ヒカルが筒井さんと囲碁部を立ち上げ、佐為がヒカルの時代にタイムトリップするまで
(主な登場人物(佐為、ヒカル、導師、加賀、筒井、平八、白川、塔矢アキラ、塔矢行洋、緒方、芦原、三谷、ダケ、席亭)
昼過ぎだった。ヒカルは、ラーメン屋の裏の碁会所に下りる階段の上で、ためらっていた。
今日は土曜日だけど、三谷いるかな?
佐為は、はっきり言わなかったけど、三谷がイカサマしたと思ったんだ。俺、確かめてみる。
それでもし…。いや、俺が見ても分かるんだろうか。イカサマの手口なんて。
もし分かったからといって、俺に何ができるんだろう。うっかり大騒ぎにしたら、学校にばれちゃうんじゃないか。 やめよう。やっぱり、月曜日に学校で三谷と話そう。
そう思って、階段の傍を離れてかけた時、三谷が来るのが見えた。
ヒカルはドキンとした。すれ違いざま、三谷はヒカルをじろっと見た。
「お前。昨日来た奴だな。」
「ああ、同じ中学だよな。三組の三谷だろ。」
「俺に何かようか。」
「あのさあ、俺、囲碁部なんだよ。だからさ…俺、三谷に…」
「だからなんだってんだ。うぜえよ。俺はお前なんかに用はないぜ。」
冷たく言い残してドアの中に消えた三谷の姿を見送ったまま、ヒカルはしばらくぼうっと突っ立っていた。 そうしながら相変わらず頭の中でぐずぐず考えていた。
行くぞ。いや、でも、もし、何かあったら、どうするんだ。どうしよう…。
ヒカルはだんだん考えるのが面倒くさくなった。それで考えるのをやめた。
ええい、なんとかなるさ。 その時はその時だ。俺は決めたぞ。どうなろうと何が起きても、俺は俺の気持通りのことをやるぞ。
呼吸を整えると、ヒカルは階段を下り、そっとドアを開いた。
カウンターの後ろで、新聞を読んでいる席亭がみえた。それから真ん中のテーブルに品のない男が一人、三谷と向かい合ってい るのが目に入った。他には誰もいなかった。
ヒカルは思った。
今日は、これだけなんだ。何か起きてもなんとかなりそうだな。
三谷の相手をしていた男がヒカルを見て言った。
「ありゃ、また子どもかい。まさか、また万札をかけてくるんじゃねえだろうな。」
「ま、まんさつ?!」
ヒカルは驚いて声を上げた。やばいよ。
席亭が顔を上げてヒカルに言った。
「昨日の子だね。打つかい。」
「ううん。見るだけ。」
ヒカルは首を振りながら言った。
三谷の相手をしていた男は覚束ない手つきで石を置いていた。置く場所も的外れだった。
その男が石を置きながらヒカルに言った。
「友だちかい。だったら、友達なら、このあんちゃんに一言、言ってくれないかい。」
ヒカルは、きょとんと男を見た。
「まったく、このあんちゃんは手加減を知らねえんだよ。ちったぁ、年寄りはいたわるもんだってよ。 言ってやってくれよ。」
三谷は男を無視し、冷たくヒカルに言った。
「何を見に来たんだよ。お前。」
何って…。その言葉にヒカルは急に熱が冷めた。
俺何やってんだ。この対局は三谷が勝ってるし、相手はあまり、いい手を打ってこないし、今日は大丈夫だ。単に賭け碁なだけかも知れない。 一万円は高すぎるけどさ。
ヒカルは気を抜いた。そして、心の中で佐為に言った。
大丈夫だぜ。佐為。何も悪いことは起きないよな。イカサマもないよ。
ヒカルの耳には“そうですね”と佐為の声が聞こえた気がした。
三谷は余裕の態度で男に言った。
「あんた。こんな腕でよく万札かけるな。見栄はりでいいかっこしいのおっさんって多いんだよな。」男は卑屈に笑った。
「あんちゃん、勝ったと思ってるね。でもよ。勝負は下駄を履くまでわからねえって言葉、知ってるかい。最後まで 笑っちゃいけねえ。勝負ってもんはよ。そう思うだろ。あんちゃんは経験豊富そうだしな。分かってるよな。」
三谷は落ち着き払って答えた。
「おっさんもいいこと言うんだね。」
「へえ、あんちゃん。人の話を聞く耳持ってるな。将来見込みあるぜ。」
男はそう言うと、ライターを取り出し、タバコに火をつけた。 タバコを右手に持ち替えると、左手で石を置いた。鮮やかな慣れた手つきだった。
三谷がぎろっとそれに目をやり言った。
「おっさん、本当は左利きか?」
男はニタっとした。
「へえ。観察力も鋭いな。たいしたもんだ。じゃあ、ついでにいいだろ。ちょっと早いが勉強させてやろうかね。大人の碁って奴を。一万円の授業料でな。」
男の目つきが変わった。濁った凄みのある目だった。ヒカルは身震いした。
「あんちゃんはさ。こんなヘボ碁を打った後じゃ、何をやっても追いつくはずがねえと思ってるだろ。ところがどっこい。 俺にかかれば。」
男は三谷が打ったすぐ後に、間髪入れず、急所に打ってきた。
“おい。これどうなったんだよ。何だよ。コイツ。騙してたのかよ。佐為、ひどくない。”
“ひどいですよ、最低です。”
“そうだよな。”
そう心の中で佐為と勝手に会話をしてから、ヒカルは佐為に伝えなければと必死に目を凝らして盤面を追った。
「勝負はこれからだぜ。」そう男は言った。
5目、10目、15目…
いくらなんでも、もう三谷は勝てないよ。こいつには。レベルが違いすぎるよ。
ヒカルがそう思った時、男の指があからさまな手つきで石をずらした。
もう男の勝利が確定しているにもかかわらずだった。それは、わざと三谷に見せつけるためのようだった。
“石をずらしたよ。 ねえ、佐為、俺見えたよ。石ずらしたのが。”
男はからかうように三谷に言った。
「ホラホラ、どんどん形勢が傾いていくぜ。何とかしないと、整地でいじりでもしなきゃ勝てないぜ。」
男は、にやりと笑った。獲物をしとめて、いたぶるのを楽しんでいる目つきだった。
ヒカルはそれに猛烈に反感を覚えた。
“我慢できないよ。こいつ。”
“ええ、吐き気がしますね。全く。”
「さて、どちらが勝ったか分かるか。」
三谷にそう言うと男は金を催促するように手のひらを差し出した。
「コミを入れて12目半の差。あんちゃん、さあ、一万円だしな。」
三谷は黙って立ち上がり、ポケットから、ありったけの金を、千円札やら、百円玉やらを取り出した。
男はそれを数えて言った。
「20円足りねえぜ。」
ヒカルは思わず、にじりよって言った。
「三谷。俺が貸すよ。」
ヒカルがそういうのを無視し、三谷は席亭に言った。
「おじさん、20円、貸してくれる。」
席亭が頷いてレジをあける間に、相手の男が言った。
「あんちゃん、どうだい。分かったかい。おいたが過ぎるとな、こうやって俺みたいのが呼ばれるんだよ。 ははは。」
三谷はえっという顔をして、席亭を見た。席亭はうろたえて下を向いた。
席亭が仕組んだのか?三谷は今日起きたことの全てを察し、自分が席亭を裏切ってきたことを忘れ、唇をかんだ。
それから、やっと声を絞り出し、ヒカルに頼んだ。
「に、20円貸してくれないか。」
ヒカルの差し出した20円をテーブルに投げ出すと、三谷はものも言わず、誰にも目を向けず、碁会所を出て行った。
ヒカルは、全てを拒否するようなその三谷の後姿から、三谷が受けた傷の大きさを感じた。
三谷って、もしかしてもう碁を打たなくなる?俺よりずっと強いのに?
ヒカルの中で何かがうずいた。
“佐為。こいつを思いっきり打ちのめしたい。俺じゃ力不足なのは分かってるさ。でも例え負けても 何かしなければ気がすまないんだよ。佐為。俺間違ってるか。”
ヒカルには佐為が同意してくれていると思えた。
“いいよな。佐為。”
“ええ、打ちのめしてやりたい最低の男です。ヒカルの気持は私の気持ですよ。”
佐為がそう言ってくれるように思えた。
ヒカルは真っ直ぐ男の傍に行った。
「今の、ひどくないか。俺、あいつの友だちなんだ。何であんな最低のことしたんだ。おじさんは。」
「最低?何のことだ。強い者が勝つんだよ。お前も打つか。あんちゃん。お勉強代として万札かけるなら打ってや ってもいいぜ。」
席亭が不機嫌そうに言った。
「ダケさん、子ども相手にもうおよしよ。坊やももう帰りな。みんな帰るんだ。今日はもうおしまいにするから。」
ヒカルはそれに答えず、黙って三谷が座っていた席に着いた。
男はニヤッとした。
「俺の腕は知ってるだろう。」
ヒカルはキッと男を見た。
「おじさんは初めに油断させておいて。しかも勝ってるのに、さらに石をずらしたろ。最低だ。強いんじゃないよ。 強い奴はそんなことはしない。真っ直ぐやったら、勝てないんだ。だからだ。」
男は呆れたように言った。
「おお、このあんちゃんは、怖いもの知らずだな。俺を挑発するってのかい。この俺を。いいだろう。あんちゃんにも たっぷりお灸をすえてやろう。ホラ、勝てたらこの一万円をやるよ。置石は幾つがいいかね。」
男はポケットから1万円を取り出しひらひらさせ、それを碁笥の傍に置いた。
ヒカルは頭に血が上っていた。
「金なんか惜しくない。置石なんか、いらない。お前みたいな卑怯な奴に誰が置石なんておくかっ。」
「ああ、ったく最近の子は。私はもう知らないよ。」
席亭はイライラしたように言うと、テレビの方へ向いた。
ヒカルは目を閉じて祈った。
“佐為…。力を貸してよ。お願いだ。”
男は黒を持ち、星に打ってきた。
“どうする、佐為。”
“右下スミ小目。”
ヒカルには佐為の声が聞こえる気がした。ヒカルは頷いた。
“俺には佐為がついているんだ。絶対こいつを打ちのめす。”
“ヒカル、このようなやからは心胆寒からしめてやります。あっというまに方をつけましょう。中押しです。行きますよ。”
“うん、佐為。”
ヒカルは心に響く佐為の声に従って、ただ石を置くだけだった。
あっという間だった。形勢はすぐにヒカルに傾いた。それは動かし難い事実だった。
男は呆然とし、余裕をなくし、 次に身をすくませた。男はどうにもならない自分の負けを悟り、固まったままだった。
よし、ヒカルは頷きながら集中を解いた。その瞬間、なにやら自分の右側に気配を感じた。
顔をあげ、目を凝らすと、そこにぼんやりと佐為の姿が浮かんできた。
佐為は厳しい表情のまま言った。
「さあ、ヒカル。お金を取り返したら、ここに用はありません。すぐに出ましょう。」
佐為の姿は見る見るはっきりした姿となった。佐為は、碁会所のドアノブに手をかけ、階段に向かっていった。
ヒカルは、驚きで一瞬、動けなかった。それから我に返り、お金を掴み慌てて佐為の後を追った。
しかし階段にはもう佐為の姿は無かった。急いで上がった通りにも佐為はいなかった。どこにも見当たらなかった。
慌てて碁会所に戻りドアを開けて確かめた。対戦相手の男は、まだ固まったまま、じっと座って碁盤を見つめていた。 席亭はテレビの方を向いたままだった。
ヒカルはそっとドアを閉めた。その時、階段の途中に布の切れ端がぶら下がっているのを見つけた。
それを手にとるとヒカルは呟いた。
「佐為のだ。絶対に佐為のだ。」
狩衣の端が壁から飛び出ていた釘に引っかかり、裂けたのだ。
やっぱり、佐為はこっちの世界に来たんだ。
ヒカルは近辺を歩き回った。
いないなあ、帰ったのか?
佐為は俺だけに見えたんだろうか。あの姿を誰かに見つかって変に思われたんじゃないだろうか。迷子になったんじゃないか?
ヒカルは必死で近辺を歩き回って佐為の姿を探し求めた。
佐為を探すのを諦め、疲れきったヒカルが家に戻ると、母親は厳しい声で言った。
「ヒカル、どこに行ってたの?こんなに遅くまで。もう晩御飯の時間はとっくに過ぎてるわ。」
それから気が付いたように言った。
「あら、何?その布は?」
えっ。
ヒカルは手に握り締めていた布切れを見つめた。
お母さんに見えるんだ。この布。じゃあ、佐為は見られたに違いない。誰かに。佐為…。
ヒカルはぐるぐるとした。
俺がこれから平安に行ったら、佐為はいるのかな。もしかして平安に戻っていなかったらどうする。
あれは俺じゃない。佐為が打ったんだよな。あの時は声が聞こえた気がしたけど、 佐為が横にいたんだ。でも終わって俺が佐為に気がついた時は…でも俺だけに見えた筈…あの席亭のおじさんも、あいつも気が付かなかった。見えなかったんだ…。 でもお母さんにこの布が見えたってことは…。
ああ、わけ分からないよ。
「今はまずいや。晩飯が済んでからだ。」
ヒカルは初めて、時の旅の危険性を感じて、石を使うことにひるんだ。