴を盛大に鳴らしながらガルシアの目の前まで迫る。憤怒と虚無が半分ずつ入り混じったの表情を浮かべるウェイドを見て、ガルシアは僅かに口角を上げたように見えた。

 

 歯を食いしばり、荒い息を吐いて出来る限りの冷静さを保とうと努力した。それは人生で最も無駄な努力だったかもしれない。口から出た声は噴火寸前の活火山のように震えていた。

「なんで調査を止めるんですか、大尉」

 怒気を堪えるために全身を細かく震わせているウェイドに対してガルシアは至って平静だった。コーヒーカップを置いて真っすぐにウェイドを見る。

「それがS.H.I.E.L.D.の決定だからだ。あの組織は一種の治外法権だ。我々には関与する権利はない」

「子供を緑色の巨大な化け物に変える組織を放置するのがS.H.I.E.L.D.の判断だというなら、S.H.I.E.L.D.は単なる税金食らいの屑の溜まり場です。即刻解体するべきだ。役に立たない馬鹿共を血税で肥え太らせる余裕は我が母国には存在しないのでは?」

「落ち着けウェイド。あそこは我々には対処できない問題を一手に引き受けているんだぞ。彼らの事情もある」

「その事情とやらは無垢な子供の命よりも遙かに重要だと言うんですか。そう判断する十分な証拠を奴らが提示したというなら、俺だって落ち着いてやってもいいんですよ」

 提示する筈が無い。ウェイドは歯噛みした。

 S.H.I.E.L.D.は秘密主義だ。奴らは情報を自分達の中に孕んでおくことが世界の平和に繋がると確信している。

 対テロ特殊部隊であるデルタフォースよりも更にその情報秘匿性は高く、しかし権限は強く、外部からは全く内情を知る事が出来ない特殊な組織に物を申す権利はウェイドには無く、目の前のガルシアにも無い。

 そうと分かっていながらもガルシアに噛みつかずにはいられなかった。他に頼る先は無いのだ。ガルシアは目を細めてウェイドをじっと見るだけだった。

「S.H.I.E.L.D.は情報を開示しない。我々と協力して作戦任務にあたる事はあるが、その場合でも裏で何やら別の任務に従事している事もある。そしてその全てが世界のためであると、彼らは信じている……そして事実、そうだ。チタウリの一件で彼らは確かにその事実を証明した」

「それとこれとは別の話でしょう!緑の化け物はいきなりやって来る宇宙の軍勢なんかじゃない、子供だったんだ!今だってどこかで子供が攫われて、緑色の粘液べとべとの泥人形にされてるかもしれないのに!」

「落ち着けウェイド」

「落ち着いていられるか!!」

 机を蹴り飛ばす。秘書が立ち上がりウェイドに掴みかかったが、腕の一本で振り払った。

 壁に叩きつけられた秘書は呻き声を上げながら無線を取り出し、応援を呼んだ。それを無視して、ウェイドはガルシアに掴みかかる。胸倉を掴まれてもガルシアは表情一つ変えなかった。平静を保つ顔面に唾を吐きながら叫ぶ。

「てめえがあの時の作戦を指揮したのはあんたなんだって事は知ってんだよ!ジェイソンと化け物をわざと逃がしただろう!何故だ!!」

「わざと逃がした訳では無い。彼らには銃が効かなかった。手の打ちようが無かったんだ」

「嘘をつくんじゃねえよこの愚図野郎!」

「嘘ではない」 

 背後からばたばたと足音が聞こえる。開け放たれたままだった扉から複数人が乱入してくる気配を感じた。

 落ち着けウェイド、大尉のせいじゃないだろう。そう諭す何人もの声が聞こえた。彼らは正論を言っていると分かっていた。しかしそれらは全て雑音としか聞こえなかった。

 ガルシアの胸倉を掴む腕を離そうと何人もの人間が纏わりついてくる。邪魔だと振り払うも、相手も軍人だ。呆気なく数人に取り押さえられ、地面に腹ばいに押さえつけられる。押さえつけられながらもウェイドは吼えた。

「俺の親友の子供が死んだんだ!あいつらのせいで、呆気なく、まだ9歳だったのに!このまま黙っていられるか!!」

「違う。君が殺したんだ」

 乱れた服装を直しながら、ガルシアはウェイドを見下ろした。

 機械音声染みた、何の抑揚も無い声だった。だからこそその声はウェイドの脳内に深く浸透した。ウェイドはマリカの姿を思い出した。

 猫のような形の瞳。チョコレートのようなブリュネット。可愛いマリカ。ジーニーと自分を呼ぶ、子供らしい高い声。

 カオルとフローラの間でにこにこと笑う姿。それを見て微笑むカオルと、子守唄を歌うフローラ。ウェイドが知る限りで最も具体的な形をした幸福だった。ウェイドは彼らが大好きだった。

 勿論、今でも好きだ。その権利があるのならば。

 

「マリカを殺したのはジェイソンではない。彼女の養父でもない。彼女を化け物にした組織でもない。君が殺したんだ、ウェイド・ウィルソン」

 

 頭が真っ白になった。自分を押さえつける連中を蹴り飛ばし、殴りつけ、立ち上がる。

 澄ました顔のままのガルシアに向かって走る。背後から静止の声がかかる。

 拳を顔面に叩きつけた。吹き飛んだガルシアは背後の窓に体を叩きつけられ、ガラスが割れて飛散した。

 ガラスと共に床に崩れ落ちたガルシアへと大股で近寄り、大柄な体躯の上に馬乗りになる。そのまま拳を振り上げて殴り続けた。拳を振り下ろす度に、口からは呻き声や叫び声が漏れ出た。涙が零れて散った。

 ばたばたと足音を立てながら周囲を取り囲まれる。再度取り押さえようと騒いでいるのが聞こえた。だが先程のような穏健に取り押さえようという雰囲気はなく、容赦の無い暴行が周囲から飛んできた。

 それらへ抵抗しながら、ガルシアを殴る。自分でも叫び声なのか泣き声なのか分からないような声が噛み締めた歯の隙間から漏れ出ていた。拳が骨を砕く感触にこちらの手も酷く痛んだ。

 だがそれも長くは続かなかった。応援で呼ばれた一人がウェイドの腹へ蹴りを入れ、ガルシアの身体の上から蹴り飛ばされた。そのまま両手を拘束されて、部屋から引きずり出されて行く。

「上官に対する暴行だ。年金が貰えるとは思うなよウィルソン軍曹」

 口の端から零れた血を拭いながら、ガルシアはウェイドの背中に向かって言い放った。

 扉向こうにガルシアの姿が消えていく。引きずられながら、ウェイドは扉が閉まる最後の瞬間にガルシアの血に濡れた唇を見た。

 唇はHail HYDRAと言っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 まあ、こんな所か。

 後の展開は知ってるよな?

 

 俺ちゃんは退役して、年金無しでシャバに放り出された。

 とはいえ元特殊部隊の経歴を生かせる職業はそれなりにある。シークレットサービスとか、民間軍事企業とか、それこそS.H.I.E.L.D.とかも元デルタフォースっていう経歴を出せば割とすんなりリクルートが来ただろう。

 でもその時、俺ちゃんはもう組織とかそういうのが嫌になってた。それと割と自暴自棄になってた。

 

 ……退役した後にS.H.I.E.L.D.に入って、マリカを化け物にした組織について調べてみようと思った瞬間もあるよ。

 でもさあ、マリカを殺したのは俺じゃん。俺が殺したんじゃん。なのに復讐とか、馬鹿らしくてさ。

 いや滅茶苦茶怒ってるよ。勿論。でも俺ちゃんのせいで他の子供達が死ぬかもとか、俺ちゃんが関わるせいでもっと酷い事が起きるかもとか、ネガティブな思考のスパイラルループに陥って抜け出せなかったんだよね。

 だって俺が好きな奴らは皆碌な目に遭ってねえし。好きな子には意地悪するんじゃなくて優しくしてあげたい系男子だから俺ちゃんは。

 

 そんでまあ適当に傭兵とかやりながらぐだぐだ過ごしてたら、めっちゃイケてる美人でエロくて最高にホットな女と恋に落ちて結婚して、これまでの不幸は全部この生活の前振りだったのか!って納得しかけたら、全身癌に侵されてるって分かって。

 ああもうこりゃ駄目だって、すぐに受け入れた。生命保険今からでもかけらんねえかなって思ったけど無理だったな。やっぱ保険にはちゃんと入っとかなきゃいけねえって、それを一番後悔したよ。

 

 ……だってさあ、カオルもフローラもマリカも皆いい奴だったのに、俺より早く死んじゃったじゃん。俺の方があいつらより早く死んで当然なのに、まだのうのうと生きてる方が不思議なくらいだったからさぁ。

 でもヴァネッサを残して死ぬのは嫌だったし、それにあいつは俺が死なないよう何でもするつもりみたいだったから。好きな女を死ぬまで縛り付けるなんて嫌だった。だったら一か八かで治るか、すっぱり死ぬかのどっちかの方がマシだった。ずるずる生きるのは御免だ。

 

 それであんな詐欺みたいなリクルートにかかっちまったんだよな。

 いや詐欺みたいっていうか、100%詐欺だったんだけど。

 

 そんで結果的に、心の底から憧れて、尊敬して、ああなりたいと思ったキャプテン・アメリカと同じWeapon計画に巻き込まれて、自分も超人になった。

 ヒーローと呼ばれるに相応しい能力だけはWeapon X計画のおかげで授かった訳だ。

 

 でもやっぱり俺はキャプテン・アメリカにはなれなかった。

 ジーニーにもなれなかった。

 

 発狂したり、過去を忘れたり、恋人と別れたり、色々とあったけれど……俺はどうしようもなく俺のままで、こうしてまだ生きている。

 その理由は分からないし。多分どうでもいい。

 自分が正しいと思う事を通してきたつもりなのに、どうして自分はこうなんだろう

 

 

 

 

 

 

「………君は悪く無いよ、ウェイド」

 大きな掌に背中をぽんぽんと撫でられる。もう正体を誤魔化すつもりも無いらしい。

 少女———マリカの姿をしていた人物は、テレビのコードが断裂しかかっているようにマリカと本当の姿を行き返りしてぱりぱりと点滅している。少女でないその人物の姿は子供の頃から見慣れたものだった。

「俺ちゃんからここまで聞き出して、何が目的なんだよキャプテン」

「……騙すような真似をしてすまない。ヒドラの組織が各地で子供を誘拐しているという情報が入ったんだ。これまでS.H.I.E.L.D.や軍の内部で握り潰され続けていた情報だったんだけど、幸か不幸かサノスとの戦いでヒドラも混乱して、情報を処理する余裕が無くなったらしくてね。それで調べてみたら、君の名前があったんだ」

 

 ウェイド・ウィルソン。特殊部隊所属。

 2009/09/23ヒドラ施設にて実験中のWeapon VIII個体と接触。

 情報隠蔽のためウィンターソルジャーによる処理が検討されたが、今後のWeapon 計画に有用な人物として監視付きの上で放置が妥当と判断された。

 

 そう言えばここに来る前にそんな書類を見せられたような気がする。

 こんな些細な情報も引っ張り出してくるんだから、アベンジャーズという組織は粘着質極まりない。呆れの籠った溜息を吐いて頭を振るった。

「……そんで、俺ちゃんの記憶を弄ってマリカの事を調べたってわけ?わざわざマリカのコスプレまでして」

「一応言っておくけど、これは君も同意の上の事だ。今はワンダとプロフェッサーXが協力して君に記憶を取り戻させているから、思い出そうと思えば思い出せる筈だよ」

 キャプテンがそう言うや否や、たった一日かそこらか前の記憶が呼び起こされた。

 

 

 ヒドラが非道な実験をやっているから、その実験をしている施設を潰す協力をして欲しいとキャップから連絡があった。

 俺ちゃんは最近任務が無くて暇で……人類半分殺したサノスとローニンのせいで商売あがったりだったんだよね……家でゴロゴロしてる真っ最中だった。そこで突然キャップから連絡があって任務を依頼されたんだからもうテンションは爆上がりだ。

 胸糞悪い依頼も多い傭兵稼業だけど、キャップからの依頼はいつも良い依頼だから割と嬉しいんだよ。

 あとなんやかんやでキャップの為なら金を惜しまないツンデレ社長のおかげでペイも良い。

 そんで話を聞いたらWeapon計画に巻き込まれる前の、特殊部隊に所属していた頃の俺ちゃんがその実験に接触したっていう報告があったからその時の事を教えて欲しいって言われたんだ。

 勿論俺ちゃんはWeapon計画のモルモットにされる前の事はなーんも覚えてないから、悪いけど何も知らねえし覚えてねえよ?って応えた。これがキャップじゃなかったらある事無い事適当に言って金だけ貰おうとしただろうけど、流石にキャップに詐欺は働けない。なけなしの俺ちゃんの罪悪感が死んじゃいそうになる。

 

 それに詐欺だってバレた後の事が怖い。キャップ、怒ったらマジで怖えから。それに付き合い長いからすぐに詐欺だってバレそうだしね。

 

 そう言ったら、キャップは分かっているって言った後、すごく申し訳なさそうに直接頭の中の情報を見れる手段があるからって伝えて来た。

 何でもB.A.R.F.システムにワンダとプロフェッサーXの能力を加えればぐっちゃぐちゃになった俺ちゃんの記憶を整理する事が出来るらしい。なんて詐欺っぽい話だと鼻で笑いそうになったけど、嫌なら断ってもいいんだよ、むしろ止めておこうか?なんて繰り返すキャップの話しぶりは詐欺師失格だなと思った。押しが弱い上に申し訳なさが前面に出過ぎている。

 でも話を聞くとこの作戦のスポンサーはいつも通りトニーで、元々ぐっちゃぐちゃな頭の中を弄らせるだけで5万ドルは保証するって言うから、もうNOと言う理由なんて無かった。

 どうせ俺ちゃんの頭の中身は再現不可能な程にぶっ壊れていて、昔の記憶なんて欠片も残っちゃいない。だからB.A.R.F.を使おうがスカーレットウィッチとプロフェッサー・ハゲが協力しようが、まず間違いなく失敗すると分かっていた。

 でも失敗しても金は支払って貰うって約束してくれたし、だったら俺ちゃんにデメリット無いじゃん?

 

 そういう訳でアベンジャーズタワーに行ったらトニーとキャップとワンダと、あとマジでプロフェッサーXが居て、あれ?ここどこのアースを元にしたファンフィクな訳?アベンジャーズ VS X-MENは無かった系アース?って混乱してると、めっちゃ不機嫌そうなトニーにB.A.R.F.のデカい機械の中心に押し込められた。

 んもう、そんなに焦らないでよシャチョさぁん♡なんて言ってたら、隣でキャップも俺ちゃんと同じように機械の中に入っていて、あれ何でキャップも入ってんのって思ったら、「ランダムな記憶の中で欲しい情報を手に入れるためもう一人君の記憶に入る必要があるんだ。それも出来れば君があんまり警戒しない人物を」って言われた。

 いやいやそりゃあキャップに対して警戒なんてしてないけどさ、でも俺ちゃんの記憶を全部フルオープンで見せる程気を許してるわけじゃねえよ。

 そう言ったら、「外見はB.A.R.F.の効果で貴様の狂った心に入り込みやすい容姿に自動で変わる」ってめっちゃぶっちょ面の社長に言われた。つまりキャップがヴァネッサの容姿になって俺ちゃんの記憶の中を優しく誘導してくれるってこと?

 え、それなんてプレイ?俺ちゃん相手がキャップなら突っ込むよりそのデカいイチモツを突っ込まれたいんだけど、でもまあそんなに上下に拘りがある訳じゃねえし、あんたのムッチムチのケツにこれまで興味が無かったこともねえから今回は俺ちゃんがtopに専念してもいいけど、

 って言ったところでキレた社長がB.A.R.F.のスイッチをONにした。

 あんたホントキャップ好きだよね。絶対認めはしないだろうけどさ。

 

 

 視界がぐるぐる回って、脳みそがシェイクされるような気持ちの悪さに思わず胃の中の物を全てリバースしそうになった。アイアンマンお得意の機械に吐瀉物をぶちまけたらちょっとはすっきりするかな、2重の意味で、と思ったけれどこんな公衆の面前でマスクを脱ぐ事への羞恥心もあり、どうしようとうんうん悩んでいる内に気持ちの悪さは潮のように引いた。

 

 その瞬間、まるで嘘みたいに広大な農場が目の前に広がった。まさか機械で周囲に投影している映像だとは思えないリアルさに若干引いた程だ。VRなんて目じゃないリアルさは草の青い匂いさえ再現しているようだった。

 流石スターク、オーパーツレベルのオーバーテクノロジー技術をポンポン産み出しやがる。感嘆しながらその光景を前にしていると、脳細胞がカチカチと音を立てながら再構築されるような感触がした。

 あの農場のあの場所に、そう言えば家があったような記憶がある。そう思うと同時に記憶そのままのボロい家がその場所に出現した。

 

 そうだ。この場所で自分は生まれて、そして育った。

 

 あまりに懐かし過ぎる記憶に脳細胞が引き絞られるような感覚がした。

 忘れた過去を思い出した影響か、自分が何なのか、そして何のためにここにいるのかを静かに忘れた。ただ目の前の懐かしい家に意識を全て取られた。2階の隅のあの部屋の、あのベッドの下に、自分の心の支えがある。

 どうして忘れていたのか理解できない程にその記憶は鮮やかに息を吹き返した。

 

 そうしてふと隣を見ると、マリカの容姿をテクスチャのように貼られたキャプテンが、キャラメル色の瞳をこちらに向けていたのだ。

 

 

 

 

 

 全てを思い出したウェイドはあまりの恥ずかしさに身悶えしそうだった。

 かなり重度のキャップフリークっぷりをまさか全て本人に見られているとは、死にたいレベルでの恥ずかしさだ。アイドルグッズを集めた祭壇を本人に見られるよりキツイ。ウェイドは顔を覆って地面を転がった。

「いやああああキャップ全て忘れてお願い!俺ちゃんは清く正しいファンだから!ポルノ作成とかには手を出してない純粋なファンだから、お願いだから全て無かったことにしてぇえ!」

「僕が冷凍状態から起きて逃走した時、止めようとして来たのは君だったんだね。他のエージェントより良い動きだったよ」

「3秒で沈められたけどな!!」

 ふふっと笑うキャプテンは懐かし気に目を細めた。

 もう用は済んだとばかりにキャプテンの容姿がマリカから彫刻めいて均整の取れている肉体に変わる。

 キャプテンの恰好は普段の星条旗カラーのスーツではなくネルシャツにジーンズという、ラフさとダサさが絶妙に交じり合っている私服だった。素晴らしい容姿と体躯を持っているというのにその恰好のダサさでかなりの損をしているように思えてならない。せめてズボンにインしているシャツを外に出して欲しいと切実に思った。

 だがキャプテンは自分の絶望的なダサさ……ファッションセンスではスプスと良い勝負だ……に気付く様子も無く、ただ申し訳なさそうな視線をウェイドに向けていた。

「一応言っておくけれど、僕は君の記憶を全て見た訳ではない。君はワンダとプロフェッサーの能力で君の人生を全て詳細に思い出しただろうけど、B.A.R.F.へ出力された君の記憶はWeapon VIIIの実験についての部分だけだった。だから、」

「いやん、俺ちゃんの恥ずかしい過去をキャップに見られちゃった!もうお嫁に行けないわ!責任取ってよね!」

 体をくねらせながらきゃっ言っちゃった♡と呟くと、キャプテンは重々しく頷いた。

「言われずとも、ちゃんと責任は取るさ」

「ん?」

「あの実験を行ったヒドラは必ず潰す。これ以上彼らの犠牲になる子供は絶対に出さない。バナー博士やシュリ王女、ドクターストレンジとも連絡して、実験台にされた子供達を元に戻す研究も進めて貰う事にするよ。時間がどのくらいかかるかは分からないけれど、皆で協力すればきっと今よりは良くなる」

「ああそういう意味ね。良かった。いやちょっと残念とかは思ってないからね」

「?」

「いやこっちの話。っつーか……え、そういやあサノスと戦った後ってことは、ここはエンドゲーム後の世界なんだよな。なのに何でトニー生きてる訳?そしてキャップもどうしてそんな若い姿な訳?そして何でMCU基準の世界なのに俺ちゃんが居る訳?権利とかどうなってんだよ。いやファンフィクに権利も何も無いだろうけどさ」

「……?サノスとは戦ったけど、トニーは生きているよ。若い姿って言われても、確かに僕は1910年代生まれだけど、70年間冷凍状態だったからその間の加齢は無いし、」

「いやそうじゃなくて、ほら愛しのペギーとダンスを踊るために過去に行ったりとかさぁ」

「?」

 意味が分からないというキャップの表情に、デッドプールはああそう、と一人頷いた。

 

 画面の向こうの皆は意味が分からないだろうけど(特にMCUしかアメコミを知らねえ連中は!)、こういう『このファンフィクションではこういう設定で話が進みます!』とかいう、原作に沿っていない前提ありきのファンフィクがMarvelやDC関連ではよくある。

 何しろMarvelには長い歴史や派生アースが多いから、一つ一つを追っていたらキリが無い。登場キャラが死んだり生き返ったりゾンビ化したり結婚したり離婚したり子供を作ったり過去に遡ったりと、話の展開が行ったり来たりのあっちこっちで一つに纏めるのは不可能なのだ。という訳で、原作に完璧に沿っているファンフィクという方が逆に珍しい。

 だからアメコミ関連のファンフィクを読む時は作者からの説明や、話の流れを読んで「ああ、このファンフィクではそういう事なのね、ハイハイ」と察する能力がある程度必要になる。特にこんな、原作を良く知らねえ奴が書いた、デッドプールのファンフィクションの癖にMCUの設定をガンガン入れて来る不親切極まりない作品の時には!

 

「あー、うん。分かった。つまりエンドゲームの後だけどキャップもトニーも問題なく存在する、ご都合主義的展開のアースな訳ね。ハイハイOK。理解した。画面の向こうの皆もそういう事だと納得してくれよ。話が進まねえからな」

「君の言う事はよく分からないけど、納得して貰えたようで良かったよ」

 キャプテンはお疲れ様、とデッドプールの肩を叩いた。

 それが合図だったのか、周囲の景色が溶けて消えた。同時に脳みそが煩く騒めき始める。頭蓋骨にスモッグが注入されているような感覚がする。

 ワンダとハゲのおかげで脳が前みたいにすっきりしていたんだな、とようやく気付いた。Welcome back DEADPOOL!って感じだ。

 そうだ。俺ちゃんは金のためならなんでもする傭兵だ。優秀なデルタフォース隊員のウェイド・ウィルソンではないし、ヒーローでもないし、かといってヴィランとも言い切れない。そして心優しいジーニーでもない。

 

 そうだ。俺ちゃんは俺ちゃんでしかない。どうやったって、キャップにはなれやしない。ジーニーにもなれない。なれなかった。

 俺ちゃんは結局俺ちゃんの信じる事をする事しかできないんだ。ベッドの下のキャップに祈っていた頃と同じで、何も変わらない。ただ人殺しになってしまったというだけで。

 最初から最後まで、それだけが事実で、真実だった。

 

 サイキッカー2人が能力を停止したのと同時にB.A.R.F.がシステムを終了し、ただのウェイドとしての記憶が遠くへと去って行く。

 一時だけ取り戻していた人間としての優しさや寂寥感、そして親友と彼らの子供への罪悪感が静かに死んでいく感覚が神経を震わせた。デッドプールとしての自分を取り戻していくと同時に、ウェイド・ウィルソンは手の届かない場所まで歩いて行ってしまう。

 

 それは悪い事ではない筈だった。今のウェイドは昔のウェイドではないのだから。どうやっても戻る事が出来ない過去のウェイドが去って行って、清々しい気分になってしかるべきだった。

 しかし酷い吐き気がした。あまり良い気分とは言えなかった。意味も無く叫んでしまいたかった。過去の記憶の残っているウェイドが抱えるには、デッドプールは重すぎたのだった。

 嗚咽を零しながらその場に崩れ落ちたデッドプールの背中をキャプテンは優しく撫でた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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