風の石空の夢   作:さびる

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『遠鏡』21~30  
中学の大会、佐為が自由にヒカルの時代で過ごせるようになるまで
(主な登場人物…佐為、ヒカル、導師、三谷、筒井、広瀬、北島、アキラ、あかり、津田、日高、美津子、平八の妻、術師、正夫)



遠鏡25

「ヒカル。何騒いでるの?」

 

ヒカルは、母親がドアを開けた時、終わったと思った。

しかし、美津子は、何も言わずヒカルを見つめただけだった。それからそのまま何も言わず、ドアを閉め、階段を下りて行った。

 

ヒカルが佐為の方を振り返ったら、佐為は碁盤の前に座ったまま、床に手を着き頭を下げて礼の姿勢をとっていた。

「佐為。お母さん、行っちゃったよ。どうしたんだろう。」

佐為は顔を上げ、ほっとしたような、だが拍子抜けしたように言った。

「何も言われませんでしたね。どうしたんでしょう。もしや見知らぬ人間がいたので怒られたのではないか?」

平安の世では、身分ある女人はみだりに顔を見せぬもの。江戸でも。だが、ここはヒカルの時代。この時代の礼儀というのは如何なるものか分からぬが、何も声をかけぬというのは解せぬ。

 

そう思いつつ、佐為は碁笥に手を入れた。佐為の手は石をすり抜けた。

「つまめぬ。」

佐為は呆然として言った。

「つまめぬって?」

ヒカルは不審気に佐為の言葉を繰り返した。それから佐為の姿をじっと見た。

俺には見える。佐為が。だが透けているかも…。

そうか、だから。 「お母さんには佐為が見えなかったんだ。」

「私が見えない?」

「うん。佐為。この前の時のように体が消えたんだ。俺には今もちゃんと見えるけどさ。」

 

佐為は傍にあった本に手を伸ばして引き寄せようとした。がその本を掴むことはできなかった。

「私は、またこの前のように薄れてきたのか?そうなのか?このまましばらくすると、私は平安に戻ってしまうのであろうか。」

佐為は気落ちした様子で言った。

「そんなの分からないよ。時間が来ると自然とそうなるのかも。でもそうやって人に見えなければ、外を歩けるよね。」

その言葉に佐為は少し元気を戻したようにもみえた。

「なるほど。人に見えぬならこの世をゆっくり眺めることができるな。 しかし、今は夜、外を出歩くわけにも行くまい。それにいつ消えるか分からぬし。」

 

「佐為が消えるまで、大会の話をするよ。」

ヒカルはそう言うと、石を並べながら、話を始めた。

「それでさ。これが海王中の副将との一局。俺が勝ったんだぜ。よく勝てたと自分でも思ってるけどね。」

佐為はじっくりとそれを眺めた。確かにヒカルがこの世で打った中では一番のできだ。ヒカルにとっては強敵だが、よくしのぎきったものだ。成長の後が著しい。

「でもさあ、海王の大将はもっと強いんだって。別格?元院生だし。今度はそいつを倒すんだ。冬の大会でさ。俺が大将になって。」

 

ヒカルの世界は楽しい。私もあやかりたい。折角ここまで旅ができるようになったのだ。私も打ちたい。

佐為はそう思った。

「ヒカル。私が消える前に一局打たぬか。」

「うん。今度は遊ぶなよ。」

ヒカルは元気よく言った。

 

佐為は苦笑したが何も言わなかった。

先ほどは私も大人気なかったから。だがこれが師匠に向かって言う言葉といえようか。いや、まあ仕方あるまい。

「ヒカル。この碁笥をヒカルの方へ置いて、私の言うとおり石を置いてくれればいい。」

「分かった。」

 

ヒカルは星に置石をすると、自分の一手目を置いた。

「17の十六。」

佐為が言った。ヒカルは佐為の言う通りに白石を置いた。

佐為はそれを見て言った。

「ヒカル。違う。そこではなくてこちらに。」

「えっ?17の十六だろ?」

「それはヒカルから見ての17の十六。私から見ると逆さでこちらになる。」

「ええっ。ややこしい。」

ヒカルは計算も苦手だが、これがきちんとできたら、いい訓練になろうに。まあ、今はしかたあるまい。

「ならば私が置くところを扇子で指すことにしよう。それならば支障なかろう。」

 

佐為はヒカルが白石と黒石を交互に打つのを見つめながら思った。

結局、虎次郎の時と同じく、私は未来では、こうやって石を置く運命なのか。

夢中で考え込んでいるヒカルに気づかれぬように、佐為は、無念そうに、そっとため息をついた。

 

美津子は、居間のソファにぐったり座り込んだ。

「どうしたんだい?」

テレビを見ていた夫の正夫が気のなさそうに聞いた。

「匂いが、香水?いいえ。お香のような…。」

「匂い?何のことだい。」

「ヒカルの部屋に、誰かいたのよ。今はいないけど。」

「友達でも呼んだのか?」

「男の子じゃないわ。きっと女の子?いえ、子どもじゃなくて大人かも。」

「女の子だったら、あかりちゃんじゃないのか?」

「だから、なんだかいい匂いなの。あかりちゃんが付ける様な匂いじゃないわ。もっと大人びた香りなのよ。」

「あかりちゃんが、お母さんの香水でもつけたんじゃないの?」

「藤崎さんって香水つけてたかしら?ああ、とにかく、お母様のたててるお香のような匂いがしたのよ。」

「じゃあ。ヒカルがおふくろのとこでも行ったんじゃないの?何か貰ってきたんじゃないか。」

「今日は行ってないわよ。囲碁部の大会があるとかで、朝から出かけてたから。」

正夫は取り合わなかった。

「ヒカルも年頃だしいろいろあるだろ。ほっとけばいいじゃないか。匂いぐらいで騒ぐことないだろ。」

「そうかしら。」

 

匂いのことだけじゃないのよね。何というか。

ヒカルの部屋を開けた時、何か感じたのよ。何ていったらいいのかしら。そう、例えば長い髪の毛がさらっと空中を流れるような感じっていうのかしら。

今しがたのことを思い返すように、美津子はテーブルに肘をついて考え込んだ。それから決めた。

正夫さんはほっとけなんていうけど、ほっとけないわ。ヒカルに聞いたって、何も言わないだろうし、ヒカルの部屋を調べてみるわ。 あの匂いがどこから来るのか。

 

「ヒカル。そこではなく、こちらに置くべきだ。」

「こう?こっちだっていいような気がするけど。」

「その手だけは駄目なのだ。こちらならまだ可能性はある。」

佐為はそう言うと、手を伸ばし、その黒石を別の場所に置いた。

ヒカルも佐為も極めて当たり前のように思い、始めは気づかなかった。

だが、ややあって、ヒカルが言った。

「佐為。今、石をつまめたよね。」

言われて佐為も気づいた。思わず自分の手を見つめた。

「戻っている。体のある私に。」

「どうなってるの?これって。」

 

佐為は考えを巡らした。

「私はヒカルの時代へ行きたいと努力をしてきた。三谷のいた碁会所に行くことができたのは、偶然で、ただヒカルに呼ばれるままにそこにいたという気がするのだ。あの時は私の意識だけがそこにあり、 全てが終わり扉を開け、碁会所の外に出る瞬間だけ、体を持てた。そしてそのまま、私の意志とは関わりなく、平安の御世に戻ってしまった のだ。

今回は違う。私はひたすら念じた。ヒカルの時代に行き着けるようにと。そしてヒカルと同じように時の旅を果たしたのだ。何度も繰り返せば、体を失わず、ずっとヒカルの時代にいられるのかもしれない。先ほどのことは、もしやヒカルの意志が反映しているのであろうか。」

ヒカルは驚いた。

「俺の意志?それって何だ。」

「つまり、先ほど、お母上が覗いた時、ヒカルは思ったであろう。見つかりたくないと。

だが私はあの時、お母上に挨拶をするつもりでいた。それは多分、驚かれるであろうが、きちんと話せば納得されるであろうと。」

 

ヒカルは、疑わしげに言った。

「そりゃあの時、俺は見つかりたくないと思ったよ。でも俺が思ったからって、佐為が見えなくなるって、そんなことはないと思う。 そんな都合のいいこと、起こると思う?あり得ないよ。それに…。」

 

ヒカルはその先を言うのをやめた。

お母さんが納得するなんて、ありえない。佐為が平安時代から来たなんていっても絶対信じないよ。 だれも信じないさ。

 

そう思った時、ヒカルは時の旅というのがいかに不思議な出来事なのかを、初めて思った。

俺は今、これを失いたくない。人に知られたら、失っちゃうのだろうか。

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