夏の終わり頃に降り始めた、季節外れの長雨。
 壮絶なイジメを受けた怨念から生まれた妖怪『ひきこさん』が、その長雨に乗じて活動を開始する。

 子供を襲い、ズタボロの肉塊になるまで引きずり回す残虐妖怪と対峙する鬼太郎だったが──。


※第69話『地獄の四将 鬼童・伊吹丸』の後のお話です。
※鬼太郎に対してのアンチ的な内容となっております。

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ひきこさんvsゲゲゲの鬼太郎

 雨が降っていた。

 八月の下旬に入る頃の、長雨だ。

 降りは激しくはないものの、もう一週間近く降り続いている。

 誰も彼もが憂鬱な気分になっていた。

 

 しかし、この長雨を喜ぶ者もいる。

 夏の暑さが和らぐと喜ぶ者が。

 畑の作物にとって恵みの雨だと喜ぶ者が。

 ダムの水不足が解消されると喜ぶ者が。

 

 ──そして、自分の顔を見られずに済むと喜ぶ者が。

 ──誰も彼もが傘を差して歩くため、自分の存在に気付きにくくなると喜ぶ者が。

 ──狩りの時期がやって来たと喜ぶ者が。

 

【1】

 

 犬山まなと猫娘は、喫茶店の窓際の席で向かい合って座っていた。

 さっきまで、二人は映画館にいた。

 観ていたのは『退魔剣姫(けんき)アサギ』というタイトルのオカルトアクション映画。魔物を倒す聖剣を持つ女性剣士が現代日本を舞台に魔界の侵略者と戦うという内容だ。

 

「最後の決闘とか凄かったですよね~……」

 

 まなはメロンクリームソーダをストローで吸いながら、ほうっと息を漏らした。

 

「そうね……あの女優、元々アクション志望だったそうだけど、ノースタントでよくやるものだわ」

「でも猫姉さんは、もっと凄いアクション出来るじゃないですか。ワイヤーとかなしで」

「そうね」

 

 猫娘は気のない返事をしながら、ボンヤリと窓の外を見ている。

 外は小雨だった。一週間前から続く雨は、まだやみそうにない。

 どことなくアンニュイな雰囲気の猫娘を見つつ、まなは恐る恐る尋ねた。

 

「……あのー、もしかして、本当はあんまり面白くなかったんじゃ……」

「そんな事ないわよ。どうして?」

「だってあの映画、妖怪退治物だったし」

「あれは妖怪じゃなくて魔物。しかも魔界からやって来たって設定で、極論すれば宇宙人と変わらないでしょ──ま、嫌な奴を思い出したのは確かだけど、映画は楽しめたわよ」

「嫌な奴って、この前のあの人ですか? 確か、石動っていう……」

 

 まなの脳裏に、階段の上から自分を見下ろす少年の姿が浮かび上がっていた。

 

 石動零。

 妖怪退治を生業として来た鬼道衆の最後の生き残りである。

 まなの前に現れ、『妖怪は人間の敵だ』と断言し、『鬼太郎には近付くな』と言い残して去っていった。

 彼は猫娘とも面識がある。

 東北で、地獄から脱走した妖怪『鵺』の影武者となっていた(むじな)に捕まり、人質にされた猫娘を助けたのが、石動零であった。

 

「まぁね」

 

 猫娘はまなに答えながら、その時の事を思い出す。

 その時の猫娘はとある事情から子供の姿となっていた。

 石動零はそんな猫娘を一目見て、妖怪とわかるや否や「助ける必要なんざなかったな」と毒づいたのだ。

 つまり猫娘を助けたのは、彼女を人間と思ったからであり、最初から妖怪とわかっていれば見殺しにしていたという事だ。

 その後も、東京での鵺との戦いにおいて、あと少しで鬼太郎が鵺を倒せたというところでそれを妨害し、自分が鵺を倒した。

 そのやり方も最低だった。

 かつて鵺を倒すのに使用された弓矢『雷上動(らいじょうどう)』と山鳥の羽を付けた尖り矢『兵破(ひょうは)』で鵺を串刺しにして動けなくした後、鵺が東京の人間から奪った生気を返せば解放してやると脅しつけたのだ。そして鵺が彼の要求に従った直後、手刀で鵺の腹を貫いてトドメを刺した。

 

「妖怪との約束なんざ誰が守るか」

 

 とせせら笑いながら。

 

 石動零は、相手が妖怪というだけで子供でも見殺しにするし、自分から交わした口約束すら反故にする男なのだ。故郷と仲間を失った悲しい過去があるようだが、それはそれ、これはこれだ。好感を持てる要素などあろうはずもない。

 

「口も性格も悪いし、悲劇の主人公気取りで──ホント、やな奴」

 

 ボソッと呟いてから、猫娘はアイスコーヒーを一口飲んだ。

 

「それにしても、よく降るわね」

 

 そして自ら話題を変えた。

 

「そうですね。洗濯物が乾かないって、お母さんもぼやいてました」

「服も靴も濡れるし、家の中はジメジメするし、うっとうしい事この上ないわ……こんな天気を喜ぶ妖怪もいるけどね」

「──あ、知ってます。ひきこさんとか」

「何それ」

 

 初めて耳にする名前に、猫娘は聞き返した。

 

「都市伝説の妖怪です。学校でひどいイジメにあった『森姫妃子(ひきこ)』って女の子が妖怪になって、雨の日に子供を捕まえて死ぬまで引きずり回すんですよ」

「ずいぶんエグい事する奴ね」

「そのひきこさん、顔が傷だらけで醜くなってて、雨の日ならみんな傘を差すから顔を見られずに済むから、だから雨の日が好きなんだそうですよ。そして、引きずり回した子供の死体を、自分の隠れ家にコレクションしてるんですって」

「うわー、悪趣味……でもまぁ、作り話にしてはインパクトあるじゃない?」

「あ、やっぱりわかります?」

「『モリ・ヒキコ』の名前と名字をひっくり返せば『ひきこもり』……いくらなんでも出来すぎだもの。だいたい、確かに最近は子供にヘンテコな名前を付ける親が増えてるけど、そういうのだって読み方自体は可愛いでしょ? でも『ひきこ』なんて名前、可愛いとは思えないし。ちょっと設定の練り込みが甘いわね」

「ですよねー」

 

 まなもこの都市伝説に対しては同じ感想のようだった。

 

【2】

 

 夜になって、雨足が強まって来た。

 私はお気に入りの子供を持って、外に出る。

 もう全身の皮が剥がれてズタボロになったけど、まだ顔があった時は、可愛らしい顔を恐怖と苦痛に歪ませて、必死に命乞いするところが最高に面白かった。

 その顔が引きずられていく内にグチャグチャになるのが楽しくてたまらなかった。

 その時の様子を思い出せるから、この子を引きずり回すのは今も楽しい。

 名前は何ていったっけ……チラリと胸元に付いてる名札を見た。学校名は雨で滲んで見えなくなってるけど、名前はまだ読めた。

 

『安倍川まどか』

 

 と書いてある。

 そうだ、まどかだ。変に漢字にしたりせず敢えて平仮名なのがいい。わかりやすいし、字面も丸っこくて可愛らしい。

 顔も可愛かったし、きっとクラスのみんなからも慕われてたんだろう。確か、名札には6年2組と書いてた。そろそろ色気付いて来る頃だ。案外、クラスの男子の誰かと付き合ってたりとかしてたのかも。

 

 だからムカつく。

 

 雨に濡れて、背を向けて立っている私に、哀れむように話し掛けてきた。

 なんて優しい子だったんだろう。

 だから襲った。

 首を締め上げて、何度も地面に頭を叩きつけて、動かなくなってから、いつものように足首を掴んでズルズルと引きずる。

 スカートがめくれてパンツが丸見えになった。

 何度も何度も可愛い声で「やめて、助けて」って叫んでた。

 その声が、最高に気持ちよくてたまらなかった。

 今も、その時の事を思い出して、とてもいい気分だ。安らぎすら覚える。

 

 どうして私は子供を引きずるのだろう?

 そんな事はどうでもいい。

 子供を襲うのは楽しい。

 子供を引きずるのは楽しい。

 それだけで充分だ。

 私はひきこ。

 子供を引きずる妖怪なのだ。

 肉食動物である虎がウサギや鹿を捕まえて喰うように、私も子供を捕まえて引きずり回す。死ぬまで引きずり回す。

 私はそういう妖怪なのだから。

 ()()()()()()()()()()()()

 

 でも。

 そう、でもでも。

 そろそろ、生きた子供を引きずりたくなって来る。

 まどかも大好きだけど、また新しい子供(オモチャ)で遊びたい……。

 

【3】

 

 朝から降り続く小雨は、夕方になる頃、また激しくなった。

 裕太と大翔(ひろと)は二人で、お喋りしながら下校していた。雨音がうるさいので、自然と二人の声も大きめになりがちだった。

 

「そりゃやっぱりハイパーニューゲンダムだろ。マジンガンナーの攻撃なんてかわしまくりだぜ」

「でもマジンガンナーだって、ゲンダムのビームライフルとか絶対効かないよ。戦艦で押し潰そうとしたらその戦艦をバックドロップで投げ飛ばしちゃうんだから」

 

 話題はアニメに登場するロボットの強さ議論のようだ。

 だいぶ盛り上がり始める頃、不意に大翔が足を止めた。

 

「どうしたの?」

「……何だ、あれ」

 

 大翔が指差した先、5メートルほど前方の道端に、人影があった。

 女性のようだが、傘を差しておらず、ずぶ濡れだ。

 うつむいており、濡れた長い髪が顔に貼り付いているせいで、顔がよく見えない。

 左右の腕は普通の人間より拳二つ分ほど長く、そのシルエットは猿のようにも見えた

 そして、大きな人形のような物を引きずっている。

 

「……あいつが持ってるの、人間っぽくないか?」

 

 大翔が小声で言った。

 

「……て言うか、あの女の人、こっち見てない?」

 

 裕太も小声で返した。

 

「……何かヤバいな、いっせーので逃げようぜ」

「う、うん」

 

 裕太が返事をする。

 女は二人の方を向いたまま、動かない。

 

「いっせーの……せっ!」

 

 大翔の合図で、二人は同時に回れ右して走り出した。

 

 バシャッ!

 バシャッ!

 バシャッ!

 

 そんな音が後ろから聞こえてきた。

 振り向くとあの女が、蟹走りで追い掛けて来ていた。片足が不自由なのか、びっこを引いて、半ば跳ねるようなような走り方だが、それが恐ろしく速い。スタートダッシュで開いたはずの距離が、ぐんぐん縮まっていた。

 

「大翔くん、こっち!」

 

 裕太が大翔の手を引いて、角を曲がった。

 細い路地を抜けて、別の大きな道路に出る。広い車道を跨いで、歩道橋が架けられていた。

 

「あいつ足が悪いみたいだから、階段は苦手なはずだよ!」

「そうか、わかった!」

 

 二人は歩道橋まで走る。

 しかし階段に足をかけようとした瞬間、何か大きな物が飛んできて、二人の背中を直撃した。

 転んだ二人が見たのは、自分たちよりも年上の女の子だった。

 ──女の子だった、と、思う。

 服装からそう判断出来るだけだ。全身の皮膚がズタズタになっていて、顔もわからない。

 ピクリとも動かず、声も出さない。

 あの女が引きずっていた人形らしき物の正体がこれだとわかった。

 そこまで認識出来た時、あの怪女が二人の前に立っていた。

 髪の隙間から覗く口は、歪んでいた。

 笑っているのだ。

 よく見ると、女の顔は刃物で切り裂かれたかのように傷だらけだった。

 両腕にもリストカットの痕が無数に付いていた。

 女が、手を伸ばして来た。

 指先からは爪が伸びている。人間のような平爪ではなく、獣のような鉤爪が。

 

「う、うわぁあああっ!」

 

 大翔が叫んだ。

 幼い防衛本能から、女に傘で殴りかかる。

 しかし開いたままの傘では、痛みを与える事すら出来なかった。

 女は傘を払いのけると、大翔の頭を掴んで階段の手すりに叩きつけた。

 

 ゴオォォンッ……!

 

 鈍い金属音が、響き渡る。それだけで大翔は動かなくなった。

 女は、大翔の足首を掴む。

 ジロリと裕太の方を見た。

 裕太は、恐怖で動けなかった。

 助けを呼ぶ声は、喉元で詰まって出て来ない。

 

「こいつの次はお前だよ」

 

 そう言って、女は大翔と女の子をそれぞれ引きずりながら、去っていった。

 

【4】

 

 大翔が痛みで目を覚ますと、視界には鉛色の曇天が広がっていた。

 雨が全身に降り注ぎ、ずぶ濡れで、寒気がする。

 自分は地面に寝転がっているのかと思った。

 だが、目の前の空は断続的にスライドして動いている。

 そして、誰かが自分の足首を掴んでいた。

 誰かが、自分の足首を掴んで引っ張っているのだ。

 

(──そうだ、俺、変な女に襲われて……)

 

 そこまで思い出した大翔は、自分の隣を同じように引きずられている物がある事に気付いた。

 見ればそれは、さっき女が投げつけてきた、女の子の死体だった。

 首を曲げて、足の方を見た。

 あの女が、彼等を引きずっていた。こちらを見ながら。

 そして大翔が目を覚ました事に気付くと、ニタリと口を歪めて笑った。

 女は大翔をうつ伏せにすると、物凄いスピードで引きずり始めた。

 ゴツゴツとしたアスファルトの路面で手や顔がこすれて、皮膚があちこち擦りきれて、血が出た。

 

「や、やめろ! 離せ! 助けて! 誰か助けて!」

 

 大翔は足をジタバタ動かし、必死に叫ぶが、周囲には人影が全くなかった。

 やがて女は、高台の上の公園に続く石段にたどり着いた。

 そして石段を登り始める。

 自分がこれからどこで引きずられるのかわかって、大翔は階段の手すりの脚を掴んで抵抗するが、女の異様な怪力の前には無意味だった。

 石段は十メートルほどの長さだ。こんな所で引きずられればどうなるか……大翔は恐怖と絶望に、日頃のヤンチャぶりも消え失せて、ただ震えるしか出来なかった。

 

 ──その時だ。

 

「リモコン下駄!」

 

 突然、下駄が一つミサイルのように飛来して、大翔の足首を掴む女の手を打った。

 女が思わず手を離すと、風のように素早く一つの影が大翔を抱き抱えて離れる。

 猫娘であった。

 下駄はそれ自体が意思を持っているかのように、宙で弧を描いて、飛んできた方向へと戻っていく。

 その下駄を素足に器用に装着したのは、紺色の学童服の上から、黒と黄色のチャンチャンコを着た少年だった。

 

 ゲゲゲの鬼太郎であった。

 

 彼の後ろには、裕太と犬山まながいた。

 大翔が連れ去られたすぐ後に、学校帰りのまなが通りかかったのだ。

 裕太から話を聞いたまなは猫娘にスマホで連絡。

 彼女を通して鬼太郎にも情報が入った。

 そして鬼太郎の妖怪アンテナで妖気をたどり、ここまでたどり着いたのである。

 

「お前がひきこか」

 

 鬼太郎は女を睨みつけながら、問い掛ける。

 

「なぜ人間を──子供を襲うんだ」

「それをあんたに話して、あたしに何の得があるってんだよ……人がいい気分でいたのを邪魔しやがってぇえええっ!」

 

 女──『ひきこさん』は怒りに顔を歪ませ、鬼太郎目掛けて、安倍川まどかの死体を投げつけた。

 鬼太郎がそれをかわした隙に近付き、掴みかかろうとする。

 しかし鬼太郎、地を蹴って跳躍すると、遠心力にリモコン下駄の飛行速度もぶち足した強烈極まる回し蹴りで迎撃! 見事にひきこの顔面にクリーンヒットした!

 しかしその蹴り足を、ひきこが掴んだ。

 そして鬼太郎の小柄な体を地面に叩きつける。

 背中をしたたかにぶつけて、鬼太郎はごほっとむせた。

 しかし、ひきこの攻勢もここまでであった。

 

「体内電気!」

 

 鬼太郎の全身から放たれた高圧電流が、ひきこの体に流し込まれる!

 凄まじい衝撃が全身をほとばしり、ひきこは鬼太郎の足を手離してしまう。

 鬼太郎はチャンチャンコを腕に巻き付けてのストレートパンチを、ひきこの腹に叩き込んだ。

 吹っ飛んだひきこは、コンクリートの壁に叩きつけられた。

 鬼太郎は、地面に倒れたひきこに向かって、右手の人差し指を向けた。

 左手を右手に添える。

 人差し指の先端に青白い光が灯った。

 圧縮した妖力を光の弾丸に変えて撃ち出す、鬼太郎の最強の必殺技『指鉄砲』だ。

 ──しかしそれは発射されなかった。

 嗚咽の声が、鬼太郎の耳に届いたのだ。

 それは、ひきこの嗚咽であった。

 

「わ、私は……学校でひどいイジメに遭っていたの……私は何も悪い事してないのに……贔屓の姫妃子なんて言われて……みんなでよってたかって私を学校中引きずり回してゲラゲラ笑ってたわ……だけどパパもママも、私を守ってくれなかった……学校へ行きたくないって言ったら私を何度も殴って、家中引きずり回して、無理矢理外に叩き出した……私は憎いのよ! 何も悪い事してない私を引きずり回していじめた人間たちが! だから今度は、私が人間どもを引きずり回してるだけなのに! 私は正当な復讐をしてるだけなのに! なのにどうして邪魔するのよ! どうしてあんたも私をいじめるのよぉぉおおおっ!」

 

 ひきこは一気にまくし立てて、その場で小さな子供のようにワンワンと泣きじゃくった。

 

「鬼太郎……許してあげられないかな」

 

 まなが鬼太郎の背中に呼び掛ける。

 ひきこの姿や告白に、憐れみを覚えたのだろう。

 

「……憎しみにとらわれちゃいけない」

 

 鬼太郎は指鉄砲を解除して、そう言った。

 

「復讐を果たしても、その時は満足するかも知れないけど、あとはどうしようもないむなしさが残るだけだ。もう人間を襲うのはやめろ。そうすれば、許してやる」

 

 ひきこがパッと顔を上げた。

 

「……わかったわ。もう、人間を襲ったりなんてしない……私の負けよ……」

 

 ひきこの言葉に、鬼太郎は満足げにうなずいた。

 雨は、まだシトシトと降り続けていた。

 

【5】

 

 午前中はやんでいた雨が、午後からまた、小雨ではあるが降り始めた。

 

 犬山まなは友達と別れて、一人家路に就く。

 前方に人影を認めて、足が止まった。

 それは、先日のひきこさんであった。

 電柱の陰に隠れて、こちらをうかがっている。

 思わず警戒してしまうが、彼女は鬼太郎に敗れて、人間を襲わないと約束してくれた。

 

(大丈夫、だよね……大丈夫……)

 

 自分にそう言い聞かせて、まなは歩を進めた。

 

「こ、こんにちは、ひきこさん」

「この前は、ありがとう」

 

 ひきこがまなにそう語りかけた。

 

「あなたがいなかったら、私は鬼太郎に殺されていたかも知れないわ」

「あ、そんな、気にしなくてもいいんですよ?」

「あなたは本当に優しいのね」

 

 ひきこが、まなの手を両手で握った。

 

「それに、とっても可愛い……手もスベスベで、凄く綺麗……」

「そ、そんな事ないですよ。私より綺麗な人なんてたくさんいるし……」

「本当に……ムカつくよな、テメェーはよぉ

「えっ?」

 

 まなが我が耳を疑った瞬間、ひきこはまなの顔を鷲掴みして、電柱に叩きつけた。

 激痛と衝撃で、まなは頭がクラクラした。

 生暖かい物が、頭皮をヌラヌラと伝うのがわかった。出血したのだ。

 足に力が入らず、水浸しの道路にぶっ倒れる。

 ひきこがニヤニヤと笑いながら、その足首を掴んだ。

 

「ひ、ひきこさん……どうして……もう人間は襲わないって約束したのに……」

「知らねーよバカ! あたしは人間を引きずるひきこさんなんだ! ひきこさんが人間引きずって何が悪いんだよボケェッ!」

 

 ひきこは口汚く叫び、まなの腹を踏んだ。

 踵が深々と食い込んで、まなはゲホゲホとむせ返る。

 

「だいたいさぁ~、こんな楽しい事やめられる訳ないでしょぉ~? これからも、もっともっとたくさんの子供たちを引きずり回して引きずり殺したいのよ、あたしは。そもそもあたしを『そういうもの』として生み出したのは、あんたたち人間でしょ? だからあんたたちには、あたしに引きずられる義務があるのよ。だから責任持って引きずられてくださいね? お・か・あ・さ・ん」

 

 まなの顔を覗き込み、ニヤリと笑うひきこ。

 その顔は、傷だらけの見た目以上に、内面の邪悪さがにじみ出た醜悪な顔であった。

 まなは言い知れぬ恐怖に、全身の力が抜けていった。

 その時──、

 

「贔屓のひきこ、引っ張るぞ!」

 

 声がした。

 ひきこの顔が恐怖に歪む。

 声の主は、なんと裕太であった。

 小雨とは言え、傘も差さずに一人でいた。

 

「贔屓のひきこ、引っ張るぞ!」

 

 裕太がまた叫ぶ。

 ひきこの手が緩んだ。

 その隙にまなは、這うようにして離れる。

 

「う、うう~っ……がぁあああっ!」

 

 ひきこがケダモノめいて唸りながら、裕太目掛けて襲いかかる。

 裕太は懐から、一枚の手鏡を取り出して、それをひきこに突きつけた。

 

「ひっ、ひぎゃあああああっ!」

 

 鏡面に映る、傷だらけの己れの顔を見た瞬間、ひきこは恐怖の悲鳴を上げた。

 

「ちょっと調べれば、お前の弱点なんて簡単にわかる」

 

 裕太はそう言って笑った。

 その笑みは、小学生の男の子が浮かべる笑みではなかった。

 

「お、お前、この前のガキじゃない……な、何者だ!?」

 

 ひきこが恐怖に上擦った声で問い掛けると、裕太の額に『狢』の文字が浮かび上がり、全身が白い光を放った。

 光がおさまると、そこには白いパーカーを着た高校生くらいの少年が立っていた。

 癖っ毛の強い黒髪に、赤い線が何本も入っている。

 吊り上がり気味の鋭い眼差しに赤い瞳。

 両耳には、青いピアスが入っていた。

 

 石動零であった。

 

 東北で倒し、取り込んだ狢の変身能力を行使したのである。

 

「持ってろ」

 

 石動零は持っていた手鏡を、まなの方へと投げ渡した。

 まなは鏡を受け取りながら、思い出した。

 

 ひきこさんは鏡で自分の顔を見たり、『贔屓のひきこ、引っ張るぞ』と言われると、いじめられていた時の事を思い出して恐怖にかられる。

 

 石動零は、今それを実践して見せたのである。

 

「お前の悪行もここまでだ、ひきこ」

 

 石動零はパーカーを脱ぎ捨て、左手の指先で右腕をなぞった。

 右腕に、『鬼』の文字が浮かび上がる。

 

「鬼神、招来!」

 

 石動零が呪文を唱えると、広げた彼の両腕が黒く変色し、大きく膨れ上がった。

 指先に鋭い鉤爪を備えたそれは、鬼神の腕であった。

 

「うがぁああああっ!」

 

 ひきこが野獣のような声を上げて、石動零に襲いかかる。

 鉤爪で引っ掻こうとするが、石動零は鬼神の腕でそれを防いだ。ひきこの鉤爪は、鬼神の腕には全く歯が立たなかった。

 ひきこはすかさず、隠し持っていたカッターナイフを取り出し、めいっぱいに伸ばした刃で斬りつける。

 だがこれも、鬼神の腕にはかすり傷一つ付ける事が出来ず、脆くも折れてしまった。

 鬼神の腕がカッターナイフごとひきこの手を掴む。

 ペキペキと小枝の折れるような音が複数響いた。手の骨を砕いたのだ。

 石動零がそのままちょっと手を捻ると、ひきこの腕が簡単に折れた。

 

「あぎゃああああっ!」

 

 苦悶の叫びを上げるひきこ。

 石動零は彼女の腹にボディアッパーを叩き込み、その衝撃で浮かび上がったところへ、顔面フックを叩き込んだ。

 ひきこは軽々と吹っ飛び、壁に叩きつけられた。

 

「これまでだな」

 

 石動零は鬼神の腕でひきこの頭を掴み、持ち上げた。

 

「ひ、ひぃいいい! やめて! お願い許して!」

「お前は襲った子供たちにそう言われて、やめた事があったか?」

「だ、だってあたしは、学校でひどいイジメに遭っていたのよ! 何も悪い事してないのにみんなから『贔屓の姫妃子』なんて言われて!」

「泣き落としか? 無駄な事はよせ。聞こえていたぜ。お前、さっきあいつに何て言ったよ……こんな楽しい事、やめられる訳がないって言ったよな?」

 

 石動零の鬼神の右腕に、力がこもった。

 ひきこは、自分の頭蓋骨が軋む音を聞いた。

 

「実際、お前が引きずり殺した子供たちのほとんどは、イジメとは何の関係もない連中ばかりだった。お前は、生きるために殺すのでもなければ憎いから殺すのでもない──楽しいから殺しているだけだ。お前みたいな奴は、生かしておく訳にはいかねえ」

 

 石動零は冷徹な声で、そう言った。

 左の手刀が、ひきこの腹を貫いた。

 ひきこの悲鳴が響き渡り、まなは竦み上がった。

 

「こ、このくそ野郎が……地獄に落ちろぉおおっ!」

 

 ひきこは罵声を上げながら、黒い煙となって消滅した。あとには、魂が火の玉となって宙に浮かぶのみ……。

 

「ふん、捻りのねえ台詞だぜ」

 

 石動零はしかし、歯牙にも掛けず鼻で笑うのみであった。

 そして元通りになった右手をひきこの魂にかざす。

 

「──オン!」

 

 詠唱と共に、魂は彼の右手に吸い込まれ、取り込まれた。

 

「い、今のは、何をしたんですか?」

 

 一部始終を見ていたまなが、問い掛ける。

 

「ひきこは元々、どこかの誰かがでっち上げた作り話だった。だが、人の言の葉には力が宿る。言霊ってやつだ。人から人へと語り継がれるうちに、その言霊によって本当に実体化しちまったのさ」

 

 石動零は説明しながら、自分の右手を見た。

 

「だから、言霊による補正で普通の妖怪よりも復活にかかる期間が短くなる。こうでもしねえとまたすぐに復活して、人を襲うようになるんだ──そんな事より」

 

 ジロリと石動零はまなを睨みつけた。

 

「警告したはずだぜ、妖怪は人間の敵だってな」

「で、でも……」

「確かに人間にとって害のない奴もいる。だが、有害な奴もいる。そして、そいつ等がお前の前に現れないという保証はどこにもないし、お前にはそいつ等から身を守る(すべ)はない。ただ一つだけ……妖怪には近付かないという方法以外はな」

 

 吐き捨てるように言いながら、石動零はパーカーを拾い上げて着た。パーカーは撥水性が非常に高いらしく、濡れているのは表面だけのようだ。

 

「俺がここに来たのは、本当にたまたまだ。次はない。これに懲りたら、妖怪とは縁を切るんだな──ああ、それと。頭打ってるんだから、明日にでも病院で検査してもらえ」

 

 石動零はまなに背を向けて立ち去ろうとしたが、すぐに足を止めた。

 そこに、鬼太郎がいたのだ。

 猫娘も一緒だった。

 鬼太郎は、石動零を険しい表情で睨んでいた。

 

「よぉ、鬼太郎。お前もひきこ退治に来たのか? 悪いが、先を越させてもらったぜ」

「何故、ひきこを殺したんだ」

 

 鬼太郎の問い掛ける声は、冷たかった。

 

「アイツが襲われていたから助けた。それだけだ」

 

 石動零は背後のまなを、親指で指し示した。

 

「ひきこは、僕に約束した。もう人間は襲わないと」

「騙されたな。最初から約束を守るつもりなんてなかったんだろう」

「──本当は、君が何かしたんじゃないのか」

「ん?」

 

 鬼太郎の言わんとする事がわからず、石動零は首を傾げた。

 

「君がひきこを怒らせるような事をしたから、彼女は怒り狂って、まなを襲ったんじゃないのか?」

 

 それを聞いて、石動零は肩をすくめた。

 

「想像力豊かなのは結構だが、そいつは言い掛かりってもんだ」

「悪いけど、あんたの事は全然信用出来ないのよね」

 

 猫娘が口を挟む。

 鬼太郎が続けた。

 

「君は妖怪を憎んでいる。妖怪であれば、戦う気力をなくした者でも容赦なく殺す男だ。そんな君の言葉なんて、信用出来ない」

「勝手にしろよ。俺も、お前たちに信用されたい訳じゃない。鬼道衆としての務めを果たしているだけだ」

 

 石動零はそう言うと歩を進めた。

 鬼太郎は、立ち塞がったままだ。

 石動零は彼の真ん前で足を止めた。

 

「……鬼太郎。以前お前には忠告したはずだ。お前の甘さが、いずれお前の足を掬うってな。どうやらひきこと戦った事があるようだが、その時にきっちり倒しておけば、今日犬山まなが襲われる事はなかった。アイツの危機は、お前の甘さが招いた事だ。それだけは、忘れるな」

 

 言い捨てて、彼の横を通り過ぎる。

 

「石動零!」

 

 鬼太郎は怒鳴り付け、チャンチャンコを巻き付けた右腕で背後から殴り掛かる。

 石動零はこれをかわして、鬼太郎を回し蹴りで文字通りに一蹴した。

 猫娘も爪を伸ばして襲い掛かって来たが、これは手首を掴んで合気道の要領で投げ飛ばす。

 蹴り飛ばされた弾みで、目玉親父が鬼太郎の頭から振り落とされる。

 石動零はこれを片手でキャッチしてやった。

 

「親父さんよ、息子の躾がなってないんじゃねえか? それとも、尻拭いしてくれた相手に後ろから殴りかかるのが、お宅等の礼儀作法なのか?」

 

 石動零は言い捨てて、目玉親父を足下に投げ捨て、去っていく。

 

 雨は、既に上がっていた。


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