中学の大会、佐為が自由にヒカルの時代で過ごせるようになるまで
(主な登場人物…佐為、ヒカル、導師、三谷、筒井、広瀬、北島、アキラ、あかり、津田、日高、美津子、平八の妻、術師、正夫)
パチンコ屋を出ると、正夫は近くの公園のベンチに腰を下ろした。
とてつもなくおかしな体験だった。
それをそれほど不思議に思うことなく受け入れていた自分の方がもっとおかしい。
これはもしかしたら、おふくろの陰謀じゃないか?絶対そうに違いない。あの段ボール箱がすべての始まりだ。
正夫にはそう思えた。
おふくろには、何でも取って置くという悪い趣味がある。 自分のものはさっさと取り替えるけど、俺のものは詰まらない物ほど取って置くんだ。
とにかくつい先日、俺が結婚する前の若い頃の服を家に運んできたのだ。嬉々として言った。
「ほら。懐かしいでしょ。だからわざわざ持ってきてあげたのよ。納戸の整理を始めたのよ。これ、正夫のだし、自分で持つのが一番でしょ。幼稚園の頃のもあったけど、それは少ししみが多いから、着れそうもないし。」
おいおい、誰が、幼稚園の頃の服を着るってんだ?
美津子は親父やおふくろと相性は悪くない。けれど、これだけは別だった。
この趣味にだけはついていけないと言った。服をおふくろのところに返せと頑として言い張ったのだ。
「着れないでしょ。どれも細身だし。」
俺にはあのおふくろに突っ返す自分が想像出来ない。やっと思い付いて言った。
「ヒカルが着るかもしれないだろ。」
「ヒカル?ヒカルがこれを?そうね。着れる位大きくなったらいいかもしれないわね。 ヒカルが欲しいって言うならね。でも、いい? うちは広くないし、物置もお蔵もないのよ。納戸だって置く場所がないわ。 だから絶対返してきて 頂戴。できるだけ早く。私が返したら、角が立つでしょ。だから息子のあなたがうまく言ってやってね。分かった?」
俺は苦手だ。おふくろが苦手だ。何でも自分が分かっていると思っているところが苦手なんだ。
俺が欲しがってない、別段古着を懐かしがってないって、分かったらどうなる?
「明日、お休みでしょ。」
美津子は最後通牒を俺に突きつけた。
こんなことなら振り替え休日 なんて欲しくなかったよ、まったく。会社に行ってる方がよっぽどましだ。「何とかする。返しとく。」とは言ったけど、どうしたものか。今日中に美津子に見えないところに 移動だけでもしなきゃ。
考えあぐねて、俺はそれをヒカルの部屋においてもらうことに決めたのだ。
ヒカルには後で、ラーメンでもおごってやって…。そのうち何とかするからって。
あいつは出来がいい息子だから。あっ、成績は良くないけどな。それ以外は、申し分ないよ。ヒカルなら親父やおふくろとも仲が良いし、おふくろの気質もよーく分かってるだろうし。俺の苦境をきっとわかってくれるに違いないからな。
そこで、ダンボールをよいこらしょと持ち上げて、ヒカルの部屋に行った。
するとなんとそこに先客がいた。
それがまたとっぴな服装で。いや、とっぴじゃない古式ゆかしいというべきか?もしかしてこれは流行のコスプレという奴か?
烏帽子に仮衣姿の若い男は、俺を見ても慌てることなく、平然とにこやかに俺に挨拶を返してきた。
「初めまして。私は藤原佐為と申します。 もしやヒカルのお父上様でしょうか。あっ、お荷物をどうぞ置いて下さい。」
「はあ。初めまして。じゃあ置かせて頂きます。」
俺は今とてつもなく間の抜けた挨拶をしていないか。息子をヒカルと呼び捨てにしてるけど、この男、一体何者?
「あのー、ヒカルとはどういう関係で?」
いや、それより何で断りもなく人の家にいるとか、いつこの部屋に上がったとか聞くべきなんじゃないか。
あの時は麻痺したように何も思い浮かばなかった。思えば、それは何より、その男がヒカルの部屋になじんでいたから。浮いていたのは俺の方の気がしたのだ。
「ヒカルとの関係。あー。えーと、そうですねえ。」
藤原という男はちょっと言いよどんだが、すぐににっこりした。
「ヒカルは、私の弟子です。あ、いやご子息はというべきでしたね。」
「いやあ、ご子息だなんて。ヒカルで結構ですよ。私も息子をヒカルって言ってますし。」
いや違う。俺は父親だぞ。当たり前じゃないか。というか一体この男?
「ヒカルが弟子?何のです?」
「はい。碁を教えています。それに今回は期末試験の勉強を見させて頂きました。」
「はあ。」
俺が勉強をみない嫌味か。美津子がぶうぶう文句言ってたな。ヒカルの成績が悪いって。もしかしてこいつは家庭教師?いや美津子の趣味じゃない。どちらかというと、おふくろの趣味っぽい…。
そういえば、去年辺りから、碁に夢中だったが、親父の影響っていうだけじゃなかったのか。
まあそれはいいとして。それよりも。
「ところで、その格好は?」
「はあ、実はこれしか衣服がなくて、外出ができないので、ここでヒカルの帰りを待っています。」
「服がない!?」
まあ、その格好で外出というのは目立つな。それは分かってるのか。ふむ。
その時、俺は閃いた。この男、背格好は俺と同じくらい、いや、俺が若かった頃と似たりよったりだ。細身だし。ということは、うん。
「服がないんなら、これ着ませんか。若い頃より太めになっちゃって、私にはちょっと着れないんですよ。あなたなら着れそうだ。 あげます。全部。」
俺は、おふくろとも妻とも軋轢を持つのはごめんだ。
こんないいアイデアはないだろう。この男に、服をもらってもらう。これで、悩みは解決だ。万歳!
俺は男の着替えを手伝った。
「あ、いいじゃないですか。ぴったりだ。」
Tシャツにぴったりも何もないけどな。
「あの。」
ジーパンに手を伸ばしながら、藤原という男は言い難そうに話した。
「実は私は平安から来てるので、下穿きがないんですよ。」
俺は律儀にも、隣の部屋に行き、自分の新品のパンツを一枚とってきた。 ブランド品のパンツでもったいないと取っておいた奴だった。
でもダンボール一箱の服、いや家庭の平和と引き換えなら、ブランド品のパンツ だろうと全然惜しくない。俺はルンルンした気分だった。
ジーンズ姿の男を前に俺は改めて聞いた。
「ところで、ヘイアンからって、ヘイアンってどこにあるんです。この辺りじゃないですよね。」
「ええ、この辺りにはないんです。ヒカルの説明だと、今から1000年以上も前なんだそうです。」
俺は感心して聞いた。
「へえ。というと平安時代の平安ですか。それで、どうやってきたんです。この部屋まで。」
「時の旅です。私はヒカルのところへだけ旅することができるんです。ヒカルも私のところへ旅ができるんですよ。」
「おお、そりゃ、タイムトリップですか。面白そうだ。」
俺は素直にその会話を楽しんでいた。
信じるとか信じないとかじゃなくて、今目の前にそういうことがあるというわけで。それでいいじゃないか。悪い男じゃなさそうだし。ヒカルと仲がいいんだろう。 真面目そうだし。
その時、古式ゆかしい香りに気づいた。この香り、そうか。美津子が騒いでた香り。
とにかく、この男は俺の懸案を解決してくれた大事な人間だ。お陰で俺は心安らかに休日を過ごせるんだ。
俺は立ち上がった。
「ごゆっくり。まもなくヒカル、戻りますよ。半ドンだし。」
男は俺を呼び止めた。
「あ、お父上様は碁は打たないのですか。」
「あ、いやいいですよ。碁は。それにお父上様ってのはやめてくれないですかね。」
そこまで思い起こすと、正夫はベンチから立ち上がった。
今頃、ヒカルたちは碁でも打ってるのかな。
正夫はそれから、やっぱり、家に戻って見るかと、思い直した。
知らない男が一人で家にいるということはよくないのかもしれない。 いや、もうヒカルは家にいるだろうけど。やっぱり戻ろう。
家に戻る途中で、正夫は通りの反対側に若い日の自分を見つけた。
ヒカルとあの男が仲良く通りを歩いていたのだ。
佐為は目ざとく正夫に気づき、頭を下げて挨拶をした。
「先ほどはありがとうございました。靴もお借りしました。」
ヒカルは父を見た。
何て言えばいいのかな。
ヒカルが考えていると、正夫はあっさり言った。
「最近はジョギングもしてないし、構いませんよ。それより、ヒカル。ちょっとそこでお茶でも飲んでいかないか。お母さんが帰る前に家に着いてればいいだろう。 私はなんとなく疲れて、コーヒーでも飲みたい気分なんだ。付き合わないか。」
ヒカルが断ろうとした時、佐為が嬉しそうに答えた。
「是非、お付き合いさせていただきます。」
正夫はチェーン店のコーヒーショップに二人を連れて行き、二階の窓際に席を取った。
「私はブレンドでいいから、ヒカルは好きなのを頼みなさい。藤原さんは何にします。」
「あの、私のことは佐為でいいです。私はヒカルにお任せです。」
ヒカルは、ブレンドを二つとアイスコーヒーをひとつ。それにロングホットドッグをテーブルに運んだ。
「はい。ホットドッグは佐為に半分あげるよ。」
ヒカルの言葉に正夫は不満そうに言った。
「ヒカルは私には、くれないのか。」
「そうです。お父様にも差し上げなくては。」佐為も同調するように言った。
「分かったよ。三つに分けるから。」
ホットドッグを三つに切り分けながら、ヒカルは、うんざりしたように二人を眺めた。
お父さんが、佐為を受け入れてくれてるのはいいけど、この二人、どこか変なところで似てないか? 何がどうって言えないんだけど、何かそっくりなんだよ。二人とも確実におかしいと思う。絶対変だ。
ヒカルがそう思っている傍で、佐為は楽しそうに言った。
「こうやって拝見すると、ヒカルはお父様に良く似ています。気質というか、考え方というか、本当にそっくりです。お父様 が大切にお育てになったというのがよく分かります。」
正夫は嬉しくなった。そして感激してきた。
考えてみれば俺はいつも何となく影が薄かった。大切にはされていたと思うけど、子どもの頃はおふくろが強くて、ああいうお母さんの子どもだという風に見られ、最近は妻に何だか母子家庭みたいよとか文句言われて…。俺は一生懸命稼いでるんだ ぞ。ヒカルの親父なんだから。
「そりゃ、親子ですから。そんなに似てますかね。ところでヒカルはどうです。ものになりそうですか。」
「ええ、そりゃ、なかなかのもですよ。私はヒカルの将来を楽しみにしています。こうやってお父様にお会いしてみると、ヒカルはお父様の良いところを受け継いでいるに違いありません。」
佐為はヒカルが何の不思議もなく自分を受け入れてくれたことを思い出していた。ヒカルの父親もまた時の旅を自然に受け入れてくれている。しかも私を歓迎してくれている。 私がこの父子に出会ったのはやはり特別な運命だったのだ。
そう思いながら佐為は物珍しそうにコーヒーをすすり、ホットドッグをぱくついた。
「おいしいですよ。これは。」
「ここのコーヒーは案外いけるんですよ。佐為さんの平安では飲み物は、どんなものがあるんです。酒はうまいんじゃないですか。京都の水はうまいんでしょう。」
「お父様はお酒はいける口ですか。持って来れたらいいんですけど、何も持ってこれないのが残念ですよ。 まったく。是非御賞味頂きたいことです。」
「はは。それは残念です。どうです。今度暇な時、佐為さんを酒のうまい店にご招待しますよ。まえに会社の接待で行ったんですけど、いやなかなかいい店でしてね。」
「それは、是非に。でもいろいろして頂いてお返しができないなんて申し訳が。」
「いやいや、ヒカルの勉強まで見ていただいてるんですから。一人っ子でわがままなところもあるでしょうが、よろしくお願いいたします。」
「いえ、とんでもない。私の楽しみでしていることですから。ヒカルはよくできた弟子です。」
ヒカルは、二人の横でむすっとしていた。
家庭訪問で、母親と担任が話をしていた時だって、これよりはましな気がする。
ヒカルの頭越しに佐為もお父さんも二人で楽しそうに。俺をダシにして何か面白くない。
ヒカルはストローをくわえ、思いっきり大きな音でずずっとコーヒーをすすった。