ヒカルが筒井さんと囲碁部を立ち上げ、佐為がヒカルの時代にタイムトリップするまで
(主な登場人物(佐為、ヒカル、導師、加賀、筒井、平八、白川、塔矢アキラ、塔矢行洋、緒方、芦原、三谷、ダケ、席亭)
「囲碁部はどうですか。」
佐為は導師に話すような丁寧な口調でヒカルに問いかけた。
ヒカルも中学生になったのだからそうしようと、そう思ったのだ。
「うん。今日はいっぱい話があるんだ。どれから話していいか分からないけれど 、順番にかな。」
ヒカルはポスターの詰碁を解いた三谷の話を始めた。
佐為はヒカルが盤上に置いた詰碁を見やって言った。
「この詰碁、そうですね、初心者には少々難しい。それを簡単に解いたのなら、少しは腕に覚えがあるのでしょう。それでその子は囲碁部に入ったのですか。」
ヒカルは、首を横に振りながら、ビルの地下にある碁会所で見たことを話した。
佐為が賭け碁をどう思うか分からなかったが、少なくとも塔矢アキラほど、騒ぐとは思えなかった。
佐為はその話を聞いても特に驚いた風もなかった。
「席亭が認めるくらい強い子なら、是非囲碁部にほしい人材ですね。ヒカルには。」
ヒカルはちょっとため息をつきながら、話した。
「そうなんだけど。今度学校であったら頼んでみるよ。囲碁部に入るように。だけど俺さ。なんだかよく分からないけどすっきりしないんだ。」
「すっきりしないとは何が?」
「うん。」
ヒカルは覚えていた三谷の打っていた整地前の盤面を置いてみた。
「確かこうだと思うんだけどね。」
佐為はちらと見て言った。
「これは白の勝ちですね。」
「白の?でも整地したら、黒が2目勝ってたんだ。三谷の勝ち。」
「整地というのは実戦では案外難しいものですよ。初心者には、ですけどね。でも 賭け碁をするというのは初心者とは言い難いかも。しかし二人がどの程度強いのかはわからないし、整地や目算が苦手という 者もいる。単に間違えたのか、或いは、いかさまの場合もあるが。」
「いかさま?」
「不正を働いたということですよ。相手に気づかれないように石をずらすなどしてごまかすのです。ただ私はそれを見ていないし、たまたま整地を失敗した場合もあるから何とも言え ませんよ。」
そう言ってからヒカルに訊ねた。その時は丁寧な言葉遣いは失せていた。
「ところでその賭けた金額だが。千円とはどの程度の価値がある?」
ヒカルは困った。佐為が言うには平安のこの時代にもお金はあるらしいけれど、布や米で物々交換する のが一般的らしい。
米って今いくらなんだ? 米なんて俺買ったことないし。でもおにぎりだったら、10個は買えるかな。
佐為は言った。
「千円で白米の握り飯が10個買えるというのか。虎次郎の頃を考えれば…」
ヒカルと同い年の子どもにとっては相応の良い値段にも思える。
佐為は少し黙り考えをめぐらしていた。 もし不正を知ったら、席亭はどうするものだろうか。席亭が急にその三谷という子を庇うように喋ったのが気になる。仲間?いやそうとも思えぬ。
ヒカルは佐為に 聞いた。
「そうだ。佐為は賭け碁をしたことがある?」
「賭け碁を? もちろんだ。特にこの御世では賭というのはとても盛んだ。碁に限らないが。」
「そうなのか。虎次郎の時もそうだった?」
「当然に。だが、なぜそのようなことをヒカルは聞く?」
ヒカルはちょっと頭をかきながら言った。
「実はさ。今日はマジで参ったんだ。」
ヒカルはアキラの話をした。
「ほう。塔矢アキラのその碁会所では賭け碁はしないのか。なるほど。要するにヒカルの時代はプロは賭け碁はやってはいけないわけか。そしてプロがやっている碁会所でも同じくやらないものというわけだな。」
それから少し笑って言った。
「ヒカル、私は賭け碁が悪いとは思わぬ。それで糧を得るのも悪くはない。
でも塔矢アキラの言った言葉は私はとても好きだ。
棋士は高みを目指す。その気持は私と同じだ。
彼は幼い頃よりひたすら努力してきたのだろう。神の一手を極める。そのために。志の高い少年だ。 なかなかできないことだ。」
ヒカルはうんざりした口調で言った。
「そうかもしんないけど。でもさあ。あいつ、ヒステリックなんだぜ。ベラベラ、ベラベラ一人で喋りまくって。忍耐がどうとかクジュウがどうとか ってさ。」
佐為はくすくすと笑った。
「ヒカルが金の亡者に見えたのであろう。賞金がほしいだけの欲張りに。」
「俺、そんな欲張りじゃないぜ。本当にいきなり腹立てたんだ。塔矢の奴。」
ヒカルはぶすっと言った。
ヒカル。分かっている。そなたは言葉遣いや礼儀は、なってないが。それが摩擦を生む元だが。でも 真っ直ぐな怖いもの知らずの正義感に溢れた少年だ。塔矢アキラも同じく真っ直ぐな、そして向上心に富む少年なのだろう、だからぶつかるのだ。
それから言葉に出した。
「ヒカル。塔矢アキラの目指す囲碁の高み、神の一手。私もそれを目指しているのだ。
だからこそ、石の力を借りて、優れた碁打を捜し求めている。心ときめく対局をするために。
その気持のゆえに、ヒカルとめぐり合い、こうして話をすることができる。」
佐為のその言葉は、ヒカルの心に響いた。
碁の高み、神の一手って、すごくいいもんなんだ。
それから急にヒカルは思い出した。
「ええっと…あるかな。」
ヒカルは隅に畳んで置いていたズボンのポケットを探り、紙切れを引っ張り出した。
「それは何か?」
「前にさ。佐為がいろいろ聞かれたけど、俺、答えられなかっただろ。だから調べて書いてきたんだぜ。」
そう言うとヒカルは紙切れを読み始めた。
「えーと、まず虎次郎が死んでから碁所がどうなったかっていう話だけど。
大政奉還がおこなわれて、幕府が消えてから、囲碁界は碁盤がなくなり…じゃなくてこれ碁って字じゃないよな。何て読む んだっけ。えーと…そうだ基盤かな…。それで、えーっと…」
佐為は少しため息をついて言った。
「ヒカル。それを見せてくれぬか。私が読むほうが早いであろう。この前の詰碁の本も読めた。 知らぬ字も少々あったが同じ日本語だ。それも読めぬことはあるまい。」
佐為はヒカルが手渡してくれた紙を見て困惑した。
「ヒカル。これはそなたが書いたのか?」
「うん。そうだぜ。大変だった。こんなに沢山書き写すの初めてでさ。」
「悪いがこれは私には読めぬ。字には見えぬのだ。」
「ちぇっ、何だよ。折角書いてきてやったのに。あっ、でも書いた俺も読めないけど…。漢字が多くてやんなっちゃったし。」
「沢山書いた努力は認めるが。ありがたいとおもうが。」
そう言うと佐為は急に立ち上がった。
「私は今、決めた。そなたに碁を教える前に手習いを覚えさせることにする。」
「手習い?」
「そうだ。字は人となりを表すものだ。書いた文字というのは心が宿るものだ。
手習いをすると、そなたの打つ碁にも反映するであろう。」
佐為は筆と紙を用意した。
「筆で書くの?」
「ヒカルの時代には筆がないのか?」
「ある。小学校でもやったよ。習字。でも俺飽きちゃうし、続かないし。」
佐為はあっさりと言った。
「飽きるほどやるのは無意味だ。紙は大切なものだ。紙に書いたらそれはもう消せない。紙を無駄にせぬように 一文字一文字を集中して書くのだ。ヒカルは碁を打つ時にはすばらしく集中するではないか。 碁石も置いたら動かすことはできない。碁と同じだ。」
佐為はそう言うと、すらすらと手本を書いた。その筆跡は鮮やかだった。
ヒカルは今までそうやって筆を操り書を嗜む様子を見たことがなかったので、ぼうっとそれに見とれた。
すげえや、佐為って。
しばらくヒカルは佐為に教えられて習字に没頭した。
こうやってみると結構面白いもんだな。字を書くって。
筆と墨を片付けると、お茶を飲みながら佐為は言った。
「ヒカル。江戸では棋士は尊敬の対象だ。名人碁所になるには、棋力だけでなく人格も試される。
それでも賭けて楽しむこともある。賭けること自体は人格を否定するものでは全くない。
要するに碁を楽しむために賭けるのはいいと思う。しかし、糧を得ることが目的になるのは気に入らぬということだ。それでは碁が単なる道具にされてしまう。それでは何のために碁を打つ のか。碁でなくてもなんでもいい、金が手に入ればいいということになるではないか。」
そう言ってから、佐為はいたずらっぽい顔をして声を低めた。
「私も賭ける。実はこの間も導師と賭けをしたのだ。」
「導師さんと?何を賭けたの?」
佐為は澄まして言った。
「ヒカル。そなただ。」
「俺?」
「そう、私がそなたが中学に通っている間に導師に勝てるまでに導けるかを賭けた。もちろん三子置きでだが。」
「導師さんに三子置き?佐為じゃなくて?」
佐為はむっとして言った。
「当たり前ではないか!ヒカルが、私に勝てるなどと思うだけでもおこがましいとは思わぬか。
導師は素晴らしい打ち手だ。だからまずは三子置きで導師に勝てるよう努力するのだ。」
「導師さんはどう言ったの?」
「そう、導師はそなたに甘い。ヒカルが力をつけるのは嬉しいがのんびり碁を楽しませたい。急がせたくないと言っていた。
しかし、私は自分が決めたこの賭けに勝とうと思う。導師も本当は楽しみにしている筈。そなたと打ち合う時を。 だから私はそなたを思いっきり厳しく指導する。 」
ヒカルは即座に答えた。
「望むところさ。」
ヒカルと佐為は頷き合い、お茶を置き、碁盤に向き合った。