ヒカルが筒井さんと囲碁部を立ち上げ、佐為がヒカルの時代にタイムトリップするまで
(主な登場人物(佐為、ヒカル、導師、加賀、筒井、平八、白川、塔矢アキラ、塔矢行洋、緒方、芦原、三谷、ダケ、席亭)
四月の半ばだった。そろそろ若葉が木々を覆い始めていた。
ヒカルは放課後の教室の後ろに座ったまま、ため息をついた。
「いないかなあ。」
「何がだよ。」
「お前には関係ないよ。頭がよくないとな。」
「ちぇっ。何だ。進藤。頭のいいやつに宿題でも頼もうってのかよ。」
「違うよ。碁が打てる奴いねえかなあと思ってさ。」
クラスの半数は、同じ小学校から上がってきた子だった。ヒカルのいた小学校には碁を打つ子なんていなかった。
「そういや、お前囲碁部なんだってな。変な奴。」
「なんだよ。どこが変だよ。」
「でもさあ。何で頭が良くなくちゃいけねえんだよ。進藤って本当に碁なんか打てるの?」
「打てるさ。」
「頭がよくないお前が打てるんなら俺にも打てる ってわけだな。」
「俺は別だよ。あーあ。」
ヒカルは机の上に頭を乗せてまたため息をついた。
「あんたたち何やってんのよ。」
クラス委員をしている金子という女子生徒が声をかけてきた。
「金子。進藤がお前に用があるってさ。」
「何の話?」
「頭が良い奴に用事があるんだってさ。進藤、じゃあな。」
そういって帰ったクラスメートに返事もしなかったヒカルは、金子に気のなさそうに答えた。
「別に。金子に用があるって訳じゃないさ。たださ。碁が打てる奴いないかなって思ってただけさ。」
「私、打てるわよ。」
「えっ?本当?」
「嘘なんか付いてないわよ。碁打てるわよ。お父さんともよく打つわよ。」
ヒカルは体を起こして金子を見た。
「金子。囲碁部に入ってくれ。」
「私、バレー部なのよ。練習が忙しいから駄目。」
「んなこと言わずにさあ。大会に出るのに一人人数が足りなくてさあ。 探してたんだ。碁が打てる奴を。」
「ふーん。大会。碁の大会かあ。大会に出るだけなのね。だったら入ってもいいかもね。 考えてみても…」
ヒカルは金子の腕をむずっと掴んだ。「おお、決まりだ。ちょっと来てくれよ。」 そう言うと、有無を言わさず理科室へ引っ張っていった。
理科室の戸をがらりと開けながらヒカルは声をかけた。
「筒井さん。こいつ碁が打てるんだって。これで大会OKだよな。」
筒井は碁盤から顔をあげて、ヒカルと金子を見て、目を丸くした。
「あのさ。進藤君。団体戦は男女別なんだよ。彼女が囲碁部に来てくれればうれしいけど、大会は別だよ。」
「ええっ。でもいいじゃん。俺だって中学生の振りを。そうだ。金子に男に変装してもらってさ。こいつなら似合いそうだしさあ。」
金子は腕を払うと、その手で、べちっとヒカルの頭をはたいた。
「私、帰るわよ。忙しいんだから。大会だけに出るなら兼部でもいいかと思ったのよ。」
そういうと、金子はスタスタと去って行った。
「進藤君。言い過ぎだよ。」
「いいんだよ。あーあ。男か。あのポスター見て来る奴なんているかな。」
筒井はポスターという言葉に思い出したように言った。
「そうだ。僕、先生に頼んで、もう少し目立つ場所に張る許可をもらったんだ。ちょっと貼りなおしてくる。」
「俺も行くよ。」
柱の陰にあるポスターをはがそうとして、筒井は声を上げた。
「あれっ、答えが書いてある。」
「あっ、本当だ。」
ポスターに載せていた詰碁に答えが書いてあった。
「これ結構難しいんだよ。かなりの腕前だよ。きっと。」
「畜生。誰だ?囲碁部に来てくれてもいいのに。」
そこにちょうど現れたあかりが言った。
「私知ってる わよ。 三組の三谷君。書いてるところ見たもの。」
「あかり。お前。何で早く言わないんだよ。」
「あら。だって、入りたかったら自分で来るんじゃないの。来ないんだったら入りたくないのよ。囲碁部に。」
「入りたいかどうかなんていいんだよ。引っ張って来るんだって。まだいるかな。俺見てくる。」
ヒカルはそう言うと走りだした。
3組の教室にはもう人は殆どいなかった。
「三谷って居る?」
「帰ったよ。」
残っていた子が答えた。
学校を後にしながらヒカルは呟いた。
三谷か。明日誘おう。いや今日は金曜だから…月曜か。どんな奴だろう。
ああ、とにかく走り回ったから腹減っちゃったよ。ラーメンでも食って帰ろうっと。
ヒカルは 傍にあったラーメン屋に入った。
「ラーメン一つ。」
ヒカルが食べ終える頃、出前が戻ってきた。
「次は裏の碁会所にラーメン二つ、頼んだよ。」
店主のその言葉に客の一人が言った。
「へえ。裏の碁会所か。あそこには強い中学生がいるんだよ。私は何度も負けてるよ。」
「あんたが弱すぎるんじゃないの。」
横にいた客が混ぜっ返した。
強い中学生だって?その言葉に惹かれるようにヒカルは出前の後に付いていった。
裏にあるビルの地階の階段を出前は降りていった。
陰気で古びていて、人影の少なそうな場所だった。
ヒカルは少し気後れしながら、出前が開けたドアからそっと中を覗いた。
塔矢んとこの碁会所とはえらい違いだ。
やばそうな雰囲気だけど、席亭は優しそうなおじいさんといった感じがする。
中ほどに中学生がいた。それに気が付くと、ヒカルはずずっと入っていった。
「見るだけなら座ってみてていいよ。」
席亭がヒカルに声をかけてくれた。
ヒカルは頷きながら、中学生の打っている碁盤を見つめた。
もう終局だな。おじさんの方が勝ってるのかな?よく分かんねえや。
「あれ、わしの方がいいと思ったのに、負けか。」
中学生の相手の男は腑に落ちなさそうに言った。
ヒカルもちょっと首をかしげた。
整地も目算もまだ駄目なヒカルだったが、何となく違和感を感じたのだ。
だが、すぐそんな違和感を吹き飛ばすことが起きた。
負けた男が中学生に千円札を渡したのだ。
千円??お金??
「坊主、とりあえず、もう一局だ。今度は取り返すぞ。」
「今日は終わり。部活って言ってるんだ。帰んなきゃ。」
中学生は、そう言うとヒカルの方など見向きもせず、そのまま帰っていった。
負けた男はいらいらした風で、ヒカルに言った。
「お前もやるか。番碁でも目碁でもいいぞ。」
ヒカルには何のことかちんぷんかんぷんだった。黙って首を横に振った。
男はブツブツと呟いた。
「それにしてもあいつ、ここんとこ、結構稼いでるな。急に強くなったとも思えないのに。」
それを聞いた席亭が急に慌てたように言葉を挟んだ。
「いやいや、三谷君は本当に強い子だよ。」
三谷だって。やっぱりあいつ、三谷なんだ。
ヒカルはその碁会所を出て、ほっとした。
何か息苦しいところだった。それにしても千円。
金のやり取りがヒカルの頭には、こびりついていた。
何度も勝ってるのかあいつ。とするとどのくらい儲けてるんだろ。
ヒカルは、ぼんやりと駅前に向かって歩いていった。立ち止まりビルを見上げた。
塔矢の碁会所。 碁会所か。そうだ、他の碁会所は?
「500円ないな。番碁だか目碁で千円稼げたら楽だな…ってオレは負けるかもな。」
そう呟きながらヒカルはドアを開けた。
「あら、いらっしゃい。確かええと君は…」
「進藤。」
「そうそう、進藤ヒカル君だったわね。きょうは打つ?」
「ううん。あのさ。打たないからさ。観察するだけだから。」
「ふーん。今日は見学ではなくて、観察なのね。」
市川は笑った。
「まあいいわ。今は少しすいてるし、ゆっくり観察していっていいわよ。」
ヒカルは 辺りを見回した。
碁会所って今まで見てなかったけど、金賭けるところなのかなあ。
しかし、ここでは、いくら観察しても金をやり取りしてる所は見つからなかった。
俺も祖父ちゃんに勝ったら千円とかって、言ってるけどさ。負けたからって祖父ちゃんに千円払わねえところが違うんだよな。
ヒカルはすぐに観察に飽きて、 奥の方の空いてる席に座った。
それから賭け碁とは別のことを考えた。
初めてここに来た時はあの子ども名人と塔矢アキラの対局を見たんだった。
その次は俺はここで確か佐為と導師さんの対局を並べたんだ。
何かもやもやしたまま、それを忘れるようにヒカルはその一局をもう一度並べた。
そういや、佐為と導師さんに初めて見せたのは、別の対局だったよな。
ヒカルは二人の2度目の対局を並べてみた。
ああ、でも、やっぱ何かすっきりしないや。
受付のお姉さんに賭けの話はしにくいし。ここにいる誰かに聞ける?
駄目だよな。どの人も真面目そうで聞きにくいぜ。
その時、ドアが開いて、アキラが入ってきた。
「こんにちは。」
そう言いながら、アキラは自分の指定席に人が座っているのを少し困惑して見た。
「あら、アキラ君。進藤君なら大丈夫よ。今日は観察だから。」
「観察?」
「そう観察よ。」
アキラが傍にいくと、ヒカルは立ち上がった。
「俺もう行くから。」
アキラは碁盤を見た。
まただ。
「これ君が置いたの?」
「うん。」
ヒカルはさらさらと、碁石をどけて、ささっと、初めから並べなおしてみせた。
そうしながら、急に思いついた。そして突然決めた。
よしっ。こいつに聞こう。こいつしかいない。
ヒカルは立ち上がると、アキラの腕を掴んだ。
「ちょっと聞きたい事があるんだ。ここじゃまずいから。」
ヒカルはそのまま、アキラを強引に引っ張って、廊下に出てエレベーターの前にいった。
「君は一体何なんだ。」
アキラの抗議に耳を貸さず、ヒカルは聞いた。
「教えてくれ。ここの碁会所じゃあ、賭け碁をする時、どうやってるんだ?」
いきなりの突拍子もない質問にアキラはあっけにとられた。それから言った。
「誰かが賭け碁をしてたの?ここで?」
「いや。ここじゃ見てない。だから知りたかったんだ。お前もやるのか。お前強そうだからな。いくらくらい儲けた ?」
アキラはそれには答えなかった。ヒカルをにらむように見た。
「君は賭け碁をするために碁をやるのか?」
「いや、そうじゃなくてさ。」
「僕はプロになるんだ。プロは賭け碁なんかしない。」
「じゃあ。賞金を稼ぐの?」
アキラは少しこめかみをぴくぴくさせた。やっと冷静さを取り戻して言った。
「さっきから君は何を言ってるんだ。いきなり僕をここにひっぱてきて。何を言うのかと思えば、賭け碁がどうとか、 賞金がどうとか。
君は初めてで知らないのだろうけど言っておく。プロは賭け碁なんてしたら即追放だ。 君がプロになることはないだろうけど、覚えておくと良いよ。そんなことはしちゃいけないんだ。
それからプロ棋士というのは。」
アキラは呼吸を整えて言った。
「棋士というのは生活するためになるなんてものとは違うんだ。囲碁の崇高さ奥深さを追及するものなんだ。
棋士の高みをしらない君に言ってもしょうがないだろうけれどね。
お金のためじゃない。みんな必死で頑張ってるんだ。
確かにタイトル戦には高額の賞金は付くよ。でも賞金のためにタイトルを取るんじゃないよ。
賞金は単に名誉の証だよ。そのタイトルだって簡単には手にできない。
みんな血を吐く思いで日々研鑽を積んでいるんだ。
忍耐努力辛酸苦渋。それでも、それを乗り越えても高みに届くとは言い切れない。
僕だって…、僕だって。小さい頃から毎日毎日何時間もだ。どんなに苦しくても打ってきたんだ。
高みに届くために。神の一手を極めるために。それを…。
それを、君みたいに碁を汚すようなことばかり言う人間と。
これ以上話をするつもりはないよ。僕は。
多分まだ賭け碁をするような人も場所もあるのかもしれないけれど。父のこの碁会所ではそれはない。父の名誉を汚すような行為だ。」
そう言い放つと、アキラは腹立たしそうに碁サロンの中に消えた。
「はっ。すげえ。怒らしたか。」
ヒカルは帰る道々考えていた。
「ようするにあそこはやっぱり胡散臭い碁会所ってわけか。でもって中学生だろ。三谷ってそう とうやばくねえか。」
ヒカルの頭には千円札を掴む三谷の手が浮かんできた。