ヒカルが筒井さんと囲碁部を立ち上げ、佐為がヒカルの時代にタイムトリップするまで
(主な登場人物(佐為、ヒカル、導師、加賀、筒井、平八、白川、塔矢アキラ、塔矢行洋、緒方、芦原、三谷、ダケ、席亭)
ヒカルに手を引っ張られてサロンを出て行ったと思ったら、すぐにアキラだけが戻ってきたのを、市川は訝しそうに見た。
「進藤君はどうしたの?」
「ええ、用があるって帰りました。」
アキラは、さりげなさそうに答えたが、それほど上手くいかなかった。
アキラは、腹を立てていた。
僕が怒っているのは、彼が碁をいやしめたからだ。賭け碁がどうとか、賞金がどうとか…、そのことが腹立たしいのだ。
そう思おうとしたが、実のところ、それ以外のことも要因だと分かっていた。
アキラの指定席には、ヒカルが置いてみせた佐為と導師の棋譜が残されていた。
それが腹立たしかった。
イライラさせられるんだ。進藤ヒカル。彼には。何がって…。そう、それがよく分からない。
アキラは石を片付け、窓の方を見ながらふっとため息をついた。
市川はお茶を入れながらそっとアキラの様子を伺った。
進藤君て、年も同じだし、屈託なさそうな子だから、結構良い友だちになれそうなのに。
アキラ君にはやっぱり棋力が合わないと、友だちは無理なのかしら。残念ね。
翌日、塔矢行洋の家の座敷では週1回の研究会が開かれていた。
弟子のひとりの笹木が言った。
「アキラ君。中学生活はどう?まだ始まったばかりだけど。」
「どうやら慣れました。」
アキラは優等生風に答えた。
「秋にはプロ試験があるし、来年からはプロ棋士だし、アキラ君がゆっくり中学生活を楽しめるのは今しかないでしょう。」芦原が言った。
「おいおい、試験に受かってもないのに。まあ、アキラ君のことだから失敗はないと思うけどね。」
笹木はそう言った。
緒方はその会話には加わらなかった。
「先生が戻られるまで、一局打つか。」
「アキラ、俺と打ってくれる。」
芦原がすかさず、そう言った。
「お願いします。」
そうして始まった碁だけれど、芦原は間もなく頭をかいて、言った。
「アキラ。ちょっとさあ。力が入り過ぎてないかい。」
「芦原、もう負けたのか?」
緒方が聞いた。
「ああ、えっと、何かその、いつもの調子が出なくって、完敗です。」
笹木が言った。
「いつものことじゃないか。芦原は3回に1回はアキラ君に負けてるからな。」
その時、行洋が入ってきた。
「どうしたのかね。」
「芦原がアキラ君にやられたんですよ。また。」
行洋はちらと碁盤を見たが特に何も言わなかった。
「何か今日のアキラ君は攻めて攻めて攻めまくる碁で、いつものことを考えてたら調子がくるってしまって。やっぱり、プロ試験を目指してるから力が入ってるんですね。」
「芦原。そんなこと言っていていいのか。若獅子戦が近いのに。」
「ああ、それは頑張りますよ。なんて言ったって今年は最後だし。」
「最後?」
行洋が聞き返した。
「ええ、あれは二十歳までなんです。僕は今年二十歳なんで、どうしても決勝まで行きたいですよ。」
「おいおい、決勝までって。消極的だな。優勝って言わないのか。」
笹木が呆れたように言った。
「だって。無理ですよ。今年もあいつが出て来るし。くじ運を祈るしかないですね」
芦原は当たり前のように言った。
「くじ運?あいつとは誰だ?」
緒方が訊ねた。
「倉田ですよ。倉田。去年も優勝したし。」
「倉田君か。同い年なんだろ。しっかりしろよ。芦原。」
「倉田君は本当に注目の成長株ですね。」
弟子達のやり取りを聞きながら、行洋は一言、言った。
「検討に入ろう。」
行洋のその言葉ですぐに対局の検討が始まった。
アキラはそれをじっと見つめ、熱心に聞いている風に見えたが、心は別の所をさまよっていた。
あの古めかしい棋譜は誰のだろう。相手は三子置だった。指導碁なんだ。秀策の碁に似ているけど。秀策の棋譜?でもあの進藤が 、そんな棋譜の勉強をしているとはとても思えない。
とにかくあの棋譜の二人は、どちらもなかなかの力量の持ち主で、老練な打ち手に思える。
前のも昨日のも同じ人の棋譜だろう。いったい誰なんだ? 相手は進藤じゃないことは確かだ。
でも、そもそも何で彼はあんな棋譜を並べるんだろう?それも僕に対して、わざわざ。
大体あれが暗譜できるのならもう少しましな碁を打ってもいいじゃないか。
アキラは、そこまで考えると、無性に腹が立ってきた。
僕はプロになるんだ。雑事にかまってる暇はないのに。それなのに…。
僕はあの程度の棋譜なら、いっぱい知ってる。彼は失礼だ。賭けるとか賞金がどうとか…。本当に失礼だよ。
それから、アキラは研究会に出席していることを思い出した。
今朝の碁も乱れていたが…。 身が入っていない息子を行洋は、ちらと見たが、何も言わなかった。
「あーあ。今日は本当に参りましたよ。」
緒方に車で送ってもらいながら芦原は言った。
「何が参ったんだ?」
「アキラ君ですよ。彼、ここんとこ少し様子がおかしくありませんか。中学で何かあったのかな。」
「アキラ君はそういうことで動じるような子じゃないだろう。それに彼は学校なんか眼中にない子だ。もし何かあるとすれば、碁のことしかないだろうな。碁会所かどこかで 何かあったんじゃないか。」
「ないですよ。たぶん。あったら市川さんが何か云う筈ですよ。やっぱ。プロ試験を受けることに決めたので、力はいってるんですよ。アキラ君は天才なんだから今からそんなに張り切らなくてもいいのに。」
緒方は、フンというような顔をした。
「プロ試験ねえ。力が入っている?俺には逆に思えるが。集中というか覇気がない気がするよ。」
それから兄弟子らしく芦原に言った。
「俺は、アキラ君が生まれた時から知ってる。彼は本当に天才だと思うか?芦原は天才というのはどういうものだと思っている?アキラ君が天才なら塔矢先生は何だと思 ってる?やっぱり天才か?」
「ええっ?そんな。緒方さん。難しいこと聞くんですね。塔矢先生は、うーん、天才なんて失礼な気も。何でしょう?最強棋士ですね。先生は。」
「俺はアキラ君は天才だと思っているよ。塔矢先生もな。質の違う天才さ。天才といって失礼があるかい。
芦原。天才というのはな、なんでも生まれつきというわけじゃない。作られるものなんだよ。
アキラ君は本当に生まれた頃から、最適な環境で最良の教育を受けてきたと思うよ。
最初から最高の打ち手とだけ打ってもらい、過去の優れた対局を勉強し、スキルを磨いてきた。
今やアキラ君の頭には、数多の優れた局面が蓄積されてるんだ。そして彼は多くの場合、自然とその局面に合わせた最良の手を思い浮かべられる ようになった。
努力の賜物だ。好きでなければ出来ないことだな。
ただ同じような環境で同じような教育を受けたらといって、皆同じかといえばそうとは言い切れん。プロになれる奴には 、素人とは決定的な違いがあると思う。どいつにもそれなりの素質があるものだ。
しかし、最強の囲碁棋士になろうとしたら素質だけでは無理だ。アキラ君の持っている能力は、 幼い頃から訓練して得た優れた棋譜の記憶の中から無意識に瞬時に最適なものを引き出せる能力だ。 俗に直感といわれている奴だ。
だがな。どうだ。塔矢先生は、アキラ君ほど幼い頃から碁を始めたわけではないが、長年の研鑽の先に、その経験 に培われて今がある。 現に今最強の棋士といわれている。
いいか、俺たちもまだ間に合うわけだ。芦原。見習うべきは先生だろ。先生を手本にするんだな。」
「そりゃそうですが、でもなあ、年月をかければいいってわけでもないでしょう。
倉田を見ると感じちゃいますよ。あいつは中学に入ってから、初めて碁を始めたって言うじゃないですか。俺は小学生の頃から院生でしたよ。で、中二で倉田が院生になった時にも院生だった。それで、中三で倉田がプロ試験に受かった時もまだ 俺は院生でしたよ。
倉田も確かに、そりゃあ、熱心に勉強してましたよ。でも俺だって必死でしたよ。
でも倉田を見ると何かもう…。」
緒方はやれやれという顔で芦原をチラッと見た。
「天才にはいくつかパターンがある。コツコツと碁を続けることによって作られる天才もあれば、碁ではない他のことをやっていて磨かれた能力がそのまま碁に当てはまる 奴もいるんだと思うね。倉田はおそらく碁ではない何かを熱心にやっていたんだと思う。それは 碁とは全くかけ離れた遊びかもしれないが。とにかくそれが碁の才能を伸ばすのにうってつけの何かだったんだろう。」
芦原はやっと頷いた。
「それにしても本当に碁の天才っているんでしょうかね。世にいう天才っていう奴ですよ。本当に何にもしてないけど碁を始めたらあっという間に伸びていく才能ですよ。」
「あると思うね。大人になってからでは、無理の気がするが。子どもなら可能性はあるよ。だから俺は子どもの碁が面白いと思う。まあ、そういうのは万に一つの才能の気がするが。育ててみたいよ、そういう奴が 、もしもいたらだが。」
「ええっ。育てるって?そんなのがいたら、将来、強力なライバルになるかもしれないんですよ。」
「芦原は馬鹿か。 俺は強力なライバルが欲しいね。そういうのがいればいるほど、やる気が出てくるってもんだろう?強い奴と 打たなきゃ、碁なんぞ面白くない。
それにな。どんな才能でも俺は怖くない。
天才が騒がれるのは子どもなのに、大人を思わせる打ちっぷりをするからだろう。
だが、そこまでだ。そこから先は互角の戦いとなる。そこから先が、我々プロの戦いなんだよ。努力と経験がものをいうわけだ。俺たちには手本がある。塔矢先生というな。がんばれよ。芦原。」
芦原と別れた後、緒方はつぶやいた。
「それでも努力だけでは埋められない元の才能というのは確かにあるんだ。 プロになる素質を持つ奴はそこそこいるだろうが、トッププロの素質は誰もが持てるわけではないよ。それは、 ほんの一握りの特権なのだ。芦原には無理だが、俺は確かにそれを持っている。塔矢行洋のようなやり方で力を伸ばすのは 可能だ。だから俺は彼の門下生になった。俺は最強になってみせる。 それももうすぐにな。そして塔矢アキラを迎え打ってやろう。」
青信号になった瀟洒な通りを緒方の車はスーッと走り去って行った。