中学の大会、佐為が自由にヒカルの時代で過ごせるようになるまで
(主な登場人物…佐為、ヒカル、導師、三谷、筒井、広瀬、北島、アキラ、あかり、津田、日高、美津子、平八の妻、術師、正夫)
佐為とヒカルは馬に乗っていた。
「ヒカルは運動が好きと言っていたが。さすがだ。こんなに早く馬を乗りこなせるとは。遠乗り できるのもそう遠いことではなかろう。藤はもう終わってしまったが、秋には、ヒカルと紅葉を愛でに行きたい。」
ヒカルは少し自慢気に言った。
「俺、遠乗り大丈夫だと思うぜ。馬に乗るって面白いね。気持いいし。それになんだか背が高くなって、見る世界が変わるって感じがするんだ。」
その言葉を聞いて、佐為は笑いをかみ殺した。仔馬に乗り、背が高くなった気がしていると言う小柄なヒカルを眺めた。
「はは。 確かに目線は高くなるな。ヒカルは、もっと大柄な馬に乗りたいのであろう。都にも何頭かそのような馬はあるのだが。」
二人が足並みを揃え、林をすり抜けるように出た先には、野原が広がっていた。
「へえ。邸の近くにこんな原っぱがあるんだ。」
ヒカルは感嘆の声を上げた。
二人は、馬を降り、傍らの木に並べて馬を繋いだ。
「都の近くには、このような場所があちこちにある。歩いても来られぬことはないが。ここに人が来ることは稀だ。私は時々ここへ来て、のんびりする のが好きなのだ。一人っきりになれるから。」
ヒカルは不思議に思った。
佐為って、邸にいてものんびり生活してるよな。それに一人で暮らしてるようなもんじゃないのかなあ。それでも一人でのんびりする必要があるのか…。
「あっ、あの木、あれ登りやすそうだね。」
ヒカルが指した木を見て佐為は頷いた。
「木の股が低いし、座るにはちょうど良い木だ。ヒカルは目敏いな。」
ヒカルは、その木に駆け寄り、すぐよじ登った。登りやすい木だな。そう思いつつも、佐為が落ち着いた様子で木に登 ってきて、ヒカルの横に腰をおろしたのには 目を丸くした。
「佐為って、運動音痴なのかと思ってたら、全然違うじゃん。歩くのは早いし、馬も上手だし。木登りも得意なの?」
佐為は笑って答えた。
「この木には子どもの頃から登っている。今ヒカルが寄りかかっている枝は子どもの頃の私のお気に入りの場所だった。」
「へえ。そうなんだ。いいなあ。佐為は。俺のところにはこんな木ないよ。幼稚園の庭に木登りの木っていうのがあったけど 、登るだけで、こんなにゆったりした木じゃなかったよ。」
佐為はくつろいだ様子でヒカルに言った。
「ヒカル、今日はいいことがあったのか。何かとっても嬉しそうだ。」
ヒカルはうんと頷いた。
「あった。今日、俺、初めて互い戦で三谷に勝てたんだ。 前に筒井さんに勝てた時も嬉しかったけどさ。でも今日、三谷に勝てた時は興奮したよ。だって三谷って強敵だもの。」
佐為には驚きはなかった。ついにやったのだなと、そう思った。
「では、ヒカルが大将になるのか?」
ヒカルは首を横に振った。
「ううん。大会は来週だし、大将はやっぱ三谷だよ。筒井さんは安定感と実績重視だからね。でも俺もそう思うよ。 三谷には、まぐれで勝った訳じゃないけど、次勝てるかは五分五分だもの。大会は、とにかく三人で頑張るんだ。三谷も最近すごく真面目なんだぜ。 安心して大将って呼べるよ。」
佐為は、ヒカルが三谷を囲碁部に連れていった時の話を思い出していた。
あの時ヒカルはかなり憤慨していたが。
「三谷って、最初囲碁部に呼んだ時はふてくされていてさ。一万円渡してやったのに。筒井さんと打った時なんて、 わざとずるして筒井さんに二度打ちさせて、筒井さんを怒らせちゃって。
どうなるかと思ったけど。俺や筒井さんじゃ物足りないんだよな、三谷は。
それが分かったから俺は早く三谷の相手になれるようにってがんばった…。やっと、 今日、それが叶ったんだぜ。」
「ヒカルは前に、三谷は七日に一度しか囲碁部に来なかったと言っていたな。」
「うん。でも俺が筒井さんに勝った辺りから、結構来るようになったよ。大会が近いから今は毎日理科室を使っていいって、タマ子先生が言ってくれてさ。何か碁会所みたいなんだぜ。 理科室が。」
「囲碁部はいい雰囲気なのだな。」
「うん。良くなってきた。あかりも囲碁部なんだぜ。もうひとり全然碁を知らない女子を連れてきてさ。二人とも筒井さんが面倒見てくれてるよ。筒井さんて本当に面倒見いいんだ。さすが部長だよね。でもその部長が三将だなんて、少し申し訳ないよ。」
そう思うのがヒカルのいいところだ。碁は勝負の実績で順位が決まる厳しい世界だが、でも中学の囲碁部というのはそれだけではない。ヒカルの心を育んでいる気がする。素晴らしい場所だ。ヒカルはよき人々に恵まれているのだな。
それにしても、三谷はヒカルに負けたことをどう思っているだろうか。彼にも囲碁部は居心地がいいのだろうか。
何度かヒカルに再現してもらった三谷の碁は、練れてはいないが、素直な手を打っていた。誰かにきちんと指導を受ければ、もう少し伸びていけるのだが。
とにかく、ヒカルが自分の目の前でめきめきと腕を伸ばしていくのを見ていたら、三谷もいい加減なことはできないであろう。三谷は碁が好きそうだし、自分に腕があるという自負もある。ヒカルに触発されて 、少しは腕を伸ばしているに違いないが。しかし、 もう少し自分より上手のものと打たねば、三谷はなかなか先に進めないであろう。手伝ってやりたいがそうもいかぬし。
佐為はその時思い出した。
「例の加賀は全く覗かないのか。彼が三谷と打ってくれればいいのだが。」
「うん。残念だけどね。まったく来ないんだ。加賀の将棋部も大会が近いんだって。今、猛訓練中らしくて、みんな怖がっているよ。」
「怖がる?」
「だって、加賀が喝を入れてるんだぜ。俺は怖いとは思わないけど、たいていの奴はびびるんだって。筒井さんがそう言ってた。」
筒井の顔も加賀の顔も知らなかったが佐為は何となくその様子が想像できて笑った。
「では、私もヒカルに喝を入れてみるか。ヒカルはびびるのか?」
「佐為、分かっちゃねえな。俺は誰にもびびらないよ。でもそれよりさあ、佐為はもうとっくに俺に喝を入れっぱなしじゃ ないか。俺、今、もう、ぎんぎんに全開だよ。」
「それで、ヒカルは三谷に勝てたのか。」
佐為はすっと木から降りた。
「ヒカル、そんな時こそ、こういう場所に来て、いっ時、何もかも忘れることが必要だ。そうすることで新たな力が生まれてくるものだ。」
佐為はいつも携帯している笛を取り出した。
ヒカルはそれを見つめた。ヒカルは佐為に笛の手ほどきも受けていた。最近ようやっと何とかさまになる音が出せるようになったものだ った。
佐為は目を閉じた。それから静かに吹きはじめた。静かな清明な調べの節回しだった。
ヒカルは木の枝に寄りかかったまま、それにじっと耳を済ませた。心が落ち着いて、洗われていく気がした。今は囲碁部のことも大会のことも三谷に勝てたことも遠い出来事だった。
そよ風が吹きぬけ、佐為の衣をゆらした。その風は撫でるように、ヒカルの上も通り過ぎていった。ヒカルはそっと目を閉じた。 笛の音がヒカルの体に染み渡っていった。
笛の音が止むと、ヒカルは目を開け、木から降りた。
佐為はヒカルを見てにっこりした。
「この原で一局打ってみるか。外で打つ碁はまた格別なものだ。」
「ここで?でも碁石も碁盤もないよ。」
「大丈夫だ。私は時々ここで一人で打ったものだった。まだ残っている筈だ。」
佐為は枝の張った木の前に来た。そこには平らな岩が突き出ていた。
「あれぇ、線が引いてある。十九路だ。」
ヒカルは思わず声を上げた。佐為は満足そうに頷いた。
「苦労した。しかし彫り付けたから線は消えない。石は、このうろに仕舞っておいた筈だが。」
不ぞろいな石が木のうろから取り出されると、ヒカルは佐為と向かい合った。
「何かわくわくするね。碁はどこで打とうと同じとか、碁盤や碁石は関係ないとか、そういうのとは違ってさ。だって、これ って、子どもの佐為が線を彫ったんだろ。」
「私もわくわくする。碁盤は関係なしにだ。私がわくわくする訳は相手がヒカルだからだ。」
佐為は微笑んで言った。
ヒカルは黒石を縒りだし星に置いた。石はすわりが悪くすこしゆらゆらした。
なんか俺の心みたいだ。石まで、はしゃいでるよ。
だが間もなく、ヒカルは碁に没頭し始め、“碁はどこで打とうと同じ”、“碁盤や碁石は関係ない”という状態になっていった。
佐為は一心不乱に考えているヒカルを見やりながら思っていた。
三谷に勝つのは時間の問題だったが、ここまで早く進むとは。同世代で切磋琢磨するというのはヒカルにはとてもいい経験に違いない。大会がどの程度のものか分からないが 、今のヒカルだったら三谷もいることだし、決勝にまでコマを進められるかも知れぬ。どちらにしても楽しみな目標だ。 私もその場で見守りたいが、自由に時を行き来できるのはいつのことであろうか。